眉間に皺など寄せるな

  • 2018.02.26 Monday
  • 21:59

 KJ法は美しい方法です。

 美しくて温かみがあり、自分がこの方法を駆使したとき、自分を超えた〈天〉によって駆使させられたような、澄んだ解放感をおぼえます。

 

「眉間に皺など寄せるな」というのは、創案者である川喜田二郎の言葉で、「狭義のKJ法」における「グループ編成」で、ラベルたちに「表札」をつけるときの心構えとして発せられたものですが、この方法全体が私たちに語りかけてくる思想にも、いつもこの言葉が潜んでいるように感じます。

 

「表札」をつけるということは、複数のラベルを統合する文章を考えることであり、元になるラベルたちと同じ大きさのラベルに「表札」を記しますので、そこでただの「足し算」をしたり「ストーリー」を作ったりしていては、同じ大きさのラベルに収まりません。

 なんらかの仮説発想なり抽象度のアップなり本質追求なりといった適切な「飛躍」あるいは「止揚」がなければよい「表札」とは言えません。

 たとえば目の前に今から表札をつけようとする2枚のラベルがある時、いつまでも目の前に「2枚のラベルがある」と認識していると、ついつい言葉の表層だけで「足し算」的なつなぎ方をしてしまいます。

 そこで、2枚ではない、実は一つのことを言いたがっているのだ、その一つのことって何だろう、と「点メモ」を繰り広げながら、「2枚ではなく、一つの〈全体〉」をそこに展開してみます。〈全体〉がわかってきたら、粗くてもよいので「短歌」一首ひねり出すような気持ちでその〈全体〉を圧縮して表現し、さらに推敲して「表札」としての文章を整えます。

 この「2枚ではなく、実は一つの〈全体〉なのだ」、という風に発想できるかどうかが、「表札」の成否を決めるといってもよいのですが、ラベル個々の細かなニュアンスにこだわりすぎて「飛躍」ができずに「足し算」をしてしまう人もいれば、細部の異質さを切り捨てて粗雑に一つの箱に放り込むような「分類」的目線に陥る人もいれば、片方のラベルで他方のラベルを「解釈」して強引なストーリー作りをしてしまう人もいます。いずれも正しく「止揚」できていないわけですが、どれもやってはいけないと言われると、眉間に皺が寄ってしまう。

「眉間に皺など寄せるな。」

 こんな楽しい行為はないではないか、という川喜田二郎の声が聴こえてきます。

 近いけれども異質な複数のものを同時に視野に収めると、人は生き生きと発想しないではいられない生き物なのだ、というこの方法の発想力を支える認識が、使い手を豊かな創造性の沃野へと誘ってゆきます。

〈全体〉と〈個〉を往還するうちに、人は自然と〈個〉に〈志〉を感受するようになる。つまり、個々のラベルが、全体にとってなにかしらシンボリックな訴えかけを持っているように感じ始める。この感受の仕方にこそ、「渾沌をして語らしめる」というKJ法の本質が潜んでいます。

〈個〉と〈全体〉との関係が刷新されることで、私たちの世界観も刷新されます。

 まずい「表札」のように、どちらも「同じだ」といった平準化や、ゆるい仲間意識へのもたれかかりや、相手の都合のよいところだけを切り取って己れの我のために利用するような、濁った関係意識や世界観を超える方法でもあります。

 そのための、「眉間に皺など寄せるな」。

 

 方法の温かさ・優しさは厳しさでもあり、人の我欲を超えてゆく技術でもあり、最終的に東洋的な美観を呈する、澄んだ世界観に裏打ちされています。

 

 

 

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2017年を振り返って

  • 2017.12.28 Thursday
  • 18:26

 

 今年も霧芯館にたくさんの方々をお迎えし、KJ法とその世界観に、じっくり触れていただきました。

 受講された方々を対象に開催しております夏・冬のワークショップでは、「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマでグループKJ法に取り組んでいただき、〈現在〉の抱えている課題を浮上させてまいりました。

 その中で、今年もさまざまな領域の方々と触れ合い、さまざまな現場の匂いを臨場感をもって味わう体験をさせていただくことができました。

 

 いずこの現場でも、「今の学生は」とか「今の新人は」といった嘆息が、人を育てる側から聞かれます。その嘆息の内訳のとんでもなさは目を白黒させるくらいで、こういう学生が現場に出たらどうなるんだろう、と、特に医療現場に出てゆく看護師育成の現場のお話には不安をおぼえたりします。そこには、昨今話題の「毒親」の影がつきまとっていたりもするようで、一朝一夕で若者を一人前には出来ない、根深い病理に誰もが疲弊しているのを感じます。

