〈想い〉はどこにあるのか

  • 2017.04.29 Saturday
  • 16:09

「現場がKJ法で変わってきています。」

「職員の今までの思い込みが払拭されて、利用者さんの立場に立つってどういうことか、みんな考え始めました。」

「研究発表しますと、KJ法で構造化されると患者さんの想いがよくわかる、と、私たち看護師仲間の評判がいいです。」

「KJ法で図解にされて初めて、自分達の現場の状況がどういうことになっているのかわかりました。」

「とてもまとまらないだろうと思っていたのに、合意形成できました。」等々、嬉しいご感想を受講者からいただくことがあります。やはりKJ法が現場できちんと活かされているというお話に、なによりこちらも勇気づけられます。

 

 では、KJ法で構造化されなければ、何がそんなに困難なのでしょうか。

 

 自分達が生身で触れている現場であるはずなのに、顧客や利用者や患者や自分達自身の〈想い〉に誰よりも詳しいはずの方々なのに、その〈想い〉をもてあましているのはなぜでしょうか。

〈量〉では測れない〈想い〉、つまり〈質〉を相手にしている。

 そして、その〈質〉が雑多で混沌としている。

 KJ法に辿り着かれる方は、概ねご自身のフィールドに対して、この二つのハードルを越えたいと望まれるのですが、この二つは、結局一つの本質的なハードルを指し示しているとおもわれます。

 つまり、〈量〉ではなく〈質〉でフィールドを把握したいと望んでも、〈質〉を〈量〉に換算する目線から逃がれられない、というハードルです。

 いろいろな〈質〉のバラエティーが目の前に整理された状態を生み出すだけなら、ただのブレーンストーミングでも可能でしょう。

 では、それらの〈質〉のバラエティーの、どれが一番多くの顧客や利用者の想いなのか、といった具合に、結局は多数決に持ち込む発想から逃がれられない。最も多くの数が集中している〈質〉を原因であるとか本質であるとか決めつけることで、結局は〈全体〉を把握しそこなってしまう。何かを切り捨て、犠牲にしている感覚に、釈然としない気持ちになる。誰かのニーズに合わせることが、他の誰かのニーズを殺してしまう。

 しかし、現場の方々は、ご自身が触れた、患者さんや顧客のふとした一言が生々しく気になって仕方がないのです。ここで殺された〈想い〉をそのままにして、組織は、現場は、果たしてほんとうの意味で生きのびられるのだろうか、と。

 パソコンソフトでグラフにされた結果からはこぼれ落ちてしまう、しかし、その一言こそが現場の状況のゆるがせにできない何かを表現していると思われてならない。

 そんな感受性が活かされるためには、やはりKJ法によって、データを「シンボリックに感受」しながら〈全体〉の訴えかけを構造化し、その本質把握への道筋を見出すしかないのであり、〈質〉を〈量〉に換算することなく、むしろ〈量〉も〈質〉へと転換して感受し、すべての〈質〉を一つの〈本質〉へと転換する必要が生じてきます。

 そのようにして把握された〈本質〉から解決策を見出してゆくのでなければ、いびつな〈全体〉観に規定された恣意的な〈原因〉探索に導かれて、方向性は歪むばかりです。

 

 一方でまた、〈質〉の扱いにも困惑がつきまといます。

 現場に生きていれば、具体的な〈質〉のバラエティーなら日々いくらでも目にするわけですが、それらはあくまで「今日はAさんがこう言った。」「今日はBさんがこんな希望を口にされた。」といった具体性にとどまります。何か大切な訴えかけが潜んでいる、とその場で感じてはいても、「高齢者は」「消費者は」「患者は」「利用者は」といった抽象度において、それらが何を訴えかけているのか、多忙な現場で明らかにしてゆくのは至難のわざです。

 そこでも、適切な〈抽象〉という行為によって、個々の具体性の「土の香り」を残しながら統合し、構造化へと導けるのは、正しいKJ法の世界観と方法論があればこそであり、ちょっと意識がゆるめば、それらの〈抽象〉もまた、ずさんな「観念化」へと滑りこみ、ただの分類へと堕してしまいます。

 

 あるいは、「Aさんがこう言った」という一つのデータに対して、全体を無視した感情移入を野放しにすることも、本質把握をいびつなものにします。観念的な使命感や、個人的なトラウマや実体験との接点から、誰か一人の発言への思い入れが強くなってしまうといった場合です。個々の語りに対して、放恣な解釈や想像力をはばたかせるのではなく、〈全体〉を背景としてどのような〈質〉の訴えかけを持つのかについての、適切な感受が必要です。

