「霧芯館KJ法ワークショップ2019」〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2019.08.07 Wednesday
  • 11:33

「霧芯館KJ法ワークショップ2019」

  • 2019.08.07 Wednesday
  • 11:11

 

 さる8月3日、「霧芯館KJ法ワークショップ2019」を開催いたしました(於・京都テルサ)。

 過去に霧芯館の研修を受講された方々とそのご紹介のある方々が対象ですが、今年も、猛暑の京都へ、全国から大勢お集まりいただき、無事開催できましたことにほっとしています。

 今年のテーマは「イメージの力」。テーマ設定の趣旨は次のようなものです。

 

「イメージトレーニング」などと言われるように、時として私たちはイメージによって自分を変えてゆこうとします。逆に、イメージの持ち方がネガティヴだと、どんどん悪い連鎖に陥ってしまうことも。論理と対極的なこの「イメージ」には、どのような可能性や怖さが潜んでいるのでしょうか。イメージとどのようにつき合うことが、ものごとを良い方向へ進めることになるのでしょうか。

 

 チームごとに「パルス討論」という技法で、テーマをめぐって多彩なラベルを提示してもらいます。また、今回初めての試みとして、ラベルの提示にとどまらず、例年は冬のワークショップで実践する「狭義のKJ法」を少し先取りするような「構造化のためのトレーニングワーク」も楽しんでいただきました。

 

 

 まずは、今年のラベル達をご紹介してみましょう。

 音楽教育に携わる方々、演奏家の方々がたくさんご参加だったことも作用したでしょうか、イメージ豊かで楽しい、魅力溢れるラベルが豊富に出揃っています。

 

人のことを考えずに思い込みで行動(暴走)する原動力になる。

自分と相手とのイメージにギャップがあるとどちらかが傷付く。

風鈴は、物理的な涼しさは何らもたらさないが、イメージによって人を涼しくさせる。

幼児のイヤイヤには、これから発達するイメージ力に対するエネルギーを感じる。

見えないものって、確実にあると思う。

文学が実写化するとがっかりする。

ガンだと診断を告知された途端、ガン患者になっていく。

プラセボ(偽薬)でも鎮痛にある程度の効果が得られる。

チョコパンだと思っていたのにあんこだったりするとすごいがっかりする。

自分の“性”でない人の“性”の悩みを考えるのは容易でない。

良いイメージをなくしてしまうのは一瞬である。

アイドルは恋愛禁止だ。

一人暮らしをしているが、誰もいない部屋に「ただいま」と「行ってきます」を言うようにしている。

想像の産物が人々の命を救うこともある。

イメージは人を狂気の世界に陥らせもするし、病んだ心を癒しもする。

過去を変えることもできる。

同じものをイメージしたとしても、同じイメージを共有できるとは限らない。

万人が同様のイメージを持つものごともある。

以前の学生は文章を見て行動化できたが、今はDVDを見ないとできない。

経験値によりイメージしやすいことと、イメージしにくいことがある。

人間は、現実世界(客観)とイメージ(主観)の両方を生きている。

イメージによる飛躍がイノベーションを起こす。

死後の世界は誰も見たことがないのに多くの人が信じている。

AIはイメージできるのだろうか?

