無駄に使うな、贅沢に使え。

  • 2017.03.31 Friday
  • 15:31

 ずいぶん前のことですが、バイオリン作りの職人さんが、「木は、無駄に使うな、贅沢に使え。」と語っておられる記事を読んだことがあります。

 これは、素材としての木の、良い部分を効果的に使ってバイオリンにする、といった平板な意味ではなかろうとおもわれます。

 木には木としての命があり、その全体を生きています。その「部分」が使われてバイオリンとなるはずですが、使われない部分ははたしてただ廃棄されるだけなのでしょうか?

 私には、木が「ここを使ってくれ」と訴えかけてくる、そこを使うことが、木を全て使うのと同じ「贅沢」となる、そういう意味をもつ言葉と感じられます。それは、「評価」によって「良い部分」「悪い部分」を取捨選択する行為ではなく、「ここを使ってくれたら私の命はまるごと生きる」という木の訴えかけに従う行為なのだと。

 そして木がバイオリンとなった時には、そのバイオリンにもバイオリンとしての命が生まれます。それは木であったときの命と同じものではありませんが、バイオリンは、木の命を受け継ぎながら、新たな命として贅沢に転生し得るのだと。

 ものごとを「生かす」ことを考えるたび、いつもこの言葉が思い出されてなりません。

 

 KJ法において、この言葉が最も鮮やかに想起されるのは、「多段ピックアップ」という技法を駆使する時です。

 現場から取材されたデータが、ラベルに記入された結果大量枚数となった場合、KJ法ではそれらのラベル全てを使って「狭義のKJ法」の作業によって構造化することももちろん可能ですが、「探検ネット」上に配置された大量ラベルに対して「多段ピックアップ」という技法でラベルを精選し、その精選されたラベルを構造化することもできます。

 その結果は、全ラベルを用いたのに匹敵する、場合によってはそれを超える精度で優れた構造化や本質の浮上が可能となります。

 なぜそのようなことが可能なのかと言えば、たとえば200枚のラベルから、50枚のラベルを「多段ピックアップ」するという場合、200枚から150枚が棄てられたわけではなく、ピックアップされた50枚によって200枚全てを象徴的に感受しているのであり、いわば200−150の50枚ではなく、50=200であるような50枚だということなのです。

「なんだか気にかかる」という基準でピックアップするという行為は、評価目線によって「良し悪し」を決めつけるのではなく、無意識領域をも駆使した、全体感と個々のラベルの〈志〉の感受なのであり、既成概念や仮説にとって適合的か否かのチェックなどではありません。

 KJ法においては、「全体は個の総和ではない」のであり、ここでピックアップされた50枚も、すでに200枚という全体をシンボリックに背負っておりますし、これら50枚が「狭義のKJ法」で構造化されるならば、さらに個々のラベルの象徴的な意味は深く定まり、「土の香り」を残した抽象によって本質が浮上することとなります。

 

 この時、ラベル達は、無駄に使われることなく、非常に贅沢に使われた木として、優れたバイオリンのように生まれかわるのだと言えましょう。

 そこでは数の多さが確からしさを保証するのではなく、質のバラエティーの確保された〈全体〉を背景として、たった一枚のラベルでもシンボリックな〈志〉を獲得し、ダイナミックな発想に開かれた存在感を主張し始めます。

 出来ばえのよいKJ法図解を味わうとき、とても贅沢な気持ちになるのは、ラベルという〈個〉とラベル群という〈全体〉との間に、人の「象徴的感受」という心の働きを通して顕現するコスモロジーが有機的に息づくからだとおもわれます。

 

 おもえば、私たちも限られた時空間を生きております。

 自分という〈個〉が、何を〈全体〉として象徴的な存在たり得るのか。

〈木〉の訴えかけを損ねることなく、〈バイオリン〉としての可能性を生きられているのかどうか。

 そんなことを考えてみるのは、必要な贅沢とおもわれます。

 

 近頃よく、「スペック」という言葉が人について使われるのを目にします。そもそも「仕様」「性能」といった意味ですが、自身の履歴や他者の存在への評価として、「私のスペックはざっとこんな感じ。」とか、「A子の方がB子よりスペックが上。」「ハイスペック男子」などと使われているようです。

