「ギャップ萌え」症候群

  • 2017.06.30 Friday
  • 17:28

「ギャップ萌え」という言葉があるようです。

 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。

 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマンティシズム等々がキャラとして設定・演出されたり、人間関係の中で垣間見られることで、「かわいい〜」「萌え」「きゅん死」をそそるというわけです。

 確かに上手く表現されればこれらのギャップの意外性は、「キャラが立つ」し、ドラマも盛り上がるし、現実の人間関係においても花も実ももたらすかもしれません。

 

 そういえば、とわが身を振り返ってみると、私自身も幼い頃から立派な「ギャップ萌え」症候群であったと、ふと気がつきました。

 

 以前も紹介しましたが、「少年少女世界の名作文学」というシリーズに読みふけっていた頃のお気に入りは、『赤毛のアン』や『スペードの女王』、『秘密の花園』、冒険活劇では『怪傑ゾロ』「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、『巌窟王』等々。

 大貴族の腰抜けのどら息子、と周囲にも婚約者にも見せかけておいて、仮面をつけた「怪傑ゾロ」が胸のすくような勧善懲悪をやってのけるとか。

 アルセーヌ・ルパンがガニマール警部を手玉にとって秘宝を盗み出しながら、人殺しはせず女には優しい、とか。

『巌窟王(つまり、モンテ・クリスト伯)』の主人公が、無実の罪に陥れられて15年間も牢獄で暮らしながら、同じ牢に居た老司祭から知識と教養と宝のありかを授かり、脱獄後は別人となってかつての仇に復讐を果たしてゆくとか。

『赤毛のアン』のように、ファンタジー体質の主人公が、融通のきかないリアリストたちとの葛藤の中で、リアリストの内に秘められていた意外な衝迫や情愛を引きずり出すとか。

『秘密の花園』で、甘やかされて神経質でわがままで心身ともにこの上なく不健康だった孤児の少女が、ひきとられたお屋敷の「花園」を復活させる秘密を味わうことで、自分と周囲を蘇生させてゆくとか。

『スペードの女王』のように、現実を野心的にのし上がろうとしていた青年が、賭け事の魔力に翻弄されて身を滅ぼすとか。

 

 どうやら幼い頃から、「ギャップ」によって際立つ存在の意外性、人の想定外の振幅が浮上する面白さ・怖さというものに惹きつけられていたようです。つまり、実に立派な「ギャップ萌え」症候群であったと言えそうです。

 今もその症状は相変わらず。

「ギャップ」によって顕わになる人や世界の表情に触れることで、生きる活力が湧いてくると言ってもいいくらいです。

 なにしろKJ法も、異質な(つまりギャップのある)データを統合し、それらの本質に迫ってゆく方法ですし。完成したKJ法図解を見れば、自分や他者の想いもかけない発想や感受性や存在感に出会える、貴重な方法です。ありがたいことに、仕事もまた「ギャップ萌え」症候群の私にとってうってつけだったりするので、「萌え」の種にはこと欠かない生活であるかもしれません。

 

 昨今、このような「ギャップ萌え」に人々が意識的・自覚的になっているというのは、ある意味、人物像や関係における平板さへの抵抗、とも言えましょうが、少々不自然なものも感じないではいられません。

 ドラマのキャラ設定においても、ことさらなギャップの作り込みは、かえって説得力を失くし、ただ「狙っているだけ」という印象を与えるばかりでわびしいもの。

 現実の恋愛においてもわざとギャップを見せるといった計算は、なにやら小賢しい不自然なテクニックと思われます。

 メディアで露出された芸能人の日常に人々が過剰に群がるのも、無性にギャップに渇くせいでしょうか。

 

 平板な世界や平板な人物像が嫌、何かを取り戻したい、そういう気持ちがせり上がるのは無理からぬものがありますが、こまごまとその渇きを癒やすためにむやみに散らかっている「ギャップ」とそれに対する「萌え」には、奇妙に「安心したがっている」においがします。

