〈気〉とのお付き合い

  • 2019.04.14 Sunday
  • 16:06

 今年の鶯は、霧芯館のすぐそばに来て美声を響かせてくれています。

 年によっては、近くの里山の木々の中から出てきてくれなかったり、うまく鳴けないで「練習中」のままひと夏を過ごしてしまったりするのですが、今年は折々、間近な声を聞くことができてうっとりします。この辺りの〈気〉が良いのだろう、と、ほっとした想いもいたします。

 

〈気持ち〉と言いますと、自分の中に湧く感情のことで、それをどうこうするのは難しいと感じますが、〈気〉の持ちよう、と言ったとたん、感情とは別の、自分の内と外を出入りするなにものかとのお付き合いが視野に入ってまいります。

「運気を上げる」「気合で勝つ」「気おくれ」「気配り」「元気」「気づき」「殺気」「気風」「気位が高い」「和気藹々」「気高さ」「香気」「気性」「血気にはやる」「気配」「雰囲気」等々、挙げればきりのないほど、私たちは〈気〉とお付き合いをしているわけです。

 人と対面するときも、相手の〈気〉というもののニュアンスを、私たちは感じ取ったり、推し測ったりしています。初めての町や集団に接するときもそうですし、慣れた場所の〈気〉の変化を察知したりもしています。動物や植物に対しても、自然の風景に対しても、合理的なチェックポイントを踏まえつつも、総体として〈気〉がどういう状態なのか、こちらに対してどんなメッセージを発しているのか、察知しながら生きています。察知するだけではなく、〈気〉のやり取りも実は、頻繁に行なっています。当たり前のように「元気をもらいました」などと使うように。

 

 おそらく鶯は、〈気〉の察知において、かなり繊細なのでしょう。

 今年の美声の若々しい艶からは、彼の察知した世界の〈気〉の、初々しさ、華やかさ、無邪気さ、よい意味での貪欲さ、のようなものが伝わってきます。

 

 私の撮影した写真からも、この春の〈気〉のあり様をみずみずしく感じ取っていただけるなら、なによりの歓びです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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無意識の春支度

  • 2019.03.22 Friday
  • 20:47

 

〈穢れ〉とは、実は〈ハレ〉の対立概念であるところの〈ケ〉が枯れた状態なのだ、という説があるそうです。

〈ハレ〉は非日常、〈ケ〉は日常。そうしますと、〈穢れ〉とは「〈ケ〉枯れ」、すなわち、日常生活を営むエネルギーが枯渇した状態である、ということでしょうか。

 

 前近代の土俗的な共同体では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスを保つためのシステムが機能しておりましたから、祭りによって日常の秩序をひとたび混沌へ叩き込むならば、共同体の成員一人ひとりの生活と無意識の隅々にまで、類的・宇宙的な一体感が注ぎ込まれ、今一度〈ケ〉の時間に戻ったとしても、そのまどろむような日々のサイクルと秩序の内には〈ハレ〉の雫がゆきわたっていて、聖なるものに意味づけられたエネルギーがしっかりと賦活されたことでしょう。

 

 土俗共同体の解体によって近代的な個人が単体として析出されてしまっている現在では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスやサイクルを生み出すのは、個々人の甲斐性に委ねられてしまうこととなります。

 家族とでもなく、職場の人間関係とでもない、一過性の祝祭的な交感を求めて、ハロウィンの渋谷でカオスに浸ろうとする若者たちは、どれほど深刻に〈ケ〉が枯渇した状態にあるのでしょうか。

 他者も自分の人生も一瞬にして破壊してしまうような粗暴な犯罪の突発性や、一人ひとりの〈生〉の重みへの想像力や職業倫理の欠落した組織・個人のふるまいに、冷え冷えと投げやりなニヒリズムが見え隠れするのを感じるたび、血の凍る思いがいたしますが、そこには、表層的で息苦しい秩序と無機的な世界風景にただただ疲弊させられた〈ケ〉の姿が垣間見えます。

 全体を喪失した断片としての生存感覚へと追い込む強迫的な情報や商品の氾濫によって、身体や関係の生きた手触りを抹殺された日常、まさに「〈ケ〉枯れ」の病症が蔓延しているようにおもわれ、その蔓延の感触には、古来、〈穢れ〉の感染力が恐れられたことを想起させるものがあります。