 目にするたび、なんとも言いようのないわびしい苦々しい痛ましさを感じます。

 ハイスペックであることで商品価値が高まる、そういう社会の目線に対応して適正に自己評価できるくらい大人である、との自負は、そういう価値尺度をもつ社会への毒念と、己れの更新のきかない「スペック」を見切る自嘲の念とに両足を踏みしめて、ぱさついたライフイメージをシビアに想定しようとしています。そして「スペック」という尺度によって存在が規定し切られた世界観が強固に彼らを抑えつけていることの不気味なほどの圧迫感がにじみ出ています。

「スペック」では見切れない世界の存在をどこかで感じているからこそ、「スペック」による自己評価に固執している、その痛みの自己主張でもあるのでしょうが、そこには〈木〉が〈バイオリン〉に転生する契機をあえて拒否した、己れの憎む社会の在り様への過剰適応の姿が垣間見られるようにおもいます。

 

 霧芯館には、80歳を超えた方が研修を受講しに来られることもあれば、大学生が自身の将来のために、自分でものを考え、問題を解決してゆくよすがにと、受講しに来られることもあります。

 概ね、世代が下がるにつれて、感受性がほっそりとしてゆき、世界観が痩せてゆくのを感じないわけにはいきませんが、それでも時折、びっくりするような深みのある内省力を若者に感じて驚嘆することもあります。

 そういう若者からは必ず、自分の限られた時空間を〈全体〉として、「無駄に使うな、贅沢に使え。」という言葉に相当するような内省力を働かせているという印象を受けます。〈木〉としての己れの深奥の訴えかけを、どうすれば〈バイオリン〉として生かせるのか、聴き取ろうとしている。

 うら若い身で、経験も見聞もさしてまだ広くはないはずですが、ささやかでも己れの世界と己れとの緊密な関係の意義へのあさはかでない洞察を、その作品から感じることができ、救われる気がいたします。

 

 咲き誇る花々を、今年は贅沢に味わってみたいとおもいます。

 

 

 

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〈生き難さ〉へのアプローチ

  • 2017.01.30 Monday
  • 15:09

 これまで、KJ法を伝える仕事を通して、実に多彩な現場の方々と出会ってきました。

 そのことで、間接的ながら現在の多彩な〈生き難さ〉というものを垣間見ている気がいたします。

 最近、そのような〈生き難さ〉へのアプローチが、いろいろな現場において変容しつつあるという感触を抱きます。

 

 「病気」ではなく「人」を診るのはもちろんのこと、「人」の背景や歴史や家族や地域といったものまで含めて「診る」ことの重要性。

 身体的・精神的・社会的な「健康」だけでは不十分であり、霊的(スピリチュアル)な領域まで含めて「健康」の意味を考えることの重要性。

 当事者の意識だけではなく、当事者にも隠された無意識の領域における、痛み・苦しみ・強みを浮上させることの意義。

 「協働」のプロセスによって発生する不可知のドラマに賭ける治癒・治療行為。

 速さだけを求めず、時間をかけることでしか得られない効果への期待。

 当事者の目線に立っているという「思い込み」を払拭する試み。

 社会によって「望ませられている」意識の底から真の望みを掬い上げる挑戦。

 

 目に見えるものと不可分に存在する目に見えないものの価値と意義に対してアプローチしてゆかなければ、何も変わらないということに、あらゆる現場がハラをくくり始めたといった印象です。果敢な挑戦が日々、繰り広げられていることに感銘を受けます。

 問題解決においても、質的研究においても、今まで当たり前に共有されていた概念の輪郭を問い直していることが伝わってきます。

 

 医療とは、看護とは、健康とは、幸福とは。

 自立とは、尊厳とは、関係とは、他者とは。

 労働とは、身体とは、社会とは、家族とは。

 効果とは、癒しとは、治るとは、望むとは。

 連携とは、共有とは、痛みとは、悲しみとは。

 強みとは、成長とは、成果とは、老いるとは。

 教えるとは、支援するとは、共感するとは、聴き取るとは。

 個人とは、集団とは、生まれるとは、死ぬとは。

 

 観念的にこれらの概念を共有しているだけでは、現場は疲弊・荒廃する一方であり、現実にあまたの手痛い代償を支払って、厳しい痛みの側から、概念を塗り変える模索が始まっているのだと感じられます。

 

