〈いのち〉の匂い

  • 2019.01.28 Monday
  • 11:55

 

 例年、新年の抱負などは特に考えないのですが、自身の体調管理が切実な年頃ともなると、今年は3つ、肝に銘じようと思いました。

 

 よい姿勢をキープ。

 深い呼吸。

 よく噛んでゆっくり食べる。

 

 なんだか小学生に言い聞かせるような内容ですが、実践するとなると難しいものばかり。

 パソコンやスマホとにらめっこする時間が多くて、肩は丸まり、気がつけば眼精疲労の蓄積と猫背気味。

 姿勢が崩れると呼吸も浅くなりがち。

 せわしない気分でせわしない食事時間となり、味わう気持ちはどこへやら。

 悪循環の無限ループは恐ろしいですので、よい循環へと転換したいものです。

 

 KJ法の世界観に置き換えるなら。

 よい姿勢をキープすることは、この世界を〈志〉があるものとして感受する、その姿勢を忘るべからず、ということに。

 深い呼吸は、こちらの〈我〉で世界を仕切ろうとするのではなく、己れを空しくして渾沌との全身的な深いやりとりを実践すべし、ということに。

 よく噛んでゆっくり食べることは、上記2点をベースにして、渾沌が構造化されるプロセスと結果を深く味わうべし、ということに。

 渾沌は恐怖の対象ではなくなり、己れを生かしめてくれるものとして、「身になる」はず。

 

 KJ法についてなら、いつも偉そうにのたもうていることですが、己れの心身の基本が崩れがちな今日この頃。

 この場で公開することで、一年間、健やかに過ごすためのモチベーションをキープしたいですし、自身からも他者からも世界全体からも、あたたかな〈いのち〉の匂いを感じられる一年にしたいと切に願います。

 

 

 

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2018年を振り返って

  • 2018.12.30 Sunday
  • 17:42

 

 いったいこの体験にはどんな意味があるのだろう。

 今年に限らず、なにかしら不条理な、あるいは理不尽な体験を致しますと、その〈意味〉を握り締めるのが難しいと感じてしまいます。

 ことのほか今年は、私だけではなく、多くの方々がそのような想いに駆られたのではないでしょうか。

 

 KJ法においても、ラベルの〈志〉(ラベル群全体を背景とした個々のラベルのシンボリックな訴えかけ)がなかなか見えてこないことがあります。図解が完成した暁には、それは仮に「一匹狼」であっても逞しい〈志〉を放っていることに気づかされ、図解全体の構造の一翼を立派に担っていたりするのですが、そのことに思い至るまで、こちらの〈我〉によってラベルを解釈したり、分類目線でどこかのグループに放り込んだりすることなく、あくまで全体感をバックにして訴えかけに耳を澄ませることとなります。

 KJ法は、〈渾沌〉を手際よくバランスよく〈全体〉として把握し、その〈全体〉の語りかけを己れをむなしくして〈構造化〉することによって〈本質〉を浮上させる方法、ということができます。

 今年の様々な体験は、まさに〈渾沌〉というべきですが、〈渾沌〉であるからこそ、私たちは己れをむなしくする姿勢・態度というものに目覚める契機を得たのかもしれません。

〈我〉によって安直な解釈でお茶を濁すのではなく、その意味するところを握り締め難いという不安に耐えながら、丁寧に〈渾沌〉の語りかけが明らかになるのを待つ。

 その語りかけが、この世界のあたたかな貌として顕ち上がるのを粘り強く信じて。

 

 今年も、ご愛読ありがとうございました。

 ご自愛の上、どうぞよいお年をお迎えください。

 

 

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2018.12.10 Monday
  • 21:03

「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」

  • 2018.12.10 Monday
  • 20:56

 

 12月1日、「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール(指標)」。

 夏に開催したワークショップでは、このテーマをめぐって、参加者に数百枚のラベルを提示していただきました。チームごとに「パルス討論」という技法で、効率よくバランスよく、意識的・無意識的に気にかかる事例や想いが掘り出され、今回の冬のワークショップまで「寝かされて」いたラベル達。そこから私がまず、70枚をピックアップし、この日はチームごとにさらに20枚を精選し、「狭義のKJ法」を実践していただきました。

