〈気〉のメッセージ

  • 2020.04.29 Wednesday
  • 16:23

 

 新緑の季節が訪れようとしています。

 霧芯館の近くの里山では、樹々がみずみずしく芽吹き、風が渡り、ウグイスが鳴き誇っています。そこに染み渡っているメッセージには、微塵も暗い影や邪気というものがありません。その〈気〉のメッセージというものに、私は日々、支えられているようにおもいます。

 

 もし、今、この状況下において、なんらかの〈悪〉の意思というものがあるなら、それは、何をもくろむでしょうか?

「もう世界は終わってしまう」「これは世界の崩壊の兆しなのではないか」「もうだめだ」「あの人が駄目だったとは、なんて怖い状況なのだろう」「世界は生き延びられないに違いない」「これほど深刻な状況はかつてなかった」「誰も体験したことのない恐怖の風景が待ち構えている」そんなメッセージを人々の魂に刷り込んでゆけばいい。特に、誰もが心の支えにしていたような人物の悲惨な姿、絶望の風景、そういうものを通して、シンボリックに刷り込むのが効果的であるはず。あるいは、深刻な状況の具体的な描写に満ちた情報をまき散らして、人々の想像力を陰惨に駆使させるようにすればいい。

 そういう〈悪〉の意思こそが、今、世界を席巻しようともくろんでいるのだとしたら、私たちは、本質的に何をどう闘えばよいのでしょうか。

〈悪〉の意思は、なによりも、人々の想像力を悪しき方向へ導き、神経をいたずらに消耗・疲弊させ、心身の免疫力を低下させることをもくろむはずでしょう。

 一人ひとりが今、世界に対してできる最大の貢献があるとするならば、自身の〈気〉を弱めないことであろうとおもわれます。自身の免疫力を低下させないため、そして、身近な人々を守り、世界の〈気〉を晴朗に保つため。個々人の最大の責任のありかは、そこであろうと。

 医療現場の方々の日々の奮闘に感謝し、ご無事を祈りつつ、個々人にできる闘いの場所を明確にすることは、これから向かう世界の価値観の大いなる転生のためにも、必須のことであろうと思います。

 それぞれが魂をのびやかに呼吸させ、晴れ晴れとした〈気〉を巡らせること。かなしみに満ちた世界風景によって魂を疲弊させ、邪気に巻き込まれてしまわぬこと。

 どうか、お一人ずつ、お健やかな〈気〉を保たれますように。世界が良き方へ導かれますように。

 

 

川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja

インスタで、「#表現をとめるな」というタグを作ってみました。→https://www.instagram.com/explore/tags/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%82%92%E3%81%A8%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%AA/?hl=ja

充実したギャラリーとなっています。ご高覧いただければさいわいです。

 

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沈黙と呼吸

  • 2020.03.29 Sunday
  • 16:18

 このところ、インスタグラムでしばしばフォト短歌を投稿しています。

 写真と短歌を組み合わせることで、表現したい叙情・詩情というものが、ある種のデザイン性を帯びて読み手に届きやすいものになる、そういう手応えが楽しくて、旧作・新作とりまぜて写真をキャンバスとして短歌を載せています。

 

 

片われは 空に融けるか

沈黙と呼吸(いき)は深いか

涙は出るか

 

 顔にはマスクをしなければならないとしても、私たちの片われとしての無意識には、のびのびと呼吸をさせてみたい。言葉にならない沈黙の深さを、感受性や共感能力や想像力の沃野を、解き放ちたい。

 そんな想いを歌ってみました。

 

 誰もが、日々の錯綜した情報や混沌とした見通しの悪さによって意識を痛めつけられることで、無意識までもその呼吸を狭められているようにおもわれます。

 そのような意識と無意識の絆があるならば、逆に、無意識を健やかに保つことで、私たちの意識は、どれほど救われることでしょうか。

 

 どなたも、どうか深い呼吸を。

 情報に毒されない深い沈黙を。

 みずみずしい世界との絆の手触りを。

 

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闇の「ほぐれ」

  • 2020.02.29 Saturday
  • 17:56

 

 春立つやあかつきの闇ほぐれつゝ  久保田万太郎

 

