「霧芯館KJ法ワークショップ2018」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 21:11

「霧芯館KJ法ワークショップ2018」

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 21:07

 

 さる8月4日、「霧芯館KJ法ワークショップ2018」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 過去に霧芯館の研修を受講された方々が、今年も全国から酷暑の京都にお集まりくださいました。KJ法のグループ作業を通してご交流を深め、この方法のステップアップを目指す修行の機会。

 

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール」。

 開催趣旨は以下の通りです。

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール(指標)」。「なんて非常識なんだ!」と誰かを非難したくなる時、あるいは「なんて常識破りの発想なんだ!」と賛嘆するとき、私たちは〈常識〉と〈非常識〉の境界線を意識します。何をもって〈非常識〉と感じるのか、そのメルクマール(指標)について議論することで、いつの間にか私たちを補強したり囲い込んだりしている〈常識〉という枠組みの本質を浮上させてみたいと思います。

 

 当日は、「パルス討論」というKJ法のディスカッションの技法によって「探検ネット」と呼ばれる図解を作成します。これは、テーマをめぐって360度の視角からデータの質のバラエティーを効率よく出し切るための技法。ここで提示されたラベル達は、冬に開催される「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」で「狭義のKJ法」によって構造化され、本質を明らかにされることとなります。

 

 今回の夏のワークショップで提示されたラベル達から、今年もいくつかご紹介しましょう。

 

・相手に伝わらない経験をすることで自分の非常識に気づく。

・伝統の土俵が女性を追い出す。

・ルールという「常識」が、声の大きい人の「非常識」にぬりつぶされる。

・世の中の「常識」の範囲が狭まってキュークツになってきた。

・自己肯定感が低いと常識を主張したくなる。

・疲れている時は、非常識と感じる他人の存在が増える。

・世の中の変化についていけない高齢者が取り残され“迷惑老人化”している。

・苦情は企業にとって宝物と化す。

・「常識がある人」に見られたいとどこかで思っている。

・常識なんてクソくらえと思っても非常識と距離をとってしまう。

・常識には「格好」がある。

・私のあたりまえはどこから来ているのだろう。

・子どもに常識は通用しない。

・今どき固定電話やFAXを使える若者はいないと思う。

・常識人と思っている人の非常識さを垣間見るとかわいいと思う。

・文科省は正しい日本語が使えることより英語教育を強化している。

・父親は転職した私を奇異の目で見ていた。

・常識は誰が決めるんだろう?