 

 このように、〈量〉へのとらわれを脱していても、〈質〉を個人的な思い入れや観念的な分類へと回収する目線から脱することがまた、困難になっているのです。

 

〈質〉にこだわるということは、単に〈量〉で測れないものに根拠を求めるというだけではなく、〈全体〉を、この世界を、どのように把握するのかという〈世界観〉を立て直すハードルに直面するということです。そのハードルを見ないことにしてやり過ごしながら対症療法的な手立てへと駆り立てられるだけでは、とても対処できない状況というものが、〈現在〉を覆い尽くし、いずれの現場も混迷を深めています。だからこそ、変わり始めてもいるようです。

 

 既成の世界観によっては決して手に入れることのできない羅針盤というものがあります。現場の底から浮かび上がる羅針盤です。

〈想い〉は、いたるところで生かされる機縁を待ち望んでいるようです。

 

 

 

 

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無駄に使うな、贅沢に使え。

  • 2017.03.31 Friday
  • 15:31

 ずいぶん前のことですが、バイオリン作りの職人さんが、「木は、無駄に使うな、贅沢に使え。」と語っておられる記事を読んだことがあります。

 これは、素材としての木の、良い部分を効果的に使ってバイオリンにする、といった平板な意味ではなかろうとおもわれます。

 木には木としての命があり、その全体を生きています。その「部分」が使われてバイオリンとなるはずですが、使われない部分ははたしてただ廃棄されるだけなのでしょうか?

 私には、木が「ここを使ってくれ」と訴えかけてくる、そこを使うことが、木を全て使うのと同じ「贅沢」となる、そういう意味をもつ言葉と感じられます。それは、「評価」によって「良い部分」「悪い部分」を取捨選択する行為ではなく、「ここを使ってくれたら私の命はまるごと生きる」という木の訴えかけに従う行為なのだと。

 そして木がバイオリンとなった時には、そのバイオリンにもバイオリンとしての命が生まれます。それは木であったときの命と同じものではありませんが、バイオリンは、木の命を受け継ぎながら、新たな命として贅沢に転生し得るのだと。

 ものごとを「生かす」ことを考えるたび、いつもこの言葉が思い出されてなりません。

 

 KJ法において、この言葉が最も鮮やかに想起されるのは、「多段ピックアップ」という技法を駆使する時です。

 現場から取材されたデータが、ラベルに記入された結果大量枚数となった場合、KJ法ではそれらのラベル全てを使って「狭義のKJ法」の作業によって構造化することももちろん可能ですが、「探検ネット」上に配置された大量ラベルに対して「多段ピックアップ」という技法でラベルを精選し、その精選されたラベルを構造化することもできます。

 その結果は、全ラベルを用いたのに匹敵する、場合によってはそれを超える精度で優れた構造化や本質の浮上が可能となります。

 なぜそのようなことが可能なのかと言えば、たとえば200枚のラベルから、50枚のラベルを「多段ピックアップ」するという場合、200枚から150枚が棄てられたわけではなく、ピックアップされた50枚によって200枚全てを象徴的に感受しているのであり、いわば200−150の50枚ではなく、50=200であるような50枚だということなのです。

「なんだか気にかかる」という基準でピックアップするという行為は、評価目線によって「良し悪し」を決めつけるのではなく、無意識領域をも駆使した、全体感と個々のラベルの〈志〉の感受なのであり、既成概念や仮説にとって適合的か否かのチェックなどではありません。

 KJ法においては、「全体は個の総和ではない」のであり、ここでピックアップされた50枚も、すでに200枚という全体をシンボリックに背負っておりますし、これら50枚が「狭義のKJ法」で構造化されるならば、さらに個々のラベルの象徴的な意味は深く定まり、「土の香り」を残した抽象によって本質が浮上することとなります。

 

 この時、ラベル達は、無駄に使われることなく、非常に贅沢に使われた木として、優れたバイオリンのように生まれかわるのだと言えましょう。

 そこでは数の多さが確からしさを保証するのではなく、質のバラエティーの確保された〈全体〉を背景として、たった一枚のラベルでもシンボリックな〈志〉を獲得し、ダイナミックな発想に開かれた存在感を主張し始めます。