 あかつき、と言えば、まだ夜が明ける前のほの暗い時間帯のこと。

 冬のあかつきの闇の深さ、きん、と世界が凍てついたような孤独で厳しい風景というものが、立春とともにほぐれてゆく。そういう季節感を切り取った句ですけれども、人それぞれのくぐり抜けてきた闇と、その融解、光の兆しの感触を想起させる句でもあります。

 暦の上だけでも春が立つ、そこに、闇がほぐれてゆく気配を感じ取るように、私たちもしばしば、まだものごとがけっして順調に進んでいるとはいえない、好転の兆しが見えない、混沌の中にいる、そんな状況においても、かすかなかすかな気配としての「ほぐれ」を感じ取ることがあります。しかも、凍てついたあかつきの闇が暗ければ暗いほど、混迷が深ければ深いほど、かえってその「ほぐれ」は鮮明で確かなことすらあります。あくまで気配にすぎないのに、なぜか疑いようがないほどに、確かな手触りを帯びて、その気配は立ち上がってきたりするのです。

 そんな気配を探して、感じ取って、触れて、確かめて、握りしめて、信じて、賭けて、祈って、変わってゆく。

 それは、受け身のように見えて、実はしんしんと深く主体的・能動的な身構えであるとおもわれます。

 

 混迷の季節。

 あかつきの闇の「ほぐれ」を、一人ひとりが丁寧に感受し、真に生命的な季節を迎えたいものです。

 

 

 

 

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〈コスモス〉を紡ぐ

  • 2020.01.28 Tuesday
  • 18:12

 

 ご近所の年配のご夫婦が、ときどきご自宅の玄関先で「ほっこり」とした時間を過ごしておられるのを見かけます。

 特にご主人はしばしば、木の切り株でできた小さなテーブルにお茶など置いて、読書三昧。時には奥様とゆったり語らいながら、誰にも奪えないお二人の時間を味わっておられます。 

 目の前はかなり交通量の多い車道であり、地域の資源ゴミ置き場やら郵便ポストやらがあるところで、お世辞にも閑静な場所というわけではないのですけれども、お二人とも、そのような喧噪にはいっこうにお気持ちを乱されているご様子がなく、樹木の気配やシジュウカラのさえずりや季節の息づかいだけを深々と吸い込んでおられるようで、そこには「ほっこり」と、そして凜とした世界があることに感動します。

 穏やかなひとときを過ごしておられるようでいて、そこには一つの〈闘い〉があるようにも思われます。自分の〈コスモス〉としての世界を紡ぐ〈闘い〉が。

 

 昨年の11月からインスタグラムを始めた私ですが、そこで出逢うことのできた方々の中にも、写真を通して、そのような穏やかで凜とした〈闘い〉の姿を示してくださる方がたくさんいます。

 自分の「好き」を公表し、「好き」でいくらでもどこまでも一瞬でつながることのできる、ネット上の社交場ですが、ともすれば〈数〉という評価や、他者の目線や、トレンドや、そこはかとなく漂う常識的な空気などに足をすくわれそうになる、試練の場でもあります。

 それらに足をすくわれずに、自分の〈コスモス〉としての世界を紡ぐのは、楽しそうに見えて実は、繊細で豪胆な〈闘い〉の気力も必要とされるようにおもわれます。

〈数〉ではなく、あくまでも一人ずつの聴き手に届けるための表現を模索するロックシンガーや、日常の、どこまでもささやかな日常の一コマを丁寧に愛おしむ、端正なご婦人のたたずまいや、雪に包まれた峻厳な八ヶ岳で研ぎ澄まされている山男のまなざしや、日々のきらめきや鬱屈の瞬間を俳句や短歌に収め続ける方々や、絵画、木工細工、ジュエリー、野鳥、などなど、それぞれに自分の〈コスモス〉を紡ぎながら、純度の高い時間とつながりとを模索している方々の姿は、私に深い慰藉と刺激を与えてくれます。

 

 そんなこんなで、私も未熟な写真の腕前をかえりみず、ときには短歌を、ときには定型にとらわれない自由な発想の言葉を、視覚的な表現として発信している昨今です。

 写真というキャンバスに短歌を描くのは、歌詞に曲を与えるようなもので、短歌だけで完結するのとはまた異なる命を与えることになります。過去の歌作に新しい命を吹き込むことができるのも、うれしいことです。