 つまり、本来の世界の振幅の巨大さを恐れるあまり、日々、微細な「ギャップ萌え」で渇望をこまめに処理しておかないと危ないのではないか、と怖れているようにも見えます。

 そして、日常に豊かに潜んでいる「ギャップ」からは、かえって目をそらしているのではないか、ともおもわれます。

 日々、見慣れた風景や関係の中にも、壮大な「ギャップ」は潜んでいて、私たちに世界の振幅の大きさをきちんと伝えてくれているはずだとおもうのですが、そういう日常から目をそらし、現状を脅かす得体の知れない非日常からも目をそらし、浮足立った「萌え」だけが蔓延しているようにもおもわれます。

 

 表現においても生活においても、なにかしら本来の「幅」を失くしてうろたえているような。

 ここに足を踏んばればいい跳躍ができる、といった拠り所を失くしているような。

 この幅の中でだけ「ギャップ萌え」してね、と何かから強制されてでもいるような。

 なによりも、自分の内から失われた「ギャップ」を、ことさら外部に求めて痙攣的な刺激を消費・享受しようとしているような。

「ギャップ」を成り立たしめている不可知の渾沌にはフタをすることで、「ギャップ」によって世界をかえって狭く規定し直しているような。

 

 ただ分極しているだけ、ただ散らかっているだけ、といった「ギャップ」の深まらなさを超えて、蘇生した世界を見ることができれば、その世界の変容ぶりにはさぞ「萌え」ることだろうとおもわれます。

 

 

 

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〈出逢い直し〉のラビリンス

  • 2017.02.23 Thursday
  • 17:50

 この冬は、ツグミにとてもよく出逢います。

 このツグミには宝ヶ池の梅園で出逢ったのですが、斜め上方へ投げた遠い目と、ややナルシシスティックな立ち姿に、ユーモラスなケレン味を感じてうっとりしてしまいます。

 

 

 ほんとうは、昨年までも身近にたくさん居たのかもしれませんが、昨冬初めてツグミを識別できるようになったので、この冬はしばしば視野に入ってきます。

 見慣れてくると、視野のすみっこでかすかに跳び跳ねる気配がするだけでも、ムクドリでもないし、スズメでもないし、ツグミなのだと気がつくようになりました。ツグミならではのまるまるころころした重量感とリズム、独特の声の艶にも敏感になってきました。

 この冬の私の風景を豊かにしてくれた立役者です。

 

 出逢うというのは、初めてのようで実は初めてではない、という感慨を、この頃よく抱きます。

 初対面だと思っていても、実は私たちの認識を超えたところで出逢った記憶を持ちながら、出逢い直しをしているのだ、という感慨です。

 だから、私がツグミという野鳥の姿に「萌え」てしまうのも、昨冬初めて出逢った時に、出逢い直しをしたせいかと思うのです。

 新鮮だけどとても懐かしい。

 感動を伴う出逢いにおいては、いつも個人史の枠組みや個体の輪郭を超えたところで「既に知っている」という感触に包まれるのを、私はどうすることも出来ませんし、日常的に目にする風景や光や風や水面のざわめきにも、時には誰か懐かしい人の気配が融け込んでいるように感じることもあります。「今、そばに居るな。」といった感触です。

 

 大学での教え子のTさんから以前いただいたメールの中に、印象深いフレーズがありました。

「本当のほんとうは、人は完全に悟っているんだけど、わざとそれらを忘れて、自分の欲しい分量ずつ、思い出しているんじゃないかな、とも想います。」

「本当のほんとうは」「完全に」「わざと」「自分の欲しい分量ずつ」といった修飾語の緻密さが味わい深くて、丁寧に吟味せずにはいられないフレーズです。

 私たちは、この人生で少なからず迷走しますし、少しでも幸せになろうとするなら、試行錯誤しつつ修行を重ねに重ねて、確信は持てないけれども良き方であろうと信ずる方へ進もうと悪戦苦闘するものですが、彼女のこの言葉によるならば、私たちの迷いの姿は表層にすぎなくて、「本当のほんとうは」既に悟っている、それも「完全に」悟っているのだということになります。それなのに、「わざと」その悟りを忘れて、「自分の欲しい分量ずつ」思い出しながら生きているのだと。