〈ハレ〉と〈ケ〉によって成り立つ、本来的な振幅をもって〈ケ〉が賦活されていないことで、〈日常〉は、極限まで矮小化された概念となって、人々の無意識をただただ拘束し、消耗させ、姿のはっきりしないストレスだけが充満する時空間となってしまっているようです。突出した〈ハレ〉の時間も、〈ケ〉の意味づけへと循環することのない一過性の暴発として希求されるならば、私たちの身体も、関係も、いつまでも空虚なまま刺激のギアをひたすら上げてゆこうとするでしょう。

 

 この事態は両義的で、これからも〈ケ〉の枯渇によって蓄積されたストレスの暴発が、個人を、社会を、傷つけ続けるかもしれませんが、一方で、〈ケ〉の枯渇に耐え切れないからこそ、これまでの血縁にも地縁にも職場の人間関係にも縛られない、新たな関係へと自らを開いて人生を意味づけてゆこうとする人々も増えてゆくでしょう。一過性で求めたつもりの〈ハレ〉のエネルギーが溢れて〈ケ〉へと注ぎ込まれ、〈意味〉の手触りに目覚めることもあるでしょう。そのことが、病んだ〈ケ〉を一掃するパワーとなって〈生〉を本質的に更新することも可能でしょう。自身と類的・宇宙的なエネルギーとの間に太いパイプを見出さねば幸福にはなれないのだ、ということへの気づきが、良き感染力を発揮してゆくことにもなるでしょう。

 

 日常を侵食する表層的な秩序や既成観念から脱し、ていよくあてがわれた非日常的な装置や情報・消費への依存から脱し、個々人の甲斐性で〈ハレ〉と〈ケ〉のダイナミズムを回復するのはたいへんなことですが、これほど〈ケ〉が追い詰められていることで、私たちは、観念ではなく、身体の方から変容する契機に恵まれているのだとも考えられます。

 

 冬から春へ。

 花や鳥たちの、風や光や水や大地の、そして私たち自身の身体の春支度のように、世界の無意識の春支度も、混迷の中から兆しているようにおもわれます。

 

 

 

 

 

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他人とは思われない風景

  • 2019.02.27 Wednesday
  • 18:23

 

 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり   前川佐美雄

 

 先日の明け方、ちょうどこの歌のような風景が窓の外に広がっておりました。

 

 

 

 そういえばこの頃、霧の中で自分の輪郭をほどくような時間を過ごせていないなと気づかされ、忘れ物を受け取りに、霧の中深く歩み入りたいような衝動をおぼえました。

 

 風景には、いつもなにかしら過去や未来からのメッセージが既視感として含まれているようにおもわれます。その風景の中に、自分の欠片(かけら)が散りばめられている、と感じるような、どこか懐かしく、しかも絶対的に新鮮である、という瞬間。人との出会いならば「他人とは思われない」という感覚を呼び起こす瞬間があるように、風景にも、「他人とは思われない風景」というものがあるのです。

 それは、必ずしも幸福な感触とばかり結びついているとは言えないもので、初めて世界との断絶を魂に刻まれた瞬間の記憶や、闇の底をさまようような胸苦しい混沌や、喪失や、他者との疎隔や、まさに今現在の生き難さを想起させることもあるのですが、そのような痛みとともに、鮮やかな修復や蘇生がもれなくまとわりついているような。一粒の涙の中に、喜怒哀楽が美しいコラージュとなってきらめいているような。

 風景に、そのような自分の欠片としての涙が散らばっている姿は、曇り空であろうと霧の中であろうと闇夜であろうと、きらめきを帯びています。

 そのきらめきの手触りによって、風景は、私の心身が世界から断片として孤立しないように守ってくれているのでしょうか。

 

 前川佐美雄(1903−1990)という歌人も険しい人で、昭和五年刊行の『植物祭』という歌集には、己れの病理やストレスを「短歌」という器に盛りながらまじまじと凝視するような、端正ながら鋭利な批評意識の横溢する歌がみっしりと詰め込まれています。

 冒頭の一首においても、「霧」を吸うことでかろうじて「やはらかな思ひ」となった彼の内には、自他や世界へのひりついた対立感が暴れ出しそうだったことでしょう。昭和初年という時代の、個々人が無意味な断片へと追い詰められてゆき、カオスを求めて暴走しそうな空気が、とても現在的に顕ち上がっている歌集です。

 

 一人ひとりが無意味な断片のような場所に追いやられてゆく時代において、あくまで「一人ひとり」が、どのようにこの世界と絆をとり結べばよいのか。

〈現在〉のさまざまな課題が、いつもこの一点に集約されてゆくのを感じます。

 断片としての明晰な輪郭を、その輪郭を保つ強固な自我を、機能的で効率のよい関係を、身体を、ライフイメージを、目標を、能力を、結果を、価値を。そこで求められる明晰さの底浅くてもろいこと。