・白髪になったら自分より年上とみられる人からニコニコと座席を譲られる。

・良い大学に行き大企業に就職すると成功する常識はもはや当てはまらない。

・世の流れの2〜3歩先を見ている人は非常識に見える行動をする。

・成功・成果があるから非常識は美談になるが、失敗すればただの非常識である。

・新入社員がまるでラインみたいな2行のメールを送ってくる。

・常識もスクラップ&ビルドする。

・親が子どもの進む道を決め、障害を排除しているカーリング子育てが増えている。

・人を傷つけたりおとしめる行為を「非常識」と呼びたい。

・いつの世でも変わらないでいてほしい常識がある。

・常識は暴力になりうる。

・本当に腹を立てたポイントが他にあるのに、「非常識だ!」で置き換えることがある。

・常識の違いを楽しめるジャンルも存在する。

・炎上する人になれ、と言う人がいる。

・当たり前、常識は普段透明で気づいていない。

・非常識の感染力は強い。

・人の数だけ常識がある。

・100歳になったら何でもOKになる。

・昔はお茶もお水もおにぎりも売ってなかった。

・80歳を超えてもバリバリ外作業をしている姿は非常識な程感動的だ。

・無理が通れば道理がひっこむ。

・「私の常識では」と言う人の常識は非常識であることが多い。

・非常識と思っても、迷惑でなければ目をつむろう。

・電車の中でマスカラを塗っている女性をけげんな目で見ながらリップクリームを塗っている自分にとまどう。

・“しきたり”がうっとうしい時がある。

・常識だと思っていても自分一人だと不安になる。

・常識とは演繹法ではなく帰納法である。

・常識を操作する環境ができている。

・常識をひっくり返すことができやすい環境が生まれた。

・作品へのこだわりで20年以上アルバムを出していないアーティストから心が離れない。

・現実社会では排除される人も、ネット社会ではヒーローにもなりえる。

・常識に縛られるとワクワクした感じが減じる。

・通販で不良品を返品したら不良品が返ってきた。

・最近の子どもたちにとって、集まって遊ぶということは、一緒にYouTubeなどの動画を観ることらしい。

・「みんなそう言ってるよ」はうさんくさい。

・違和感を感じるものには可能性が潜んでいる。

・〈常識〉がくつがえるのを見るのはどこか快感である。

 

 自分が〈常識〉の側にいるのか〈非常識〉の側にいるのか、不明瞭になってきている〈現在〉の状況を感じさせるラベル達です。時には〈常識〉を味方につけ、時にはそこからはずれたいと切実に願いもする。しかし、いったい明確な境界線があるのか無いのか、何がそれを決めているのか、たいへんうさんくさいと感じてしまう。

 みなさんの率直な感覚が発露されたラベル達に、〈現在〉という時代の振れ幅が表れているように見えます。どこかグレーな〈現在〉ではありますが、譲れない境界線もありそうで、我ながらスリリングなテーマ設定をしたものだと思っています。

 

 

 

 これらのラベルも含め、数百枚のラベル達から、冬のワークショップまでに私がまず70枚を「多段ピックアップ」で択びます。冬は、各チームでその70枚からさらに20枚をピックアップし、「狭義のKJ法」グループ作業に臨みます。

 冬まで、この曖昧で不安をそそるラベル達を心に棲みつかせながら、発酵・熟成させていただくのも大切なことと考えています。

 

 非常識な暑さの京都に、非常識なテーマのためにお集まり下さったみなさまに感謝しつつ、残暑を乗り切りたいとおもいます。

 

 

 

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〈祈り〉のコスモロジー

  • 2018.07.31 Tuesday
  • 14:42

 

〈祈り〉の言葉には、おのずと世界観が滲みます。

 

 宮崎アニメ『風の谷のナウシカ』の中で、腐海一の剣士ユパが久しぶりに「風の谷」を訪れたときのこと。村人たちがユパを取り囲んで、新たに村に生まれた子どもの名付け親になってくれるように頼むシーンがあります。

 

「ユパさま、今年生まれたトエトの子です。」

「オオどれどれ。ホホォ、よい子だ、幼い頃のナウシカを思い出す。」

「どうか、この子の名付け親になって下さいませ。」

「いつもいい風がその子に吹きますように……」

「ひきうけよう。よい名を贈らせてもらうよ。」

 

 たったこれだけのやりとりですが、「風の谷」がどのような世界観で生きているのかを鮮やかに伝えてきます。

 

 久しぶりのユパの訪れを歓迎する言葉のはしばしにも、彼らの暮らしが何によって支えられ、何に感謝と祈りを捧げながら生きているのか、自然なその息づかいが溢れています。

 

「オオ!ユパさま。」

「ようこそ。」

「オオ、皆も息災か。」

「ハハハハ、水も風も滞りなく穏やかです。」

 

 宮崎アニメの美質の一端がさりげなく表現された場面に、観る者の世界に対する身構えがほころびます。

 

 ここで〈水〉〈風〉と村人が口にするとき、〈腐海〉という瘴気に満ちた死の世界に取り囲まれながら、また、〈腐海〉を焼き滅ぼし、自国のサバイバルを賭けて闘争を繰り返そうとする強国たちに脅かされながら、小さな「風の谷」を守ろうとする中での〈水〉であり〈風〉であることを想うと、牧歌的なだけの場面ではないことに気づきます。

 

「腐海の毒に冒されながら、それでも腐海とともに生きるというのか?」

「あんたは火を使う……そりゃあ、わしらもチョビッとは使うがのォ……多すぎる火は何も生みやせん……」

 