 なかなか人生とは面倒なものです。面倒だけれども、今のところ出逢えている自分は本来の自分の氷山の一角に過ぎないのであり、まだまだ思い出していない自分が測り知れないほどあるのだと想うことは、己れにしがらんでいる意識の拘束がふいっとほどけるようで晴れ晴れ致します。

 

「悟り」とは、完全な、あるいは本来の、自分との出逢いであるとするならば、私たちはそれと正しく「出逢い直す」ために、一度わざと全て忘れなければならないのかもしれません。

 この人生の意味は、その「出逢い直し」の道程の豊かさにかかっているのだとすれば、道程を豊かにするために、意識と無意識を総動員し、内省力の限りを尽くして、「自分の欲しい分量ずつ」適切に思い出しながらより完全な「出逢い直し」へと近づいてゆく必要がある。

 時には、適切に「思い出さない」能力も駆使する場合だってあるのかもしれません。これ以上他者や自分の〈闇〉を見てしまうと自分の中の何かが危なくなる、と感じたら、人は全速力でそこから遠ざかることで「出逢い直し」を回避する場合もあります。人によっては、危険と感じてかえって深みにはまってゆく場合もあるでしょう。

 

 人それぞれの本能や叡智で、「自分の欲しい分量」の適切さを測りながら生きることになるのだとおもいますが、私はそのような「思い出し」にかけては貪欲なのかもしれません。初めて出逢った人や風景に、心の中で「よっ、久しぶり」と声をかけていることが多いと感じます。

 だからといって迷走しないというわけではないので、これからもまだまだ遠い本来の自分に、より深く豊かに出逢えるよう、精進して歩んでまいりたいとおもいます。

 

 

 

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2016年を振り返って

  • 2016.12.24 Saturday
  • 16:08

 

 今年も、11日いっぱいいっぱいで生きてきた、という想いがひしひしとこみ上げてくる年の瀬です。

 日々の生活のたいへんさ、慌ただしさを抱えつつも、一年間のこのKJblog2月に開設したブログ「星辰」における記事を見直しますと、ずいぶんとたくさんの表現を公にすることができていて、積み重なったものの重みと手応えをずっしりと感じます。

 試みに、それらの記事からタイトルや単語を適当にピックアップして羅列してみますと、「初対面」「ラビリンス」「縁」「一本の線」「聖の弁証法」「断捨離」「神歌唱」「個」「類」「藤村操世代」等々。

 この一年私がこだわってきたことはどうやら、「新たなお気に入りが一つ増えた」というタイプの出会いではなく、「これ一つあればいい」というものに出会えるかどうかなのだということのようです。

 部屋の「断捨離」をするときも、「神歌唱」に出会ったときも、「一本の線」の記事で述べたように、たった一本の線がすべての線を象徴的に担える、という世界観を握りしめようとしていたようにおもわれます。その世界観があるならば、人はいくつもの選択肢を「断念」することなく、たった一回の人生を「決断」によって雄々しく生きられるような気がいたします。

 ここまで歩いてきた中で、いくつもの大切なものを喪失してきましたが、それでもなお、諦めたり棄てたりといった「断念」によってそのことを彩るのではなく、「決断」によって実は何一つ諦めずに全てを祝福していたいと願っています。

 

 私なりの世界観、私なりの「決断」で生きようとするとき、縁ある方々に支えていただいていることもまた、痛感いたします。

 夏からずっと腰痛で辛い思いをいたしましたが、今年は霧芯館のワークショップに協力してくれるスタッフさんにも新たな若手が増え、参加者のみなさんの熱意にも後押しされ、無事に開催できたことに感謝せずにはいられません。