イメージの世界では何でもできる。

赤いパンツは健康になる。

高価なもの程、ご利益ありと思う。

己れの原動力を大きくも小さくもする。

100キロの体重の人が10キロ痩せる目標をたてても痩せられないが、90キロの自分の姿をイメージすればそれに近づける。

色の持つイメージの違いを効果的に使うと良い。

人と交渉する時は、ピンク色の服を着ると良いらしい。

多様なイメージができる言葉を遣って話し合うと、コミュニケーションがずれることがある。

幼児は花が開く瞬間を、大太鼓をたたいて「ドドドー」と表現していた。

子どもの想像力は経験値の低さゆえの豊かさがある。

YouTubeが最強の宣伝ツールになっている。

気がつかない間に洗脳されることがある。

ネガティブな事をイメージするとネガティブな事がおきる。

筋トレで、動かしている筋肉をイメージしてやると効果は絶大である。

日本人は、風鈴の音をきくと涼しくなると思い込んでいるので、風鈴の音で体温が下がる。足がつりそう、と思ったとたんに足がつり、42kmでフルマラソンをリタイアした。

コップを落とさないで、と小さい子どもに言うと、落としてしまう。

脳はだまされやすい。

イメージは時として、偏見・固定観念となる。

高齢者事故のニュースを見ると、もみじマークをつけている車は危ないと思ってしまう。老後をイメージすると不安でしかない。

イメージは操作される。

イメージは黒を白にでもできる。

イメージとは、自分の脳をだますために想像することだ。

幸福や不幸になるエッセンスになる。

相手に明確に伝えにくくなると、めんどくさくなって“こういうイメージ”と言ってしまう。

事実ではない、うらづけもないのに、心で描いたものにしたがってしまう。

判断材料の一つになることがある。

わざわざ北枕で寝ている。

演奏会で拍手をたくさんもらったことを想像しながら練習したら本番もうまくいった。

音楽をきいて、自分で勝手にイメージすることはとても楽しい。

頭の中でふわっとふくらむ自分のものさしのようなものかも。

世代により異なることがある。

ふと頭によぎった不安は起こってほしくないと願いすぎて現実に起こってしまった。

ピンチはチャンスだとイメージできる自分は自己肯定感が高い。

イメージとはなれすぎたギャップは人を苦しめる。

あるイメージにとらわれると、そこからはなれづらい。

習慣化することでイメージは強化される。

イメージだけ持っていても、そこに努力が伴わないと、結果には結びつかない。

一流、といわれる人は、鍛錬によって、イメージが鮮明かつポジティブに描ける。

自分の中ではぼんやりさせていても、人に伝えるときは、論理的に語る必要がある。

自分自身のイメージが一番難しい。

自分のリアルとイメージのズレは必ずある。

水に「ありがとう」といい続けるとうつくしい結晶ができたという実験があるが、あれは人のイメージが反映したと言われてもいる。

目標をイメージ化できると、苦しいトレーニングにも耐えられそう。

イメージを持続するには忍耐がいる。

毛虫に怖いイメージがなかった3歳の頃、みずから手でつついて大ケガをした。

他者の持つイメージを完全に知ることはできない。

イメージすればするほど現実離れする世界観がある。

異質なものをつなげる力がイメージにはある。

イメージの大きな飛躍が新しい芸術をうみだす。

想像のつばさは、大・小さまざまであると感じる。

猫をイメージすると幸せな気持ちになる。

楽譜を読むとイメージがふくらむ。

かみあわないイメージは想像力を広げる。

イメージがかみあわないとトラブルのもととなる。

メディア環境の変化が、人々の持つ「イメージ」の質にも変化を及ぼしている可能性がある。

素材が多いほど、実像に近づいていく。

マイナスのイメージとプラスのイメージを持つことでバランスをとっている。

楽しいイメージは無限大に拡がる。

自分のボディーイメージが曖昧な人は生き方も曖昧な印象がある。

虹を見ると宇宙の力を感じる。

 

 どの一枚を読んでも、まさにそこからふくらむ〈イメージ〉がある、そんなラベル達に、心躍る成果を感じました。これらのラベル達は、今年も今から4ヶ月ほど寝かされ、冬のワークショップ「其ノ二」において、グループKJ法で構造化される機会を待ちます。

 しかし、今回初の試みとして、全チームから1枚ずつ選ばれたラベルを〈土俵〉として、それぞれのラベルを一つの〈島〉として感受し、シンボルマークを与え、関係線を入れ、図解化する、そういう構造化のトレーニングワークにも取り組んでいただきました。

 この日の会場全体からの代表選手とも言うべきラベル達を、全チームが共有し、構造化に臨む。これはなかなかに刺激的な時間でした。

 本来の狭義のKJ法の緻密な手続きではないわけですが、「近いけれども異質な、あまり多すぎないデータ」を一望することで、人は発想力が飛躍するのであり、これはKJ法の一つの本質を生かした作業です。

 楽しい、難しい、脳みそが煮えたぎりそう、といったご感想がちらほら聞こえてきましたが、無事全チームの構造化を終え、プレゼンテーションまで持ち込むことができました。

 

 

 同じラベルを用いながら、チームによって異質な図解が完成したのですが、いずれにも、〈イメージ〉の持つ想定外の威力、私たちの合理性を吹き飛ばしてしまうパワー、身体のあり方や幸不幸やものごとの成否の鍵を握る潜在的・本質的なパワー、といった把握が見受けられました。

 冬のワークショップにおいて、さらなる精緻な構造化が期待されます。

 