 それでも、育てる側の方々の、困惑しながらもしびれを切らすのではなく、学生の強みをどうすれば現場で生かせるのかと、アプローチの仕方を模索し、日々奮闘しておられる様子には頭が下がります。

 若手にKJ法でグループ作業をさせてみたところ、思いがけない集中力と粘りを発揮し、深い手応えを得られた、といったご報告を、しみじみ嬉しく感じたこともあります。

 あきらめない方々が、困惑と嘆息を乗り越えて、若者の内に秘められていたものに触れておられる気配を、間接的ですが私も深く吸い込ませていただきました。

 

 KJ法の修行の機会を、と毎年ワークショップを開催しておりますが、この修行にハマってくださる方も年々増えて、今年も夏・冬ともに盛況でした。KJ法の修行は厳しいけれども楽しいものだということに気づいていただくのが、主催者としての最大の狙いです。

 KJ法に出会う前と後では、世界風景が違ってみえる。

 そう思っていただける人を、今年もじわっと増やせたのなら、私にとって良き一年であったと振り返ることができます。

 

 日々、KJ法で風景を更新し続けておられる方々も、今年初めてKJ法で風景が変わった方々も、どうぞ良いお年をお迎えください。

 


 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ 2017 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 21:51

霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 18:41

 さる12月16日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 

 8月に行われた夏のワークショップにおいて、今年は「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマで参加者によるディスカッションがあり、数百枚のラベルが提示されていたわけですが、冬の参加者には、そこから私がピックアップしておいた70枚を事前によく味わってきていただき、「其ノ二」当日はチーム毎に20枚のラベルを精選し、「狭義のKJ法」で構造化していただきました。

 

 今回のテーマにおける〈違い〉は、本物であるかどうか、自分が求めていたものであるかどうか、質か良いかどうか、といった意味に限定したのですが、そのことで、〈価値〉をめぐる私たちの判断の質をあぶり出したいというのがねらいでした。

 このテーマでKJ法にまっとうに取り組みますと、それぞれの〈価値観〉をぶつけ合うことにもなります。日頃、互いの価値観には触れないでおこう、相手を尊重しよう、自分と違う価値観にはそっと目をつぶろう、といった柔和で微温的な距離感で生きていたとしても、この日ばかりはそうも言っていられない、といった状況になりかねないことを少しばかりどきどきしながら期待していたのですが、この「そうも言っていられない」は素敵な形で実現致しました。

 時間内に図解を完成させるべく、各チームでメンバーが一丸となる必要に迫られたとき、異質極まりないラベル達が、メンバー全員の合意のもとに統合され、構造化され、本質を浮上させるプロセスにおいて参加者の発していた熱気は、半端なものではありませんでした。

 穏やかで口下手な人だけど大丈夫だろうか、自己主張の強い参加者に牛耳られてしまわないだろうか、世代や背景が違い過ぎてすり合わせられないのではないだろうか。そういう不安は吹き飛んでしまいました。

 誰一人無口な人はおらず、初対面同士をも含むメンバーで、おそらくは同じ職場や生活圏内での関係においては突っ込んだこともないような実存的な問いや本質的な課題をラベル群の奥に感じ取って、まっすぐやりとりしている風景というのは、一種異様な「ハレ」の空気感、お祭りのような非日常性が躍動していました。

 

 本物探しは実は自分探しの旅なのだという把握、本物を追求する・しないの〈揺らぎ〉からスタートして本物へと成長するドラマ、本物と偽物が共存する世界で揺さぶられる私たちの振れ幅の大きさ、リアルにもファンタジックにも人を変える力をもつ泰然とした本物、持続性と独創性を秘めてこその本物、カオスから本物を浮上させるドラマ、といった、異質な構造化が出そろったのですが、いずれの図解にも、〈本物〉が課してくる厳しさへの憧憬とかすかな不安が滲んでいたようにおもいます。

 

 私が事前に作成してきた、70枚全てを使った図解も披露いたしましたが、図解タイトルは「厳しさが優しさであるように」というものでした。

 存在として〈本物〉であろうとすることも、〈本物〉を見きわめることも、実に厳しい試練にさらされますし、他者にわかってもらえない孤独な追求です。本物にこだわらなくてもいいじゃないか、という気持ちに安らぎたい自分もいます。その両者は相反するように見えますが、一度〈本物〉に出会ってしまうと、世界風景は一変するのであり、〈厳しさ〉は〈優しさ〉でもあるといった境地に突き抜けてしまうようです。恋に落ちて世界風景が一変するように、厳しいのか優しいのか、そんな区別すらどうでもよくなってしまう。後戻りのきかない風景の激変を、〈本物〉は誘います。