 常に輪郭の明晰さを要求する不可視の圧力は、得たいの知れない〈闇〉の暴発を封じ込めようとするかのごとくですが、その強迫的な明晰さこそが、大規模なストレスのカオスの醸成源でもある。そういう圧力と暴発とのあやうい葛藤の強まりを、世相から感じることが多くなりました。

 しかし、〈時代〉の流れが圧倒的に見えるときほど、実は、一人ひとりのまなざしが効力を発揮するときなのではないかと、思われてなりません。

 ものごとの本質というものは、いつも逆説を孕んでいますから。

 

 明晰な輪郭を浅はかでなく顕ち上げられる存在は、たっぷりと霧を吸って育ったのだと。少なくとも私の欠片の潜む風景は、そんな逆説をきちんと伝えてくれているようにおもわれます。

 

 

〈いのち〉の匂い

  • 2019.01.28 Monday
  • 11:55

 

 例年、新年の抱負などは特に考えないのですが、自身の体調管理が切実な年頃ともなると、今年は3つ、肝に銘じようと思いました。

 

 よい姿勢をキープ。

 深い呼吸。

 よく噛んでゆっくり食べる。

 

 なんだか小学生に言い聞かせるような内容ですが、実践するとなると難しいものばかり。

 パソコンやスマホとにらめっこする時間が多くて、肩は丸まり、気がつけば眼精疲労の蓄積と猫背気味。

 姿勢が崩れると呼吸も浅くなりがち。

 せわしない気分でせわしない食事時間となり、味わう気持ちはどこへやら。

 悪循環の無限ループは恐ろしいですので、よい循環へと転換したいものです。

 

 KJ法の世界観に置き換えるなら。

 よい姿勢をキープすることは、この世界を〈志〉があるものとして感受する、その姿勢を忘るべからず、ということに。

 深い呼吸は、こちらの〈我〉で世界を仕切ろうとするのではなく、己れを空しくして渾沌との全身的な深いやりとりを実践すべし、ということに。

 よく噛んでゆっくり食べることは、上記2点をベースにして、渾沌が構造化されるプロセスと結果を深く味わうべし、ということに。

 渾沌は恐怖の対象ではなくなり、己れを生かしめてくれるものとして、「身になる」はず。

 

 KJ法についてなら、いつも偉そうにのたもうていることですが、己れの心身の基本が崩れがちな今日この頃。

 この場で公開することで、一年間、健やかに過ごすためのモチベーションをキープしたいですし、自身からも他者からも世界全体からも、あたたかな〈いのち〉の匂いを感じられる一年にしたいと切に願います。

 

 

 

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2018年を振り返って

  • 2018.12.30 Sunday
  • 17:42

 

 いったいこの体験にはどんな意味があるのだろう。

 今年に限らず、なにかしら不条理な、あるいは理不尽な体験を致しますと、その〈意味〉を握り締めるのが難しいと感じてしまいます。

 ことのほか今年は、私だけではなく、多くの方々がそのような想いに駆られたのではないでしょうか。

 

 KJ法においても、ラベルの〈志〉(ラベル群全体を背景とした個々のラベルのシンボリックな訴えかけ)がなかなか見えてこないことがあります。図解が完成した暁には、それは仮に「一匹狼」であっても逞しい〈志〉を放っていることに気づかされ、図解全体の構造の一翼を立派に担っていたりするのですが、そのことに思い至るまで、こちらの〈我〉によってラベルを解釈したり、分類目線でどこかのグループに放り込んだりすることなく、あくまで全体感をバックにして訴えかけに耳を澄ませることとなります。

 KJ法は、〈渾沌〉を手際よくバランスよく〈全体〉として把握し、その〈全体〉の語りかけを己れをむなしくして〈構造化〉することによって〈本質〉を浮上させる方法、ということができます。

 今年の様々な体験は、まさに〈渾沌〉というべきですが、〈渾沌〉であるからこそ、私たちは己れをむなしくする姿勢・態度というものに目覚める契機を得たのかもしれません。

〈我〉によって安直な解釈でお茶を濁すのではなく、その意味するところを握り締め難いという不安に耐えながら、丁寧に〈渾沌〉の語りかけが明らかになるのを待つ。

 その語りかけが、この世界のあたたかな貌として顕ち上がるのを粘り強く信じて。

 

