恵みとしての夏

  • 2019.07.27 Saturday
  • 11:21

 今月は写真のみ更新です。お楽しみいただければさいわいです。

 

 

葉と葉が自然と重なり合う姿に惚れ惚れします。

 

 

枝と水。そのあわいにはいつも〈詩〉を感じてしまいます。

 

 

よいポーズをとってくださいました、蝶々さん。

 

 

 

この毛並みの色は、やわやわとして、

まだ生まれて間もない子鹿さんのようです。

 

 

猛暑がやって来そうですが、生気のある青空を見ていると、〈季節〉は全て私たちへの恵みのはず、と思われます。

よい夏をお過ごしくださいますように。

 

 

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蓮華療法

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 15:24

 KJ法の、方法としての優秀さのひとつに、構造や本質を把握する上での効率の良さが挙げられます。

 それは簡便で安易であるということではまったくなく、人の創造性を〈世界観〉の変容をベースにして活性化させるという意味では、KJ法は実にヘビーな方法です。しかし、〈象徴的な感受〉によって成り立つ方法であるがゆえに、錯綜した渾沌も、多様な質のバラエティーも、一つの本質へと自然に集約させることができます。この方法を真に会得するならば、実に効率の良い問題解決に結びつけることが可能となります。

 

 象徴的に感受することによる効率の良さ。

 KJ法を駆使したわけではありませんが、この春、私の内部で自然に為されたひとつの〈療法〉があります。象徴的な感受が効率良く〈療法〉として機能したと思っています。

 昨秋、ホームセンターの「種」の売り場で衝撃を受けたことが始まりでした。

 さまざまな草花の種に混じって、「蓮華」の種が売られていたのです。

 蓮華を自分で咲かせることができる!

 そんなことで世界がひっくり返りそうな衝撃を受けるのは私くらいかもしれません。

 私にとって、原風景と思われる風景を挙げろと言われたら、迷うことなく「一面に広がる蓮華畑」と答えるでしょう。

 3歳頃の記憶かと思うのですが、春先に窓の外に広がる薄紫の蓮華畑が、幼い目にどれほど広々と果てしなく見えたことか。

 その風景は、その頃のなにがしかのトラウマ、おそらくは守りたいものとそれを壊される恐怖とのはざまで行き場を失った思い、珍しくもないけれども幼い心にとっての一大危機の衝撃を、やわらかく吸い寄せたのかと思われます。

 トラウマというものは、同一の型が幾多のバリエーションをとって、人生の中で繰り返し噴き出してくるやっかいな代物ですが、傷と癒しのセット体験があったこと、そしてそのセットとなった癒しがまずまず無難な風景であったことは、私の最大の幸運のひとつではなかったかと、今は考えています。

 セット体験が得られなかったら、恐ろしいことになっていたかもしれません。セット体験が歪んだ嗜好に走っていたりするとそれはそれでとんでもないことであったでしょう。理想的なセットであったかどうかはともかく、私の原風景として、この果てしなさ、〈無辺〉を象徴する蓮華畑は必要不可欠なものであったようです。

 

 その原風景を、箱庭的に作れるかもしれない。

 ホームセンターの種売り場で、私は小さな種の袋を一つ、がっつりつかんでいました。

 いそいそと古びたプランター二つを蓮華の種に占領させ、春を待ちました。

 この近辺で、田んぼがお休みの頃に、ある程度の広さで蓮華畑は出現します。

 

 

 でも、記憶の中のあの〈無辺〉を想わせる広さはなく、どことなく欲求不満な春を繰り返し味わってきました。それをプランター二つで超えられるわけもないのはよくわかっていたのですが、小さな花の可憐さを、誰に怪しまれることもなくまじまじと見つめて味わいたくて、首を長くして春を待ちました。

 なにやら細々と柔らかげで雑草的な芽が出て葉っぱが増えて、ここに蓮華が満開になったらとおもうと、そわそわしてたまりませんでした。

 4月。

 近所の田んぼの畦ではぽちぽちと咲き始めているのですが、我が家のプランターではまだ緑一色のやわやわとした状態。咲くのか、咲かないのか。つぼみはどこ? ただの雑草がもしゃもしゃしているようにしか見えなくて気をもむことといったら。