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

恵みとしての夏

  • 2019.07.27 Saturday
  • 11:21

 今月は写真のみ更新です。お楽しみいただければさいわいです。

 

 

葉と葉が自然と重なり合う姿に惚れ惚れします。

 

 

枝と水。そのあわいにはいつも〈詩〉を感じてしまいます。

 

 

よいポーズをとってくださいました、蝶々さん。

 

 

 

この毛並みの色は、やわやわとして、

まだ生まれて間もない子鹿さんのようです。

 

 

猛暑がやって来そうですが、生気のある青空を見ていると、〈季節〉は全て私たちへの恵みのはず、と思われます。

よい夏をお過ごしくださいますように。

 

 

JUGEMテーマ:写真

「霧芯館KJ法ワークショップ2018」作品・解説集 完成

  • 2019.06.17 Monday
  • 17:23

 

 昨年開催いたしました「霧芯館KJ法ワークショップ2018」の作品・解説集が完成し、ご参加のみなさまに先日無事にお届けすることができました。

 

 毎年、一つのテーマをめぐって夏・冬で完結するワークショップを続けておりますが、昨年のテーマは「〈非常識〉のメルクマール」。参加者のみなさまの提示されたラベルたちが構造化されるまでを、KJ法という方法に委ねながら、〈現在〉という時代の抱えている深刻な課題を浮かび上がらせることができました。

 

 ワークショップにおける各チームの図解作品に加えて、個人として同じラベル群に向き合った図解、そして私個人の図解も含めて、さまざまな表情を持つ作品と、それに対する私の解説がまとめられています。

 

 

 このテーマによって浮かび上がった〈現在〉の姿は、例年にも増してぞくっとするほど私たちの不安や病理を的確に表していたようにおもわれます。

 世代によっても個々人によっても、もはや〈常識〉というものが共有されていないことへの不安は覆い隠し難いものがあります。共有できていないのに他者に己れの価値観を押しつける不遜さに対しては手厳しい、つまり他者性を尊重できる成熟は手に入れつつあるのですが、その成熟と背中合わせに、異質な他者への不安と個々人がアトム化してしまった孤独は深まっています。その不安と孤独にそそのかされるように〈数〉への過剰な信仰・依存が蔓延するのですが、それが病理であることすら気づこうとはしない社会の空気を、私たちは日常的に肌身に沁み込ませながら生活しています。

 参加者の提示してくれたラベルたちと構造化された図解たちには、〈現在〉に対する不安や批判の表情とともに、凛とした〈常識〉と、大胆で責任ある逸脱としての〈非常識〉への渇望が表われていました。

 

 どのような現場においても、世代間、そして個々人同士の葛藤があります。関係構築の困難さがあります。〈現在〉という時代へのなんらかの認識の深まりや問いかけがなくては、どの現場も機能しないであろうことを感じます。

 

 KJ法が、〈現場〉のささやかな声を汲み上げながら、きちんと〈現在〉と斬り結ぶ姿は、これからも私にとってすがすがしく頼もしいものであり続けるのではないか、そう思われる冊子を今回も完成させることができました。

 参加者のみなさまの熱い想いに感謝しつつ。

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

蓮華療法

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 15:24

 KJ法の、方法としての優秀さのひとつに、構造や本質を把握する上での効率の良さが挙げられます。

 それは簡便で安易であるということではまったくなく、人の創造性を〈世界観〉の変容をベースにして活性化させるという意味では、KJ法は実にヘビーな方法です。しかし、〈象徴的な感受〉によって成り立つ方法であるがゆえに、錯綜した渾沌も、多様な質のバラエティーも、一つの本質へと自然に集約させることができます。この方法を真に会得するならば、実に効率の良い問題解決に結びつけることが可能となります。

 

 象徴的に感受することによる効率の良さ。

 KJ法を駆使したわけではありませんが、この春、私の内部で自然に為されたひとつの〈療法〉があります。象徴的な感受が効率良く〈療法〉として機能したと思っています。

 昨秋、ホームセンターの「種」の売り場で衝撃を受けたことが始まりでした。

 さまざまな草花の種に混じって、「蓮華」の種が売られていたのです。

 蓮華を自分で咲かせることができる!