 今年も、ご愛読ありがとうございました。

 ご自愛の上、どうぞよいお年をお迎えください。

 

 

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2018.12.10 Monday
  • 21:03

「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」

  • 2018.12.10 Monday
  • 20:56

 

 12月1日、「霧芯館KJ法ワークショップ2018 其ノ二」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 

 今年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール(指標)」。

 夏に開催したワークショップでは、このテーマをめぐって、参加者に数百枚のラベルを提示していただきました。チームごとに「パルス討論」という技法で、効率よくバランスよく、意識的・無意識的に気にかかる事例や想いが掘り出され、今回の冬のワークショップまで「寝かされて」いたラベル達。そこから私がまず、70枚をピックアップし、この日はチームごとにさらに20枚を精選し、「狭義のKJ法」を実践していただきました。

 テーマは「メルクマール」としておりましたが、そこにこだわらず、〈常識〉〈非常識〉をめぐる私たちの気づきや想いが構造化された結果となりました。

 

 チームごとに異質な図解が完成したのですが、どの図解にも、〈常識〉〈非常識〉のあり方を通して、〈現在〉という時代への批判的な認識がくっきりと浮上していました。ことに、確固たる〈常識〉が失われ、人々が異質な〈常識〉を持つ他者への怖さを抱えている状況は顕著で、個々ばらばらの〈常識〉に怯えるゆえか、逆に単なるマジョリティーとしての〈常識〉に内面を収奪されたり、あるいはモラルと責任を欠いた〈非常識〉が不気味な感染力を持つ〈時代〉の姿が鋭利に捉えられているのは印象的でした。そして、他者を損ねることのない揺るぎない〈常識〉の価値への憧れと、社会の枠組みとしての〈常識〉を華麗に生産的に逸脱してみせる〈非常識〉への讃嘆にも、〈現在〉の置かれている状況の息苦しさ・厳しさが表われていたようにおもわれます。今回のテーマにおいても、見事に〈現在〉の本質が突きつめられたのは感慨深いことでした。

 

 創案者である川喜田二郎は、同じラベルを使っても異質な図解が完成することについて、「同じ富士山を違う角度から眺めるようなものだ」と語っていますが、確かに、チームごとに異なる表情をくっきりと浮かべている図解たちを鑑賞することで、奥深い本質に触れる醍醐味は、冬のワークショップならではのものです。

 今回もこの成果は、あらためて「作品・解説集」として参加者にフィードバックする予定です。

 

 紅葉がちょうど見ごろの京都へ、今年も全国から受講者のみなさまにお集まりいただき、熱い集中力で「渾沌をして語らしめる」体験に浸っていただくことができ、安堵のおもいです。

 主催者として、各チームを見回って作業精度を上げるように気配りいたしますが、数分もすれば、初対面も含めた老若男女が、それぞれの内面のひきだしをこれでもかとばかりさらけ出しながらほとんど無礼講で打ち解けてゆかれる様は、毎年のことながら感動するといいましょうか、見ていて頬がゆるむといいましょうか。

 

 KJ法によって創造的な営みを共有したチームに、どなたも懐かしさをおぼえて下さって、また来年も、と笑顔で帰路につかれる。今年もそんなたくさんの笑顔に出会えて心和む一日でした。

 

 

 

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京の秋2018

  • 2018.11.28 Wednesday
  • 16:54

 

 今月は写真のみ更新です。

 なかなかおちついて写真を撮る時間がありませんが、少しだけ、風景にしゅわっと潤った感覚をお伝えできればさいわいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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中島敦の悲劇

  • 2018.10.26 Friday
  • 12:57

 

「山月記」で有名な中島敦に、「文字禍」(昭和十七年二月発表)というブラックな寓話風の小品があります。

 

 アッシリアの大王から、夜ごと図書館にうごめいているらしき文字の精霊について調査を命じられた老博士の悲劇ですが、その悲劇の核心は、奇妙に〈現在〉の私たちの生き難さに似ています。

 

 大王の命を受け、早速調査にとりかかった博士は、うずたかい書物の古知識の中から、文字の霊についての説を見出すことができませんでした。そこで彼は書物を離れ、ただ一つの文字を前に終日それと睨めっこをして過ごすようになります。(以下の引用は『ちくま日本文学全集 中島敦』より。)

 

「その中(うち)に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」

 

 そこで博士は、このばらばらの線に一定の音や意味をもたせているものこそ文字の霊ではないかと思い当たります。さて、それではその霊の影響とはどのようなものか? 街中を歩き回って、最近文字を覚えた人々を調査したところ、奇妙な統計が出来あがりました。