 ようやく最初の一輪が咲いたのは、4月も下旬にさしかかろうという頃。

 こんなにまじまじと飽くことなくこの花を見たのは初めてのことでした。

 

 

 記憶の中の〈無辺〉バージョンの蓮華畑の美しさもさることながら、間近に見る一輪の生々しい蓮華の姿にも感動しました。

 ふと、その瞬間、私の記憶の中の〈無辺〉は本当に〈無辺〉だったのだろうか、幼い私の表現し難い〈傷〉の感触が〈無辺〉という規模を求めていただけではなかったのだろうか。そんな〈相対化〉の想いが湧き上がってきました。

 一輪の蓮華が、つんのめるように〈無辺〉を求めようとする私の中のある種の危うさをほどいた瞬間であったかとおもわれます。

 一輪の蓮華を象徴的に感受することで、トラウマへの効率の良い〈療法〉として機能した瞬間。

 もちろん、〈無辺〉を想わせる風景に今も魅かれてやみませんが、なにか、ひょっくり憑き物がとれたような、不思議な感触を得た気がいたします。

 幼い頃の原風景が幻想に過ぎないからと無意味になったわけでもなく、その風景が私の中に根を下ろしていることの意味が更新され、明確な居場所を得た、ということなのかもしれません。

 

 自分の弱さや愚かさとつき合うのは難しいものです。それらをがむしゃらに排除しようとすることが過ちを生むこともあります。

 シンボリックに居場所を与える、そんなお付き合いが、弱さをお守りに変えることもあるようで、〈象徴〉という機能はあなどれない。

 薄紫でしぶとくてあたたかな想いを味わいながら、季節は青々と進みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈気〉とのお付き合い

  • 2019.04.14 Sunday
  • 16:06

 今年の鶯は、霧芯館のすぐそばに来て美声を響かせてくれています。

 年によっては、近くの里山の木々の中から出てきてくれなかったり、うまく鳴けないで「練習中」のままひと夏を過ごしてしまったりするのですが、今年は折々、間近な声を聞くことができてうっとりします。この辺りの〈気〉が良いのだろう、と、ほっとした想いもいたします。

 

〈気持ち〉と言いますと、自分の中に湧く感情のことで、それをどうこうするのは難しいと感じますが、〈気〉の持ちよう、と言ったとたん、感情とは別の、自分の内と外を出入りするなにものかとのお付き合いが視野に入ってまいります。

「運気を上げる」「気合で勝つ」「気おくれ」「気配り」「元気」「気づき」「殺気」「気風」「気位が高い」「和気藹々」「気高さ」「香気」「気性」「血気にはやる」「気配」「雰囲気」等々、挙げればきりのないほど、私たちは〈気〉とお付き合いをしているわけです。

 人と対面するときも、相手の〈気〉というもののニュアンスを、私たちは感じ取ったり、推し測ったりしています。初めての町や集団に接するときもそうですし、慣れた場所の〈気〉の変化を察知したりもしています。動物や植物に対しても、自然の風景に対しても、合理的なチェックポイントを踏まえつつも、総体として〈気〉がどういう状態なのか、こちらに対してどんなメッセージを発しているのか、察知しながら生きています。察知するだけではなく、〈気〉のやり取りも実は、頻繁に行なっています。当たり前のように「元気をもらいました」などと使うように。

 

 おそらく鶯は、〈気〉の察知において、かなり繊細なのでしょう。

 今年の美声の若々しい艶からは、彼の察知した世界の〈気〉の、初々しさ、華やかさ、無邪気さ、よい意味での貪欲さ、のようなものが伝わってきます。

 

 私の撮影した写真からも、この春の〈気〉のあり様をみずみずしく感じ取っていただけるなら、なによりの歓びです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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他人とは思われない風景

  • 2019.02.27 Wednesday
  • 18:23

 

 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり   前川佐美雄

 

 先日の明け方、ちょうどこの歌のような風景が窓の外に広がっておりました。

 

 

 

 そういえばこの頃、霧の中で自分の輪郭をほどくような時間を過ごせていないなと気づかされ、忘れ物を受け取りに、霧の中深く歩み入りたいような衝動をおぼえました。

 