 高齢化社会、荒廃する地域、看護と介護の亀裂、世代間の亀裂、教育現場の疲弊、崩壊した家族、追い詰められる死生観、心の病理の測り知れない蔓延。

 

 娘(看護学生)の看護実習に付き添うのみならず、娘に代わって清拭ケアをしますと申し出る母親。

 認知症患者であふれる病棟。

 燃え尽きる介護職員。

 受け皿がなく自宅に帰れない高齢入院患者。

 親のための会社説明会を実施する企業。

 障害児を先に看取ってから逝く覚悟を定める両親。

 地域や社会の目に苦しむ障害者。

 老老介護の綱渡り。

 うつ病や自殺や家族の喪失。

 育たない若手に苦悩する企業。

 見えない測れないニーズ。

 社会から忘れられてゆく痛み。

 

 列挙すると実に暗い時代、とんでもないことが起こっている時代、と思われますが、このようなとんでもなさの中の痛みに正面から向き合っておられる方々が、霧芯館にお越しくださり、KJ法を握りしめて現場を変革してゆこうとしておられます。

 かつては問われなかった問いがどんどん浮上してきていること、概念が深められ、拡げられ、塗り変えられようとしていることを、私はとても頼もしく感じています。

 

 病理の極北まで来なければ見えなかったものが、ようやく心ある人々の目に映り始めている。この流れは、消えない、とおもうのです。

 払った犠牲も測り知れない大きさでしたし、今も払い続けていますが、私たちは独自のくぐり抜け方をしてゆくに違いないとおもわれます。政治や経済の動きに規定され混乱させられているようで、実は逆に、それらを規定し返す力というものが、人々の生活の現場には存在するのであり、実に〈生き難い〉世の中であるからこそ、その〈生き難さ〉へのアプローチも鍛えられてゆくのだと、信じられる気がいたします。

 

 2017年、お一人ずつの生活の中で鍛えられてゆくもの、深まりと広がりを獲得するものへの晴れ晴れとした〈信〉を、心より祈念いたしております。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ 2016 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.12.11 Sunday
  • 17:58

霧芯館KJ法ワークショップ2016其ノ二

  • 2016.12.10 Saturday
  • 18:48

 さる12月3日、「霧芯館KJ法ワークショップ2016 其ノ二」を開催致しました。(於・京都テルサ)

 年二回開催するワークショップは、夏と冬とで完結する物語です。

 でも、霧芯館での研修を受講済みの方であれば、冬のみのご参加も可能としておりますので、今回もたくさんの方が京都にお集まりくださいまして、KJ法による熱いご交流の機会を楽しまれました。

 

 今年のテーマは、「〈初対面〉のラビリンス」だったのですが、このテーマ設定は、我ながら「神ってる」としか言いようがなく、実に身近で誰でも必ず体験していることでありながら、この〈初対面〉に関する気がかりや事例をラベルとして扱うことで、コミュニケーションや関係性のみならず、世界観にまで関わる奥ゆきのある議論が可能となり、参加者のみなさんの楽しげだったことは今までのワークショップでも随一だったかもしれません。

 初対面から始まる関係性に対して、「逃げられない・避けられない」ことの重みをどのような表現で定着させようか、といった議論、あるいは逆に、関係を続けなくてもよいことの意味をどのように位置づけようか、といった議論。また、良い関係性を構築するために互いの領域を侵さない配慮、逆にいきすぎた配慮や、関係を統御しようとする不自然さへの葛藤にまつわる議論。こういう議論は、日ごろ参加者が、自分に降りかかってくる関係の意味をどのようにとらえ、そのことでより良く生きようとしているか、という人生観・世界観の軸をあからさまにするものであり、たかが〈初対面〉、されど〈初対面〉という感慨を起こさせるものでした。

 

 また今回、ちょっと主催者として一工夫いたしました。夏のワークショップで提示されたラベル達から、私があらかじめピックアップしておいた70枚一覧を、参加者には事前に送信しておいたわけですが、その際、メールには、「ワークショップ当日までこの70枚を繰り返しよく味わっておいてください。今日から1日1回は必ず!」と一言添えておきました。

 開催の一週間ほど前でしたが、たぶん、ほとんどの参加者は律儀に1日1回は目を通してくださったのだとおもいます。

 そのことで、当日の会場への交通機関の中で10回目を通すよりも、はるかにラベルたちの〈志〉が、参加者の内部でふくらみのある発酵の仕方をしていたのではないかと思われます。