 かつて世界を亡ぼした〈巨神兵〉を蘇らせることで〈腐海〉を焼き払おうと企てる強国トルメキア。その皇女クシャナのヒステリックな問いかけに、「風の谷」の長老たちは、「わしらは水と風の方がエエ」と答えるように、彼らは〈火〉ではなく〈水〉と〈風〉がよい、〈火〉は使い過ぎてはならない、と考えています。

 

「風の谷」における〈水〉や〈風〉は、単に農作物や家畜や人の暮らしを支える、きれいな井戸水やほどよい風、という以上に、健やかで聡明な〈生〉の意味を支える、人間には測り切れないもの、統御し切れない〈気〉としての象徴的な奥ゆきを持っています。

 その〈気〉への深い信頼と畏れがあればこそ、主人公ナウシカによる、〈腐海〉の潜在的な浄化のシステムへの理知的な探究も、俊敏な身体性の発露も機能しているのであり、〈水〉や〈風〉によって支えられたまっとうな生命的な〈火〉が、いびつな〈火〉による破壊の浅ましさと対決する、この作品のテーマは、地球規模の環境問題以上に、個々人の生きざまにおける〈信〉のあり方、世界観のあり方に訴えかけてくるものです。

 

 どうか、良き〈水〉と〈風〉に恵まれて、健やかな〈火〉の活力を顕ち上げることができますように。

 測り知れない自然の力に脅かされてもなお、壮大で不可知の〈気〉への畏怖と信頼を持ちこたえて、どうかどなたもこの夏を溌剌と過ごされますように。

 

 

 

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〈水〉の風景

  • 2018.06.29 Friday
  • 12:34

 

 気がつくと〈水〉を撮っている自分がいます。

 

 

 暑さのせいばかりではなく、根深い精神病理を垣間見せる事件の数々や、災害とそれに伴って蔓延する不条理感、煽られる不安と虚無、そういった混沌の相貌に、惑乱させられたくないと望む、身体の防御本能かもしれません。

 ことに、稲が育つ姿が美しく感じられて、今年はついついカメラを向けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 田の面に映り込んだ山や空や稲によって織り成される風景は、光なのか影なのか、空気なのか水なのか、世界なのか私なのか、どこか混沌としていながら、不思議な落ち着きを湛えています。

 混沌や気が遠くなるほど長いスパンにおける循環や巨大な転換といった〈振幅〉は、有限な個としての生を生きる私たちにとって、その〈意味〉を測りがたい手ごわさを抱えています。不条理に直面したとき、その〈意味〉がいつまでたっても見出せない極北の風景にたたき込まれる恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

 しかし、〈救い〉は、私たちの身体そのものに精妙に刷り込まれて存在していて、壮大な〈振幅〉は外部にのみあるのではなく、私たち自身が、実はその全ての〈振幅〉を自ら認識し把握することなど不可能なほど壮大な存在なのだということを、少しだけ思い出すことができる。そんな契機を、無意識に招き寄せるように、生きているのだと思います。それが、〈生かされている〉ということの姿なのかとおもわれます。〈生かされている〉という認識の先に、〈意味〉がたぐり寄せられる。不条理が後景に退く。

〈風景〉も、私たちの外部にあるのではなく、私たちの内なる壮大さの鱗のようなものが映し込まれて、そこに存在するのだと感じられるとき、風景の背後にある気が遠くなるような〈振幅〉の鱗もまた、私たちの内にきらめいて、その〈振幅〉との確かな絆を結べるようにおもわれるのです。

 

 

 

 

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初夏のかおり6選

  • 2018.05.31 Thursday
  • 16:07

 今月は写真のみ更新です。京都の(といっても、観光名所ではありませんが、だからこそ誰からも消費されず、みずみずしい風景たちだとおもっています)初夏のかおりをお楽しみください。

 

 

ここから夏を始めます、と言っているような。

 

 

今年の夏も謳歌するぞ、と言っているような。

 

 

畑の中のえんどうの花。誰にも注目されないけど、私の夏、京都の夏を楽しみますよ、と言っているような。

 

 