 

 各チームの図解にも、そういう風景激変の瞬間が必ず封じ込められていて、誰もがこの日の作業を通して、その本質にしっかり触れておられたのを感じることができました。

〈本物〉のKJ法の作業は、ことのほか人をそういう境地に追い込むものです。

 妥協の無いラベルの統合をしたくて悶々としながら、その厳しい時間をこの上なく楽しんでいる自分がいる。KJ法的至福の時間に全身浴しているみなさんの顔を見ながら、私も幸せな時間を過ごすことができました。

 

 

 

 

 

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紅葉の気持ち

  • 2017.11.30 Thursday
  • 13:16

 毎年、夏と冬に「霧芯館KJ法ワークショップ」を開催しておりますが、ここで提示された参加者のみなさんのラベルは、私の中で繰り返しシンボリックに顕ち上がってきます。

 

 これまで、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」「変容の本質―現場が変わる瞬間―」「“寄り添い”の哲学」「〈リアル〉の手触り」「〈闇〉の居場所」「〈初対面〉のラビリンス」そして今年は「〈違い〉がわかる瞬間」といったテーマで取り組んでまいりました。

 夏に「パルス討論」というディスカッションによって提示されたラベル達から、私が70枚をまずピックアップしておき、冬のワークショップでは、そこからさらにチームごとにラベルを精選して「狭義のKJ法」に臨む。このスタイルを続けることで、それぞれのテーマごとに珠玉のラベル達が生み出され、珠玉のKJ法図解が完成してきているのですが、図解が完成し、ラベルの〈志〉がその図解の中で明晰に位置づけられたとしても、不思議なことにそもそものラベル個々に対するシンボリックな感受が狭くなるわけではありません。

 印象深いラベル達は、その後も私の中で密かな場所を占め、折あるごとに意識に浮上して、実体験と私の無意識とを鮮烈に架橋してくれたりします。

 

 辛い時や困った時に浮上するラベルは、どちらかというと私の内部には無かったもので、私の欠落を補ってくれるように登場することが多いようにおもいます。

 たとえば、「変容して行くものを、していかないような気持ちでいると、相手も自分も行き詰まる。」などは、自戒の言葉としてしばしば鋭く機能してきましたし、人間関係が難しく頭に血が上りそうな時などは、「自分と相手の関係の『あいだ』で起きていることを見つめることが必要だと思う。」といったラベルでクールダウンできたりします。

相手に泣いてもらった。」は「“寄り添い”の哲学」の時のラベルですが、他者の抱えている〈闇〉にうろたえない覚悟を今一度想い起こさせてくれます。

 

本物とにせ物のわずかな差を感じわけることができる時がある。」などは、逆に、いつもそういう「差」に嗅覚を研ぎ澄ますようにしているので共感できるラベル。

 

明るい夜のコンビニの店先は本当はまっ暗な闇である。」は、コンビニの前を通りかかるたびに思い出します。これはリアルな「明暗」のこと以上に、そしてコンビニという場所を超えて、〈光〉だらけの〈現在〉の風景が隠し持っているものを想像させるラベルで秀逸。実際の風景がリアルに顕ち上がりつつ、実にシンボリックに作用するラベルです。

 

一度すみついたら出ていってくれない。」これも「〈闇〉の居場所」で出されたラベルですが、人の心のしみじみと怖くて切ない空間を想起させ、現在の社会に蔓延する病理や孤独の形がゆらめくようです。

 

TAXIの運転手と話がはずむことが多い。」これは「〈初対面〉のラビリンス」でのラベルですが、最近、タクシーを利用する機会が立て続けにあったことで、納得のゆくラベル。「その場限り」という関係の気安さで、運転手さんから随分と楽しいお話をたくさん聴くことができて、タクシーの中、という特殊な空間でほぐれるもののことを考えさせられました。

 このラベルは、「金沢@石川では、地元出身でない者は、“旅の人”と称される。」「ネット上の架空の関係は、一度も対面すらせずに進展してゆく。」というラベルとセットになって、私の図解では〈ゆきずり・旅の人・架空といった関わり方が、関係の永続性・直接性へのこだわりを揺さぶる。〉という表札となり、さらに他のラベル群との統合を経て、《〈初対面〉は、関係の自由・不自由という両極を意識させることで、世界観を揺さぶる。》という表札となったのでした。〈初対面〉というものが、自由でありたいという気持ちと、関係の「逃げられなさ」「拒めなさ」という両極を意識させ、この世界を縛られないものとして感受するのか、拒めないものとして感受するのか、それぞれのとらわれを強く揺さぶるのだということを、ラベル達は訴えかけていたわけです。