〈志〉が明晰にならないラベルたちがたくさん、宙ぶらりんな状態で長い時間を過ごすことは、私たちの無意識にある種の負荷をかけるのですが、そのことで私たちの内部の〈渾沌〉は、なんとかして構造化して本質を明らかにしてほしがってうずうずしていた、そんな状態で誰もがワークショップ当日を迎えてくださったのではないかと推察いたします。

 

 いずれにせよ、今年もすぐれた図解がたくさん生まれましたので、またこれらの図解に解説を加えた「作品・解説集」も、参加者のお手元にお届けする予定でおります。

 

 来年も、良いテーマが降りてきますように。

 

 

 

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世界観を着替える

  • 2016.10.30 Sunday
  • 19:07

 最近、少しずつ不用品の断捨離を試みているのですが、さっぱりした本棚、さっぱりした部屋に近づくにつれ、「捨てる」という行為は実は、抽象度の高いビジョンへの決断なのかもしれない、と感じるようになりました。捨てているようで、本当はある一つのビジョンを択びとろうとしている自分がいて、そのことが快感なのだと気づきました。

 

〈渾沌〉の明晰な構造化を導くKJ法もまた、完成した図解によって抽象度の高い風景をもたらしてくれます。

 既成のカテゴリーに仕分けする〈分類〉という行為でもなく、全体を細分化して再構成しようとする〈分析〉という行為でもなく、「渾沌をして語らしめる」という創造的な営みとしてKJ法が機能するためには、私たちは「この世界をどのように感受するのか」という世界観からハラを据えて着替えねばなりません。

 霧芯館の研修では、いわばこの〈世界観の着替え〉によって、得体の知れないラベル達が受講者にとってかけがえのない意味を持つ風景として転生するに至る、濃密な時間を過ごしていただくことになります。

 完成した図解が実現している抽象度というものは、分類や分析による機能的だけれどもよそよそしいシステムを形づくるのではなく、個々のデータの〈土の香り〉を残した、非観念的な象徴性を有するものであり、創案者である川喜田二郎によって人間の野性的な本性として見きわめられた〈個〉と〈全体〉の有機的な感受の能力に基づいて、創造的に発想される〈本質〉というものを、私たちに開示してくれます。

 そこでは、抽象的であるということは、具象的な〈土の香り〉と矛盾するものではないのです。むしろ、抽象度が上がることによってこそ、〈土の香り〉が匂い立つような営みです。

 何十枚、何百枚というラベル群も、10束以内になるまで統合され、その数束は図解上で〈島〉として配置され、各島には〈シンボルマーク〉と呼ばれる概念が与えられます。島同士が関係線で結ばれ、構造が明らかになることで本質を把握できる感動は、根底から〈世界観の着替え〉を行った者でなければ味わえないものです。

 統合が繰り返されて抽象度が高まる時、下位のラベルは決してそのニュアンスを捨てられることなく新たな概念として表現されるべきであり、この方法には、「捨てる」「断念する」といった場面がありません。全体感を背景にしつつシンボリックに個々のラベルを感受して本質を発想することで統合する、そこにこの方法の核心と醍醐味がありますが、〈全体〉の感受も、その本質の感受も、個々人と渾沌とのやりとりの中で多彩な可能性に開かれていながら、ある一つの〈決断〉へと収束します。この方法の〈決断〉という姿勢、〈主体性〉という概念の豊饒さが実現されるべき場面です。

 何一つ切り捨ててはいないし、こちらの〈我〉を働かせてはいないのに、渾沌がクリアな相貌として訪れることの潔さ、とでもいいましょうか。

 

 部屋の、特に本棚の断捨離を進めながらふと、私はこのことで〈欲〉を捨てようとか何かを手放そうなどと思っているのではなく、自分にとってみずみずしい風景、呼吸が楽になる懐かしくも新鮮な風景を獲得したいという〈欲〉に、むしろ激しく衝き動かされているように感じられました。そのような〈欲〉が湧いてくることが我ながら面白く、生活の中にささやかな〈決断〉という節目を意識するのは、それがどれほどささやかなことでも、世界観の確認と深く結びついていることを噛みしめつつ、秋晴れのような潔くて陰影のある風景を日々目指しているところです。

 