 テーマは「メルクマール」としておりましたが、そこにこだわらず、〈常識〉〈非常識〉をめぐる私たちの気づきや想いが構造化された結果となりました。

 

 チームごとに異質な図解が完成したのですが、どの図解にも、〈常識〉〈非常識〉のあり方を通して、〈現在〉という時代への批判的な認識がくっきりと浮上していました。ことに、確固たる〈常識〉が失われ、人々が異質な〈常識〉を持つ他者への怖さを抱えている状況は顕著で、個々ばらばらの〈常識〉に怯えるゆえか、逆に単なるマジョリティーとしての〈常識〉に内面を収奪されたり、あるいはモラルと責任を欠いた〈非常識〉が不気味な感染力を持つ〈時代〉の姿が鋭利に捉えられているのは印象的でした。そして、他者を損ねることのない揺るぎない〈常識〉の価値への憧れと、社会の枠組みとしての〈常識〉を華麗に生産的に逸脱してみせる〈非常識〉への讃嘆にも、〈現在〉の置かれている状況の息苦しさ・厳しさが表われていたようにおもわれます。今回のテーマにおいても、見事に〈現在〉の本質が突きつめられたのは感慨深いことでした。

 

 創案者である川喜田二郎は、同じラベルを使っても異質な図解が完成することについて、「同じ富士山を違う角度から眺めるようなものだ」と語っていますが、確かに、チームごとに異なる表情をくっきりと浮かべている図解たちを鑑賞することで、奥深い本質に触れる醍醐味は、冬のワークショップならではのものです。

 今回もこの成果は、あらためて「作品・解説集」として参加者にフィードバックする予定です。

 

 紅葉がちょうど見ごろの京都へ、今年も全国から受講者のみなさまにお集まりいただき、熱い集中力で「渾沌をして語らしめる」体験に浸っていただくことができ、安堵のおもいです。

 主催者として、各チームを見回って作業精度を上げるように気配りいたしますが、数分もすれば、初対面も含めた老若男女が、それぞれの内面のひきだしをこれでもかとばかりさらけ出しながらほとんど無礼講で打ち解けてゆかれる様は、毎年のことながら感動するといいましょうか、見ていて頬がゆるむといいましょうか。

 

 KJ法によって創造的な営みを共有したチームに、どなたも懐かしさをおぼえて下さって、また来年も、と笑顔で帰路につかれる。今年もそんなたくさんの笑顔に出会えて心和む一日でした。

 

 

 

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京の秋2018

  • 2018.11.28 Wednesday
  • 16:54

 

 今月は写真のみ更新です。

 なかなかおちついて写真を撮る時間がありませんが、少しだけ、風景にしゅわっと潤った感覚をお伝えできればさいわいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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中島敦の悲劇

  • 2018.10.26 Friday
  • 12:57

 

「山月記」で有名な中島敦に、「文字禍」(昭和十七年二月発表)というブラックな寓話風の小品があります。

 

 アッシリアの大王から、夜ごと図書館にうごめいているらしき文字の精霊について調査を命じられた老博士の悲劇ですが、その悲劇の核心は、奇妙に〈現在〉の私たちの生き難さに似ています。

 

 大王の命を受け、早速調査にとりかかった博士は、うずたかい書物の古知識の中から、文字の霊についての説を見出すことができませんでした。そこで彼は書物を離れ、ただ一つの文字を前に終日それと睨めっこをして過ごすようになります。(以下の引用は『ちくま日本文学全集 中島敦』より。)

 

「その中(うち)に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」

 

 そこで博士は、このばらばらの線に一定の音や意味をもたせているものこそ文字の霊ではないかと思い当たります。さて、それではその霊の影響とはどのようなものか? 街中を歩き回って、最近文字を覚えた人々を調査したところ、奇妙な統計が出来あがりました。