 

 

 

初めて会う犬に必ずほえられる。」これも、犬に出会うたびに思い出すのですが、やはり犬という事例を超えて、誰もが持ち合わせている自他の異質さへの嗅覚や不安といったものをシンボリックに意識させます。

ねこカフェで〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる。」これは、ねこカフェならずとも、昨今のネット上のコミュニティーについても言えること、共通項があることで安心して盛り上がれる関係性を想起させます。この共通項の背後に、実は異質さへの不安も透けて視えそうです。

「『ひとめぼれ』という現象がある。」人や風景との「ひとめぼれ」がなぜ起こるのか、相対的な吟味を超えた出会いのたびに、このラベルも浮上いたします。

 

 こうやって振り返ってみますと、参加者のみなさんのKJ法修練のために、と、毎年〈現在〉の課題に鋭くクロスするテーマを設定してまいりましたが、私自身も日々の〈関係〉を通して、それぞれのテーマの意義や個々のラベルの象徴性を問いなおす作業を楽しみ続けており、いつまでもいつまでもラベル達が私に寄り添ってくれている、といった印象があります。参加者の生活のひとコマから掬い上げられた珠玉のラベル達に、日常を、関係の困難さを、染め直してもらえていることに感謝の念が湧いてきます。

 

 今年も鮮やかな紅葉を見ていますと、人間だけではなく樹木も、もしかしたら光や風や雨、人も含めた周囲の気配というものを、シンボリックに感受しながらその身を彩っているのかもしれない、という気がしてきました。

 さらっと時雨れた後に産まれた虹によって七色に身を染められた山肌も、己れを取り巻く世界の象徴としてこの虹を官能的に感受し、魂を震わせ、色づき方を択んでいるようにもおもわれます。

 

 

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 15:57

 

 去る8月5日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017」を開催いたしました。(於:京都テルサ)

 毎年、一つのテーマをめぐって、夏と冬の年2回のワークショップで、KJ法による問題解決の型を体験していただくのですが、今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」でした。

 このテーマ設定の趣旨は、以下の通りです。

 

今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」。本物かどうか。質が良いかどうか。求めているものかどうか。私たちは情報の海で溺れそうになりながら、あるいは情報が全く得られない時にも、対象の価値について判断を迫られることがしばしばあります。「本物・良質さ・適合性」といったものに辿り着くため、私たちはどのような方法・プロセス・基準・能力を採用し、「偽物・悪質さ・不適合性」と峻別するのでしょうか。上手く見極められた思い出、間違った痛い思い出。譲れないもの、こだわるもの、許せない違い。そういった〈違い〉を意識させられる瞬間について語り合っていただくことで、〈現在〉における価値をめぐる判断の質を問い直してみたいとおもいます。

 

 霧芯館の研修を受講された方とそのお知り合いを対象にしたワークショップ、今年も全国からお越しの多くの参加者によって、「〈違い〉がわかる瞬間」をめぐるディスカッションがチームごとに繰り広げられました。

 

 

「パルス討論」というKJ法の技法を用いて「探検ネット」という図解を作成することで、このテーマをめぐって360度の視角から参加者の想いが提示されるようにします。

 これらが「狭義のKJ法」によって緻密に構造化されるのは冬のワークショップにおいてなのですが、夏はまず、質のバラエティーが豊かに提示されることを目指します。

 今回も、魅力的なラベルをいくつかご紹介しましょう。

 