 出来ばえのよいKJ法図解を味わうとき、とても贅沢な気持ちになるのは、ラベルという〈個〉とラベル群という〈全体〉との間に、人の「象徴的感受」という心の働きを通して顕現するコスモロジーが有機的に息づくからだとおもわれます。

 

 おもえば、私たちも限られた時空間を生きております。

 自分という〈個〉が、何を〈全体〉として象徴的な存在たり得るのか。

〈木〉の訴えかけを損ねることなく、〈バイオリン〉としての可能性を生きられているのかどうか。

 そんなことを考えてみるのは、必要な贅沢とおもわれます。

 

 近頃よく、「スペック」という言葉が人について使われるのを目にします。そもそも「仕様」「性能」といった意味ですが、自身の履歴や他者の存在への評価として、「私のスペックはざっとこんな感じ。」とか、「A子の方がB子よりスペックが上。」「ハイスペック男子」などと使われているようです。

 目にするたび、なんとも言いようのないわびしい苦々しい痛ましさを感じます。

 ハイスペックであることで商品価値が高まる、そういう社会の目線に対応して適正に自己評価できるくらい大人である、との自負は、そういう価値尺度をもつ社会への毒念と、己れの更新のきかない「スペック」を見切る自嘲の念とに両足を踏みしめて、ぱさついたライフイメージをシビアに想定しようとしています。そして「スペック」という尺度によって存在が規定し切られた世界観が強固に彼らを抑えつけていることの不気味なほどの圧迫感がにじみ出ています。

「スペック」では見切れない世界の存在をどこかで感じているからこそ、「スペック」による自己評価に固執している、その痛みの自己主張でもあるのでしょうが、そこには〈木〉が〈バイオリン〉に転生する契機をあえて拒否した、己れの憎む社会の在り様への過剰適応の姿が垣間見られるようにおもいます。

 

 霧芯館には、80歳を超えた方が研修を受講しに来られることもあれば、大学生が自身の将来のために、自分でものを考え、問題を解決してゆくよすがにと、受講しに来られることもあります。

 概ね、世代が下がるにつれて、感受性がほっそりとしてゆき、世界観が痩せてゆくのを感じないわけにはいきませんが、それでも時折、びっくりするような深みのある内省力を若者に感じて驚嘆することもあります。

 そういう若者からは必ず、自分の限られた時空間を〈全体〉として、「無駄に使うな、贅沢に使え。」という言葉に相当するような内省力を働かせているという印象を受けます。〈木〉としての己れの深奥の訴えかけを、どうすれば〈バイオリン〉として生かせるのか、聴き取ろうとしている。

 うら若い身で、経験も見聞もさしてまだ広くはないはずですが、ささやかでも己れの世界と己れとの緊密な関係の意義へのあさはかでない洞察を、その作品から感じることができ、救われる気がいたします。

 

 咲き誇る花々を、今年は贅沢に味わってみたいとおもいます。

 

 

 

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〈出逢い直し〉のラビリンス

  • 2017.02.23 Thursday
  • 17:50

 この冬は、ツグミにとてもよく出逢います。

 このツグミには宝ヶ池の梅園で出逢ったのですが、斜め上方へ投げた遠い目と、ややナルシシスティックな立ち姿に、ユーモラスなケレン味を感じてうっとりしてしまいます。

 

 

 ほんとうは、昨年までも身近にたくさん居たのかもしれませんが、昨冬初めてツグミを識別できるようになったので、この冬はしばしば視野に入ってきます。

 見慣れてくると、視野のすみっこでかすかに跳び跳ねる気配がするだけでも、ムクドリでもないし、スズメでもないし、ツグミなのだと気がつくようになりました。ツグミならではのまるまるころころした重量感とリズム、独特の声の艶にも敏感になってきました。

 この冬の私の風景を豊かにしてくれた立役者です。

 

 出逢うというのは、初めてのようで実は初めてではない、という感慨を、この頃よく抱きます。

 初対面だと思っていても、実は私たちの認識を超えたところで出逢った記憶を持ちながら、出逢い直しをしているのだ、という感慨です。

 だから、私がツグミという野鳥の姿に「萌え」てしまうのも、昨冬初めて出逢った時に、出逢い直しをしたせいかと思うのです。

 新鮮だけどとても懐かしい。

 感動を伴う出逢いにおいては、いつも個人史の枠組みや個体の輪郭を超えたところで「既に知っている」という感触に包まれるのを、私はどうすることも出来ませんし、日常的に目にする風景や光や風や水面のざわめきにも、時には誰か懐かしい人の気配が融け込んでいるように感じることもあります。「今、そばに居るな。」といった感触です。