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2016〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.08.17 Wednesday
  • 10:50

霧芯館KJ法ワークショップ2016

  • 2016.08.16 Tuesday
  • 13:25

 今年も、「霧芯館KJ法ワークショップ2016」を、8月6日京都テルサにおいて開催いたしました。

 毎年、夏と冬に開催されるこのワークショップ、夏は「パルス討論」と呼ばれる技法で「探検ネット」という図解を作成し、参加者はチーム毎にテーマをめぐって想いや事例を提示します。それらのラベルをもとにして、冬のワークショップでは「狭義のKJ法」のグループ作業を行い、渾沌としたラベル群が緻密に構造化されるプロセスを体験していただきます。

 

 

 今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」。

 霧芯館の研修受講者のみなさまにワークショップのご案内を差し上げるのですが、今年のテーマはご案内の時点で好感度が高かったようにおもわれます。誰もが必ず数えきれないくらい体験したことのある〈初対面〉ですが、その〈初対面〉に対する姿勢や身構えの質を構造化することで、関係や世界に対して私たちが抱くべきまなざしを問い直したいというのが、テーマ設定の趣旨です。

 

 酷暑の京都に全国からお集まりくださった参加者のみなさまの熱気で、〈初対面〉の戸惑いや身構えなどあっという間にほぐれ、どのチームからも楽しげで真剣な空気が発散されていました。

 

「探検ネット」においては、テーマに関係のありそうなラベルがさまざまな角度からバランスよく、効率的に提示されることが目指されておりますので、それらのラベル達が構造化され、渾沌の本質にたどり着けるのは冬のワークショップにおいて、なのですが、それでもパルス討論終了後の各チームの軽いプレゼンには、討論の時間の熱さと拡がりがダイナミックに表現されており、チームそれぞれ異質な表情をしているのがまた楽しく感じられました。

 

 世間では、この「パルス討論」をだらしなくしたようなゆるいブレーンストーミングの結果をもって「KJ法」と称していることも多いようですが、それでは「渾沌をして語らしめた」ことにはなりません。

 テーマをめぐって出し切られたラベル達の訴えかけを、きちんと「狭義のKJ法」によって精密に構造化し、その本質を把握するのでなければ、真にKJ法を活用したとは言えません。

 夏の参加者には、冬までの期間、ラベルの印象をもやもやともちこたえていただき、冬のグループKJ法によって渾沌が構造化される醍醐味を満喫していただきます。

 

  以下に、この日のラベル達の中からいくつかご紹介したいとおもいます。

 

「まばたきの回数で相手の緊張感を計算している自分がいる」

「電話で会話をした後に、訪問してイメージ通りの人だったら、心の中でガッツポーズしてしまう」

「語尾で、しっかりした人かそうでない人か判断している」

「相手の香り・臭いで好き嫌いを判断する」

「自分にとって危険な人だと直感で感じる時がある」

「第一印象で酒が強いと思われるが実は一滴も呑めない」

「笑顔を5秒キープして好印象を与えている」

「めんどくさい」

「ご破算にできる関係性より、逃げられない関係性の方が重い」

「金沢@石川では、地元出身でない者は“旅の人”と称される」

「初めて会ったのに懐かしい、という感触は信頼できる気がする」

「今後関係を続けるか、仕分けをしてしまう」

「対面の時、相手を値踏みしてるように、自分も値踏みされている」

「相手と同じ速度で緊張をやわらげたいと思う」

「一期一会がある」

「初対面で飼いたくなる・欲しくなる物がある」

「場当たり的なあいさつで相手の機嫌をさぐる」

「自分の事情や背景を知らない人と関わりたい時もある」

「自分の役割を決めて関係性のバランスをとる」

「肩書きがとれると犹劼匹”が出てくる」

「知らない人から声をかけられやすい人と声をかけられにくい人がいる」

「ねこカフェで、〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる」

「垣根がないと隣人とは仲良くやっていけない」

「初対面での印象を何十年もたった後に言われるのは嫌な気持ちがする」

「シャイな人は初対面でよくしゃべる」

「弱いほどつっこまれる」

「医師は患者との初対面を拒否できない」

「焼き鳥屋のメニューに爐△気犬瓩匹”というのがあった」

「初めて会う犬に必ずほえられる」

「ヒールがはさまって脱げてしまった時、無意識に素敵な男性が気づいてくれると期待してしまう」

「大人になるうちにいい人を演ずるのがうまくなるのでだまされることがある」

「子どもは意地悪そうかどうか、見分けている」

「馴れ馴れしい人とは距離をおく」

「公園デビューの前にママ友を作ってから公園に行く風潮がある」

「初対面の前に既にネット上でのコミュニケーションが当たり前になった」

「ガラケーでは就職も結婚もできない」

「昔の人は一回ちらっと見ただけの人と結婚した」

「人柄は顔にあらわれると信じている」

「ひとめぼれという現象がある」

 

