〈水〉の風景

  • 2018.06.29 Friday
  • 12:34

 

 気がつくと〈水〉を撮っている自分がいます。

 

 

 暑さのせいばかりではなく、根深い精神病理を垣間見せる事件の数々や、災害とそれに伴って蔓延する不条理感、煽られる不安と虚無、そういった混沌の相貌に、惑乱させられたくないと望む、身体の防御本能かもしれません。

 ことに、稲が育つ姿が美しく感じられて、今年はついついカメラを向けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 田の面に映り込んだ山や空や稲によって織り成される風景は、光なのか影なのか、空気なのか水なのか、世界なのか私なのか、どこか混沌としていながら、不思議な落ち着きを湛えています。

 混沌や気が遠くなるほど長いスパンにおける循環や巨大な転換といった〈振幅〉は、有限な個としての生を生きる私たちにとって、その〈意味〉を測りがたい手ごわさを抱えています。不条理に直面したとき、その〈意味〉がいつまでたっても見出せない極北の風景にたたき込まれる恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

 しかし、〈救い〉は、私たちの身体そのものに精妙に刷り込まれて存在していて、壮大な〈振幅〉は外部にのみあるのではなく、私たち自身が、実はその全ての〈振幅〉を自ら認識し把握することなど不可能なほど壮大な存在なのだということを、少しだけ思い出すことができる。そんな契機を、無意識に招き寄せるように、生きているのだと思います。それが、〈生かされている〉ということの姿なのかとおもわれます。〈生かされている〉という認識の先に、〈意味〉がたぐり寄せられる。不条理が後景に退く。

〈風景〉も、私たちの外部にあるのではなく、私たちの内なる壮大さの鱗のようなものが映し込まれて、そこに存在するのだと感じられるとき、風景の背後にある気が遠くなるような〈振幅〉の鱗もまた、私たちの内にきらめいて、その〈振幅〉との確かな絆を結べるようにおもわれるのです。

 

 

 

 

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初夏のかおり6選

  • 2018.05.31 Thursday
  • 16:07

 今月は写真のみ更新です。京都の(といっても、観光名所ではありませんが、だからこそ誰からも消費されず、みずみずしい風景たちだとおもっています)初夏のかおりをお楽しみください。

 

 

ここから夏を始めます、と言っているような。

 

 

今年の夏も謳歌するぞ、と言っているような。

 

 

畑の中のえんどうの花。誰にも注目されないけど、私の夏、京都の夏を楽しみますよ、と言っているような。

 

 

里山を下りて、ちょっと水辺を。人のように、靴など脱がないでよいのです。いつでも川を渡れます。

 

 

夕日は雑草にとってのスポットライト。

 

 

田植え当日の夕暮れ。日本の原風景、早苗田(さなえだ)。なんと美しい言葉でしょう。

 

 

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はなびらと水のあはひの光かな

  • 2018.03.30 Friday
  • 18:57

 はなびらと水のあはひの光かな  眞鍋呉夫

 

 この季節になると、想い出す一句です。

 満開の桜の枝が川面や湖面に伸びて、水に触れるか触れないかで揺れている。風次第で水に触れたり触れなかったり。そんな風景を見るたびにこの句が浮かびます。

 

 

 しかしこの句を、具象的な風景としてだけ味わうのはもったいなくおもいます。

 読み手次第でさまざまな象徴性を喚起されるでしょうし、映像が浮かぶにしても具象画のようであったり抽象画のようであったりするでしょうし、実に多彩な喚起力を秘めた一句とおもわれます。

 一句の感動の焦点は「光」。この「光」が、何と何の「あはひ」にあると想い描くのか、それは「はなびら」と「水」を何の象徴と感じるか次第でしょう。

 きわめて具象的に、水面に伸びた枝先の花びらと水の、その「あはひの光」を想い描くもよし、桜の花びらという薄紅で半透明のものと、水という透明なものとの「あはひの光」として想うもよし、はかなく散る花びらと、永遠性をイメージさせる水の流れとの「あはひの光」でもよし、個的な輪郭を持つ花の命と輪郭の融けた類的な貌を持つ水との「あはひ」でもよし。明晰さと混沌、創造と破壊、生と死、現世の肉体と他界の魂。

 さまざまな二元的対立が重なって見えます。

 多彩な鑑賞が可能な句ですが、ただこの句には、作者が「はなびら」だけを生きているのでもなく、「水」だけを生きているのでもなく、その両方を生きている、という匂いがします。「あはひ」は、どちらでもない場所のことではなく、どちらでもあるような「あはひ」であり「光」ではなかろうかとおもわれます。

 

 たとえるならば、この「あはひの光」を、「はなびら」でもなく「水」でもないと把握するのは、西欧近代的な「分析的」解釈であり、「はなびら」でもあり「水」でもあると感受するのはKJ法的な世界観であろう、とおもわれます。