 

「文字を覚えてから急に虱(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが圧倒的に多い。」

「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。」

「獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。」

 

 このように文字の霊の威力を洞察した博士はしかし、そのことで霊から復讐されてしまいます。

 一つの文字と睨めっこすることで、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を体験してからというもの、それと同様の事態に、文字以外のあらゆるものについても直面してしまうようになったのです。

 

「彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰(しっくい)との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。人間生活のすべての根柢(こんてい)が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。」

 

 怖くなった博士は、早々に研究をまとめて大王に提出するのですが、文字の霊が人々に害を及ぼしているとの報告は、文字とその文化を統べる神を疑わぬ大王の怒りを買い、謹慎を命じられてしまいます。さらに、数日後の地震で数百枚の粘土板が、文字の霊の凄まじい呪いの声とともに書庫内の博士を圧死させてしまったのでした。

 

 作者・中島敦の中に、己れの魂の置き所の無さに対する深い絶望の念があったのであろうことを感じさせる寓話です。

 文字の霊に喩えられた西欧近代的な〈知〉とは、この世界を氷山にたとえるならば、その一角に過ぎず、世界の総体はほとんど水面下に隠れている。しかし、その氷山の一角に統べられてしまうことで、私たちは空の碧さを失い、獅子を射止められず、女を愛せなくなってしまう。

 ところが、そのカラクリを洞察することもまた、分析病にとりつかれることであり、近代的な〈知〉の堂々巡り、そして意味解体の果てのニヒリズムの狂気へと人を追いやってしまうことになる。

 世界の総体を、個々の存在を、歓びと智慧に満ちたものとして享受することのできない不幸が、ひしひしと伝わってきます。世界に、存在に、真に意味を与えているものから遠ざかるように遠ざかるように、歯車が回り始める怖さ。

 

 今おもえば、高校時代に現代文の教科書で触れた『山月記』もまた、観念の夢魔に生身を食い荒らされ、虎になってしまった男の悲劇でした。現実と肉体を忌避する観念的な芸術至上主義が、〈虎〉というむきつけの獣的な現実・肉体へと収斂してしまう逆説は、時代の病の本質を鮮やかに指し示していたことがわかります。

 作者にとっては、肉体を忌避することも〈死〉、獣的な肉体の欲望に身を任せることも〈死〉、二つの〈死〉は、実は一つの病の別の貌に過ぎないことへの洞察が、痛々しい主人公の叫びとなっていました。

 その病の中で、自分が人間であったことの記憶さえも失くしてしまう恐ろしさ、段階的に自分の生身が失われてゆく恐怖にさえざえと直面する苦しさ。

 

 主人公、そして作者の苦しさは、私たちの日常にも当たり前に潜んでいることに、ふと戦慄をおぼえます。

 観念的な〈知〉によって、あるいはバーチャルな〈情報〉によって、あるいは科学の名のもとに強制される合理的・機械論的・唯物論的な世界観によって、〈現在〉の私たちは不断に生身を削り落としたりすり替えたりしているのですが、それがあまりに「不断に」なので、恐怖心すらおぼえなくなってきているようにおもわれます。デジタルな修正を加えられた空の碧さや、バーチャルに露出され消費される〈日常〉や、〈数〉の支配力や、これ見よがしにエビデンスに固められた情報によって、いつしか氷山の「一角」はその割合を増し、氷山の全てにとって代わるのでしょうか?