 どのチームも、すぐれたリーダーシップで参加者の率直なラベルがたくさん提示されました。夏のラベル達から、冬はどのような本質が導き出されるのか、このように少し列挙しただけでも期待感がふくらみます。

 

 また、パルス討論の後は、霧芯館の研修受講者の作品の発表により、いわゆる質的研究、問題解決、そして世界観に関わる図解、と三種類のことのほか異質な図解たちが顔をそろえ、今年は非常にスリリングでした。

 参加者には、他者の発表を通じてですが、「渾沌が構造化され、本質が把握できる」ことの威力をあらためて感じとってもらえた時間ではなかったかとおもわれます。

 

 

「ひとめぼれという現象がある」というラベルは、事前にスタッフ間でのパルス討論を行い、当日の見本ラベルとして提示されたものですが、この日、各チームでさまざまに話題がふくらみ反響が大きかったようです。

 人間関係をなんとか良い方向へ導こうと私たちは苦慮するのですが、ときどき、「ひとめぼれ」のようなものが降ってきて、私たちのちっぽけな努力を超えたパワーで人生をひっつかんでしまったりもします。

 そのような不思議な次元で、ほんとうは私たちは出会っているのですが、解釈のレベルでそうではないように振る舞わされているだけではないのか、といった想いも湧いてきます。

 関係を統御したい、したくない、といった悩ましい力学を感じながら、参加者には冬までの間しばらく〈初対面〉のラビリンスをさまよっていただこうとおもっています。

 

 

 

「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」

  • 2016.06.28 Tuesday
  • 16:55

 昨年開催の、「霧芯館KJ法ワークショップ2015」におけるKJ法作品をまとめ、解説を加えた「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」が完成いたしました。

 今回も、参加者のみなさまに、ワークショップの成果を無事にフィードバックできてほっとしております。

 夏・冬、二回のワークショップを「〈闇〉の居場所」というテーマで開催し、〈現在〉における私たちの〈闇〉とのスタンスを問い直してきたのですが、非常にハードルの高いテーマ設定であったにもかかわらず、臨場感あふれる味わい深いラベルたちがたくさん提示され、本質的なディスカッションと合意形成がなされたのは、とても意義深いことでした。

 

 

 成果としての図解たちが指し示しているのは、「わかっている」という意識の傲慢さ・不遜さが〈現在〉の病理として把握できる点であり、私たちの存在も、他者も、世界も、「わからない」領域を含めて全体であることへの畏怖や覚悟を取り戻さねばならないという、世界観の振幅の奪回という課題でした。

 

 しばしばKJ法は、同じラベルを使っても、人によって異なる結果が出るから非科学的だ、などという浅薄な批判を受けますけれども、それらのKJ法作品がまっとうなものであるなら、複数の異質な図解に対して本質を追求する能力さえあれば、川喜田二郎が言うように、同じ富士山を異なる角度から見ているようなものであって、本質は同じ富士山なのだ、ということが了解できるはずです。

適切な〈富士山〉の全体感の把握と、適切な発想・抽象の手続きによって得られる異質な結果は、決して非科学的で散漫な産物を生み出しはしません。互いに発想を刺激し合い、より高次の本質概念へと人の創造性を向かわせるための生産的な異質さが、端正な〈富士山〉の真実を指し示してくれるはずです。

 

 科学性を実現しようとするさまざまな現場において、近年、非常に狭小な科学概念が創造性を抹殺しようとしているように感じます。異質なものから本質を創造的に発想する能力がないことを露呈しているだけの科学観・学問観によって、歪んだ〈全体〉をベースに矮小な「真実」がまかり通っているようで、なかなかに非生産的な状況だという印象を受けます。

