霧芯館KJ法ワークショップ2017

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 15:57

 

 去る8月5日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017」を開催いたしました。(於:京都テルサ)

 毎年、一つのテーマをめぐって、夏と冬の年2回のワークショップで、KJ法による問題解決の型を体験していただくのですが、今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」でした。

 このテーマ設定の趣旨は、以下の通りです。

 

今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」。本物かどうか。質が良いかどうか。求めているものかどうか。私たちは情報の海で溺れそうになりながら、あるいは情報が全く得られない時にも、対象の価値について判断を迫られることがしばしばあります。「本物・良質さ・適合性」といったものに辿り着くため、私たちはどのような方法・プロセス・基準・能力を採用し、「偽物・悪質さ・不適合性」と峻別するのでしょうか。上手く見極められた思い出、間違った痛い思い出。譲れないもの、こだわるもの、許せない違い。そういった〈違い〉を意識させられる瞬間について語り合っていただくことで、〈現在〉における価値をめぐる判断の質を問い直してみたいとおもいます。

 

 霧芯館の研修を受講された方とそのお知り合いを対象にしたワークショップ、今年も全国からお越しの多くの参加者によって、「〈違い〉がわかる瞬間」をめぐるディスカッションがチームごとに繰り広げられました。

 

 

「パルス討論」というKJ法の技法を用いて「探検ネット」という図解を作成することで、このテーマをめぐって360度の視角から参加者の想いが提示されるようにします。

 これらが「狭義のKJ法」によって緻密に構造化されるのは冬のワークショップにおいてなのですが、夏はまず、質のバラエティーが豊かに提示されることを目指します。

 今回も、魅力的なラベルをいくつかご紹介しましょう。

 

モノが壊れた瞬間、「これは安物だった」と思う。

危機にあった時も、いつもと変わらない態度をとりつづけられる人に信頼感を持つ。

非言語的コミュニケーションが違いをあぶり出すことがある。

「へ〜〜〜」と思わず声が出る時に本物と感じる。

楽しいと感じるときに、感性が鋭くなる。

ときにはにせものを楽しむこともありだと思う。

文章を読めば、コピペかオリジナルかの違いがわかる。

治療の姿勢で、医師の患者に向き合う姿勢がわかる。

通過儀礼で人が変わることがある。

シンプルな言葉が本物だと思う。

氏より育ち、とよく言われる。

化学調味料が本物を隠す。

添加物なしの自然なものを食べていると、味覚が敏感になる感じがする。

多数のファンが居なくとも、一人でもファンがいれば、本物になれる可能性が有る。

私も、誰か一人でも支持してくれれば、その人にとり本物になれるかもしれない。

飼い猫の態度で、我が家のヒエラルキーがわかる。

違いに気づく前後で世界が違って見える。

こだわりの違いに気づいてくれた時ほど嬉しいことはない。

ゾウキンのしぼり方で、その学生がどのように育ってきたかがわかる。

良いレポートは、読んでいて朱で線を引きたくなる。

電話相談員は、声だけでイタズラかどうかわかることがある。

「本物とわかる」と「ニセモノとわかる」は別々のメカニズムなように思う。

スキな人が言うことは、ニセモノを本物にしてしまう力がある。

ニセモノであることを言明しつづけ、努力している芸人は、本物をこえる。

経験を積むことで、アンテナが鋭くなる場合と、かえって鈍くなる場合がある。

ゴッホの作品を実際に見ると、筆圧や絵の具の厚みが見えて胸にせまってくる。

しゃべりすぎる人は「ホンモノ?」と疑ってしまう。

模写したら〈違い〉がわかる。

あえて知りたくない〈違い〉もある。

一流の人には色気がある。

白か黒か違いを決めつけないで、グレー状態に耐える力が必要だ。

フェイクファーでも着こなしで十分に本物に見える。

利き酒は、最初は分かるが、後半はどうでもよくなる。

愛よりお金、お金より愛、どちらも真実だなと思う。

「最後の1コ」をとるかどうかで人を判断する。

コピー文化が広がるからこそ、本物はわかりやすい。

専門家にしかわからない〈違い〉は尊重すべき。

逃がしてから気づく本物に、自分への失望感を抱く。

自分はあまり違いが分からない、と思うようにしている。

おみこしをかついだ時、リズムが合うと、慣れた人だけなんだーと思える。

本物は人にこびない。

ライブで、後ろのすみっこの席でも、感動をくれるアーティストにひかれる。

デマを拡散しないようにするのは、とてもエネルギーがいる。

人も物もニセモノは飾る。

本物は、普通になじんだ生活をしている。

関心がないと違いにも気づかない。

キラキラし過ぎる石は、逆に、ニセモノかと疑ってしまう。

メッキははがれる。

 

 今年は、単に「こんなことがあった」「こんな想いをもっている」という表現ではなく、ラベルを書くことでまさにその書き手の「価値観」がにじみ出るような、味わいのあるラベルが多かったようにおもいます。

 日ごろ、何を大切にして「択ぶ」「判断する」「決定する」といった事態に直面しているのか、1枚1枚にコクのある重みの手応えが感じられ、どのラベルも表情がしっかりしていました。