 しかも、「アプリ」なるものの発達で、写真への縦書きの文字入れなども実に手軽に試みられ、ちょっとした時間を〈表現〉のためにあてがうことができるのも魅力です。

 日々、まなざしを鍛え、〈コスモス〉を紡ぐ闘いを、ささやかに持続できればと願っています。

 

 

川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja

 

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2019年を振り返って

  • 2019.12.30 Monday
  • 17:47

 

 2019年の「霧芯館KJ法ワークショップ」のテーマは「イメージの力」でした。

「毎年のテーマ、楽しみにしているんですが、どうやってテーマを決めるんですか?」と、参加者の方々からよく質問されます。

「降りてくるのを待つんです。」とお答えするのですけれども、今年のテーマも、もやもやした状態から決断へのプロセスは、やはり「降りてくる」という感じでした。

 この「降りてくる」という言葉は、自分の我(が)ではなく、私を通してなにものかの力が、なにかをさせたがっている、という感覚をうまく表現したものだと思うのです。そのような力がまさに熟して降りてくる瞬間、みたいなものを受け止める。ワークショップのテーマに限らず、そんな「なにものか」とのやりとりこそが、〈決断〉のためにはいつも必要だという気がしております。

 

 今年のワークショップで浮かび上がった「イメージ」の本質には、まさに、人の合理的な「我」を超えたものがありました。ひとつ間違えれば、膨張・暴走して私たちをとんでもないところへ追いやる力も持っている「イメージ」ですが、うまく付き合うなら、私たちの合理的な現実把握の枠組みを蹴散らして、不条理や限界を超えてゆくことを可能にする、潜在的なパワーを秘めた宝刀のようなもの。

 人に与えられたこの不思議な力は、私たちの無意識にダイレクトに働きかけ、肉体や現実というものを矮小に決めつけてしまっている私たちを揺さぶり、「生き抜く」ために必要な、とてつもないディレクションを差し出してくれたりします。

 

 そんな「イメージ」とのやりとりを味わいながら、走り抜けた2019年でした。

 

 KJ法について言えば、「モノづくり」の現場の方々の熱いニーズに触れることができた年でもありました。

「そもそも何をつくればよいのか」「そもそも消費者はなにを求めているのか」「そもそも自分たちはなにをつくりたいのか」

 そんな「そもそも」を真剣に問い直したい方々と、熱のこもった時間を共有する機会に多々恵まれたのは楽しくしあわせなことでした。

 

 個人的には、12月20日、川喜田八潮との共著『J-POPの現在 機卆犬難さ〉を超えて』を出版することができました。

「KJ法じゃなくてJ-POPなんですか?」とびっくりされもしましたが、私にとっては、あまり大きなギャップを感じていない、そのことにむしろ、自分でびっくりしているところもあります。

〈現在〉を突きつめ、〈生き難さ〉とはなにかをつきつめ、多彩な表現や、KJ法でいうところの〈志〉を統合する営みとしては、同じアプローチをしているとも言えます。

 むしろ、ついでに始めたインスタグラムでは、想定外の楽しさをおぼえ、想定外の世界の拡がり方をしているような。

 写真に短い言葉を添える。

 未熟な技の写真ではありますが、そこに言葉の力をどう作用させるのか、日々「降りてくる」瞬間を味わうのが心地よく、また、思いもよらない方々の世界の視え方やフォローに出逢うなど、行動半径の乏しい私にとっては、不思議な風穴が開いた気分を味わっています。

 

 2020年は、おそらく、〈価値〉というものへの問い直しが進む、そういう時代へと突入するのではないかと感じています。そして、その〈価値〉の根っこには、私たちの〈無意識〉が大きく位置を占め、その〈無意識〉を動かすパワーをどのように広く深くイメージするのか、そのことがより一層きびしく問われる時代に差しかかっているのだと感じながら、まずは目前のおせち料理の準備を進めたいとおもいます。

 

 いつもお読みいただきありがとうございます。

 どうぞ良いお年をお迎えくださいますように。

 