 また、このブログの文章、写真、そして「星辰」での表現を楽しみにしてくださる方々にも、いつも熱風を送っていただいていると感じております。

 私自身は、自らめらめらと熱い火柱のようなエネルギーを立ち上げてそれを周りに振りまくタイプではないとおもうのですが、読者の方々は、意外にも私の表現から熱や癒しを受け取ってくださるようで、そのことが私の動力源となっているのであり、世界は〈気〉や〈熱〉や〈風〉や〈水〉などが常に流れ巡って成り立つものとの想いをあらたに致します。

 ですので、私にできるささやかな表現を、常に澄んだものとして発したいと、可能な限り澄み切ったものとして発したいと願っています。その〈気〉がどこまで巡り届くのか、それは私の意志などはるかに超えたことでありましょうが、縁ある誰かの真摯な「決断」の支えともなればと想います。

 

 読者のみなさま、どうか良い年の瀬をお迎えください。

 

 

 

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紅葉占い

  • 2016.11.27 Sunday
  • 17:33

 KJ法の真髄は、ものごとを象徴的に感受することにありますが、今年の紅葉によって世界をシンボリックに感受するなら、この世界はその表層のいかがわしさにもかかわらず、やはり意味に満ちて澄んでいる。そう感じられる風景を、今回は写真で綴ってみたいとおもいます。

 

 写真は素人なのですが、みなさんから褒められることが多く、そういうときの歓びは、文章に感銘を受けていただいたときにひけをとりません。写真も一つの表現ですので、身体表現として素直に私の写真を気に入ってくださる方々の存在は、文句なくありがたいものにおもわれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

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“ラビリンス”としての縁

  • 2016.07.30 Saturday
  • 18:01

 

 今年2月に開設致しましたブログ「星辰 Sei-shinも、月に一度、数本の論稿を掲載し続けるというペースを保ちながら、半年近くがたちました。

 川喜田八潮の評論として、戦後史、宮沢賢治の童話、『新世紀エヴァンゲリオン』、藤沢周平作品、哲学書(ドゥルーズの『スピノザ』)等がとりあげられ、書評ではいよいよスピノザの『エチカ』論も連載がスタートしました。

 川喜田晶子は「〈藤村操世代〉の憂鬱」をこつこつと連載しております。

 

 川喜田八潮の旧稿・新稿を読むことで、批評の対象を押さえ切るその“握力”の強さに改めて瞠目しながら、毎月の編集作業を楽しみつつ更新しております。

 哲学書も、アニメーションやテレビドラマも、時代小説も、どのような対象を論じる時も、観念的な高みから啓蒙的に語るのではなく、オタク的な好みを披瀝するのでもなく、己れの生き難さの本質をつきつめ、あくまで“生活”を通して世界風景を塗りかえる営みとして、批評という表現が真に成立しているのは、この「星辰」という場だけであることに、書き手は二人とも満ち足りた誇りを感じております。

 ・・・などと手前みそなことを書かずとも、ご縁のある方はついうっかりブログに足を踏み入れて、途中でやめられなくなっているのかもしれません。

 

 さて、霧芯館の方も、もうすぐ恒例の夏のワークショップですが、今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」と致しました。〈初対面〉というささやかな切り口から、人や場所や風景との関わりにおいて、つまりはこの世界の混沌に対して、私たちが抱くべきまなざしの質を問うことができるかと考えております。

 こちらも、“ついうっかり”霧芯館に足を運んでしまって、いつのまにかKJ法の修行に明け暮れておられる方々がたくさんいらっしゃいます。

 問題解決や質的研究への活用といった動機、ネットや口コミといったきっかけはあるはずですし、それぞれにとても真剣な想いを抱いて霧芯館へお越しくださっているのですが、私の側からは、どなたも“ついうっかり”来られた、ようにいつも感じています。つまり、ご本人の動機やきっかけを超えたところに、“縁”の糸が(赤いのかどうかわかりませんが)働いていて、その糸に引っ張られてあるいはその糸をたぐって辿り着いてしまった、みたいな感触です。そんな得体の知れない糸に引っ張られて辿りついてしまうのも、まんざら悪くないな、と思っていただけるなら、この仕事をしていてよかったなとおもわれます。