里山を下りて、ちょっと水辺を。人のように、靴など脱がないでよいのです。いつでも川を渡れます。

 

 

夕日は雑草にとってのスポットライト。

 

 

田植え当日の夕暮れ。日本の原風景、早苗田(さなえだ)。なんと美しい言葉でしょう。

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2017 作品・解説集」完成

  • 2018.04.28 Saturday
  • 12:57

 昨年開催いたしました「霧芯館KJ法ワークショップ2017」の「作品・解説集」が完成し、ご参加のみなさまに今年もお届けすることができました。

 

DSC08017-2.jpg

 

 KJ法における問題解決のスタンダードな型を体験しながら、〈現在〉の抱える本質的な課題に迫ることのできるワークショップですが、ご参加の思い出とともにこの冊子も「宝物です」とご感想をいただき、主催者冥利に尽きるものがあります。

 あるいは、「このところ疲れ切っていたのに、この冊子が届いて読み始めたら、思わず引き込まれて、癒されている自分に気がつきました」といったご感想に、こちらもまた癒されました。どれだけ疲れていても思わず読みふけってしまう、そういうものをお届けできたのだ、という手ごたえに、非常に勇気づけられます。

 

 昨年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」だったわけですが、本物を追求する厳しさへの憧れと不安との葛藤が、作品には多々滲み出ていました。

 圧倒的な〈本物力〉の存在を認めつつも、本物であり続けることや本物を見極める行為の厳しさや孤独に対しては、ためらいが生まれます。世間一般の基準ではなく、自分なりの〈本物〉がある、という想いにも駆られます。

 それらの葛藤を超えるまなざしは、「きちんと出会えなければ意味がない」と要約できるかもしれません。いくら値打ちがあるとされる〈本物〉であろうと、自分と固有の出会い方をするのでなければ、意味がない。つまり、本物そのものの価値から、出会い方の価値へと、ラベル達によって誘われたという手触りがあります。

 

 霧芯館へお越しになるみなさまと、KJ法を通してより深く出会えるように、これからもお一人ずつとのご縁を大切にしたいと願っています。

 

DSC08052.JPG

 

 

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はなびらと水のあはひの光かな

  • 2018.03.30 Friday
  • 18:57

 はなびらと水のあはひの光かな  眞鍋呉夫

 

 この季節になると、想い出す一句です。

 満開の桜の枝が川面や湖面に伸びて、水に触れるか触れないかで揺れている。風次第で水に触れたり触れなかったり。そんな風景を見るたびにこの句が浮かびます。

 

 

 しかしこの句を、具象的な風景としてだけ味わうのはもったいなくおもいます。

 読み手次第でさまざまな象徴性を喚起されるでしょうし、映像が浮かぶにしても具象画のようであったり抽象画のようであったりするでしょうし、実に多彩な喚起力を秘めた一句とおもわれます。

 一句の感動の焦点は「光」。この「光」が、何と何の「あはひ」にあると想い描くのか、それは「はなびら」と「水」を何の象徴と感じるか次第でしょう。

 きわめて具象的に、水面に伸びた枝先の花びらと水の、その「あはひの光」を想い描くもよし、桜の花びらという薄紅で半透明のものと、水という透明なものとの「あはひの光」として想うもよし、はかなく散る花びらと、永遠性をイメージさせる水の流れとの「あはひの光」でもよし、個的な輪郭を持つ花の命と輪郭の融けた類的な貌を持つ水との「あはひ」でもよし。明晰さと混沌、創造と破壊、生と死、現世の肉体と他界の魂。

 さまざまな二元的対立が重なって見えます。

 多彩な鑑賞が可能な句ですが、ただこの句には、作者が「はなびら」だけを生きているのでもなく、「水」だけを生きているのでもなく、その両方を生きている、という匂いがします。「あはひ」は、どちらでもない場所のことではなく、どちらでもあるような「あはひ」であり「光」ではなかろうかとおもわれます。

 