 これらのラベルが、参加者の中で渾沌のまま数か月持ちこたえられ、冬のワークショップにおいて構造化されることが実に楽しみです。

 

 みなさん、毎年とても楽しみにご参加くださいますので、私自身、一度でいいから、このワークショップを参加者として楽しんでみたいという気持ちがふつふつと湧いてきました。

 とはいえ、みなさんの楽しさを、会場の空気とラベルから感じ取ることで、私もかなり楽しんでいますので、とにもかくにも贅沢な1日を過ごすことができました。

 本物のKJ法とご参加のみなさまの本物の熱意に深謝。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.08.07 Monday
  • 15:08

刃の奥の光るまで

  • 2017.07.31 Monday
  • 15:09

 連日の猛暑。

 ブログも暑苦しくなく書くことができて、涼しく読んでいただけるのがよいかとおもい、今回はいくつかの夏の俳句、そして季節をちょっと先取りした秋の俳句を楽しんでみたいとおもいます。

 

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり   三橋鷹女

 

「夏痩せ」したことと、「嫌いなものは嫌いだ」という自己主張との「取り合わせ」が張りのある句です。

 俳句における「取り合わせ」は、「つかず離れず」が良いと言われます。つまり、あまりにも露骨な因果関係で密接すぎるのも良くないし、飛躍が大きすぎて、読者に連想を働かせることが出来ないのも良くない。ほどよい異質さが互いを引き立て合うのが良い。(ちょっとKJ法に似ています。近いけれども異質な、いくつかのものを同時に視野におさめると、人は発想しないではいられない、そういう楽しさを、俳句もKJ法も身にまとっています。)

 ですからこの句も、夏痩せしてでも嫌いなものは食べないといった好き嫌いではなく、人生観としての「嫌い」の一徹さを感じ取るのが面白いでしょう。

 夏痩せしているのに、作者の病的な面持ちは想像できず、むしろ背筋のしゃんと伸びた姿が想い浮かびます。

 

 水晶を夜切る谷や時鳥   泉鏡花

 

 水晶で細工物が作られるのでしょうか。「谷」という異空間に隠れ里のような幻想性の響き、しかもわざわざ「夜」切るという営みに、芸術的な孤独さが匂います。明治の文豪が、小説によって〈日常〉の奥にとびっきりの〈非日常〉を紡ぎ出す時空間を生きていた、その息づかいが「時鳥(ほととぎす)」の声と響き合ってしんしんと神秘的です。

 

 刃(は)の奥の光るまで研ぐ夕ひぐらし   上野さち子

 

〈日常〉の料理の道具としての庖丁を、夕暮れに研ぐことで、また次の日の〈日常〉の準備をする。その営みが、「ひぐらし」と取り合わせられることで、〈非日常〉の声を聴く営みに変容します。「刃の奥の光るまで」はつまり、庖丁なら庖丁の真の命、魂、そういうものが光るまで、研ぐ。日常的な営みとは別の場所に非日常があるのではなく、日常に徹することで日常が底光りし始める。それこそが、一如となった真の日常・非日常であり、〈生〉の底光る姿なのだと。鏡花の句と対比すると、対照的でもあり実は連続しているとも感じられて刺激的です。

 

 一条の激しき水や青薄   松本たかし

 

 潔さが魅力的な松本たかしの句です。

 まだ穂の出ない青々とした薄(すすき)は夏の季語。それをひとすじほとばしる激しい水に喩える鮮やかさ。写生が象徴に転じるときの醍醐味をずばりと感じさせてくれます。

 

 真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道   中村草田男

 

「降る雪や明治は遠くなりにけり」で有名な草田男の句ですが、大好きな句の一つです。

 今日では、「白痴」というだけで差別用語だ、などと騒がれそうですが、人々が共同体というものをベースにして生きていた頃の、常人ならざる魂の持ち主への、むしろおおらかな畏怖が感じられ、コスモロジーの広やかさを見せつける句だとおもうのです。

 あるいは、この作者(明治34年生まれ)においても既に、伝統的な共同体のコスモロジーからの乖離があり、その自意識がこういう句を作らせたのかもしれませんが。

 どの道を往こうか。

「秋の道」はもちろん、人生における岐路の象徴でありましょうが、「真直(ます)ぐ往け」と、白痴が指し示す。それを啓示として、おおらかに従う感受性は、私たちのこわばった世界観を解きほぐしてくれます。

 私たちは、岐路に立たされたとき、どんな涼しげな選択が出来るでしょう。

 

 旧暦ではもうすぐ秋。

 涼しげな魂で季節を楽しみたいものです。

 

 

 

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「ギャップ萌え」症候群

  • 2017.06.30 Friday
  • 17:28

「ギャップ萌え」という言葉があるようです。

 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。

 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマンティシズム等々がキャラとして設定・演出されたり、人間関係の中で垣間見られることで、「かわいい〜」「萌え」「きゅん死」をそそるというわけです。

 確かに上手く表現されればこれらのギャップの意外性は、「キャラが立つ」し、ドラマも盛り上がるし、現実の人間関係においても花も実ももたらすかもしれません。

 

 そういえば、とわが身を振り返ってみると、私自身も幼い頃から立派な「ギャップ萌え」症候群であったと、ふと気がつきました。

 