 

 KJ法は、既成の観念的な〈知〉を排し、世界との主客融合的な交感によって我欲を超えた創造性を顕ち上げる方法ですが、あらためて、その方法の現在性と普遍性、それでいながら本質の理解において非常に困難な方法であることを感じます。

「文字禍」の博士が陥った「分析病」をも排することで、近代的な〈知〉のパラダイムというものを根こそぎ転倒し、世界と存在のもつ歓びと智慧を、個々人の手に取り戻す方法ですが、その本質にはフタをし、安易な分類・整理法、分析や恣意的な解釈に通じるものとして誤解されやすい方法でもあります。

 そのような誤解を一つひとつ打ち砕かれる衝撃を、ぜひ、無心で味わっていただきたいものとおもっています。

 

 一人ひとりが真の〈意味〉に出会う衝撃の場所からのみ、変わってゆく風景の確かさを握り締めつつ、どなたも歓びと智慧とに満ちた秋を満喫されますように祈念しております。

 

 

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2018」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 21:11

「霧芯館KJ法ワークショップ2018」

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 21:07

 

 さる8月4日、「霧芯館KJ法ワークショップ2018」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 過去に霧芯館の研修を受講された方々が、今年も全国から酷暑の京都にお集まりくださいました。KJ法のグループ作業を通してご交流を深め、この方法のステップアップを目指す修行の機会。

 

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール」。

 開催趣旨は以下の通りです。

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール(指標)」。「なんて非常識なんだ!」と誰かを非難したくなる時、あるいは「なんて常識破りの発想なんだ!」と賛嘆するとき、私たちは〈常識〉と〈非常識〉の境界線を意識します。何をもって〈非常識〉と感じるのか、そのメルクマール(指標)について議論することで、いつの間にか私たちを補強したり囲い込んだりしている〈常識〉という枠組みの本質を浮上させてみたいと思います。

 

 当日は、「パルス討論」というKJ法のディスカッションの技法によって「探検ネット」と呼ばれる図解を作成します。これは、テーマをめぐって360度の視角からデータの質のバラエティーを効率よく出し切るための技法。ここで提示されたラベル達は、冬に開催される「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」で「狭義のKJ法」によって構造化され、本質を明らかにされることとなります。

 

 今回の夏のワークショップで提示されたラベル達から、今年もいくつかご紹介しましょう。

 

・相手に伝わらない経験をすることで自分の非常識に気づく。

・伝統の土俵が女性を追い出す。

・ルールという「常識」が、声の大きい人の「非常識」にぬりつぶされる。

・世の中の「常識」の範囲が狭まってキュークツになってきた。

・自己肯定感が低いと常識を主張したくなる。

・疲れている時は、非常識と感じる他人の存在が増える。

・世の中の変化についていけない高齢者が取り残され“迷惑老人化”している。

・苦情は企業にとって宝物と化す。

・「常識がある人」に見られたいとどこかで思っている。

・常識なんてクソくらえと思っても非常識と距離をとってしまう。

・常識には「格好」がある。

・私のあたりまえはどこから来ているのだろう。

・子どもに常識は通用しない。

・今どき固定電話やFAXを使える若者はいないと思う。

・常識人と思っている人の非常識さを垣間見るとかわいいと思う。

・文科省は正しい日本語が使えることより英語教育を強化している。

・父親は転職した私を奇異の目で見ていた。

・常識は誰が決めるんだろう?