 たとえるならば、この「あはひの光」を、「はなびら」でもなく「水」でもないと把握するのは、西欧近代的な「分析的」解釈であり、「はなびら」でもあり「水」でもあると感受するのはKJ法的な世界観であろう、とおもわれます。

 

 私たちが何らかの幸福感に浸されるときというのは、想えばこのような「はなびら」と「水」の両方を生きているときかもしれません。

 

二人なのにひとつであるとき。

個なのに類であるとき。

孤独の中に深い充足感をおぼえるとき。

日常なのに非日常を感じるとき。

細部にこだわっているのに全体がきちんと機能しているとき。

離れているのに側にいるとき。

自分一人の想いなのに他者に伝わるとき。

自分の肉体の呼吸が宇宙(コスモス)の呼吸とつながっていると感じるとき。

初めて会ったのに懐かしいとおもうとき。

我を忘れるとき。

他者の視線が気にならないとき。

自分の存在の「意味」に形が与えられたとき。

為すべきことが身体の深奥から迷い無くこみ上げてくるとき。

世界が自分に微笑んでいると感じるとき。

自分の行為や表現に不可視のはからいがやさしく力強く働いていると感じるとき。

めぐり逢うとき。

蘇るとき。

 

 干からびた世界風景を強いられて「水」からはぐれてしまいますと、このような幸福感への飢渇も、ときに病理として暴走しかねないものです。

 そのようなあやうさと背中合わせの〈現在〉ですが、あくまで「はなびら」を生きることで、その「はなびら」の〈生〉を支えてくれている「水」の気配に気づく契機があるならば、そこに命の華やぎとしての「光」が生まれるようにおもわれます。

 

 赤ん坊の目が開き、初めてこの世界の風景に触れるときというのも、その風景はきっとまだこの「水」の気配を半ば可視的なくらい存分にまとった「はなびら」のようなものではなかったかと、眼前の桜を見ながら、記憶の底をまさぐるような気持ちにもなります。

 

 

 

 

 

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眉間に皺など寄せるな

  • 2018.02.26 Monday
  • 21:59

 KJ法は美しい方法です。

 美しくて温かみがあり、自分がこの方法を駆使したとき、自分を超えた〈天〉によって駆使させられたような、澄んだ解放感をおぼえます。

 

「眉間に皺など寄せるな」というのは、創案者である川喜田二郎の言葉で、「狭義のKJ法」における「グループ編成」で、ラベルたちに「表札」をつけるときの心構えとして発せられたものですが、この方法全体が私たちに語りかけてくる思想にも、いつもこの言葉が潜んでいるように感じます。

 

「表札」をつけるということは、複数のラベルを統合する文章を考えることであり、元になるラベルたちと同じ大きさのラベルに「表札」を記しますので、そこでただの「足し算」をしたり「ストーリー」を作ったりしていては、同じ大きさのラベルに収まりません。

 なんらかの仮説発想なり抽象度のアップなり本質追求なりといった適切な「飛躍」あるいは「止揚」がなければよい「表札」とは言えません。

 たとえば目の前に今から表札をつけようとする2枚のラベルがある時、いつまでも目の前に「2枚のラベルがある」と認識していると、ついつい言葉の表層だけで「足し算」的なつなぎ方をしてしまいます。

 そこで、2枚ではない、実は一つのことを言いたがっているのだ、その一つのことって何だろう、と「点メモ」を繰り広げながら、「2枚ではなく、一つの〈全体〉」をそこに展開してみます。〈全体〉がわかってきたら、粗くてもよいので「短歌」一首ひねり出すような気持ちでその〈全体〉を圧縮して表現し、さらに推敲して「表札」としての文章を整えます。

 この「2枚ではなく、実は一つの〈全体〉なのだ」、という風に発想できるかどうかが、「表札」の成否を決めるといってもよいのですが、ラベル個々の細かなニュアンスにこだわりすぎて「飛躍」ができずに「足し算」をしてしまう人もいれば、細部の異質さを切り捨てて粗雑に一つの箱に放り込むような「分類」的目線に陥る人もいれば、片方のラベルで他方のラベルを「解釈」して強引なストーリー作りをしてしまう人もいます。いずれも正しく「止揚」できていないわけですが、どれもやってはいけないと言われると、眉間に皺が寄ってしまう。