 以前も紹介しましたが、「少年少女世界の名作文学」というシリーズに読みふけっていた頃のお気に入りは、『赤毛のアン』や『スペードの女王』、『秘密の花園』、冒険活劇では『怪傑ゾロ』「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、『巌窟王』等々。

 大貴族の腰抜けのどら息子、と周囲にも婚約者にも見せかけておいて、仮面をつけた「怪傑ゾロ」が胸のすくような勧善懲悪をやってのけるとか。

 アルセーヌ・ルパンがガニマール警部を手玉にとって秘宝を盗み出しながら、人殺しはせず女には優しい、とか。

『巌窟王(つまり、モンテ・クリスト伯)』の主人公が、無実の罪に陥れられて15年間も牢獄で暮らしながら、同じ牢に居た老司祭から知識と教養と宝のありかを授かり、脱獄後は別人となってかつての仇に復讐を果たしてゆくとか。

『赤毛のアン』のように、ファンタジー体質の主人公が、融通のきかないリアリストたちとの葛藤の中で、リアリストの内に秘められていた意外な衝迫や情愛を引きずり出すとか。

『秘密の花園』で、甘やかされて神経質でわがままで心身ともにこの上なく不健康だった孤児の少女が、ひきとられたお屋敷の「花園」を復活させる秘密を味わうことで、自分と周囲を蘇生させてゆくとか。

『スペードの女王』のように、現実を野心的にのし上がろうとしていた青年が、賭け事の魔力に翻弄されて身を滅ぼすとか。

 

 どうやら幼い頃から、「ギャップ」によって際立つ存在の意外性、人の想定外の振幅が浮上する面白さ・怖さというものに惹きつけられていたようです。つまり、実に立派な「ギャップ萌え」症候群であったと言えそうです。

 今もその症状は相変わらず。

「ギャップ」によって顕わになる人や世界の表情に触れることで、生きる活力が湧いてくると言ってもいいくらいです。

 なにしろKJ法も、異質な(つまりギャップのある)データを統合し、それらの本質に迫ってゆく方法ですし。完成したKJ法図解を見れば、自分や他者の想いもかけない発想や感受性や存在感に出会える、貴重な方法です。ありがたいことに、仕事もまた「ギャップ萌え」症候群の私にとってうってつけだったりするので、「萌え」の種にはこと欠かない生活であるかもしれません。

 

 昨今、このような「ギャップ萌え」に人々が意識的・自覚的になっているというのは、ある意味、人物像や関係における平板さへの抵抗、とも言えましょうが、少々不自然なものも感じないではいられません。

 ドラマのキャラ設定においても、ことさらなギャップの作り込みは、かえって説得力を失くし、ただ「狙っているだけ」という印象を与えるばかりでわびしいもの。

 現実の恋愛においてもわざとギャップを見せるといった計算は、なにやら小賢しい不自然なテクニックと思われます。

 メディアで露出された芸能人の日常に人々が過剰に群がるのも、無性にギャップに渇くせいでしょうか。

 

 平板な世界や平板な人物像が嫌、何かを取り戻したい、そういう気持ちがせり上がるのは無理からぬものがありますが、こまごまとその渇きを癒やすためにむやみに散らかっている「ギャップ」とそれに対する「萌え」には、奇妙に「安心したがっている」においがします。

 つまり、本来の世界の振幅の巨大さを恐れるあまり、日々、微細な「ギャップ萌え」で渇望をこまめに処理しておかないと危ないのではないか、と怖れているようにも見えます。

 そして、日常に豊かに潜んでいる「ギャップ」からは、かえって目をそらしているのではないか、ともおもわれます。

 日々、見慣れた風景や関係の中にも、壮大な「ギャップ」は潜んでいて、私たちに世界の振幅の大きさをきちんと伝えてくれているはずだとおもうのですが、そういう日常から目をそらし、現状を脅かす得体の知れない非日常からも目をそらし、浮足立った「萌え」だけが蔓延しているようにもおもわれます。

 

 表現においても生活においても、なにかしら本来の「幅」を失くしてうろたえているような。

 ここに足を踏んばればいい跳躍ができる、といった拠り所を失くしているような。

 この幅の中でだけ「ギャップ萌え」してね、と何かから強制されてでもいるような。

 なによりも、自分の内から失われた「ギャップ」を、ことさら外部に求めて痙攣的な刺激を消費・享受しようとしているような。

「ギャップ」を成り立たしめている不可知の渾沌にはフタをすることで、「ギャップ」によって世界をかえって狭く規定し直しているような。

 

 ただ分極しているだけ、ただ散らかっているだけ、といった「ギャップ」の深まらなさを超えて、蘇生した世界を見ることができれば、その世界の変容ぶりにはさぞ「萌え」ることだろうとおもわれます。

 

 

 

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「霧芯館 KJ法ワークショップ2016 作品・解説集」完成

  • 2017.05.28 Sunday
  • 12:40

 昨年開催致しました「霧芯館 KJ法ワークショップ 2016」の「作品・解説集」が完成の運びとなり、参加者のみなさまに成果をお届けすることができました。

 毎年、一つのテーマをめぐって「パルス討論」による「探検ネット」の作成、「多段ピックアップ」を経て「狭義のKJ法」という一連のグループ作業を行ない、夏と冬の二回で完結する物語を体験していただいています。