・白髪になったら自分より年上とみられる人からニコニコと座席を譲られる。

・良い大学に行き大企業に就職すると成功する常識はもはや当てはまらない。

・世の流れの2〜3歩先を見ている人は非常識に見える行動をする。

・成功・成果があるから非常識は美談になるが、失敗すればただの非常識である。

・新入社員がまるでラインみたいな2行のメールを送ってくる。

・常識もスクラップ&ビルドする。

・親が子どもの進む道を決め、障害を排除しているカーリング子育てが増えている。

・人を傷つけたりおとしめる行為を「非常識」と呼びたい。

・いつの世でも変わらないでいてほしい常識がある。

・常識は暴力になりうる。

・本当に腹を立てたポイントが他にあるのに、「非常識だ!」で置き換えることがある。

・常識の違いを楽しめるジャンルも存在する。

・炎上する人になれ、と言う人がいる。

・当たり前、常識は普段透明で気づいていない。

・非常識の感染力は強い。

・人の数だけ常識がある。

・100歳になったら何でもOKになる。

・昔はお茶もお水もおにぎりも売ってなかった。

・80歳を超えてもバリバリ外作業をしている姿は非常識な程感動的だ。

・無理が通れば道理がひっこむ。

・「私の常識では」と言う人の常識は非常識であることが多い。

・非常識と思っても、迷惑でなければ目をつむろう。

・電車の中でマスカラを塗っている女性をけげんな目で見ながらリップクリームを塗っている自分にとまどう。

・“しきたり”がうっとうしい時がある。

・常識だと思っていても自分一人だと不安になる。

・常識とは演繹法ではなく帰納法である。

・常識を操作する環境ができている。

・常識をひっくり返すことができやすい環境が生まれた。

・作品へのこだわりで20年以上アルバムを出していないアーティストから心が離れない。

・現実社会では排除される人も、ネット社会ではヒーローにもなりえる。

・常識に縛られるとワクワクした感じが減じる。

・通販で不良品を返品したら不良品が返ってきた。

・最近の子どもたちにとって、集まって遊ぶということは、一緒にYouTubeなどの動画を観ることらしい。

・「みんなそう言ってるよ」はうさんくさい。

・違和感を感じるものには可能性が潜んでいる。

・〈常識〉がくつがえるのを見るのはどこか快感である。

 

 自分が〈常識〉の側にいるのか〈非常識〉の側にいるのか、不明瞭になってきている〈現在〉の状況を感じさせるラベル達です。時には〈常識〉を味方につけ、時にはそこからはずれたいと切実に願いもする。しかし、いったい明確な境界線があるのか無いのか、何がそれを決めているのか、たいへんうさんくさいと感じてしまう。

 みなさんの率直な感覚が発露されたラベル達に、〈現在〉という時代の振れ幅が表れているように見えます。どこかグレーな〈現在〉ではありますが、譲れない境界線もありそうで、我ながらスリリングなテーマ設定をしたものだと思っています。

 

 

 

 これらのラベルも含め、数百枚のラベル達から、冬のワークショップまでに私がまず70枚を「多段ピックアップ」で択びます。冬は、各チームでその70枚からさらに20枚をピックアップし、「狭義のKJ法」グループ作業に臨みます。

 冬まで、この曖昧で不安をそそるラベル達を心に棲みつかせながら、発酵・熟成させていただくのも大切なことと考えています。

 

 非常識な暑さの京都に、非常識なテーマのためにお集まり下さったみなさまに感謝しつつ、残暑を乗り切りたいとおもいます。

 

 

 

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〈祈り〉のコスモロジー

  • 2018.07.31 Tuesday
  • 14:42

 

〈祈り〉の言葉には、おのずと世界観が滲みます。

 

 宮崎アニメ『風の谷のナウシカ』の中で、腐海一の剣士ユパが久しぶりに「風の谷」を訪れたときのこと。村人たちがユパを取り囲んで、新たに村に生まれた子どもの名付け親になってくれるように頼むシーンがあります。

 

「ユパさま、今年生まれたトエトの子です。」

「オオどれどれ。ホホォ、よい子だ、幼い頃のナウシカを思い出す。」

「どうか、この子の名付け親になって下さいませ。」

「いつもいい風がその子に吹きますように……」

「ひきうけよう。よい名を贈らせてもらうよ。」

 

 たったこれだけのやりとりですが、「風の谷」がどのような世界観で生きているのかを鮮やかに伝えてきます。

 

 久しぶりのユパの訪れを歓迎する言葉のはしばしにも、彼らの暮らしが何によって支えられ、何に感謝と祈りを捧げながら生きているのか、自然なその息づかいが溢れています。

 

「オオ!ユパさま。」

「ようこそ。」

「オオ、皆も息災か。」

「ハハハハ、水も風も滞りなく穏やかです。」

 

 宮崎アニメの美質の一端がさりげなく表現された場面に、観る者の世界に対する身構えがほころびます。

 