モノが壊れた瞬間、「これは安物だった」と思う。

危機にあった時も、いつもと変わらない態度をとりつづけられる人に信頼感を持つ。

非言語的コミュニケーションが違いをあぶり出すことがある。

「へ〜〜〜」と思わず声が出る時に本物と感じる。

楽しいと感じるときに、感性が鋭くなる。

ときにはにせものを楽しむこともありだと思う。

文章を読めば、コピペかオリジナルかの違いがわかる。

治療の姿勢で、医師の患者に向き合う姿勢がわかる。

通過儀礼で人が変わることがある。

シンプルな言葉が本物だと思う。

氏より育ち、とよく言われる。

化学調味料が本物を隠す。

添加物なしの自然なものを食べていると、味覚が敏感になる感じがする。

多数のファンが居なくとも、一人でもファンがいれば、本物になれる可能性が有る。

私も、誰か一人でも支持してくれれば、その人にとり本物になれるかもしれない。

飼い猫の態度で、我が家のヒエラルキーがわかる。

違いに気づく前後で世界が違って見える。

こだわりの違いに気づいてくれた時ほど嬉しいことはない。

ゾウキンのしぼり方で、その学生がどのように育ってきたかがわかる。

良いレポートは、読んでいて朱で線を引きたくなる。

電話相談員は、声だけでイタズラかどうかわかることがある。

「本物とわかる」と「ニセモノとわかる」は別々のメカニズムなように思う。

スキな人が言うことは、ニセモノを本物にしてしまう力がある。

ニセモノであることを言明しつづけ、努力している芸人は、本物をこえる。

経験を積むことで、アンテナが鋭くなる場合と、かえって鈍くなる場合がある。

ゴッホの作品を実際に見ると、筆圧や絵の具の厚みが見えて胸にせまってくる。

しゃべりすぎる人は「ホンモノ?」と疑ってしまう。

模写したら〈違い〉がわかる。

あえて知りたくない〈違い〉もある。

一流の人には色気がある。

白か黒か違いを決めつけないで、グレー状態に耐える力が必要だ。

フェイクファーでも着こなしで十分に本物に見える。

利き酒は、最初は分かるが、後半はどうでもよくなる。

愛よりお金、お金より愛、どちらも真実だなと思う。

「最後の1コ」をとるかどうかで人を判断する。

コピー文化が広がるからこそ、本物はわかりやすい。

専門家にしかわからない〈違い〉は尊重すべき。

逃がしてから気づく本物に、自分への失望感を抱く。

自分はあまり違いが分からない、と思うようにしている。

おみこしをかついだ時、リズムが合うと、慣れた人だけなんだーと思える。

本物は人にこびない。

ライブで、後ろのすみっこの席でも、感動をくれるアーティストにひかれる。

デマを拡散しないようにするのは、とてもエネルギーがいる。

人も物もニセモノは飾る。

本物は、普通になじんだ生活をしている。

関心がないと違いにも気づかない。

キラキラし過ぎる石は、逆に、ニセモノかと疑ってしまう。

メッキははがれる。

 

 今年は、単に「こんなことがあった」「こんな想いをもっている」という表現ではなく、ラベルを書くことでまさにその書き手の「価値観」がにじみ出るような、味わいのあるラベルが多かったようにおもいます。

 日ごろ、何を大切にして「択ぶ」「判断する」「決定する」といった事態に直面しているのか、1枚1枚にコクのある重みの手応えが感じられ、どのラベルも表情がしっかりしていました。

 これらのラベルが、参加者の中で渾沌のまま数か月持ちこたえられ、冬のワークショップにおいて構造化されることが実に楽しみです。

 

 みなさん、毎年とても楽しみにご参加くださいますので、私自身、一度でいいから、このワークショップを参加者として楽しんでみたいという気持ちがふつふつと湧いてきました。

 とはいえ、みなさんの楽しさを、会場の空気とラベルから感じ取ることで、私もかなり楽しんでいますので、とにもかくにも贅沢な1日を過ごすことができました。

 本物のKJ法とご参加のみなさまの本物の熱意に深謝。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.08.07 Monday
  • 15:08

「霧芯館 KJ法ワークショップ2016 作品・解説集」完成

  • 2017.05.28 Sunday
  • 12:40

 昨年開催致しました「霧芯館 KJ法ワークショップ 2016」の「作品・解説集」が完成の運びとなり、参加者のみなさまに成果をお届けすることができました。

 毎年、一つのテーマをめぐって「パルス討論」による「探検ネット」の作成、「多段ピックアップ」を経て「狭義のKJ法」という一連のグループ作業を行ない、夏と冬の二回で完結する物語を体験していただいています。

 2016年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」でした。

 ワークショップで完成された図解、スタッフや私自身の個人作品も含めて、このテーマをめぐって提示されたラベルたちがKJ法図解となった成果を、丁寧に解説した冊子です。

 

 

 このテーマはとても評判が良かったという印象があります。

 誰もが毎日のように体験する〈初対面〉。それにまつわるきわめて具体的でささやかな事例や想いが提示しやすく、それらがKJ法図解として構造化されたときに、「抽象度が上がる」「本質が追求される」とはどういうことなのか、極めてわかりやすい。

 KJ法が具体性からどれほど魅力的に発想できる方法なのか、実に鮮やかに確認できるテーマであったとおもわれます。

 