 そんなことで世界がひっくり返りそうな衝撃を受けるのは私くらいかもしれません。

 私にとって、原風景と思われる風景を挙げろと言われたら、迷うことなく「一面に広がる蓮華畑」と答えるでしょう。

 3歳頃の記憶かと思うのですが、春先に窓の外に広がる薄紫の蓮華畑が、幼い目にどれほど広々と果てしなく見えたことか。

 その風景は、その頃のなにがしかのトラウマ、おそらくは守りたいものとそれを壊される恐怖とのはざまで行き場を失った思い、珍しくもないけれども幼い心にとっての一大危機の衝撃を、やわらかく吸い寄せたのかと思われます。

 トラウマというものは、同一の型が幾多のバリエーションをとって、人生の中で繰り返し噴き出してくるやっかいな代物ですが、傷と癒しのセット体験があったこと、そしてそのセットとなった癒しがまずまず無難な風景であったことは、私の最大の幸運のひとつではなかったかと、今は考えています。

 セット体験が得られなかったら、恐ろしいことになっていたかもしれません。セット体験が歪んだ嗜好に走っていたりするとそれはそれでとんでもないことであったでしょう。理想的なセットであったかどうかはともかく、私の原風景として、この果てしなさ、〈無辺〉を象徴する蓮華畑は必要不可欠なものであったようです。

 

 その原風景を、箱庭的に作れるかもしれない。

 ホームセンターの種売り場で、私は小さな種の袋を一つ、がっつりつかんでいました。

 いそいそと古びたプランター二つを蓮華の種に占領させ、春を待ちました。

 この近辺で、田んぼがお休みの頃に、ある程度の広さで蓮華畑は出現します。

 

 

 でも、記憶の中のあの〈無辺〉を想わせる広さはなく、どことなく欲求不満な春を繰り返し味わってきました。それをプランター二つで超えられるわけもないのはよくわかっていたのですが、小さな花の可憐さを、誰に怪しまれることもなくまじまじと見つめて味わいたくて、首を長くして春を待ちました。

 なにやら細々と柔らかげで雑草的な芽が出て葉っぱが増えて、ここに蓮華が満開になったらとおもうと、そわそわしてたまりませんでした。

 4月。

 近所の田んぼの畦ではぽちぽちと咲き始めているのですが、我が家のプランターではまだ緑一色のやわやわとした状態。咲くのか、咲かないのか。つぼみはどこ? ただの雑草がもしゃもしゃしているようにしか見えなくて気をもむことといったら。

 ようやく最初の一輪が咲いたのは、4月も下旬にさしかかろうという頃。

 こんなにまじまじと飽くことなくこの花を見たのは初めてのことでした。

 

 

 記憶の中の〈無辺〉バージョンの蓮華畑の美しさもさることながら、間近に見る一輪の生々しい蓮華の姿にも感動しました。

 ふと、その瞬間、私の記憶の中の〈無辺〉は本当に〈無辺〉だったのだろうか、幼い私の表現し難い〈傷〉の感触が〈無辺〉という規模を求めていただけではなかったのだろうか。そんな〈相対化〉の想いが湧き上がってきました。

 一輪の蓮華が、つんのめるように〈無辺〉を求めようとする私の中のある種の危うさをほどいた瞬間であったかとおもわれます。

 一輪の蓮華を象徴的に感受することで、トラウマへの効率の良い〈療法〉として機能した瞬間。

 もちろん、〈無辺〉を想わせる風景に今も魅かれてやみませんが、なにか、ひょっくり憑き物がとれたような、不思議な感触を得た気がいたします。

 幼い頃の原風景が幻想に過ぎないからと無意味になったわけでもなく、その風景が私の中に根を下ろしていることの意味が更新され、明確な居場所を得た、ということなのかもしれません。

 

 自分の弱さや愚かさとつき合うのは難しいものです。それらをがむしゃらに排除しようとすることが過ちを生むこともあります。

 シンボリックに居場所を与える、そんなお付き合いが、弱さをお守りに変えることもあるようで、〈象徴〉という機能はあなどれない。

 薄紫でしぶとくてあたたかな想いを味わいながら、季節は青々と進みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

〈気〉とのお付き合い

  • 2019.04.14 Sunday
  • 16:06

 今年の鶯は、霧芯館のすぐそばに来て美声を響かせてくれています。

 年によっては、近くの里山の木々の中から出てきてくれなかったり、うまく鳴けないで「練習中」のままひと夏を過ごしてしまったりするのですが、今年は折々、間近な声を聞くことができてうっとりします。この辺りの〈気〉が良いのだろう、と、ほっとした想いもいたします。