 

 大学での教え子のTさんから以前いただいたメールの中に、印象深いフレーズがありました。

「本当のほんとうは、人は完全に悟っているんだけど、わざとそれらを忘れて、自分の欲しい分量ずつ、思い出しているんじゃないかな、とも想います。」

「本当のほんとうは」「完全に」「わざと」「自分の欲しい分量ずつ」といった修飾語の緻密さが味わい深くて、丁寧に吟味せずにはいられないフレーズです。

 私たちは、この人生で少なからず迷走しますし、少しでも幸せになろうとするなら、試行錯誤しつつ修行を重ねに重ねて、確信は持てないけれども良き方であろうと信ずる方へ進もうと悪戦苦闘するものですが、彼女のこの言葉によるならば、私たちの迷いの姿は表層にすぎなくて、「本当のほんとうは」既に悟っている、それも「完全に」悟っているのだということになります。それなのに、「わざと」その悟りを忘れて、「自分の欲しい分量ずつ」思い出しながら生きているのだと。

 なかなか人生とは面倒なものです。面倒だけれども、今のところ出逢えている自分は本来の自分の氷山の一角に過ぎないのであり、まだまだ思い出していない自分が測り知れないほどあるのだと想うことは、己れにしがらんでいる意識の拘束がふいっとほどけるようで晴れ晴れ致します。

 

「悟り」とは、完全な、あるいは本来の、自分との出逢いであるとするならば、私たちはそれと正しく「出逢い直す」ために、一度わざと全て忘れなければならないのかもしれません。

 この人生の意味は、その「出逢い直し」の道程の豊かさにかかっているのだとすれば、道程を豊かにするために、意識と無意識を総動員し、内省力の限りを尽くして、「自分の欲しい分量ずつ」適切に思い出しながらより完全な「出逢い直し」へと近づいてゆく必要がある。

 時には、適切に「思い出さない」能力も駆使する場合だってあるのかもしれません。これ以上他者や自分の〈闇〉を見てしまうと自分の中の何かが危なくなる、と感じたら、人は全速力でそこから遠ざかることで「出逢い直し」を回避する場合もあります。人によっては、危険と感じてかえって深みにはまってゆく場合もあるでしょう。

 

 人それぞれの本能や叡智で、「自分の欲しい分量」の適切さを測りながら生きることになるのだとおもいますが、私はそのような「思い出し」にかけては貪欲なのかもしれません。初めて出逢った人や風景に、心の中で「よっ、久しぶり」と声をかけていることが多いと感じます。

 だからといって迷走しないというわけではないので、これからもまだまだ遠い本来の自分に、より深く豊かに出逢えるよう、精進して歩んでまいりたいとおもいます。

 

 

 

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〈生き難さ〉へのアプローチ

  • 2017.01.30 Monday
  • 15:09

 これまで、KJ法を伝える仕事を通して、実に多彩な現場の方々と出会ってきました。

 そのことで、間接的ながら現在の多彩な〈生き難さ〉というものを垣間見ている気がいたします。

 最近、そのような〈生き難さ〉へのアプローチが、いろいろな現場において変容しつつあるという感触を抱きます。

 

 「病気」ではなく「人」を診るのはもちろんのこと、「人」の背景や歴史や家族や地域といったものまで含めて「診る」ことの重要性。

 身体的・精神的・社会的な「健康」だけでは不十分であり、霊的(スピリチュアル)な領域まで含めて「健康」の意味を考えることの重要性。

 当事者の意識だけではなく、当事者にも隠された無意識の領域における、痛み・苦しみ・強みを浮上させることの意義。

 「協働」のプロセスによって発生する不可知のドラマに賭ける治癒・治療行為。

 速さだけを求めず、時間をかけることでしか得られない効果への期待。

 当事者の目線に立っているという「思い込み」を払拭する試み。

 社会によって「望ませられている」意識の底から真の望みを掬い上げる挑戦。

 

 目に見えるものと不可分に存在する目に見えないものの価値と意義に対してアプローチしてゆかなければ、何も変わらないということに、あらゆる現場がハラをくくり始めたといった印象です。果敢な挑戦が日々、繰り広げられていることに感銘を受けます。