 毎年のことですが、同じラベルを共有していながら、チームごとに異質な図解が出来上がるのも刺激的です。

 今回は、どのチームの図解にも、私たちの〈関係〉や〈世界観〉に対して〈圧〉をかけてくる「規定力」が浮上しており、「社会」「因縁」「宿命」「自意識」「我執」といったバラエティーでその「規定力」の質が把握され、どのようにそれを超えてゆくのか、各チームの個性が図解ににじみ出ておりました。

〈初対面〉において意識的・無意識的に駆使されている技や配慮や身構えの中に、実はこの世界をどのようなものと認識し、それに対していかに闘って超えるべきだと考えているのかという叡智が潜んでおり、KJ法によるダイナミックな構造化の成果が一望できました。

 誰もが何らかの「規定力」の〈圧〉を感じ、それを「怖い」と感じつつ、「自然でありたい」「自由でありたい」「良き物語を紡ぎたい」と祈りながら日々の生活において磨かれてゆくものがある。そんな手応えを、霧芯館のワークショップ参加者によって象徴的に担われた〈現在〉の手応えとして感受できたことが、とても幸せなこととおもわれました。

 

 また、毎年このワークショップ開催を待ち望んでくださっている参加者のみなさまのお気持ちにも勇気づけられます。

 案内状の送信を今か今かとお待ちいただいていたり、日程確定を待ちきれずに飛行機や宿泊先の手配をするという博奕(しかも負けない!)をなさる方もおられて、こちらもうれしいやらはらはらするやら。

 このような幸せな場の提供は、私一人では出来ないことで、支えてくれるスタッフや、新たな参加者をも和やかにリードできるベテラン受講者の存在や、現場を闘っておられる方々の熱い想いがあればこそであり、そこに創案者・川喜田二郎のこの方法に込めた思想が、ご縁のある人々の集う場に寄り添って、方法の〈花〉を咲かせていることを感じます。

 

 今回も、入魂の批評・解説に多大なエネルギーを駆使致しましたが、今一度〈花〉の美しさを参加された方々と共に味わい直すことができて、充実した安堵感に浸っております。

 

 

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〈想い〉はどこにあるのか

  • 2017.04.29 Saturday
  • 16:09

「現場がKJ法で変わってきています。」

「職員の今までの思い込みが払拭されて、利用者さんの立場に立つってどういうことか、みんな考え始めました。」

「研究発表しますと、KJ法で構造化されると患者さんの想いがよくわかる、と、私たち看護師仲間の評判がいいです。」

「KJ法で図解にされて初めて、自分達の現場の状況がどういうことになっているのかわかりました。」

「とてもまとまらないだろうと思っていたのに、合意形成できました。」等々、嬉しいご感想を受講者からいただくことがあります。やはりKJ法が現場できちんと活かされているというお話に、なによりこちらも勇気づけられます。

 

 では、KJ法で構造化されなければ、何がそんなに困難なのでしょうか。

 

 自分達が生身で触れている現場であるはずなのに、顧客や利用者や患者や自分達自身の〈想い〉に誰よりも詳しいはずの方々なのに、その〈想い〉をもてあましているのはなぜでしょうか。

〈量〉では測れない〈想い〉、つまり〈質〉を相手にしている。

 そして、その〈質〉が雑多で混沌としている。

 KJ法に辿り着かれる方は、概ねご自身のフィールドに対して、この二つのハードルを越えたいと望まれるのですが、この二つは、結局一つの本質的なハードルを指し示しているとおもわれます。

 つまり、〈量〉ではなく〈質〉でフィールドを把握したいと望んでも、〈質〉を〈量〉に換算する目線から逃がれられない、というハードルです。

 いろいろな〈質〉のバラエティーが目の前に整理された状態を生み出すだけなら、ただのブレーンストーミングでも可能でしょう。

 では、それらの〈質〉のバラエティーの、どれが一番多くの顧客や利用者の想いなのか、といった具合に、結局は多数決に持ち込む発想から逃がれられない。最も多くの数が集中している〈質〉を原因であるとか本質であるとか決めつけることで、結局は〈全体〉を把握しそこなってしまう。何かを切り捨て、犠牲にしている感覚に、釈然としない気持ちになる。誰かのニーズに合わせることが、他の誰かのニーズを殺してしまう。

 しかし、現場の方々は、ご自身が触れた、患者さんや顧客のふとした一言が生々しく気になって仕方がないのです。ここで殺された〈想い〉をそのままにして、組織は、現場は、果たしてほんとうの意味で生きのびられるのだろうか、と。