 

〈気持ち〉と言いますと、自分の中に湧く感情のことで、それをどうこうするのは難しいと感じますが、〈気〉の持ちよう、と言ったとたん、感情とは別の、自分の内と外を出入りするなにものかとのお付き合いが視野に入ってまいります。

「運気を上げる」「気合で勝つ」「気おくれ」「気配り」「元気」「気づき」「殺気」「気風」「気位が高い」「和気藹々」「気高さ」「香気」「気性」「血気にはやる」「気配」「雰囲気」等々、挙げればきりのないほど、私たちは〈気〉とお付き合いをしているわけです。

 人と対面するときも、相手の〈気〉というもののニュアンスを、私たちは感じ取ったり、推し測ったりしています。初めての町や集団に接するときもそうですし、慣れた場所の〈気〉の変化を察知したりもしています。動物や植物に対しても、自然の風景に対しても、合理的なチェックポイントを踏まえつつも、総体として〈気〉がどういう状態なのか、こちらに対してどんなメッセージを発しているのか、察知しながら生きています。察知するだけではなく、〈気〉のやり取りも実は、頻繁に行なっています。当たり前のように「元気をもらいました」などと使うように。

 

 おそらく鶯は、〈気〉の察知において、かなり繊細なのでしょう。

 今年の美声の若々しい艶からは、彼の察知した世界の〈気〉の、初々しさ、華やかさ、無邪気さ、よい意味での貪欲さ、のようなものが伝わってきます。

 

 私の撮影した写真からも、この春の〈気〉のあり様をみずみずしく感じ取っていただけるなら、なによりの歓びです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:写真

無意識の春支度

  • 2019.03.22 Friday
  • 20:47

 

〈穢れ〉とは、実は〈ハレ〉の対立概念であるところの〈ケ〉が枯れた状態なのだ、という説があるそうです。

〈ハレ〉は非日常、〈ケ〉は日常。そうしますと、〈穢れ〉とは「〈ケ〉枯れ」、すなわち、日常生活を営むエネルギーが枯渇した状態である、ということでしょうか。

 

 前近代の土俗的な共同体では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスを保つためのシステムが機能しておりましたから、祭りによって日常の秩序をひとたび混沌へ叩き込むならば、共同体の成員一人ひとりの生活と無意識の隅々にまで、類的・宇宙的な一体感が注ぎ込まれ、今一度〈ケ〉の時間に戻ったとしても、そのまどろむような日々のサイクルと秩序の内には〈ハレ〉の雫がゆきわたっていて、聖なるものに意味づけられたエネルギーがしっかりと賦活されたことでしょう。

 

 土俗共同体の解体によって近代的な個人が単体として析出されてしまっている現在では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスやサイクルを生み出すのは、個々人の甲斐性に委ねられてしまうこととなります。

 家族とでもなく、職場の人間関係とでもない、一過性の祝祭的な交感を求めて、ハロウィンの渋谷でカオスに浸ろうとする若者たちは、どれほど深刻に〈ケ〉が枯渇した状態にあるのでしょうか。

 他者も自分の人生も一瞬にして破壊してしまうような粗暴な犯罪の突発性や、一人ひとりの〈生〉の重みへの想像力や職業倫理の欠落した組織・個人のふるまいに、冷え冷えと投げやりなニヒリズムが見え隠れするのを感じるたび、血の凍る思いがいたしますが、そこには、表層的で息苦しい秩序と無機的な世界風景にただただ疲弊させられた〈ケ〉の姿が垣間見えます。

 全体を喪失した断片としての生存感覚へと追い込む強迫的な情報や商品の氾濫によって、身体や関係の生きた手触りを抹殺された日常、まさに「〈ケ〉枯れ」の病症が蔓延しているようにおもわれ、その蔓延の感触には、古来、〈穢れ〉の感染力が恐れられたことを想起させるものがあります。

〈ハレ〉と〈ケ〉によって成り立つ、本来的な振幅をもって〈ケ〉が賦活されていないことで、〈日常〉は、極限まで矮小化された概念となって、人々の無意識をただただ拘束し、消耗させ、姿のはっきりしないストレスだけが充満する時空間となってしまっているようです。突出した〈ハレ〉の時間も、〈ケ〉の意味づけへと循環することのない一過性の暴発として希求されるならば、私たちの身体も、関係も、いつまでも空虚なまま刺激のギアをひたすら上げてゆこうとするでしょう。