 問題解決においても、質的研究においても、今まで当たり前に共有されていた概念の輪郭を問い直していることが伝わってきます。

 

 医療とは、看護とは、健康とは、幸福とは。

 自立とは、尊厳とは、関係とは、他者とは。

 労働とは、身体とは、社会とは、家族とは。

 効果とは、癒しとは、治るとは、望むとは。

 連携とは、共有とは、痛みとは、悲しみとは。

 強みとは、成長とは、成果とは、老いるとは。

 教えるとは、支援するとは、共感するとは、聴き取るとは。

 個人とは、集団とは、生まれるとは、死ぬとは。

 

 観念的にこれらの概念を共有しているだけでは、現場は疲弊・荒廃する一方であり、現実にあまたの手痛い代償を支払って、厳しい痛みの側から、概念を塗り変える模索が始まっているのだと感じられます。

 

 高齢化社会、荒廃する地域、看護と介護の亀裂、世代間の亀裂、教育現場の疲弊、崩壊した家族、追い詰められる死生観、心の病理の測り知れない蔓延。

 

 娘(看護学生)の看護実習に付き添うのみならず、娘に代わって清拭ケアをしますと申し出る母親。

 認知症患者であふれる病棟。

 燃え尽きる介護職員。

 受け皿がなく自宅に帰れない高齢入院患者。

 親のための会社説明会を実施する企業。

 障害児を先に看取ってから逝く覚悟を定める両親。

 地域や社会の目に苦しむ障害者。

 老老介護の綱渡り。

 うつ病や自殺や家族の喪失。

 育たない若手に苦悩する企業。

 見えない測れないニーズ。

 社会から忘れられてゆく痛み。

 

 列挙すると実に暗い時代、とんでもないことが起こっている時代、と思われますが、このようなとんでもなさの中の痛みに正面から向き合っておられる方々が、霧芯館にお越しくださり、KJ法を握りしめて現場を変革してゆこうとしておられます。

 かつては問われなかった問いがどんどん浮上してきていること、概念が深められ、拡げられ、塗り変えられようとしていることを、私はとても頼もしく感じています。

 

 病理の極北まで来なければ見えなかったものが、ようやく心ある人々の目に映り始めている。この流れは、消えない、とおもうのです。

 払った犠牲も測り知れない大きさでしたし、今も払い続けていますが、私たちは独自のくぐり抜け方をしてゆくに違いないとおもわれます。政治や経済の動きに規定され混乱させられているようで、実は逆に、それらを規定し返す力というものが、人々の生活の現場には存在するのであり、実に〈生き難い〉世の中であるからこそ、その〈生き難さ〉へのアプローチも鍛えられてゆくのだと、信じられる気がいたします。

 

 2017年、お一人ずつの生活の中で鍛えられてゆくもの、深まりと広がりを獲得するものへの晴れ晴れとした〈信〉を、心より祈念いたしております。

 

 

 

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2016年を振り返って

  • 2016.12.24 Saturday
  • 16:08

 

 今年も、11日いっぱいいっぱいで生きてきた、という想いがひしひしとこみ上げてくる年の瀬です。

 日々の生活のたいへんさ、慌ただしさを抱えつつも、一年間のこのKJblog2月に開設したブログ「星辰」における記事を見直しますと、ずいぶんとたくさんの表現を公にすることができていて、積み重なったものの重みと手応えをずっしりと感じます。

 試みに、それらの記事からタイトルや単語を適当にピックアップして羅列してみますと、「初対面」「ラビリンス」「縁」「一本の線」「聖の弁証法」「断捨離」「神歌唱」「個」「類」「藤村操世代」等々。

 この一年私がこだわってきたことはどうやら、「新たなお気に入りが一つ増えた」というタイプの出会いではなく、「これ一つあればいい」というものに出会えるかどうかなのだということのようです。

 部屋の「断捨離」をするときも、「神歌唱」に出会ったときも、「一本の線」の記事で述べたように、たった一本の線がすべての線を象徴的に担える、という世界観を握りしめようとしていたようにおもわれます。その世界観があるならば、人はいくつもの選択肢を「断念」することなく、たった一回の人生を「決断」によって雄々しく生きられるような気がいたします。

 ここまで歩いてきた中で、いくつもの大切なものを喪失してきましたが、それでもなお、諦めたり棄てたりといった「断念」によってそのことを彩るのではなく、「決断」によって実は何一つ諦めずに全てを祝福していたいと願っています。