 

 “ついうっかり”という副詞を用いてみることで、なにかしら、人と人の“縁”というものの“ラビリンス”のような得体の知れなさに、ほほえましいあたたかみを感受できる気がするこの頃です。

 

 

 

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世界の〈貌〉

  • 2016.01.29 Friday
  • 10:26
 
 このブログは野鳥ブログではないのですけれども、カメラを持って霧芯館近隣を歩いておりますと風景・野鳥・野生の鹿などに自然と目が向いてしまいます。

 新年も、気持ちがあたたかくなる一枚が撮影できました。


 
 霧芯館のある京都・松ヶ崎から、北の岩倉地域へと抜ける狐坂のふもとで、なにやらリズミカルに地面を飛び跳ねている鳥の気配。
 ムクドリにしてはふっくらしているし、スズメにしては大きすぎるし、お初にお目にかかる写真の姿と野鳥の図鑑を見比べているうちに、これはまぎれもなくツグミだと判明いたしました。
 インターネット上のツグミの写真もいろいろ見てみましたが、これはなかなか稀なるふっくら具合。おなかのまるみがほとんど球体で、濃い斑点の野性味と背中のぬくもりのある色彩とのコントラストも目に楽しく、こちらのからだがほかほかしてくるような愛らしさです。
 しかもくるりと見返ったつぶらな瞳はやや遠くを見つめ、ロマンチックな風情にはケレンミも感じられて、笑いを誘います。
 
 ああ、世界は私にこんな〈貌〉を見せてくれる。
 たかが一羽の野鳥と出会っただけのことですが、それを撮影した写真をつくづく眺めると、私が世界にどのような〈貌〉をしていて欲しいのか、否むしろ、世界が私にどのような〈貌〉を見せたがっているのか、その表情がツグミを通して露呈しているように感じられてなりません。その〈貌〉を、私の自我意志の延長としてではなく、他者の〈貌〉として、私は新鮮に感受して驚嘆いたします。
 私が望んだからツグミがポーズをとってくれたわけでもなく、ツグミのさまざまな表情の内の一瞬を私が狙って撮影したわけでもありません。狙ってこんな写真が撮れるものではありません。でも、たまたまかと言えば、たまたまにしては私の撮る野鳥たちはどれもなにやら“お笑い”が入っている(以前ここに掲載したキジにしてもメジロやモズにしても・・・)。
 これは、世界が私に野鳥を通して、その在り様の本質をシンボリックに見せているのだと感じられるのです。世界は美しくて、たくましくて、ちょっとアホ可愛くて、あたたかいよ、と。
 このような出会い方は、なにも野鳥との間に限ったことではなく、自然の風景とも、人や街や建物や機械との間においてさえ、日々生じていることであり、私たちはそれとことさらに意識せずとも、一瞬一瞬、世界と不断にやりとりをして生きています。他者や風景が私たちに見せる〈貌〉を、どのように感受して関係性を構築してゆくのか、日々、一見ささやかな、しかし重大な判断を繰り出しています。そのことでほんの少し、時には劇的に更新される世界風景によって、奥ゆきを増す〈信〉に支えられて実は生きています。少しでもよりあたたかな世界の〈貌〉に触れたくて生きています。
 その〈信〉とは、「あの人には嫌なところもあるけれど、いいところもあるのだから、いいところだけを見るようにしよう」といった、小ざかしい理知や処世によって対象の表情を己れに都合よく切り取る術のことではなく、あくまで存在全体の核心としての〈貌〉とより良く出会う叡智のようなものだとおもうのです。
“渾沌”をして語らしめてその核心をシンボリックに呼び活けるKJ法という方法論の本質も同様です。矮小な“我”や“はからい”を超えることで、空疎な観念性を排し、身の内とコスミックな世界との、地に足のついたふくよかな往還において生きる力が目覚めるように、私たちの身体の深奥に語りかけてくる方法はKJ法だけなのだと、澄んだ気持ちで言い切ることができます。
 私たちが誠実に、より良き世界の〈貌〉と出会おうとする時、饐えた〈不信〉や酷薄な〈不条理感〉に気萎えさせられる時もあれば、一見悪気のない観念的な〈信〉によってうつろな誤謬へといざなわれてしまう時もあり、生活者として良き物語を紡ぐのは生易しいことではありません。
 繊細だが酷薄な不毛と、タフだが鈍感な欺瞞とのあわいで、一瞬一瞬漕ぎ出したい方向性を“脱・観念的に”見定める営為のことを、ほんとうは〈生活〉と呼ぶのだとおもわれます。それは、安易な道ではありませんが、細い細い丸木橋から転げ落ちないようにと神経症的なまなざしを研ぎ澄ますことではなく、繊細であることが大胆であるような、晴れ晴れとした歩みへの希求であるはずです。
 KJ法が体現する世界観の本質は、そういう意味で真の〈生活者〉のためのものであり、「ボトムアップ」という言葉も、この本質が実現されるときに空疎な観念性を脱することができるのだと考えます。
 