 

「文字を覚えてから急に虱(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが圧倒的に多い。」

「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。」

「獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。」

 

 このように文字の霊の威力を洞察した博士はしかし、そのことで霊から復讐されてしまいます。

 一つの文字と睨めっこすることで、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を体験してからというもの、それと同様の事態に、文字以外のあらゆるものについても直面してしまうようになったのです。

 

「彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰(しっくい)との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。人間生活のすべての根柢(こんてい)が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。」

 

 怖くなった博士は、早々に研究をまとめて大王に提出するのですが、文字の霊が人々に害を及ぼしているとの報告は、文字とその文化を統べる神を疑わぬ大王の怒りを買い、謹慎を命じられてしまいます。さらに、数日後の地震で数百枚の粘土板が、文字の霊の凄まじい呪いの声とともに書庫内の博士を圧死させてしまったのでした。

 

 作者・中島敦の中に、己れの魂の置き所の無さに対する深い絶望の念があったのであろうことを感じさせる寓話です。

 文字の霊に喩えられた西欧近代的な〈知〉とは、この世界を氷山にたとえるならば、その一角に過ぎず、世界の総体はほとんど水面下に隠れている。しかし、その氷山の一角に統べられてしまうことで、私たちは空の碧さを失い、獅子を射止められず、女を愛せなくなってしまう。

 ところが、そのカラクリを洞察することもまた、分析病にとりつかれることであり、近代的な〈知〉の堂々巡り、そして意味解体の果てのニヒリズムの狂気へと人を追いやってしまうことになる。

 世界の総体を、個々の存在を、歓びと智慧に満ちたものとして享受することのできない不幸が、ひしひしと伝わってきます。世界に、存在に、真に意味を与えているものから遠ざかるように遠ざかるように、歯車が回り始める怖さ。

 

 今おもえば、高校時代に現代文の教科書で触れた『山月記』もまた、観念の夢魔に生身を食い荒らされ、虎になってしまった男の悲劇でした。現実と肉体を忌避する観念的な芸術至上主義が、〈虎〉というむきつけの獣的な現実・肉体へと収斂してしまう逆説は、時代の病の本質を鮮やかに指し示していたことがわかります。

 作者にとっては、肉体を忌避することも〈死〉、獣的な肉体の欲望に身を任せることも〈死〉、二つの〈死〉は、実は一つの病の別の貌に過ぎないことへの洞察が、痛々しい主人公の叫びとなっていました。

 その病の中で、自分が人間であったことの記憶さえも失くしてしまう恐ろしさ、段階的に自分の生身が失われてゆく恐怖にさえざえと直面する苦しさ。

 

 主人公、そして作者の苦しさは、私たちの日常にも当たり前に潜んでいることに、ふと戦慄をおぼえます。

 観念的な〈知〉によって、あるいはバーチャルな〈情報〉によって、あるいは科学の名のもとに強制される合理的・機械論的・唯物論的な世界観によって、〈現在〉の私たちは不断に生身を削り落としたりすり替えたりしているのですが、それがあまりに「不断に」なので、恐怖心すらおぼえなくなってきているようにおもわれます。デジタルな修正を加えられた空の碧さや、バーチャルに露出され消費される〈日常〉や、〈数〉の支配力や、これ見よがしにエビデンスに固められた情報によって、いつしか氷山の「一角」はその割合を増し、氷山の全てにとって代わるのでしょうか?

 

 KJ法は、既成の観念的な〈知〉を排し、世界との主客融合的な交感によって我欲を超えた創造性を顕ち上げる方法ですが、あらためて、その方法の現在性と普遍性、それでいながら本質の理解において非常に困難な方法であることを感じます。

「文字禍」の博士が陥った「分析病」をも排することで、近代的な〈知〉のパラダイムというものを根こそぎ転倒し、世界と存在のもつ歓びと智慧を、個々人の手に取り戻す方法ですが、その本質にはフタをし、安易な分類・整理法、分析や恣意的な解釈に通じるものとして誤解されやすい方法でもあります。

 そのような誤解を一つひとつ打ち砕かれる衝撃を、ぜひ、無心で味わっていただきたいものとおもっています。

 

 一人ひとりが真の〈意味〉に出会う衝撃の場所からのみ、変わってゆく風景の確かさを握り締めつつ、どなたも歓びと智慧とに満ちた秋を満喫されますように祈念しております。

 

 

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2018」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2018.08.08 Wednesday
  • 21:11

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