「統合」の本質
- 2023.08.30 Wednesday
- 13:13
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「狭義のKJ法」におけるラベル群のグループ編成では、「表札づくり」の精度が、「ラベル集め」の適切さとともに、重要になります。
セットになったラベル複数枚に、それらを統合する表現としての「表札」を与えるのですが、この表札が不適切であることによって、ラベル群の構造化は、実にみすぼらしい「ただの分類」に陥ってしまいます。
最も大切なポイントは、それぞれのラベルの「訴えかけ」を感受することによって複数枚を統合すべきだ、ということであり、この「訴えかけ」のことを、〈志〉と呼びます。
この〈志〉は、ラベル群の全体感をバックにして定まるものであり、使い手が好き勝手にラベルの原因や背景を解釈してはなりません。
ラベルをセットにするのも、恣意的なストーリー作りや安直な分類に陥ることなく、ラベル群の全体感をバックにした、相対的な「近さ」の感覚を吟味して行うべきものです。
以前、霧芯館の研修を受講された方から、質問されたことがあります。
「この2枚のラベルに表札をつけるというのは、2枚の共通項を拾い上げればよいということですか?」と。
つまり、Aというラベルと、Bというラベルがあったとして、それぞれ、同じくらいの長さのリボンで表したとします。2枚のリボンの重なった部分を表札として採用すればいいのか、というイメージです。
これは、間違っています。
共通項を見つけよう、という意識で表札をつけますと、「共通項」に関係のあるものとしてAとBのラベルを眺めてしまうことになり、AとBの異質さの部分は無視されがちになるわけです。そのことで、分類目線のグループ編成に陥りやすくなります。発想も、らべるたちの本質に手の届かぬ、平板なものとなりやすいです。
表札をつける、という行為は、近いからセットになったラベルたちではありますが、それらの異質さを統合する、という仕事もしなくてはならないのです。
ですから、異質さをはらんだAとBの、「共通項だけを抜き出そう」、ではなく、異質さをはらんだAとBによって形成される「全体」の、その核心とは何だろう、という意識で表札をつけるべきなのです。
例を挙げてみましょう。
以前、「〈初対面〉のラビリンス」というテーマで、霧芯館のワークショップを行ったことがありましたが、そこで提示されたラベルに、
「大人になるうちにいいひとを演ずるのがうまくなるので、だまされることがある」
「本当の自分と作りすぎたキャラとのギャップに苦しくなる」
というものがありました。
この2枚に表札をつける際に、「共通項」という意識で見てしまいますと、たとえば、
「本当の自分を隠している場合がある」
「分厚い仮面をつけている場合がある」
「本当の自分ではなく、演じている自分で対面している」
「素顔と、初対面の時の演技との間には、ギャップがある」
といった表札になるでしょう。
これらの表札では、演じている、あるいは、仮面をつけている、あるいは、本当の自分と演じている自分にはギャップがある、という共通項に意識が向いており、2枚のラベルに含まれていた、異質さが無視されています。
演技としての「いい人」にだまされること、そして、本当の自分と仮面の自分との「ギャップ」に苦しむということ。
この異質さをも含めて発想し、統合するなら、たとえば、
「厚くなった仮面のキャラが自他を振り回す」といった表札なら合格、ということになります。単に、仮面や演技の存在を指摘するだけではなく、その不毛さや弊害についての訴えかけを端的に表現しておきたいところです。
異質さを統合するために、2枚なら2枚のラベルを、いつまでも「2枚ある」と認識していると、なかなか「一つの表札」にたどり着けないので、ついつい、言葉の上だけで小細工をしたくなり、強引なストーリー作りをしてしまったり、安直に共通項を抜き出して分類に流れたりしてしまうものです。
まずは、イメージとして一つになること。複数枚のセットが、一つの「全体」として見えるようになること。これが何より大切になります。
一つの「全体」として見えさえすれば、それをギュッと圧縮する発想と表現があればよいのです。
この「統合」の本質が腑に落ちるなら、水泳でいえば、まずは水に身体を委ねて浮けるようになったようなものかと思われます。
水に仰向けに浮かんで高い空を見上げるような心地で、KJ法の「全体」や「統合」や「志」という概念の本質に触れていただければ嬉しいです。
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