 ここで〈水〉〈風〉と村人が口にするとき、〈腐海〉という瘴気に満ちた死の世界に取り囲まれながら、また、〈腐海〉を焼き滅ぼし、自国のサバイバルを賭けて闘争を繰り返そうとする強国たちに脅かされながら、小さな「風の谷」を守ろうとする中での〈水〉であり〈風〉であることを想うと、牧歌的なだけの場面ではないことに気づきます。

 

「腐海の毒に冒されながら、それでも腐海とともに生きるというのか?」

「あんたは火を使う……そりゃあ、わしらもチョビッとは使うがのォ……多すぎる火は何も生みやせん……」

 

 かつて世界を亡ぼした〈巨神兵〉を蘇らせることで〈腐海〉を焼き払おうと企てる強国トルメキア。その皇女クシャナのヒステリックな問いかけに、「風の谷」の長老たちは、「わしらは水と風の方がエエ」と答えるように、彼らは〈火〉ではなく〈水〉と〈風〉がよい、〈火〉は使い過ぎてはならない、と考えています。

 

「風の谷」における〈水〉や〈風〉は、単に農作物や家畜や人の暮らしを支える、きれいな井戸水やほどよい風、という以上に、健やかで聡明な〈生〉の意味を支える、人間には測り切れないもの、統御し切れない〈気〉としての象徴的な奥ゆきを持っています。

 その〈気〉への深い信頼と畏れがあればこそ、主人公ナウシカによる、〈腐海〉の潜在的な浄化のシステムへの理知的な探究も、俊敏な身体性の発露も機能しているのであり、〈水〉や〈風〉によって支えられたまっとうな生命的な〈火〉が、いびつな〈火〉による破壊の浅ましさと対決する、この作品のテーマは、地球規模の環境問題以上に、個々人の生きざまにおける〈信〉のあり方、世界観のあり方に訴えかけてくるものです。

 

 どうか、良き〈水〉と〈風〉に恵まれて、健やかな〈火〉の活力を顕ち上げることができますように。

 測り知れない自然の力に脅かされてもなお、壮大で不可知の〈気〉への畏怖と信頼を持ちこたえて、どうかどなたもこの夏を溌剌と過ごされますように。

 

 

 

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〈水〉の風景

  • 2018.06.29 Friday
  • 12:34

 

 気がつくと〈水〉を撮っている自分がいます。

 

 

 暑さのせいばかりではなく、根深い精神病理を垣間見せる事件の数々や、災害とそれに伴って蔓延する不条理感、煽られる不安と虚無、そういった混沌の相貌に、惑乱させられたくないと望む、身体の防御本能かもしれません。

 ことに、稲が育つ姿が美しく感じられて、今年はついついカメラを向けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 田の面に映り込んだ山や空や稲によって織り成される風景は、光なのか影なのか、空気なのか水なのか、世界なのか私なのか、どこか混沌としていながら、不思議な落ち着きを湛えています。

 混沌や気が遠くなるほど長いスパンにおける循環や巨大な転換といった〈振幅〉は、有限な個としての生を生きる私たちにとって、その〈意味〉を測りがたい手ごわさを抱えています。不条理に直面したとき、その〈意味〉がいつまでたっても見出せない極北の風景にたたき込まれる恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

 しかし、〈救い〉は、私たちの身体そのものに精妙に刷り込まれて存在していて、壮大な〈振幅〉は外部にのみあるのではなく、私たち自身が、実はその全ての〈振幅〉を自ら認識し把握することなど不可能なほど壮大な存在なのだということを、少しだけ思い出すことができる。そんな契機を、無意識に招き寄せるように、生きているのだと思います。それが、〈生かされている〉ということの姿なのかとおもわれます。〈生かされている〉という認識の先に、〈意味〉がたぐり寄せられる。不条理が後景に退く。

〈風景〉も、私たちの外部にあるのではなく、私たちの内なる壮大さの鱗のようなものが映し込まれて、そこに存在するのだと感じられるとき、風景の背後にある気が遠くなるような〈振幅〉の鱗もまた、私たちの内にきらめいて、その〈振幅〉との確かな絆を結べるようにおもわれるのです。

 

 

 

 

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