 2016年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」でした。

 ワークショップで完成された図解、スタッフや私自身の個人作品も含めて、このテーマをめぐって提示されたラベルたちがKJ法図解となった成果を、丁寧に解説した冊子です。

 

 

 このテーマはとても評判が良かったという印象があります。

 誰もが毎日のように体験する〈初対面〉。それにまつわるきわめて具体的でささやかな事例や想いが提示しやすく、それらがKJ法図解として構造化されたときに、「抽象度が上がる」「本質が追求される」とはどういうことなのか、極めてわかりやすい。

 KJ法が具体性からどれほど魅力的に発想できる方法なのか、実に鮮やかに確認できるテーマであったとおもわれます。

 

 毎年のことですが、同じラベルを共有していながら、チームごとに異質な図解が出来上がるのも刺激的です。

 今回は、どのチームの図解にも、私たちの〈関係〉や〈世界観〉に対して〈圧〉をかけてくる「規定力」が浮上しており、「社会」「因縁」「宿命」「自意識」「我執」といったバラエティーでその「規定力」の質が把握され、どのようにそれを超えてゆくのか、各チームの個性が図解ににじみ出ておりました。

〈初対面〉において意識的・無意識的に駆使されている技や配慮や身構えの中に、実はこの世界をどのようなものと認識し、それに対していかに闘って超えるべきだと考えているのかという叡智が潜んでおり、KJ法によるダイナミックな構造化の成果が一望できました。

 誰もが何らかの「規定力」の〈圧〉を感じ、それを「怖い」と感じつつ、「自然でありたい」「自由でありたい」「良き物語を紡ぎたい」と祈りながら日々の生活において磨かれてゆくものがある。そんな手応えを、霧芯館のワークショップ参加者によって象徴的に担われた〈現在〉の手応えとして感受できたことが、とても幸せなこととおもわれました。

 

 また、毎年このワークショップ開催を待ち望んでくださっている参加者のみなさまのお気持ちにも勇気づけられます。

 案内状の送信を今か今かとお待ちいただいていたり、日程確定を待ちきれずに飛行機や宿泊先の手配をするという博奕(しかも負けない!)をなさる方もおられて、こちらもうれしいやらはらはらするやら。

 このような幸せな場の提供は、私一人では出来ないことで、支えてくれるスタッフや、新たな参加者をも和やかにリードできるベテラン受講者の存在や、現場を闘っておられる方々の熱い想いがあればこそであり、そこに創案者・川喜田二郎のこの方法に込めた思想が、ご縁のある人々の集う場に寄り添って、方法の〈花〉を咲かせていることを感じます。

 

 今回も、入魂の批評・解説に多大なエネルギーを駆使致しましたが、今一度〈花〉の美しさを参加された方々と共に味わい直すことができて、充実した安堵感に浸っております。

 

 

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〈想い〉はどこにあるのか

  • 2017.04.29 Saturday
  • 16:09

「現場がKJ法で変わってきています。」

「職員の今までの思い込みが払拭されて、利用者さんの立場に立つってどういうことか、みんな考え始めました。」

「研究発表しますと、KJ法で構造化されると患者さんの想いがよくわかる、と、私たち看護師仲間の評判がいいです。」

「KJ法で図解にされて初めて、自分達の現場の状況がどういうことになっているのかわかりました。」

「とてもまとまらないだろうと思っていたのに、合意形成できました。」等々、嬉しいご感想を受講者からいただくことがあります。やはりKJ法が現場できちんと活かされているというお話に、なによりこちらも勇気づけられます。

 

 では、KJ法で構造化されなければ、何がそんなに困難なのでしょうか。

 

 自分達が生身で触れている現場であるはずなのに、顧客や利用者や患者や自分達自身の〈想い〉に誰よりも詳しいはずの方々なのに、その〈想い〉をもてあましているのはなぜでしょうか。

〈量〉では測れない〈想い〉、つまり〈質〉を相手にしている。

 そして、その〈質〉が雑多で混沌としている。

 KJ法に辿り着かれる方は、概ねご自身のフィールドに対して、この二つのハードルを越えたいと望まれるのですが、この二つは、結局一つの本質的なハードルを指し示しているとおもわれます。

 つまり、〈量〉ではなく〈質〉でフィールドを把握したいと望んでも、〈質〉を〈量〉に換算する目線から逃がれられない、というハードルです。

 いろいろな〈質〉のバラエティーが目の前に整理された状態を生み出すだけなら、ただのブレーンストーミングでも可能でしょう。

 では、それらの〈質〉のバラエティーの、どれが一番多くの顧客や利用者の想いなのか、といった具合に、結局は多数決に持ち込む発想から逃がれられない。最も多くの数が集中している〈質〉を原因であるとか本質であるとか決めつけることで、結局は〈全体〉を把握しそこなってしまう。何かを切り捨て、犠牲にしている感覚に、釈然としない気持ちになる。誰かのニーズに合わせることが、他の誰かのニーズを殺してしまう。

 しかし、現場の方々は、ご自身が触れた、患者さんや顧客のふとした一言が生々しく気になって仕方がないのです。ここで殺された〈想い〉をそのままにして、組織は、現場は、果たしてほんとうの意味で生きのびられるのだろうか、と。