 風景には、いつもなにかしら過去や未来からのメッセージが既視感として含まれているようにおもわれます。その風景の中に、自分の欠片(かけら)が散りばめられている、と感じるような、どこか懐かしく、しかも絶対的に新鮮である、という瞬間。人との出会いならば「他人とは思われない」という感覚を呼び起こす瞬間があるように、風景にも、「他人とは思われない風景」というものがあるのです。

 それは、必ずしも幸福な感触とばかり結びついているとは言えないもので、初めて世界との断絶を魂に刻まれた瞬間の記憶や、闇の底をさまようような胸苦しい混沌や、喪失や、他者との疎隔や、まさに今現在の生き難さを想起させることもあるのですが、そのような痛みとともに、鮮やかな修復や蘇生がもれなくまとわりついているような。一粒の涙の中に、喜怒哀楽が美しいコラージュとなってきらめいているような。

 風景に、そのような自分の欠片としての涙が散らばっている姿は、曇り空であろうと霧の中であろうと闇夜であろうと、きらめきを帯びています。

 そのきらめきの手触りによって、風景は、私の心身が世界から断片として孤立しないように守ってくれているのでしょうか。

 

 前川佐美雄(1903−1990)という歌人も険しい人で、昭和五年刊行の『植物祭』という歌集には、己れの病理やストレスを「短歌」という器に盛りながらまじまじと凝視するような、端正ながら鋭利な批評意識の横溢する歌がみっしりと詰め込まれています。

 冒頭の一首においても、「霧」を吸うことでかろうじて「やはらかな思ひ」となった彼の内には、自他や世界へのひりついた対立感が暴れ出しそうだったことでしょう。昭和初年という時代の、個々人が無意味な断片へと追い詰められてゆき、カオスを求めて暴走しそうな空気が、とても現在的に顕ち上がっている歌集です。

 

 一人ひとりが無意味な断片のような場所に追いやられてゆく時代において、あくまで「一人ひとり」が、どのようにこの世界と絆をとり結べばよいのか。

〈現在〉のさまざまな課題が、いつもこの一点に集約されてゆくのを感じます。

 断片としての明晰な輪郭を、その輪郭を保つ強固な自我を、機能的で効率のよい関係を、身体を、ライフイメージを、目標を、能力を、結果を、価値を。そこで求められる明晰さの底浅くてもろいこと。

 常に輪郭の明晰さを要求する不可視の圧力は、得たいの知れない〈闇〉の暴発を封じ込めようとするかのごとくですが、その強迫的な明晰さこそが、大規模なストレスのカオスの醸成源でもある。そういう圧力と暴発とのあやうい葛藤の強まりを、世相から感じることが多くなりました。

 しかし、〈時代〉の流れが圧倒的に見えるときほど、実は、一人ひとりのまなざしが効力を発揮するときなのではないかと、思われてなりません。

 ものごとの本質というものは、いつも逆説を孕んでいますから。

 

 明晰な輪郭を浅はかでなく顕ち上げられる存在は、たっぷりと霧を吸って育ったのだと。少なくとも私の欠片の潜む風景は、そんな逆説をきちんと伝えてくれているようにおもわれます。

 

 

〈いのち〉の匂い

  • 2019.01.28 Monday
  • 11:55

 

 例年、新年の抱負などは特に考えないのですが、自身の体調管理が切実な年頃ともなると、今年は3つ、肝に銘じようと思いました。

 

 よい姿勢をキープ。

 深い呼吸。

 よく噛んでゆっくり食べる。

 

 なんだか小学生に言い聞かせるような内容ですが、実践するとなると難しいものばかり。

 パソコンやスマホとにらめっこする時間が多くて、肩は丸まり、気がつけば眼精疲労の蓄積と猫背気味。

 姿勢が崩れると呼吸も浅くなりがち。

 せわしない気分でせわしない食事時間となり、味わう気持ちはどこへやら。

 悪循環の無限ループは恐ろしいですので、よい循環へと転換したいものです。

 