 しかし、このような矮小さが昂進すればするほど、〈全体〉をまっとうに生きたいと望む人の本性もまた黙ってはいないものなのであり、まっとうな世界観によって、成す意味のある仕事を成したいと望む人々が静かに増えてゆくものだとおもわれます。

 

 心ある方々との縁により、KJ法がきちんと息づく機会を生み出せることに感謝して。

 

 

 

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一本の線

  • 2016.05.31 Tuesday
  • 19:27
 
「日本人は元来、調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」
 
 NHKの「日曜美術館」で、日本画家である安田靫彦(やすだ ゆきひこ)(1884〜1978)の言葉として紹介されていたものです(2016年5月1日放送「安田靫彦 澄みきった古(いにしえ)を今へ刻む」)。明治17年生まれのこの画家が歴史上の人物を描くときの、どこか飄々とした画風に潜む、緊迫した「線」へのこだわりが興味深くおもわれました。
 
 この言葉に惹きつけられたのは、「決定的な一本の線」を実現しようとする意志が、KJ法においては、「表札づくり」という作業に必要な想いであると感じられたからなのですが、明治生まれの日本画家たちの身を削るような「線」をめぐる葛藤も推し測られて印象的でした。
 
 KJ法における「表札」とは、ラベル群のグループ編成によってセットになった複数のラベルに対して与えられる統合概念のことであり、複数のラベルたちの〈志〉がもれなく掬い上げられ、簡潔な文章で表現されねばなりません。
 その作業において、複数のラベルの〈志〉がたった一つの「表札」として統合されるためには、「複数ではない、実は一つの〈全体〉なのだ」と把握し直し、その〈全体〉のど真ん中を「短歌一首ひねり出すような気持ちで」まずは表現し、最終的にはそれを推敲して精度の高い文章として完成させるといったプロセスが必要です。
 この「複数の質」が「たった一つの質」へと変換されるところにKJ法の発想の醍醐味があるのですが、川喜田二郎がその核心、つまり最終的な推敲前の概念の形成を「短歌づくり」とたとえたのは味わい深いことです。
「短歌一首ひねり出すような」は「軽い気持ちで」という意味ではなく、複数のラベルたちによって形成された〈全体〉をもれなく圧縮してもう一つの〈全体〉を創造するという意味であり、そこを「短歌づくり」と呼んだのは、「短歌」という文芸が「長歌」の要約として出発したことを想起させる適確なネーミングです。
 主に万葉集にみられる「長歌」は、五音・七音のセットが何セットか連ねられたあげく、最後を七音で締める形式ですが、その「長歌」のリズミカルな連なりが現出するコスミックな自然や讃えるべき御代(みよ)への寿ぎの時空間を、もれなく象徴的に圧縮するところから「短歌」の五・七・五・七・七という形式は出発しています。
「長歌」は間もなく衰退したのに対して、「短歌」という形式がそれよりもはるかに永く生き続けたのは、安田靫彦の言う、「調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」という日本人の遺伝子のせいかもしれません。
 川喜田二郎の創案したKJ法にも、その日本人らしさが横溢していると言えましょう。
 複数の質が一つの質へと変換されるとき、たとえるなら「決定的な一本の線」によって他の線が棄てられたり殺されたりするのではなく、すべての線の意味を、一本の線が象徴的に担うことができるのだ、という発想の妙味の実現によって素晴らしいカタルシスが得られます。それを味わう者も、その「一本の線」の決断力に、豊饒な創造性のドラマを看取することができます。
 
 日本画における伝統的な「線」にも、西洋近代が実現してきたリアリズム的な表現様式とは全く異質な奥ゆきがあったであろうとおもわれます。
 近代を受容してゆく中で、当然、この「線」は新たな目線で問い直されることになります。
 明治30年代には、日本画の世界では、菱田春草らが「朦朧体」とよばれる技法を試みて話題になります。
 日本画の伝統である「線」をあえて消し去り、朦朧とした輪郭の無い世界が広がる画面に賛否が渦巻きました。この試みもまた、世界へのまなざしをどのように紡ぎ出すかについて、「線」へのこだわりがあればこそ生み出されたものであったかもしれません。
「線」によって限られた輪郭というものによって、私たちは他と区別されるわけですが、そのことの意味をどのように表現することがこの世界をより豊かにとらえることになるのか、狂おしいほどの葛藤が当時の表現者たちにはあっただろうとおもわれます。
「線」は、象徴的に全体を担うのか、それとも存在を全体から切り離して近代的な「個」として屹立させるのか、あるいは、「個」であることが存在を矮小にしてしまうのか。
「線」を近代的な形で研ぎ澄ます方向へ向かう者、伝統的な「線」にこだわり続けることで逆説的に近代であろうとする者、「線」を否定することで伝統的な「型」を超えた日本画の表現を模索する者、いずれにおいてもこの世界への「まなざし」が問われていたのであり、そのような問いによって表現が成就していた時代に懐かしさをおぼえます。
「線」を問うことは「線」を「線」たらしめているものへのまなざしを問うことだったのであり、〈存在〉を〈存在〉たらしめているものが根底から揺さぶられた近代化の過程で生み出された表現には、揺さぶられたことの葛藤や傷痕も含めて味わい深いものが多々あります。
 