 パソコンソフトでグラフにされた結果からはこぼれ落ちてしまう、しかし、その一言こそが現場の状況のゆるがせにできない何かを表現していると思われてならない。

 そんな感受性が活かされるためには、やはりKJ法によって、データを「シンボリックに感受」しながら〈全体〉の訴えかけを構造化し、その本質把握への道筋を見出すしかないのであり、〈質〉を〈量〉に換算することなく、むしろ〈量〉も〈質〉へと転換して感受し、すべての〈質〉を一つの〈本質〉へと転換する必要が生じてきます。

 そのようにして把握された〈本質〉から解決策を見出してゆくのでなければ、いびつな〈全体〉観に規定された恣意的な〈原因〉探索に導かれて、方向性は歪むばかりです。

 

 一方でまた、〈質〉の扱いにも困惑がつきまといます。

 現場に生きていれば、具体的な〈質〉のバラエティーなら日々いくらでも目にするわけですが、それらはあくまで「今日はAさんがこう言った。」「今日はBさんがこんな希望を口にされた。」といった具体性にとどまります。何か大切な訴えかけが潜んでいる、とその場で感じてはいても、「高齢者は」「消費者は」「患者は」「利用者は」といった抽象度において、それらが何を訴えかけているのか、多忙な現場で明らかにしてゆくのは至難のわざです。

 そこでも、適切な〈抽象〉という行為によって、個々の具体性の「土の香り」を残しながら統合し、構造化へと導けるのは、正しいKJ法の世界観と方法論があればこそであり、ちょっと意識がゆるめば、それらの〈抽象〉もまた、ずさんな「観念化」へと滑りこみ、ただの分類へと堕してしまいます。

 

 あるいは、「Aさんがこう言った」という一つのデータに対して、全体を無視した感情移入を野放しにすることも、本質把握をいびつなものにします。観念的な使命感や、個人的なトラウマや実体験との接点から、誰か一人の発言への思い入れが強くなってしまうといった場合です。個々の語りに対して、放恣な解釈や想像力をはばたかせるのではなく、〈全体〉を背景としてどのような〈質〉の訴えかけを持つのかについての、適切な感受が必要です。

 

 このように、〈量〉へのとらわれを脱していても、〈質〉を個人的な思い入れや観念的な分類へと回収する目線から脱することがまた、困難になっているのです。

 

〈質〉にこだわるということは、単に〈量〉で測れないものに根拠を求めるというだけではなく、〈全体〉を、この世界を、どのように把握するのかという〈世界観〉を立て直すハードルに直面するということです。そのハードルを見ないことにしてやり過ごしながら対症療法的な手立てへと駆り立てられるだけでは、とても対処できない状況というものが、〈現在〉を覆い尽くし、いずれの現場も混迷を深めています。だからこそ、変わり始めてもいるようです。

 

 既成の世界観によっては決して手に入れることのできない羅針盤というものがあります。現場の底から浮かび上がる羅針盤です。

〈想い〉は、いたるところで生かされる機縁を待ち望んでいるようです。

 

 

 

 

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無駄に使うな、贅沢に使え。

  • 2017.03.31 Friday
  • 15:31

 ずいぶん前のことですが、バイオリン作りの職人さんが、「木は、無駄に使うな、贅沢に使え。」と語っておられる記事を読んだことがあります。

 これは、素材としての木の、良い部分を効果的に使ってバイオリンにする、といった平板な意味ではなかろうとおもわれます。

 木には木としての命があり、その全体を生きています。その「部分」が使われてバイオリンとなるはずですが、使われない部分ははたしてただ廃棄されるだけなのでしょうか?

 私には、木が「ここを使ってくれ」と訴えかけてくる、そこを使うことが、木を全て使うのと同じ「贅沢」となる、そういう意味をもつ言葉と感じられます。それは、「評価」によって「良い部分」「悪い部分」を取捨選択する行為ではなく、「ここを使ってくれたら私の命はまるごと生きる」という木の訴えかけに従う行為なのだと。

 そして木がバイオリンとなった時には、そのバイオリンにもバイオリンとしての命が生まれます。それは木であったときの命と同じものではありませんが、バイオリンは、木の命を受け継ぎながら、新たな命として贅沢に転生し得るのだと。

 ものごとを「生かす」ことを考えるたび、いつもこの言葉が思い出されてなりません。

 

 KJ法において、この言葉が最も鮮やかに想起されるのは、「多段ピックアップ」という技法を駆使する時です。

 現場から取材されたデータが、ラベルに記入された結果大量枚数となった場合、KJ法ではそれらのラベル全てを使って「狭義のKJ法」の作業によって構造化することももちろん可能ですが、「探検ネット」上に配置された大量ラベルに対して「多段ピックアップ」という技法でラベルを精選し、その精選されたラベルを構造化することもできます。

 その結果は、全ラベルを用いたのに匹敵する、場合によってはそれを超える精度で優れた構造化や本質の浮上が可能となります。

 なぜそのようなことが可能なのかと言えば、たとえば200枚のラベルから、50枚のラベルを「多段ピックアップ」するという場合、200枚から150枚が棄てられたわけではなく、ピックアップされた50枚によって200枚全てを象徴的に感受しているのであり、いわば200−150の50枚ではなく、50=200であるような50枚だということなのです。