 

『J-POPの現在 機卆犬難さ〉を超えて』好評発売中→amazon

プレスリリースはこちら→https://www.excite.co.jp/news/article/Prtimes_2019-12-20-46294-19/

 

 

川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja

 

 

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どんぐり一如

  • 2019.10.31 Thursday
  • 18:18

 今月は写真のみ更新です。

 

 

 くぬぎのどんぐりでしょうか、この丸さを見ていると、なぜか「どんぐり一如」ということばが頭に浮かびました。自分とどんぐり、どんぐりと世界、自分と世界。この丸みのなかに、〈一如〉という感覚が詰まっているような。

 

 

 

 紅葉が待ち遠しい季節ですが、青もみじもまだまだ美しい。

 

 

 今年は私としては蝶の写真が豊作でした。

 

 

 修学院にある音羽川から望む西山の風景。

 

 

 野生の美。

 

 

 芒と、空の映り込んだ水面と。

 

 

 光と闇と。

 

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恵みとしての夏

  • 2019.07.27 Saturday
  • 11:21

 今月は写真のみ更新です。お楽しみいただければさいわいです。

 

 

葉と葉が自然と重なり合う姿に惚れ惚れします。

 

 

枝と水。そのあわいにはいつも〈詩〉を感じてしまいます。

 

 

よいポーズをとってくださいました、蝶々さん。

 

 

 

この毛並みの色は、やわやわとして、

まだ生まれて間もない子鹿さんのようです。

 

 

猛暑がやって来そうですが、生気のある青空を見ていると、〈季節〉は全て私たちへの恵みのはず、と思われます。

よい夏をお過ごしくださいますように。

 

 

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蓮華療法

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 15:24

 KJ法の、方法としての優秀さのひとつに、構造や本質を把握する上での効率の良さが挙げられます。

 それは簡便で安易であるということではまったくなく、人の創造性を〈世界観〉の変容をベースにして活性化させるという意味では、KJ法は実にヘビーな方法です。しかし、〈象徴的な感受〉によって成り立つ方法であるがゆえに、錯綜した渾沌も、多様な質のバラエティーも、一つの本質へと自然に集約させることができます。この方法を真に会得するならば、実に効率の良い問題解決に結びつけることが可能となります。

 

 象徴的に感受することによる効率の良さ。

 KJ法を駆使したわけではありませんが、この春、私の内部で自然に為されたひとつの〈療法〉があります。象徴的な感受が効率良く〈療法〉として機能したと思っています。

 昨秋、ホームセンターの「種」の売り場で衝撃を受けたことが始まりでした。

 さまざまな草花の種に混じって、「蓮華」の種が売られていたのです。

 蓮華を自分で咲かせることができる!

 そんなことで世界がひっくり返りそうな衝撃を受けるのは私くらいかもしれません。

 私にとって、原風景と思われる風景を挙げろと言われたら、迷うことなく「一面に広がる蓮華畑」と答えるでしょう。

 3歳頃の記憶かと思うのですが、春先に窓の外に広がる薄紫の蓮華畑が、幼い目にどれほど広々と果てしなく見えたことか。

 その風景は、その頃のなにがしかのトラウマ、おそらくは守りたいものとそれを壊される恐怖とのはざまで行き場を失った思い、珍しくもないけれども幼い心にとっての一大危機の衝撃を、やわらかく吸い寄せたのかと思われます。

 トラウマというものは、同一の型が幾多のバリエーションをとって、人生の中で繰り返し噴き出してくるやっかいな代物ですが、傷と癒しのセット体験があったこと、そしてそのセットとなった癒しがまずまず無難な風景であったことは、私の最大の幸運のひとつではなかったかと、今は考えています。

 セット体験が得られなかったら、恐ろしいことになっていたかもしれません。セット体験が歪んだ嗜好に走っていたりするとそれはそれでとんでもないことであったでしょう。理想的なセットであったかどうかはともかく、私の原風景として、この果てしなさ、〈無辺〉を象徴する蓮華畑は必要不可欠なものであったようです。

 