 

 私なりの世界観、私なりの「決断」で生きようとするとき、縁ある方々に支えていただいていることもまた、痛感いたします。

 夏からずっと腰痛で辛い思いをいたしましたが、今年は霧芯館のワークショップに協力してくれるスタッフさんにも新たな若手が増え、参加者のみなさんの熱意にも後押しされ、無事に開催できたことに感謝せずにはいられません。

 また、このブログの文章、写真、そして「星辰」での表現を楽しみにしてくださる方々にも、いつも熱風を送っていただいていると感じております。

 私自身は、自らめらめらと熱い火柱のようなエネルギーを立ち上げてそれを周りに振りまくタイプではないとおもうのですが、読者の方々は、意外にも私の表現から熱や癒しを受け取ってくださるようで、そのことが私の動力源となっているのであり、世界は〈気〉や〈熱〉や〈風〉や〈水〉などが常に流れ巡って成り立つものとの想いをあらたに致します。

 ですので、私にできるささやかな表現を、常に澄んだものとして発したいと、可能な限り澄み切ったものとして発したいと願っています。その〈気〉がどこまで巡り届くのか、それは私の意志などはるかに超えたことでありましょうが、縁ある誰かの真摯な「決断」の支えともなればと想います。

 

 読者のみなさま、どうか良い年の瀬をお迎えください。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ 2016 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.12.11 Sunday
  • 17:58

霧芯館KJ法ワークショップ2016其ノ二

  • 2016.12.10 Saturday
  • 18:48

 さる12月3日、「霧芯館KJ法ワークショップ2016 其ノ二」を開催致しました。(於・京都テルサ)

 年二回開催するワークショップは、夏と冬とで完結する物語です。

 でも、霧芯館での研修を受講済みの方であれば、冬のみのご参加も可能としておりますので、今回もたくさんの方が京都にお集まりくださいまして、KJ法による熱いご交流の機会を楽しまれました。

 

 今年のテーマは、「〈初対面〉のラビリンス」だったのですが、このテーマ設定は、我ながら「神ってる」としか言いようがなく、実に身近で誰でも必ず体験していることでありながら、この〈初対面〉に関する気がかりや事例をラベルとして扱うことで、コミュニケーションや関係性のみならず、世界観にまで関わる奥ゆきのある議論が可能となり、参加者のみなさんの楽しげだったことは今までのワークショップでも随一だったかもしれません。

 初対面から始まる関係性に対して、「逃げられない・避けられない」ことの重みをどのような表現で定着させようか、といった議論、あるいは逆に、関係を続けなくてもよいことの意味をどのように位置づけようか、といった議論。また、良い関係性を構築するために互いの領域を侵さない配慮、逆にいきすぎた配慮や、関係を統御しようとする不自然さへの葛藤にまつわる議論。こういう議論は、日ごろ参加者が、自分に降りかかってくる関係の意味をどのようにとらえ、そのことでより良く生きようとしているか、という人生観・世界観の軸をあからさまにするものであり、たかが〈初対面〉、されど〈初対面〉という感慨を起こさせるものでした。

 

 また今回、ちょっと主催者として一工夫いたしました。夏のワークショップで提示されたラベル達から、私があらかじめピックアップしておいた70枚一覧を、参加者には事前に送信しておいたわけですが、その際、メールには、「ワークショップ当日までこの70枚を繰り返しよく味わっておいてください。今日から1日1回は必ず!」と一言添えておきました。

 開催の一週間ほど前でしたが、たぶん、ほとんどの参加者は律儀に1日1回は目を通してくださったのだとおもいます。

 そのことで、当日の会場への交通機関の中で10回目を通すよりも、はるかにラベルたちの〈志〉が、参加者の内部でふくらみのある発酵の仕方をしていたのではないかと思われます。

〈志〉が明晰にならないラベルたちがたくさん、宙ぶらりんな状態で長い時間を過ごすことは、私たちの無意識にある種の負荷をかけるのですが、そのことで私たちの内部の〈渾沌〉は、なんとかして構造化して本質を明らかにしてほしがってうずうずしていた、そんな状態で誰もがワークショップ当日を迎えてくださったのではないかと推察いたします。

 

 いずれにせよ、今年もすぐれた図解がたくさん生まれましたので、またこれらの図解に解説を加えた「作品・解説集」も、参加者のお手元にお届けする予定でおります。

 