「なんだか気にかかる」という基準でピックアップするという行為は、評価目線によって「良し悪し」を決めつけるのではなく、無意識領域をも駆使した、全体感と個々のラベルの〈志〉の感受なのであり、既成概念や仮説にとって適合的か否かのチェックなどではありません。

 KJ法においては、「全体は個の総和ではない」のであり、ここでピックアップされた50枚も、すでに200枚という全体をシンボリックに背負っておりますし、これら50枚が「狭義のKJ法」で構造化されるならば、さらに個々のラベルの象徴的な意味は深く定まり、「土の香り」を残した抽象によって本質が浮上することとなります。

 

 この時、ラベル達は、無駄に使われることなく、非常に贅沢に使われた木として、優れたバイオリンのように生まれかわるのだと言えましょう。

 そこでは数の多さが確からしさを保証するのではなく、質のバラエティーの確保された〈全体〉を背景として、たった一枚のラベルでもシンボリックな〈志〉を獲得し、ダイナミックな発想に開かれた存在感を主張し始めます。

 出来ばえのよいKJ法図解を味わうとき、とても贅沢な気持ちになるのは、ラベルという〈個〉とラベル群という〈全体〉との間に、人の「象徴的感受」という心の働きを通して顕現するコスモロジーが有機的に息づくからだとおもわれます。

 

 おもえば、私たちも限られた時空間を生きております。

 自分という〈個〉が、何を〈全体〉として象徴的な存在たり得るのか。

〈木〉の訴えかけを損ねることなく、〈バイオリン〉としての可能性を生きられているのかどうか。

 そんなことを考えてみるのは、必要な贅沢とおもわれます。

 

 近頃よく、「スペック」という言葉が人について使われるのを目にします。そもそも「仕様」「性能」といった意味ですが、自身の履歴や他者の存在への評価として、「私のスペックはざっとこんな感じ。」とか、「A子の方がB子よりスペックが上。」「ハイスペック男子」などと使われているようです。

 目にするたび、なんとも言いようのないわびしい苦々しい痛ましさを感じます。

 ハイスペックであることで商品価値が高まる、そういう社会の目線に対応して適正に自己評価できるくらい大人である、との自負は、そういう価値尺度をもつ社会への毒念と、己れの更新のきかない「スペック」を見切る自嘲の念とに両足を踏みしめて、ぱさついたライフイメージをシビアに想定しようとしています。そして「スペック」という尺度によって存在が規定し切られた世界観が強固に彼らを抑えつけていることの不気味なほどの圧迫感がにじみ出ています。

「スペック」では見切れない世界の存在をどこかで感じているからこそ、「スペック」による自己評価に固執している、その痛みの自己主張でもあるのでしょうが、そこには〈木〉が〈バイオリン〉に転生する契機をあえて拒否した、己れの憎む社会の在り様への過剰適応の姿が垣間見られるようにおもいます。

 

 霧芯館には、80歳を超えた方が研修を受講しに来られることもあれば、大学生が自身の将来のために、自分でものを考え、問題を解決してゆくよすがにと、受講しに来られることもあります。

 概ね、世代が下がるにつれて、感受性がほっそりとしてゆき、世界観が痩せてゆくのを感じないわけにはいきませんが、それでも時折、びっくりするような深みのある内省力を若者に感じて驚嘆することもあります。

 そういう若者からは必ず、自分の限られた時空間を〈全体〉として、「無駄に使うな、贅沢に使え。」という言葉に相当するような内省力を働かせているという印象を受けます。〈木〉としての己れの深奥の訴えかけを、どうすれば〈バイオリン〉として生かせるのか、聴き取ろうとしている。

 うら若い身で、経験も見聞もさしてまだ広くはないはずですが、ささやかでも己れの世界と己れとの緊密な関係の意義へのあさはかでない洞察を、その作品から感じることができ、救われる気がいたします。

 

 咲き誇る花々を、今年は贅沢に味わってみたいとおもいます。

 

 

 

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〈出逢い直し〉のラビリンス

  • 2017.02.23 Thursday
  • 17:50

 この冬は、ツグミにとてもよく出逢います。

 このツグミには宝ヶ池の梅園で出逢ったのですが、斜め上方へ投げた遠い目と、ややナルシシスティックな立ち姿に、ユーモラスなケレン味を感じてうっとりしてしまいます。

 

 

 ほんとうは、昨年までも身近にたくさん居たのかもしれませんが、昨冬初めてツグミを識別できるようになったので、この冬はしばしば視野に入ってきます。

 見慣れてくると、視野のすみっこでかすかに跳び跳ねる気配がするだけでも、ムクドリでもないし、スズメでもないし、ツグミなのだと気がつくようになりました。ツグミならではのまるまるころころした重量感とリズム、独特の声の艶にも敏感になってきました。

 この冬の私の風景を豊かにしてくれた立役者です。

 