 KJ法の世界観に置き換えるなら。

 よい姿勢をキープすることは、この世界を〈志〉があるものとして感受する、その姿勢を忘るべからず、ということに。

 深い呼吸は、こちらの〈我〉で世界を仕切ろうとするのではなく、己れを空しくして渾沌との全身的な深いやりとりを実践すべし、ということに。

 よく噛んでゆっくり食べることは、上記2点をベースにして、渾沌が構造化されるプロセスと結果を深く味わうべし、ということに。

 渾沌は恐怖の対象ではなくなり、己れを生かしめてくれるものとして、「身になる」はず。

 

 KJ法についてなら、いつも偉そうにのたもうていることですが、己れの心身の基本が崩れがちな今日この頃。

 この場で公開することで、一年間、健やかに過ごすためのモチベーションをキープしたいですし、自身からも他者からも世界全体からも、あたたかな〈いのち〉の匂いを感じられる一年にしたいと切に願います。

 

 

 

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京の秋2018

  • 2018.11.28 Wednesday
  • 16:54

 

 今月は写真のみ更新です。

 なかなかおちついて写真を撮る時間がありませんが、少しだけ、風景にしゅわっと潤った感覚をお伝えできればさいわいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈水〉の風景

  • 2018.06.29 Friday
  • 12:34

 

 気がつくと〈水〉を撮っている自分がいます。

 

 

 暑さのせいばかりではなく、根深い精神病理を垣間見せる事件の数々や、災害とそれに伴って蔓延する不条理感、煽られる不安と虚無、そういった混沌の相貌に、惑乱させられたくないと望む、身体の防御本能かもしれません。

 ことに、稲が育つ姿が美しく感じられて、今年はついついカメラを向けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 田の面に映り込んだ山や空や稲によって織り成される風景は、光なのか影なのか、空気なのか水なのか、世界なのか私なのか、どこか混沌としていながら、不思議な落ち着きを湛えています。

 混沌や気が遠くなるほど長いスパンにおける循環や巨大な転換といった〈振幅〉は、有限な個としての生を生きる私たちにとって、その〈意味〉を測りがたい手ごわさを抱えています。不条理に直面したとき、その〈意味〉がいつまでたっても見出せない極北の風景にたたき込まれる恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

 しかし、〈救い〉は、私たちの身体そのものに精妙に刷り込まれて存在していて、壮大な〈振幅〉は外部にのみあるのではなく、私たち自身が、実はその全ての〈振幅〉を自ら認識し把握することなど不可能なほど壮大な存在なのだということを、少しだけ思い出すことができる。そんな契機を、無意識に招き寄せるように、生きているのだと思います。それが、〈生かされている〉ということの姿なのかとおもわれます。〈生かされている〉という認識の先に、〈意味〉がたぐり寄せられる。不条理が後景に退く。

〈風景〉も、私たちの外部にあるのではなく、私たちの内なる壮大さの鱗のようなものが映し込まれて、そこに存在するのだと感じられるとき、風景の背後にある気が遠くなるような〈振幅〉の鱗もまた、私たちの内にきらめいて、その〈振幅〉との確かな絆を結べるようにおもわれるのです。

 

 

 

 

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初夏のかおり6選

  • 2018.05.31 Thursday
  • 16:07

 今月は写真のみ更新です。京都の(といっても、観光名所ではありませんが、だからこそ誰からも消費されず、みずみずしい風景たちだとおもっています)初夏のかおりをお楽しみください。

 

 

ここから夏を始めます、と言っているような。

 

 

今年の夏も謳歌するぞ、と言っているような。

 

 

畑の中のえんどうの花。誰にも注目されないけど、私の夏、京都の夏を楽しみますよ、と言っているような。

 

 

里山を下りて、ちょっと水辺を。人のように、靴など脱がないでよいのです。いつでも川を渡れます。

 

 

夕日は雑草にとってのスポットライト。

 

 

田植え当日の夕暮れ。日本の原風景、早苗田(さなえだ)。なんと美しい言葉でしょう。

 

 

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はなびらと水のあはひの光かな

  • 2018.03.30 Friday
  • 18:57

 はなびらと水のあはひの光かな  眞鍋呉夫

 