 パソコンソフトでグラフにされた結果からはこぼれ落ちてしまう、しかし、その一言こそが現場の状況のゆるがせにできない何かを表現していると思われてならない。

 そんな感受性が活かされるためには、やはりKJ法によって、データを「シンボリックに感受」しながら〈全体〉の訴えかけを構造化し、その本質把握への道筋を見出すしかないのであり、〈質〉を〈量〉に換算することなく、むしろ〈量〉も〈質〉へと転換して感受し、すべての〈質〉を一つの〈本質〉へと転換する必要が生じてきます。

 そのようにして把握された〈本質〉から解決策を見出してゆくのでなければ、いびつな〈全体〉観に規定された恣意的な〈原因〉探索に導かれて、方向性は歪むばかりです。

 

 一方でまた、〈質〉の扱いにも困惑がつきまといます。

 現場に生きていれば、具体的な〈質〉のバラエティーなら日々いくらでも目にするわけですが、それらはあくまで「今日はAさんがこう言った。」「今日はBさんがこんな希望を口にされた。」といった具体性にとどまります。何か大切な訴えかけが潜んでいる、とその場で感じてはいても、「高齢者は」「消費者は」「患者は」「利用者は」といった抽象度において、それらが何を訴えかけているのか、多忙な現場で明らかにしてゆくのは至難のわざです。

 そこでも、適切な〈抽象〉という行為によって、個々の具体性の「土の香り」を残しながら統合し、構造化へと導けるのは、正しいKJ法の世界観と方法論があればこそであり、ちょっと意識がゆるめば、それらの〈抽象〉もまた、ずさんな「観念化」へと滑りこみ、ただの分類へと堕してしまいます。

 

 あるいは、「Aさんがこう言った」という一つのデータに対して、全体を無視した感情移入を野放しにすることも、本質把握をいびつなものにします。観念的な使命感や、個人的なトラウマや実体験との接点から、誰か一人の発言への思い入れが強くなってしまうといった場合です。個々の語りに対して、放恣な解釈や想像力をはばたかせるのではなく、〈全体〉を背景としてどのような〈質〉の訴えかけを持つのかについての、適切な感受が必要です。

 

 このように、〈量〉へのとらわれを脱していても、〈質〉を個人的な思い入れや観念的な分類へと回収する目線から脱することがまた、困難になっているのです。

 

〈質〉にこだわるということは、単に〈量〉で測れないものに根拠を求めるというだけではなく、〈全体〉を、この世界を、どのように把握するのかという〈世界観〉を立て直すハードルに直面するということです。そのハードルを見ないことにしてやり過ごしながら対症療法的な手立てへと駆り立てられるだけでは、とても対処できない状況というものが、〈現在〉を覆い尽くし、いずれの現場も混迷を深めています。だからこそ、変わり始めてもいるようです。

 

 既成の世界観によっては決して手に入れることのできない羅針盤というものがあります。現場の底から浮かび上がる羅針盤です。

〈想い〉は、いたるところで生かされる機縁を待ち望んでいるようです。

 

 

 

 

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無駄に使うな、贅沢に使え。

  • 2017.03.31 Friday
  • 15:31

 ずいぶん前のことですが、バイオリン作りの職人さんが、「木は、無駄に使うな、贅沢に使え。」と語っておられる記事を読んだことがあります。

 これは、素材としての木の、良い部分を効果的に使ってバイオリンにする、といった平板な意味ではなかろうとおもわれます。

 木には木としての命があり、その全体を生きています。その「部分」が使われてバイオリンとなるはずですが、使われない部分ははたしてただ廃棄されるだけなのでしょうか?

 私には、木が「ここを使ってくれ」と訴えかけてくる、そこを使うことが、木を全て使うのと同じ「贅沢」となる、そういう意味をもつ言葉と感じられます。それは、「評価」によって「良い部分」「悪い部分」を取捨選択する行為ではなく、「ここを使ってくれたら私の命はまるごと生きる」という木の訴えかけに従う行為なのだと。

 そして木がバイオリンとなった時には、そのバイオリンにもバイオリンとしての命が生まれます。それは木であったときの命と同じものではありませんが、バイオリンは、木の命を受け継ぎながら、新たな命として贅沢に転生し得るのだと。

 ものごとを「生かす」ことを考えるたび、いつもこの言葉が思い出されてなりません。

 

 KJ法において、この言葉が最も鮮やかに想起されるのは、「多段ピックアップ」という技法を駆使する時です。

 現場から取材されたデータが、ラベルに記入された結果大量枚数となった場合、KJ法ではそれらのラベル全てを使って「狭義のKJ法」の作業によって構造化することももちろん可能ですが、「探検ネット」上に配置された大量ラベルに対して「多段ピックアップ」という技法でラベルを精選し、その精選されたラベルを構造化することもできます。