「眉間に皺など寄せるな。」

 こんな楽しい行為はないではないか、という川喜田二郎の声が聴こえてきます。

 近いけれども異質な複数のものを同時に視野に収めると、人は生き生きと発想しないではいられない生き物なのだ、というこの方法の発想力を支える認識が、使い手を豊かな創造性の沃野へと誘ってゆきます。

〈全体〉と〈個〉を往還するうちに、人は自然と〈個〉に〈志〉を感受するようになる。つまり、個々のラベルが、全体にとってなにかしらシンボリックな訴えかけを持っているように感じ始める。この感受の仕方にこそ、「渾沌をして語らしめる」というKJ法の本質が潜んでいます。

〈個〉と〈全体〉との関係が刷新されることで、私たちの世界観も刷新されます。

 まずい「表札」のように、どちらも「同じだ」といった平準化や、ゆるい仲間意識へのもたれかかりや、相手の都合のよいところだけを切り取って己れの我のために利用するような、濁った関係意識や世界観を超える方法でもあります。

 そのための、「眉間に皺など寄せるな」。

 

 方法の温かさ・優しさは厳しさでもあり、人の我欲を超えてゆく技術でもあり、最終的に東洋的な美観を呈する、澄んだ世界観に裏打ちされています。

 

 

 

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忘却と復活

  • 2018.01.31 Wednesday
  • 20:31

 

「見られている」ことに気づくのでしょうか、野鳥にカメラを向けますと、ずいぶんと離れているのに、ぱささっと飛び立たれてしまうことがよくあります。

 

 

 写真の腕が未熟な私にとって、「萌え。」と思える瞬間の姿を撮影することができるのは、その「ぱささっ」よりも早くシャッターを押せる場合、あるいは、「撮るぞ」というこちらの気合いを野鳥に気取られないで落ち着いて構図を定めてシャッターを押せる場合、あとは、まぐれ。いずれかといったところです。しょせん、デジカメのオート機能に頼った素人の技ですけれども。それでも少しずつ、風景を撮るこつのようなものが身についてきた気もいたします。野鳥も含め、風景が「撮らせてくれる」瞬間をつかむ、といった感触でしょうか。

 

 私たち人間も、背中に目があるわけではありませんが、今、背後から、あるいはかなり遠くから、誰かに「見られている」と気づくことがあります。こういう人類の能力は、おそらく退化の一途をたどっているのでしょうが、3歳までの子どもは、後ろから振り下ろされる棒を自然に避けられる、と聞いたこともあります。大人になるにつれて失う能力でもあるようです。

 

 霧芯館の受講者である作業療法士さんのお一人とメールでやりとりしていたとき、「“相手のことを考えていたらメールが来た”現象」というものについて盛り上がったことがあります。お互いそれはよく経験する、という話から、この現象は、そもそも人に備わっていたはずの「見られていることに気づく」能力が、近代化とともに使いどころを失くし、ついに昨今のIT社会において「相手が今、自分に向かってメールをうっていることに気づく」能力として奇妙な特化を遂げて噴き出している姿なのではないか、といった文明論に。ことに、女性はこの能力が高いのだとか。

 

 KJ法をもし難しいと感じるならば、その困難さは、同じような「能力の忘却」に根ざしているかもしれません。

 個人が個人として何もかも完結していて、他者や世界と非合理的なつながり方などしていない、と考える限り、実はKJ法はなかなか上達しません。

「何だか気にかかる」ラベルをピックアップして、と言いましても、「気にかかる理由・根拠」を明晰にする癖がついていますと、「根拠がはっきりしない」ラベルへのアンテナが働きにくくなります。「ラベル達が言いたがっていることを聴き届ける」といったKJ法らしさの実現も、ラベルへの分析・解釈・分類に慣れてしまった思考パターンでは一苦労であったりします。