 出逢うというのは、初めてのようで実は初めてではない、という感慨を、この頃よく抱きます。

 初対面だと思っていても、実は私たちの認識を超えたところで出逢った記憶を持ちながら、出逢い直しをしているのだ、という感慨です。

 だから、私がツグミという野鳥の姿に「萌え」てしまうのも、昨冬初めて出逢った時に、出逢い直しをしたせいかと思うのです。

 新鮮だけどとても懐かしい。

 感動を伴う出逢いにおいては、いつも個人史の枠組みや個体の輪郭を超えたところで「既に知っている」という感触に包まれるのを、私はどうすることも出来ませんし、日常的に目にする風景や光や風や水面のざわめきにも、時には誰か懐かしい人の気配が融け込んでいるように感じることもあります。「今、そばに居るな。」といった感触です。

 

 大学での教え子のTさんから以前いただいたメールの中に、印象深いフレーズがありました。

「本当のほんとうは、人は完全に悟っているんだけど、わざとそれらを忘れて、自分の欲しい分量ずつ、思い出しているんじゃないかな、とも想います。」

「本当のほんとうは」「完全に」「わざと」「自分の欲しい分量ずつ」といった修飾語の緻密さが味わい深くて、丁寧に吟味せずにはいられないフレーズです。

 私たちは、この人生で少なからず迷走しますし、少しでも幸せになろうとするなら、試行錯誤しつつ修行を重ねに重ねて、確信は持てないけれども良き方であろうと信ずる方へ進もうと悪戦苦闘するものですが、彼女のこの言葉によるならば、私たちの迷いの姿は表層にすぎなくて、「本当のほんとうは」既に悟っている、それも「完全に」悟っているのだということになります。それなのに、「わざと」その悟りを忘れて、「自分の欲しい分量ずつ」思い出しながら生きているのだと。

 なかなか人生とは面倒なものです。面倒だけれども、今のところ出逢えている自分は本来の自分の氷山の一角に過ぎないのであり、まだまだ思い出していない自分が測り知れないほどあるのだと想うことは、己れにしがらんでいる意識の拘束がふいっとほどけるようで晴れ晴れ致します。

 

「悟り」とは、完全な、あるいは本来の、自分との出逢いであるとするならば、私たちはそれと正しく「出逢い直す」ために、一度わざと全て忘れなければならないのかもしれません。

 この人生の意味は、その「出逢い直し」の道程の豊かさにかかっているのだとすれば、道程を豊かにするために、意識と無意識を総動員し、内省力の限りを尽くして、「自分の欲しい分量ずつ」適切に思い出しながらより完全な「出逢い直し」へと近づいてゆく必要がある。

 時には、適切に「思い出さない」能力も駆使する場合だってあるのかもしれません。これ以上他者や自分の〈闇〉を見てしまうと自分の中の何かが危なくなる、と感じたら、人は全速力でそこから遠ざかることで「出逢い直し」を回避する場合もあります。人によっては、危険と感じてかえって深みにはまってゆく場合もあるでしょう。

 

 人それぞれの本能や叡智で、「自分の欲しい分量」の適切さを測りながら生きることになるのだとおもいますが、私はそのような「思い出し」にかけては貪欲なのかもしれません。初めて出逢った人や風景に、心の中で「よっ、久しぶり」と声をかけていることが多いと感じます。

 だからといって迷走しないというわけではないので、これからもまだまだ遠い本来の自分に、より深く豊かに出逢えるよう、精進して歩んでまいりたいとおもいます。

 

 

 

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〈生き難さ〉へのアプローチ

  • 2017.01.30 Monday
  • 15:09

 これまで、KJ法を伝える仕事を通して、実に多彩な現場の方々と出会ってきました。

 そのことで、間接的ながら現在の多彩な〈生き難さ〉というものを垣間見ている気がいたします。

 最近、そのような〈生き難さ〉へのアプローチが、いろいろな現場において変容しつつあるという感触を抱きます。

 

 「病気」ではなく「人」を診るのはもちろんのこと、「人」の背景や歴史や家族や地域といったものまで含めて「診る」ことの重要性。

 身体的・精神的・社会的な「健康」だけでは不十分であり、霊的(スピリチュアル)な領域まで含めて「健康」の意味を考えることの重要性。

 当事者の意識だけではなく、当事者にも隠された無意識の領域における、痛み・苦しみ・強みを浮上させることの意義。

 「協働」のプロセスによって発生する不可知のドラマに賭ける治癒・治療行為。

 速さだけを求めず、時間をかけることでしか得られない効果への期待。

 当事者の目線に立っているという「思い込み」を払拭する試み。

 社会によって「望ませられている」意識の底から真の望みを掬い上げる挑戦。

 

 目に見えるものと不可分に存在する目に見えないものの価値と意義に対してアプローチしてゆかなければ、何も変わらないということに、あらゆる現場がハラをくくり始めたといった印象です。果敢な挑戦が日々、繰り広げられていることに感銘を受けます。

 問題解決においても、質的研究においても、今まで当たり前に共有されていた概念の輪郭を問い直していることが伝わってきます。

 

 医療とは、看護とは、健康とは、幸福とは。

 自立とは、尊厳とは、関係とは、他者とは。

 労働とは、身体とは、社会とは、家族とは。

 効果とは、癒しとは、治るとは、望むとは。

 連携とは、共有とは、痛みとは、悲しみとは。

 強みとは、成長とは、成果とは、老いるとは。

 教えるとは、支援するとは、共感するとは、聴き取るとは。

 個人とは、集団とは、生まれるとは、死ぬとは。

 