 この季節になると、想い出す一句です。

 満開の桜の枝が川面や湖面に伸びて、水に触れるか触れないかで揺れている。風次第で水に触れたり触れなかったり。そんな風景を見るたびにこの句が浮かびます。

 

 

 しかしこの句を、具象的な風景としてだけ味わうのはもったいなくおもいます。

 読み手次第でさまざまな象徴性を喚起されるでしょうし、映像が浮かぶにしても具象画のようであったり抽象画のようであったりするでしょうし、実に多彩な喚起力を秘めた一句とおもわれます。

 一句の感動の焦点は「光」。この「光」が、何と何の「あはひ」にあると想い描くのか、それは「はなびら」と「水」を何の象徴と感じるか次第でしょう。

 きわめて具象的に、水面に伸びた枝先の花びらと水の、その「あはひの光」を想い描くもよし、桜の花びらという薄紅で半透明のものと、水という透明なものとの「あはひの光」として想うもよし、はかなく散る花びらと、永遠性をイメージさせる水の流れとの「あはひの光」でもよし、個的な輪郭を持つ花の命と輪郭の融けた類的な貌を持つ水との「あはひ」でもよし。明晰さと混沌、創造と破壊、生と死、現世の肉体と他界の魂。

 さまざまな二元的対立が重なって見えます。

 多彩な鑑賞が可能な句ですが、ただこの句には、作者が「はなびら」だけを生きているのでもなく、「水」だけを生きているのでもなく、その両方を生きている、という匂いがします。「あはひ」は、どちらでもない場所のことではなく、どちらでもあるような「あはひ」であり「光」ではなかろうかとおもわれます。

 

 たとえるならば、この「あはひの光」を、「はなびら」でもなく「水」でもないと把握するのは、西欧近代的な「分析的」解釈であり、「はなびら」でもあり「水」でもあると感受するのはKJ法的な世界観であろう、とおもわれます。

 

 私たちが何らかの幸福感に浸されるときというのは、想えばこのような「はなびら」と「水」の両方を生きているときかもしれません。

 

二人なのにひとつであるとき。

個なのに類であるとき。

孤独の中に深い充足感をおぼえるとき。

日常なのに非日常を感じるとき。

細部にこだわっているのに全体がきちんと機能しているとき。

離れているのに側にいるとき。

自分一人の想いなのに他者に伝わるとき。

自分の肉体の呼吸が宇宙(コスモス)の呼吸とつながっていると感じるとき。

初めて会ったのに懐かしいとおもうとき。

我を忘れるとき。

他者の視線が気にならないとき。

自分の存在の「意味」に形が与えられたとき。

為すべきことが身体の深奥から迷い無くこみ上げてくるとき。

世界が自分に微笑んでいると感じるとき。

自分の行為や表現に不可視のはからいがやさしく力強く働いていると感じるとき。

めぐり逢うとき。

蘇るとき。

 

 干からびた世界風景を強いられて「水」からはぐれてしまいますと、このような幸福感への飢渇も、ときに病理として暴走しかねないものです。

 そのようなあやうさと背中合わせの〈現在〉ですが、あくまで「はなびら」を生きることで、その「はなびら」の〈生〉を支えてくれている「水」の気配に気づく契機があるならば、そこに命の華やぎとしての「光」が生まれるようにおもわれます。

 

 赤ん坊の目が開き、初めてこの世界の風景に触れるときというのも、その風景はきっとまだこの「水」の気配を半ば可視的なくらい存分にまとった「はなびら」のようなものではなかったかと、眼前の桜を見ながら、記憶の底をまさぐるような気持ちにもなります。

 

 

 

 

 

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京の秋5選

  • 2017.10.29 Sunday
  • 23:01

 今月は、写真のみ更新します。

 お楽しみいただければさいわいです。

 

 

少し濃密な色が珍しい萩の花。

 

 

ズームで撮影した比叡山の山肌。

こういう山肌を這う霧の感触を想像するのが大好きです。

 

 

おぼろな満月。妖しさ全開。

 

 

実りの秋。

 

 

なんの変哲もないアスファルトの歩道上のエノコログサですが、秋めいた光と闇の交錯が美しく感じられました。

 

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