 このKJ法の作業への不全感は、〈全体〉を見失い、個々に分断されたものとしてしかラベルを見ることができず、主体と客体もまた分断されたものとして、ラベルをただの操作対象としてしまう世界観から発しています。

 全体感を背景として、個々のラベルの訴えかけを象徴的に感受する能力。それを「忘却」しているにすぎないのですけれども。決して、そのような「能力が無い」からKJ法など無理、というわけではなく、思い出そうとおもえば、誰でも思い出せる能力のはず。

 この能力を思い出すことは、〈世界観〉を根こそぎ変容させることになります。

 KJ法が「誰でも使える方法である」ということの真の意味は、この、忘却した世界観、忘却した能力を思い出せるならば「誰でも」、ということなのです。決して「簡単だから」、ではありません。

 そして、一度思い出せたなら、もはや簡単か難しいか、といったことは気にならなくなってしまう方法でもあります。方法に強いられ、ラベル達に強いられ、おのずと発想せざるを得ない、素直で我執のないプロセスを自然に歩んでいる自分の集中力に気づくとき、こんこんと湧き上がる「〈世界観〉の変容」という泉に身を浸していることに衝撃を受けます。

 

 私の「野鳥の撮り損ね」も、技術以前の問題として、野鳥と野鳥を取り巻く風景に対して「我」が発動してしまい、やすやすと気合いを悟られてしまっている、ということも言えそうです。

 

 2018年も、世界観に磨きをかけ、風景とのみずみずしい交感の瞬間を写真でお届けできればとおもいますし、霧芯館の研修を受講される方々にも、世界観変容の衝撃を、忘却した能力の復活を、さわやかに体験していただけるよう、精進してまいりたいとおもいます。

 

 

 少しおぼろですが、今日は満月。もうすぐ皆既月食の始まりです。

 

 

 

 

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2017年を振り返って

  • 2017.12.28 Thursday
  • 18:26

 

 今年も霧芯館にたくさんの方々をお迎えし、KJ法とその世界観に、じっくり触れていただきました。

 受講された方々を対象に開催しております夏・冬のワークショップでは、「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマでグループKJ法に取り組んでいただき、〈現在〉の抱えている課題を浮上させてまいりました。

 その中で、今年もさまざまな領域の方々と触れ合い、さまざまな現場の匂いを臨場感をもって味わう体験をさせていただくことができました。

 

 いずこの現場でも、「今の学生は」とか「今の新人は」といった嘆息が、人を育てる側から聞かれます。その嘆息の内訳のとんでもなさは目を白黒させるくらいで、こういう学生が現場に出たらどうなるんだろう、と、特に医療現場に出てゆく看護師育成の現場のお話には不安をおぼえたりします。そこには、昨今話題の「毒親」の影がつきまとっていたりもするようで、一朝一夕で若者を一人前には出来ない、根深い病理に誰もが疲弊しているのを感じます。

 それでも、育てる側の方々の、困惑しながらもしびれを切らすのではなく、学生の強みをどうすれば現場で生かせるのかと、アプローチの仕方を模索し、日々奮闘しておられる様子には頭が下がります。

 若手にKJ法でグループ作業をさせてみたところ、思いがけない集中力と粘りを発揮し、深い手応えを得られた、といったご報告を、しみじみ嬉しく感じたこともあります。

 あきらめない方々が、困惑と嘆息を乗り越えて、若者の内に秘められていたものに触れておられる気配を、間接的ですが私も深く吸い込ませていただきました。

 

 KJ法の修行の機会を、と毎年ワークショップを開催しておりますが、この修行にハマってくださる方も年々増えて、今年も夏・冬ともに盛況でした。KJ法の修行は厳しいけれども楽しいものだということに気づいていただくのが、主催者としての最大の狙いです。

 KJ法に出会う前と後では、世界風景が違ってみえる。

 そう思っていただける人を、今年もじわっと増やせたのなら、私にとって良き一年であったと振り返ることができます。

 

 日々、KJ法で風景を更新し続けておられる方々も、今年初めてKJ法で風景が変わった方々も、どうぞ良いお年をお迎えください。

 


 

 

 

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