 2016年、世界が私たちにどのような〈貌〉を見せようとするのか。
 真の〈生活〉の質を高める一人ひとりの営為の内に、巨大な変容はいつかその全貌を顕すだろうとおもわれます。




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2015年を振り返って

  • 2015.12.30 Wednesday
  • 10:35
 KJ法に馴染んでまいりますと、ものごとを象徴的に感受するのが当たり前になります。政治や経済の動きも、犯罪や精神病理も、天変地異も、メディアを通して触れた世界中のトピックスも、たまたま通りかかった場所で目にした風景も、隣人との会話も、散歩で出くわした鹿や野鳥の表情も、我が家の南天の実の付き具合も、私にとっては同等の〈志〉の重みをもって迫ってくる事件です。
 この一年を振り返るときも、これまでの生涯を振り返るときも、現在の社会や近現代の歴史を考えるときも、その姿勢は同じで、シンボリックな表情というものをいつも大切に感受しているわけです。
 
 公私を問わず、この一年から感じられるものは〈真剣味〉の瀬戸際、あるいはそぎ落とされてゆく〈贅肉〉といったイメージです。
 夏・冬に開催したワークショップでは「〈闇〉の居場所」というテーマを扱いましたが、このようなテーマで開催できることにも時代の変化を強く感じます。
 このテーマはそもそも、霧芯館で研修を受講されたご縁で関わらせていただいた井上靖子氏(兵庫県立大学・臨床心理学)のご研究に刺激を受けて設定したものでした。子どもたちが己れの〈闇〉を表現し、己れの内部に〈闇〉の居場所を与えることで変容してゆく、臨床心理の現場の風景を間接的ながら垣間見させていただき、〈現在〉における〈闇〉とのスタンスをぜひ、ワークショップでも扱ってみたいという想いが湧きました。個々人の〈闇〉だけではなく、社会における〈闇〉の居場所、〈光〉と対立的に扱われるだけのネガティブな〈闇〉ではなく、存在の根源としての〈闇〉の振幅に迫ってみたいとおもいました。
 このようなテーマで語り合う場を設けることが出来る時代になったということに、時代の〈真剣味〉を感じないではいられません。もはや〈闇〉に向き合わずに先へは進めないのだと、時代の無意識が感受していることを信じられる気がいたしました。
 まだまだ表層では欺瞞や解毒、糊塗や誤読がのし歩いているように見えますが、そのなりふり構わぬ欺瞞・誤読の必死さは、むしろ時代の深層を表現してしまっていると感じられます。
「詩を描く」の授業で触れた美大の学生の作品にもあったように、「空の色を二進法で知る」世界観が〈現在〉をすみずみまで覆い尽くしているように見えますが、「二進法」が大手を振ってのし歩けばのし歩くほどに、贅肉の無い、つまり観念的でない手触りとしての「空の色」への飢渇は、縁ある人々を良き方へ少しずつ押しやっていて、いずれに向かって歩き出すのか、〈現在〉の無意識の瀬戸際、と感じられてなりません。
 