 KJ法には、言葉の「象徴性」という機能を有意義に使う姿勢が欠かせません。そのことが世界へのまなざしを豊饒なものにするように、この方法には、存在への奥ゆきのある認識が丁寧に埋め込まれています。一つのラベルを一つの〈志〉を持つラベルたらしめているものへの信頼。その信頼に根差した言霊(ことだま)としての「表札」が、真の〈個〉として屹立する過程こそ、KJ法の核心部であるとも言えましょう。
 この方法の意義が実現されたとき、どこか懐かしくてしかも身がひきしまるのは、この核心に触れたせいだと気づいていただけるなら、とても幸せな想いがいたします。




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「霧芯館KJ法ワークショップ2015 其ノ二」

  • 2015.12.10 Thursday
  • 16:15

 さる12月5日、「霧芯館KJ法ワークショップ2015 其ノ二」を開催いたしました。(於:関西セミナーハウス)
 今年のワークショップのテーマは「〈闇〉の居場所」。
 夏のワークショップにおいて、このテーマをめぐって「パルス討論」という技法で参加者から提示されたラベルをもとに、冬の「其ノ二」では、各チームごとにピックアップされた25枚のラベルを元ラベルとして「狭義のKJ法・グループ作業」に取り組んでいただきました。
 これまで、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」「変容の本質〜現場が変わる瞬間(とき)〜」「犂鵑蠹困”の哲学」「〈リアル〉の手触り」といったテーマで開催されてきたワークショップですが、今年のテーマの手ごわさはまた格別であったような気がいたします。元ラベルの象徴性をどのように感受すればよいのか、〈闇〉という概念がそれぞれに曖昧に使われているからこそ象徴性の高いラベルたちでもあるのですが、それらからどのような統合概念を形成すればよいのか、各チームとも、魂の汗を流していただくことになりました。
 例年以上に、完成された図解たちはどのチームも異質であり、それでいて本質的にはより深いところで握手しているような、個性的な図解が得られました。「人間の思い上がりが〈闇〉との折り合いを疎外している」「彷徨える魂」「〈闇〉と共に生きる」「〈闇〉の振幅」といったタイトルで表現された図解たちは、いずれも〈闇〉を根源的な価値の泉としてとらえ直し、世界や存在の新たな意味と出会い直そうという覚悟に満ちた表現となっているように思われます。

 今回も、ここでの図解作品、霧芯館で作成された図解たち、それらによる「作品・解説集」を、来年以降、参加者にお届けしたいと思っています。

 折しも、会場近辺は紅葉最盛期。好天にも恵まれ、ワークショップ日和でした。浅い表現にとどまった時にはダメだしをしつつも、時間内の完成を目指して急き立てる主催者のもと、全国からお越しのみなさまには、たっぷりとKJ法ならではの〈闇〉の汗を流していただきました。
「ここで会う人って、年に二回くらいしか会わないのに、なんかふつうの人間関係とは違って、なんでも話してしまう。」と語られる参加者もおられました。
 KJ法の作業では、思わず知らず手加減なしの全身的なディスカッションとなり、それがきちんと合意形成に至ることで、いわく言い難い信頼関係が生まれます。
 そんな場所を今年も提供できたことが、うれしく誇らしく思われる一日でした。

 霧芯館近辺は、今も紅葉の見ごろです。
 ご参加がかなわなかった方々のために、今日は紅葉風景シリーズの写真で楽しんでいただければとおもいます。












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