 その原風景を、箱庭的に作れるかもしれない。

 ホームセンターの種売り場で、私は小さな種の袋を一つ、がっつりつかんでいました。

 いそいそと古びたプランター二つを蓮華の種に占領させ、春を待ちました。

 この近辺で、田んぼがお休みの頃に、ある程度の広さで蓮華畑は出現します。

 

 

 でも、記憶の中のあの〈無辺〉を想わせる広さはなく、どことなく欲求不満な春を繰り返し味わってきました。それをプランター二つで超えられるわけもないのはよくわかっていたのですが、小さな花の可憐さを、誰に怪しまれることもなくまじまじと見つめて味わいたくて、首を長くして春を待ちました。

 なにやら細々と柔らかげで雑草的な芽が出て葉っぱが増えて、ここに蓮華が満開になったらとおもうと、そわそわしてたまりませんでした。

 4月。

 近所の田んぼの畦ではぽちぽちと咲き始めているのですが、我が家のプランターではまだ緑一色のやわやわとした状態。咲くのか、咲かないのか。つぼみはどこ? ただの雑草がもしゃもしゃしているようにしか見えなくて気をもむことといったら。

 ようやく最初の一輪が咲いたのは、4月も下旬にさしかかろうという頃。

 こんなにまじまじと飽くことなくこの花を見たのは初めてのことでした。

 

 

 記憶の中の〈無辺〉バージョンの蓮華畑の美しさもさることながら、間近に見る一輪の生々しい蓮華の姿にも感動しました。

 ふと、その瞬間、私の記憶の中の〈無辺〉は本当に〈無辺〉だったのだろうか、幼い私の表現し難い〈傷〉の感触が〈無辺〉という規模を求めていただけではなかったのだろうか。そんな〈相対化〉の想いが湧き上がってきました。

 一輪の蓮華が、つんのめるように〈無辺〉を求めようとする私の中のある種の危うさをほどいた瞬間であったかとおもわれます。

 一輪の蓮華を象徴的に感受することで、トラウマへの効率の良い〈療法〉として機能した瞬間。

 もちろん、〈無辺〉を想わせる風景に今も魅かれてやみませんが、なにか、ひょっくり憑き物がとれたような、不思議な感触を得た気がいたします。

 幼い頃の原風景が幻想に過ぎないからと無意味になったわけでもなく、その風景が私の中に根を下ろしていることの意味が更新され、明確な居場所を得た、ということなのかもしれません。

 

 自分の弱さや愚かさとつき合うのは難しいものです。それらをがむしゃらに排除しようとすることが過ちを生むこともあります。

 シンボリックに居場所を与える、そんなお付き合いが、弱さをお守りに変えることもあるようで、〈象徴〉という機能はあなどれない。

 薄紫でしぶとくてあたたかな想いを味わいながら、季節は青々と進みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈気〉とのお付き合い

  • 2019.04.14 Sunday
  • 16:06

 今年の鶯は、霧芯館のすぐそばに来て美声を響かせてくれています。

 年によっては、近くの里山の木々の中から出てきてくれなかったり、うまく鳴けないで「練習中」のままひと夏を過ごしてしまったりするのですが、今年は折々、間近な声を聞くことができてうっとりします。この辺りの〈気〉が良いのだろう、と、ほっとした想いもいたします。

 

〈気持ち〉と言いますと、自分の中に湧く感情のことで、それをどうこうするのは難しいと感じますが、〈気〉の持ちよう、と言ったとたん、感情とは別の、自分の内と外を出入りするなにものかとのお付き合いが視野に入ってまいります。

「運気を上げる」「気合で勝つ」「気おくれ」「気配り」「元気」「気づき」「殺気」「気風」「気位が高い」「和気藹々」「気高さ」「香気」「気性」「血気にはやる」「気配」「雰囲気」等々、挙げればきりのないほど、私たちは〈気〉とお付き合いをしているわけです。

 人と対面するときも、相手の〈気〉というもののニュアンスを、私たちは感じ取ったり、推し測ったりしています。初めての町や集団に接するときもそうですし、慣れた場所の〈気〉の変化を察知したりもしています。動物や植物に対しても、自然の風景に対しても、合理的なチェックポイントを踏まえつつも、総体として〈気〉がどういう状態なのか、こちらに対してどんなメッセージを発しているのか、察知しながら生きています。察知するだけではなく、〈気〉のやり取りも実は、頻繁に行なっています。当たり前のように「元気をもらいました」などと使うように。