 

 この事態は両義的で、これからも〈ケ〉の枯渇によって蓄積されたストレスの暴発が、個人を、社会を、傷つけ続けるかもしれませんが、一方で、〈ケ〉の枯渇に耐え切れないからこそ、これまでの血縁にも地縁にも職場の人間関係にも縛られない、新たな関係へと自らを開いて人生を意味づけてゆこうとする人々も増えてゆくでしょう。一過性で求めたつもりの〈ハレ〉のエネルギーが溢れて〈ケ〉へと注ぎ込まれ、〈意味〉の手触りに目覚めることもあるでしょう。そのことが、病んだ〈ケ〉を一掃するパワーとなって〈生〉を本質的に更新することも可能でしょう。自身と類的・宇宙的なエネルギーとの間に太いパイプを見出さねば幸福にはなれないのだ、ということへの気づきが、良き感染力を発揮してゆくことにもなるでしょう。

 

 日常を侵食する表層的な秩序や既成観念から脱し、ていよくあてがわれた非日常的な装置や情報・消費への依存から脱し、個々人の甲斐性で〈ハレ〉と〈ケ〉のダイナミズムを回復するのはたいへんなことですが、これほど〈ケ〉が追い詰められていることで、私たちは、観念ではなく、身体の方から変容する契機に恵まれているのだとも考えられます。

 

 冬から春へ。

 花や鳥たちの、風や光や水や大地の、そして私たち自身の身体の春支度のように、世界の無意識の春支度も、混迷の中から兆しているようにおもわれます。

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

他人とは思われない風景

  • 2019.02.27 Wednesday
  • 18:23

 

 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり   前川佐美雄

 

 先日の明け方、ちょうどこの歌のような風景が窓の外に広がっておりました。

 

 

 

 そういえばこの頃、霧の中で自分の輪郭をほどくような時間を過ごせていないなと気づかされ、忘れ物を受け取りに、霧の中深く歩み入りたいような衝動をおぼえました。

 

 風景には、いつもなにかしら過去や未来からのメッセージが既視感として含まれているようにおもわれます。その風景の中に、自分の欠片(かけら)が散りばめられている、と感じるような、どこか懐かしく、しかも絶対的に新鮮である、という瞬間。人との出会いならば「他人とは思われない」という感覚を呼び起こす瞬間があるように、風景にも、「他人とは思われない風景」というものがあるのです。

 それは、必ずしも幸福な感触とばかり結びついているとは言えないもので、初めて世界との断絶を魂に刻まれた瞬間の記憶や、闇の底をさまようような胸苦しい混沌や、喪失や、他者との疎隔や、まさに今現在の生き難さを想起させることもあるのですが、そのような痛みとともに、鮮やかな修復や蘇生がもれなくまとわりついているような。一粒の涙の中に、喜怒哀楽が美しいコラージュとなってきらめいているような。

 風景に、そのような自分の欠片としての涙が散らばっている姿は、曇り空であろうと霧の中であろうと闇夜であろうと、きらめきを帯びています。

 そのきらめきの手触りによって、風景は、私の心身が世界から断片として孤立しないように守ってくれているのでしょうか。

 

 前川佐美雄(1903−1990)という歌人も険しい人で、昭和五年刊行の『植物祭』という歌集には、己れの病理やストレスを「短歌」という器に盛りながらまじまじと凝視するような、端正ながら鋭利な批評意識の横溢する歌がみっしりと詰め込まれています。

 冒頭の一首においても、「霧」を吸うことでかろうじて「やはらかな思ひ」となった彼の内には、自他や世界へのひりついた対立感が暴れ出しそうだったことでしょう。昭和初年という時代の、個々人が無意味な断片へと追い詰められてゆき、カオスを求めて暴走しそうな空気が、とても現在的に顕ち上がっている歌集です。

 

 一人ひとりが無意味な断片のような場所に追いやられてゆく時代において、あくまで「一人ひとり」が、どのようにこの世界と絆をとり結べばよいのか。

〈現在〉のさまざまな課題が、いつもこの一点に集約されてゆくのを感じます。

 断片としての明晰な輪郭を、その輪郭を保つ強固な自我を、機能的で効率のよい関係を、身体を、ライフイメージを、目標を、能力を、結果を、価値を。そこで求められる明晰さの底浅くてもろいこと。