 そんなわけで私の日常は、どのような穏やかな日も、世界が発する〈闇〉の気配の感受・察知でいっぱいです。
 
 みなさまの生涯にも、良き物語の一つの環として、この一年が象徴的に感受され、刻まれてゆきますように。今年が輝かしかったと思う人にも、つらいことばかりだったと思う人にも、いつかこの一年の真の意味が明らかになり、その生涯を支える環となりますように。






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百舌鳥の声

  • 2015.10.31 Saturday
  • 15:50
 モズという鳥は、「百舌鳥」「百舌」などと表記されるように、さまざまな鳥のモノマネが得意らしく、写真のモズもこの日、メジロの真似とおもわれる歌声を披露しているところでした。
 なんだか下手な真似なのですけれども、己れの美声に自信たっぷりの表情が面白く、つい聞き惚れてしまいました。







 
 モズはいろいろ不思議な習性を持っているようで、獲物を枝に突き刺しておく、いわゆる「モズのはやにえ」などは肉食的な獰猛さを感じさせますし、モノマネ好きの剽軽な貌も見せるかと思えば、冴えた天空から響き渡る「高鳴き」は、秋の深まりを私たちの心身に突き刺さるように伝えます。
 
 我が内の火宅のたがをはらはらと壊(こぼ)ちて秋の野に棄(す)てよ 百舌鳥  
                                       桐島絢子
 
 内面的に「火宅」とも呼べるような体験にとらわれて苦しい時、百舌鳥よ、その「たが」を壊して秋の野に棄ててくれ、という歌ですが、「たが」があるということはつまり、「火宅」の苦しさというものが実は、ある観念的なとらわれでもあったということ。その「たが」への固執は百舌鳥の声に壊されていさぎよく秋の野に融解し、壮絶な痛苦もまっさらな意味を求めてしみじみと素肌を晒すような、不敵な情趣が百舌鳥の風貌と響き合います。
 他者との比較や社会的な視角といった観念の枠に閉塞されていた風景が、秋の野に突き刺さるような百舌鳥の高鳴きによってはらはらと壊れて相貌を一新し、固有であることが普遍であることへひそやかに架橋する瞬間というものを、読み手はそれぞれの個人史の内にまさぐるのではないでしょうか。
 
 人の内面が「火宅」であるのかないのか、表面的にはわからないもので、どのような人の内にもその人に固有の「火宅」のような個人史が潜んでいるのであり、ときに自覚的に、ときに無自覚に抱え込まれているそのような固有の修羅の深みをあなどってはいけない、とおもいます。
 一方で、その「火宅」の程というものは、決して他者と比較されてはいけない、ともおもいます。比較を始めるや否や、その固有性は相対化され観念化され、不条理の色彩を強めます。他者を羨んだり貶めたり、己れの悲惨をてらったり呪ったり。不毛な怨恨としてその人の生を染め上げ始めることを私は恐れます。
 
 固有性というものは、普遍性と矛盾するものではないはずです。固有性を生きるということは、実は普遍性を象徴的に生きることでもあると気づかなければ、固有性はいつまでたっても比較の視線によって矮小な場所しか与えられないのであり、満ち足りるということがない。この象徴的な回路というものが見つけられなくて、また普遍性なるもののイメージが貧しく瀰漫していることで、私たちはどれほど自分というものをみすぼらしくしか想い描けないでいることか。
 