 

 おそらく鶯は、〈気〉の察知において、かなり繊細なのでしょう。

 今年の美声の若々しい艶からは、彼の察知した世界の〈気〉の、初々しさ、華やかさ、無邪気さ、よい意味での貪欲さ、のようなものが伝わってきます。

 

 私の撮影した写真からも、この春の〈気〉のあり様をみずみずしく感じ取っていただけるなら、なによりの歓びです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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他人とは思われない風景

  • 2019.02.27 Wednesday
  • 18:23

 

 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり   前川佐美雄

 

 先日の明け方、ちょうどこの歌のような風景が窓の外に広がっておりました。

 

 

 

 そういえばこの頃、霧の中で自分の輪郭をほどくような時間を過ごせていないなと気づかされ、忘れ物を受け取りに、霧の中深く歩み入りたいような衝動をおぼえました。

 

 風景には、いつもなにかしら過去や未来からのメッセージが既視感として含まれているようにおもわれます。その風景の中に、自分の欠片(かけら)が散りばめられている、と感じるような、どこか懐かしく、しかも絶対的に新鮮である、という瞬間。人との出会いならば「他人とは思われない」という感覚を呼び起こす瞬間があるように、風景にも、「他人とは思われない風景」というものがあるのです。

 それは、必ずしも幸福な感触とばかり結びついているとは言えないもので、初めて世界との断絶を魂に刻まれた瞬間の記憶や、闇の底をさまようような胸苦しい混沌や、喪失や、他者との疎隔や、まさに今現在の生き難さを想起させることもあるのですが、そのような痛みとともに、鮮やかな修復や蘇生がもれなくまとわりついているような。一粒の涙の中に、喜怒哀楽が美しいコラージュとなってきらめいているような。

 風景に、そのような自分の欠片としての涙が散らばっている姿は、曇り空であろうと霧の中であろうと闇夜であろうと、きらめきを帯びています。

 そのきらめきの手触りによって、風景は、私の心身が世界から断片として孤立しないように守ってくれているのでしょうか。

 

 前川佐美雄(1903−1990)という歌人も険しい人で、昭和五年刊行の『植物祭』という歌集には、己れの病理やストレスを「短歌」という器に盛りながらまじまじと凝視するような、端正ながら鋭利な批評意識の横溢する歌がみっしりと詰め込まれています。

 冒頭の一首においても、「霧」を吸うことでかろうじて「やはらかな思ひ」となった彼の内には、自他や世界へのひりついた対立感が暴れ出しそうだったことでしょう。昭和初年という時代の、個々人が無意味な断片へと追い詰められてゆき、カオスを求めて暴走しそうな空気が、とても現在的に顕ち上がっている歌集です。

 

 一人ひとりが無意味な断片のような場所に追いやられてゆく時代において、あくまで「一人ひとり」が、どのようにこの世界と絆をとり結べばよいのか。

〈現在〉のさまざまな課題が、いつもこの一点に集約されてゆくのを感じます。

 断片としての明晰な輪郭を、その輪郭を保つ強固な自我を、機能的で効率のよい関係を、身体を、ライフイメージを、目標を、能力を、結果を、価値を。そこで求められる明晰さの底浅くてもろいこと。

 常に輪郭の明晰さを要求する不可視の圧力は、得たいの知れない〈闇〉の暴発を封じ込めようとするかのごとくですが、その強迫的な明晰さこそが、大規模なストレスのカオスの醸成源でもある。そういう圧力と暴発とのあやうい葛藤の強まりを、世相から感じることが多くなりました。

 しかし、〈時代〉の流れが圧倒的に見えるときほど、実は、一人ひとりのまなざしが効力を発揮するときなのではないかと、思われてなりません。

 ものごとの本質というものは、いつも逆説を孕んでいますから。

 

 明晰な輪郭を浅はかでなく顕ち上げられる存在は、たっぷりと霧を吸って育ったのだと。少なくとも私の欠片の潜む風景は、そんな逆説をきちんと伝えてくれているようにおもわれます。

 

 

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