 観念的にこれらの概念を共有しているだけでは、現場は疲弊・荒廃する一方であり、現実にあまたの手痛い代償を支払って、厳しい痛みの側から、概念を塗り変える模索が始まっているのだと感じられます。

 

 高齢化社会、荒廃する地域、看護と介護の亀裂、世代間の亀裂、教育現場の疲弊、崩壊した家族、追い詰められる死生観、心の病理の測り知れない蔓延。

 

 娘(看護学生)の看護実習に付き添うのみならず、娘に代わって清拭ケアをしますと申し出る母親。

 認知症患者であふれる病棟。

 燃え尽きる介護職員。

 受け皿がなく自宅に帰れない高齢入院患者。

 親のための会社説明会を実施する企業。

 障害児を先に看取ってから逝く覚悟を定める両親。

 地域や社会の目に苦しむ障害者。

 老老介護の綱渡り。

 うつ病や自殺や家族の喪失。

 育たない若手に苦悩する企業。

 見えない測れないニーズ。

 社会から忘れられてゆく痛み。

 

 列挙すると実に暗い時代、とんでもないことが起こっている時代、と思われますが、このようなとんでもなさの中の痛みに正面から向き合っておられる方々が、霧芯館にお越しくださり、KJ法を握りしめて現場を変革してゆこうとしておられます。

 かつては問われなかった問いがどんどん浮上してきていること、概念が深められ、拡げられ、塗り変えられようとしていることを、私はとても頼もしく感じています。

 

 病理の極北まで来なければ見えなかったものが、ようやく心ある人々の目に映り始めている。この流れは、消えない、とおもうのです。

 払った犠牲も測り知れない大きさでしたし、今も払い続けていますが、私たちは独自のくぐり抜け方をしてゆくに違いないとおもわれます。政治や経済の動きに規定され混乱させられているようで、実は逆に、それらを規定し返す力というものが、人々の生活の現場には存在するのであり、実に〈生き難い〉世の中であるからこそ、その〈生き難さ〉へのアプローチも鍛えられてゆくのだと、信じられる気がいたします。

 

 2017年、お一人ずつの生活の中で鍛えられてゆくもの、深まりと広がりを獲得するものへの晴れ晴れとした〈信〉を、心より祈念いたしております。

 

 

 

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2016年を振り返って

  • 2016.12.24 Saturday
  • 16:08

 

 今年も、11日いっぱいいっぱいで生きてきた、という想いがひしひしとこみ上げてくる年の瀬です。

 日々の生活のたいへんさ、慌ただしさを抱えつつも、一年間のこのKJblog2月に開設したブログ「星辰」における記事を見直しますと、ずいぶんとたくさんの表現を公にすることができていて、積み重なったものの重みと手応えをずっしりと感じます。

 試みに、それらの記事からタイトルや単語を適当にピックアップして羅列してみますと、「初対面」「ラビリンス」「縁」「一本の線」「聖の弁証法」「断捨離」「神歌唱」「個」「類」「藤村操世代」等々。

 この一年私がこだわってきたことはどうやら、「新たなお気に入りが一つ増えた」というタイプの出会いではなく、「これ一つあればいい」というものに出会えるかどうかなのだということのようです。

 部屋の「断捨離」をするときも、「神歌唱」に出会ったときも、「一本の線」の記事で述べたように、たった一本の線がすべての線を象徴的に担える、という世界観を握りしめようとしていたようにおもわれます。その世界観があるならば、人はいくつもの選択肢を「断念」することなく、たった一回の人生を「決断」によって雄々しく生きられるような気がいたします。

 ここまで歩いてきた中で、いくつもの大切なものを喪失してきましたが、それでもなお、諦めたり棄てたりといった「断念」によってそのことを彩るのではなく、「決断」によって実は何一つ諦めずに全てを祝福していたいと願っています。

 

 私なりの世界観、私なりの「決断」で生きようとするとき、縁ある方々に支えていただいていることもまた、痛感いたします。

 夏からずっと腰痛で辛い思いをいたしましたが、今年は霧芯館のワークショップに協力してくれるスタッフさんにも新たな若手が増え、参加者のみなさんの熱意にも後押しされ、無事に開催できたことに感謝せずにはいられません。

 また、このブログの文章、写真、そして「星辰」での表現を楽しみにしてくださる方々にも、いつも熱風を送っていただいていると感じております。

 私自身は、自らめらめらと熱い火柱のようなエネルギーを立ち上げてそれを周りに振りまくタイプではないとおもうのですが、読者の方々は、意外にも私の表現から熱や癒しを受け取ってくださるようで、そのことが私の動力源となっているのであり、世界は〈気〉や〈熱〉や〈風〉や〈水〉などが常に流れ巡って成り立つものとの想いをあらたに致します。

 ですので、私にできるささやかな表現を、常に澄んだものとして発したいと、可能な限り澄み切ったものとして発したいと願っています。その〈気〉がどこまで巡り届くのか、それは私の意志などはるかに超えたことでありましょうが、縁ある誰かの真摯な「決断」の支えともなればと想います。

 

 読者のみなさま、どうか良い年の瀬をお迎えください。

 

 

 

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