 その結果は、全ラベルを用いたのに匹敵する、場合によってはそれを超える精度で優れた構造化や本質の浮上が可能となります。

 なぜそのようなことが可能なのかと言えば、たとえば200枚のラベルから、50枚のラベルを「多段ピックアップ」するという場合、200枚から150枚が棄てられたわけではなく、ピックアップされた50枚によって200枚全てを象徴的に感受しているのであり、いわば200−150の50枚ではなく、50=200であるような50枚だということなのです。

「なんだか気にかかる」という基準でピックアップするという行為は、評価目線によって「良し悪し」を決めつけるのではなく、無意識領域をも駆使した、全体感と個々のラベルの〈志〉の感受なのであり、既成概念や仮説にとって適合的か否かのチェックなどではありません。

 KJ法においては、「全体は個の総和ではない」のであり、ここでピックアップされた50枚も、すでに200枚という全体をシンボリックに背負っておりますし、これら50枚が「狭義のKJ法」で構造化されるならば、さらに個々のラベルの象徴的な意味は深く定まり、「土の香り」を残した抽象によって本質が浮上することとなります。

 

 この時、ラベル達は、無駄に使われることなく、非常に贅沢に使われた木として、優れたバイオリンのように生まれかわるのだと言えましょう。

 そこでは数の多さが確からしさを保証するのではなく、質のバラエティーの確保された〈全体〉を背景として、たった一枚のラベルでもシンボリックな〈志〉を獲得し、ダイナミックな発想に開かれた存在感を主張し始めます。

 出来ばえのよいKJ法図解を味わうとき、とても贅沢な気持ちになるのは、ラベルという〈個〉とラベル群という〈全体〉との間に、人の「象徴的感受」という心の働きを通して顕現するコスモロジーが有機的に息づくからだとおもわれます。

 

 おもえば、私たちも限られた時空間を生きております。

 自分という〈個〉が、何を〈全体〉として象徴的な存在たり得るのか。

〈木〉の訴えかけを損ねることなく、〈バイオリン〉としての可能性を生きられているのかどうか。

 そんなことを考えてみるのは、必要な贅沢とおもわれます。

 

 近頃よく、「スペック」という言葉が人について使われるのを目にします。そもそも「仕様」「性能」といった意味ですが、自身の履歴や他者の存在への評価として、「私のスペックはざっとこんな感じ。」とか、「A子の方がB子よりスペックが上。」「ハイスペック男子」などと使われているようです。

 目にするたび、なんとも言いようのないわびしい苦々しい痛ましさを感じます。

 ハイスペックであることで商品価値が高まる、そういう社会の目線に対応して適正に自己評価できるくらい大人である、との自負は、そういう価値尺度をもつ社会への毒念と、己れの更新のきかない「スペック」を見切る自嘲の念とに両足を踏みしめて、ぱさついたライフイメージをシビアに想定しようとしています。そして「スペック」という尺度によって存在が規定し切られた世界観が強固に彼らを抑えつけていることの不気味なほどの圧迫感がにじみ出ています。

「スペック」では見切れない世界の存在をどこかで感じているからこそ、「スペック」による自己評価に固執している、その痛みの自己主張でもあるのでしょうが、そこには〈木〉が〈バイオリン〉に転生する契機をあえて拒否した、己れの憎む社会の在り様への過剰適応の姿が垣間見られるようにおもいます。

 

 霧芯館には、80歳を超えた方が研修を受講しに来られることもあれば、大学生が自身の将来のために、自分でものを考え、問題を解決してゆくよすがにと、受講しに来られることもあります。

 概ね、世代が下がるにつれて、感受性がほっそりとしてゆき、世界観が痩せてゆくのを感じないわけにはいきませんが、それでも時折、びっくりするような深みのある内省力を若者に感じて驚嘆することもあります。

 そういう若者からは必ず、自分の限られた時空間を〈全体〉として、「無駄に使うな、贅沢に使え。」という言葉に相当するような内省力を働かせているという印象を受けます。〈木〉としての己れの深奥の訴えかけを、どうすれば〈バイオリン〉として生かせるのか、聴き取ろうとしている。

 うら若い身で、経験も見聞もさしてまだ広くはないはずですが、ささやかでも己れの世界と己れとの緊密な関係の意義へのあさはかでない洞察を、その作品から感じることができ、救われる気がいたします。

 

 咲き誇る花々を、今年は贅沢に味わってみたいとおもいます。

 

 

 

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