 常に輪郭の明晰さを要求する不可視の圧力は、得たいの知れない〈闇〉の暴発を封じ込めようとするかのごとくですが、その強迫的な明晰さこそが、大規模なストレスのカオスの醸成源でもある。そういう圧力と暴発とのあやうい葛藤の強まりを、世相から感じることが多くなりました。

 しかし、〈時代〉の流れが圧倒的に見えるときほど、実は、一人ひとりのまなざしが効力を発揮するときなのではないかと、思われてなりません。

 ものごとの本質というものは、いつも逆説を孕んでいますから。

 

 明晰な輪郭を浅はかでなく顕ち上げられる存在は、たっぷりと霧を吸って育ったのだと。少なくとも私の欠片の潜む風景は、そんな逆説をきちんと伝えてくれているようにおもわれます。

 

 

〈いのち〉の匂い

  • 2019.01.28 Monday
  • 11:55

 

 例年、新年の抱負などは特に考えないのですが、自身の体調管理が切実な年頃ともなると、今年は3つ、肝に銘じようと思いました。

 

 よい姿勢をキープ。

 深い呼吸。

 よく噛んでゆっくり食べる。

 

 なんだか小学生に言い聞かせるような内容ですが、実践するとなると難しいものばかり。

 パソコンやスマホとにらめっこする時間が多くて、肩は丸まり、気がつけば眼精疲労の蓄積と猫背気味。

 姿勢が崩れると呼吸も浅くなりがち。

 せわしない気分でせわしない食事時間となり、味わう気持ちはどこへやら。

 悪循環の無限ループは恐ろしいですので、よい循環へと転換したいものです。

 

 KJ法の世界観に置き換えるなら。

 よい姿勢をキープすることは、この世界を〈志〉があるものとして感受する、その姿勢を忘るべからず、ということに。

 深い呼吸は、こちらの〈我〉で世界を仕切ろうとするのではなく、己れを空しくして渾沌との全身的な深いやりとりを実践すべし、ということに。

 よく噛んでゆっくり食べることは、上記2点をベースにして、渾沌が構造化されるプロセスと結果を深く味わうべし、ということに。

 渾沌は恐怖の対象ではなくなり、己れを生かしめてくれるものとして、「身になる」はず。

 

 KJ法についてなら、いつも偉そうにのたもうていることですが、己れの心身の基本が崩れがちな今日この頃。

 この場で公開することで、一年間、健やかに過ごすためのモチベーションをキープしたいですし、自身からも他者からも世界全体からも、あたたかな〈いのち〉の匂いを感じられる一年にしたいと切に願います。

 

 

 

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2018年を振り返って

  • 2018.12.30 Sunday
  • 17:42

 

 いったいこの体験にはどんな意味があるのだろう。

 今年に限らず、なにかしら不条理な、あるいは理不尽な体験を致しますと、その〈意味〉を握り締めるのが難しいと感じてしまいます。

 ことのほか今年は、私だけではなく、多くの方々がそのような想いに駆られたのではないでしょうか。

 

 KJ法においても、ラベルの〈志〉(ラベル群全体を背景とした個々のラベルのシンボリックな訴えかけ)がなかなか見えてこないことがあります。図解が完成した暁には、それは仮に「一匹狼」であっても逞しい〈志〉を放っていることに気づかされ、図解全体の構造の一翼を立派に担っていたりするのですが、そのことに思い至るまで、こちらの〈我〉によってラベルを解釈したり、分類目線でどこかのグループに放り込んだりすることなく、あくまで全体感をバックにして訴えかけに耳を澄ませることとなります。

 KJ法は、〈渾沌〉を手際よくバランスよく〈全体〉として把握し、その〈全体〉の語りかけを己れをむなしくして〈構造化〉することによって〈本質〉を浮上させる方法、ということができます。

 今年の様々な体験は、まさに〈渾沌〉というべきですが、〈渾沌〉であるからこそ、私たちは己れをむなしくする姿勢・態度というものに目覚める契機を得たのかもしれません。

〈我〉によって安直な解釈でお茶を濁すのではなく、その意味するところを握り締め難いという不安に耐えながら、丁寧に〈渾沌〉の語りかけが明らかになるのを待つ。

 その語りかけが、この世界のあたたかな貌として顕ち上がるのを粘り強く信じて。

 

 今年も、ご愛読ありがとうございました。

 ご自愛の上、どうぞよいお年をお迎えください。

 

 

 

 

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