 モズなどはきっと、己れの内の固有性も普遍性も、非観念的な渾沌とした領域としてあの小さな身の内に抱え持っており、恐るべき俊敏さでその身体がより歓ぶ方向性を択びとりながら、他との比較など入り込む余地のない、はち切れんばかりの生を謳っているのであろう、と、つややかな小躯に見惚れてしまいますが、人もあるいは、ほんのささいな「たが」をはずすなら、観念的な固執から解き放たれて、その身体をより深く広く生きることが可能なのかもしれない。だがその「たが」をはずす鍵はいったいどこにあったろう。どこに忘れて生きてきたろう。はずしさえすれば幸せになれるのか、それともはずし方を間違えれば滅びるしかないのか。

 誰もが、そのような「忘れもの」の感覚に、希望のための不安をそそられてみるのも、深まる秋に似つかわしいかもしれない、とおもいつつ。



 

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2014年を振り返って

  • 2014.12.31 Wednesday
  • 16:19


「わたしにはわかるのだ。いまから起こることに、人のともす小さな光など必要ではない。暗闇のなかでこそ、大いなることは起こる。みなもたいまつを消せ。〈月の木〉の光だけでじゅうぶんだ。」(浜たかや『月の巫女』 1991年 偕成社刊)

 

 児童文学作家・浜たかやの『月の巫女』は過激な作品です。

 この引用部分は、ことに近現代文明の世界観の矮小さに対する鋭利な批判をはらんで小気味よい場面です。

「ユルン・サーガ」と呼ばれる一連のファンタジーによって、〈火〉の原理と〈水〉の原理のいずれかに偏して自ら滅んでしまう文明の性(さが)を浮き彫りにした浜たかやですが、この『月の巫女』はその最終作であり、〈火・光・太陽〉を崇めて〈水・闇・月〉を忌む「ユルン族」の崩壊を壮大なスケールで描き出しています。

 可視的・即物的な了解を超えるものをみとめず、極度に怖れるユルン族。その〈王〉が、自らのあまりにも永い〈渇き〉に導かれて〈闇〉の世界に吸引されてゆき、己れの一族をも崩壊に至らしめる姿は壮絶です。

 興味深いことに、これほど〈闇〉を忌むユルン族なのですが、そこにはちゃんと「呪師」がいます。常日頃やや蔑視されつつも、一族の民の了解を超える事態に、この「呪師」は本領を発揮します。

 上述の場面、〈死〉から想定外の〈産〉が起こる異常さに一族が怖れおののく中、呪師だけが〈闇〉に身体を開いてむしろくつろいだ魂で、〈大いなること〉を待ち受けているのです。

〈火〉と〈水〉、〈太陽〉と〈月〉、〈光〉と〈闇〉といった二元的対立を人類は超え難く、これらの二極をゆきつ戻りつしてしまう文明の興亡への悲哀が、浜たかや作品には通底していますが、悲哀とともに、「なぜ超えられないのか」という憤りがもの狂おしく解放を求めるとき、やや荘重な観念性を帯びた文体が妖しくゆらめき出します。

『月の巫女』は、そういう作者の資質がよく顕われた作品です。

 

「暗闇のなかでこそ、大いなることは起こる」という想いを、2014年は深く抱いた一年でした。

 自分も他者もこの世界も、なにやら巨大な胎蔵界の中をくぐり抜けているような。

 そこでは、無理やりともす〈光〉はむしろ観念的で不安の裏返しなのであり、自ずと存在の内から粘り強く沁み出る〈光〉だけがほのかに足元を照らしつつ、〈大いなること〉へと導いてくれるようにおもわれます。

 ちょうどKJ法において、ラベルたちが集まってグループを作り始めても、完成図解の構造までは見えてこないように。先走った仮説は「悪ざとり」に陥りやすく、状況の底に徹してこそ良き判断が生まれるように。
 

 私たちは〈光〉なくしては生きられませんが、その〈光〉が底浅いものにならないように生きることは、なかなかに難しいと感じます。 

 日々に潜む〈大いなること〉を深々と呼吸できるようにというささやかな闘いの一環として、このブログの文章も紡いでおりますが、これらの表現に「支えられる」と言ってくださる読者の存在に、私もまた支えられた一年でした。深く感謝申し上げます。

 どうか良いお年をお迎えください。



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