 来年も、良いテーマが降りてきますように。

 

 

 

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紅葉占い

  • 2016.11.27 Sunday
  • 17:33

 KJ法の真髄は、ものごとを象徴的に感受することにありますが、今年の紅葉によって世界をシンボリックに感受するなら、この世界はその表層のいかがわしさにもかかわらず、やはり意味に満ちて澄んでいる。そう感じられる風景を、今回は写真で綴ってみたいとおもいます。

 

 写真は素人なのですが、みなさんから褒められることが多く、そういうときの歓びは、文章に感銘を受けていただいたときにひけをとりません。写真も一つの表現ですので、身体表現として素直に私の写真を気に入ってくださる方々の存在は、文句なくありがたいものにおもわれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界観を着替える

  • 2016.10.30 Sunday
  • 19:07

 最近、少しずつ不用品の断捨離を試みているのですが、さっぱりした本棚、さっぱりした部屋に近づくにつれ、「捨てる」という行為は実は、抽象度の高いビジョンへの決断なのかもしれない、と感じるようになりました。捨てているようで、本当はある一つのビジョンを択びとろうとしている自分がいて、そのことが快感なのだと気づきました。

 

〈渾沌〉の明晰な構造化を導くKJ法もまた、完成した図解によって抽象度の高い風景をもたらしてくれます。

 既成のカテゴリーに仕分けする〈分類〉という行為でもなく、全体を細分化して再構成しようとする〈分析〉という行為でもなく、「渾沌をして語らしめる」という創造的な営みとしてKJ法が機能するためには、私たちは「この世界をどのように感受するのか」という世界観からハラを据えて着替えねばなりません。

 霧芯館の研修では、いわばこの〈世界観の着替え〉によって、得体の知れないラベル達が受講者にとってかけがえのない意味を持つ風景として転生するに至る、濃密な時間を過ごしていただくことになります。

 完成した図解が実現している抽象度というものは、分類や分析による機能的だけれどもよそよそしいシステムを形づくるのではなく、個々のデータの〈土の香り〉を残した、非観念的な象徴性を有するものであり、創案者である川喜田二郎によって人間の野性的な本性として見きわめられた〈個〉と〈全体〉の有機的な感受の能力に基づいて、創造的に発想される〈本質〉というものを、私たちに開示してくれます。

 そこでは、抽象的であるということは、具象的な〈土の香り〉と矛盾するものではないのです。むしろ、抽象度が上がることによってこそ、〈土の香り〉が匂い立つような営みです。

 何十枚、何百枚というラベル群も、10束以内になるまで統合され、その数束は図解上で〈島〉として配置され、各島には〈シンボルマーク〉と呼ばれる概念が与えられます。島同士が関係線で結ばれ、構造が明らかになることで本質を把握できる感動は、根底から〈世界観の着替え〉を行った者でなければ味わえないものです。

 統合が繰り返されて抽象度が高まる時、下位のラベルは決してそのニュアンスを捨てられることなく新たな概念として表現されるべきであり、この方法には、「捨てる」「断念する」といった場面がありません。全体感を背景にしつつシンボリックに個々のラベルを感受して本質を発想することで統合する、そこにこの方法の核心と醍醐味がありますが、〈全体〉の感受も、その本質の感受も、個々人と渾沌とのやりとりの中で多彩な可能性に開かれていながら、ある一つの〈決断〉へと収束します。この方法の〈決断〉という姿勢、〈主体性〉という概念の豊饒さが実現されるべき場面です。

 何一つ切り捨ててはいないし、こちらの〈我〉を働かせてはいないのに、渾沌がクリアな相貌として訪れることの潔さ、とでもいいましょうか。

 

 部屋の、特に本棚の断捨離を進めながらふと、私はこのことで〈欲〉を捨てようとか何かを手放そうなどと思っているのではなく、自分にとってみずみずしい風景、呼吸が楽になる懐かしくも新鮮な風景を獲得したいという〈欲〉に、むしろ激しく衝き動かされているように感じられました。そのような〈欲〉が湧いてくることが我ながら面白く、生活の中にささやかな〈決断〉という節目を意識するのは、それがどれほどささやかなことでも、世界観の確認と深く結びついていることを噛みしめつつ、秋晴れのような潔くて陰影のある風景を日々目指しているところです。

 

 

 

 

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〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

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