 

 私たちが何らかの幸福感に浸されるときというのは、想えばこのような「はなびら」と「水」の両方を生きているときかもしれません。

 

二人なのにひとつであるとき。

個なのに類であるとき。

孤独の中に深い充足感をおぼえるとき。

日常なのに非日常を感じるとき。

細部にこだわっているのに全体がきちんと機能しているとき。

離れているのに側にいるとき。

自分一人の想いなのに他者に伝わるとき。

自分の肉体の呼吸が宇宙(コスモス)の呼吸とつながっていると感じるとき。

初めて会ったのに懐かしいとおもうとき。

我を忘れるとき。

他者の視線が気にならないとき。

自分の存在の「意味」に形が与えられたとき。

為すべきことが身体の深奥から迷い無くこみ上げてくるとき。

世界が自分に微笑んでいると感じるとき。

自分の行為や表現に不可視のはからいがやさしく力強く働いていると感じるとき。

めぐり逢うとき。

蘇るとき。

 

 干からびた世界風景を強いられて「水」からはぐれてしまいますと、このような幸福感への飢渇も、ときに病理として暴走しかねないものです。

 そのようなあやうさと背中合わせの〈現在〉ですが、あくまで「はなびら」を生きることで、その「はなびら」の〈生〉を支えてくれている「水」の気配に気づく契機があるならば、そこに命の華やぎとしての「光」が生まれるようにおもわれます。

 

 赤ん坊の目が開き、初めてこの世界の風景に触れるときというのも、その風景はきっとまだこの「水」の気配を半ば可視的なくらい存分にまとった「はなびら」のようなものではなかったかと、眼前の桜を見ながら、記憶の底をまさぐるような気持ちにもなります。

 

 

 

 

 

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京の秋5選

  • 2017.10.29 Sunday
  • 23:01

 今月は、写真のみ更新します。

 お楽しみいただければさいわいです。

 

 

少し濃密な色が珍しい萩の花。

 

 

ズームで撮影した比叡山の山肌。

こういう山肌を這う霧の感触を想像するのが大好きです。

 

 

おぼろな満月。妖しさ全開。

 

 

実りの秋。

 

 

なんの変哲もないアスファルトの歩道上のエノコログサですが、秋めいた光と闇の交錯が美しく感じられました。

 

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「ギャップ萌え」症候群

  • 2017.06.30 Friday
  • 17:28

「ギャップ萌え」という言葉があるようです。

 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。

 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマンティシズム等々がキャラとして設定・演出されたり、人間関係の中で垣間見られることで、「かわいい〜」「萌え」「きゅん死」をそそるというわけです。

 確かに上手く表現されればこれらのギャップの意外性は、「キャラが立つ」し、ドラマも盛り上がるし、現実の人間関係においても花も実ももたらすかもしれません。

 

 そういえば、とわが身を振り返ってみると、私自身も幼い頃から立派な「ギャップ萌え」症候群であったと、ふと気がつきました。

 

 以前も紹介しましたが、「少年少女世界の名作文学」というシリーズに読みふけっていた頃のお気に入りは、『赤毛のアン』や『スペードの女王』、『秘密の花園』、冒険活劇では『怪傑ゾロ』「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、『巌窟王』等々。

 大貴族の腰抜けのどら息子、と周囲にも婚約者にも見せかけておいて、仮面をつけた「怪傑ゾロ」が胸のすくような勧善懲悪をやってのけるとか。

 アルセーヌ・ルパンがガニマール警部を手玉にとって秘宝を盗み出しながら、人殺しはせず女には優しい、とか。

『巌窟王(つまり、モンテ・クリスト伯)』の主人公が、無実の罪に陥れられて15年間も牢獄で暮らしながら、同じ牢に居た老司祭から知識と教養と宝のありかを授かり、脱獄後は別人となってかつての仇に復讐を果たしてゆくとか。

『赤毛のアン』のように、ファンタジー体質の主人公が、融通のきかないリアリストたちとの葛藤の中で、リアリストの内に秘められていた意外な衝迫や情愛を引きずり出すとか。

『秘密の花園』で、甘やかされて神経質でわがままで心身ともにこの上なく不健康だった孤児の少女が、ひきとられたお屋敷の「花園」を復活させる秘密を味わうことで、自分と周囲を蘇生させてゆくとか。

『スペードの女王』のように、現実を野心的にのし上がろうとしていた青年が、賭け事の魔力に翻弄されて身を滅ぼすとか。

 

 どうやら幼い頃から、「ギャップ」によって際立つ存在の意外性、人の想定外の振幅が浮上する面白さ・怖さというものに惹きつけられていたようです。つまり、実に立派な「ギャップ萌え」症候群であったと言えそうです。

 今もその症状は相変わらず。

「ギャップ」によって顕わになる人や世界の表情に触れることで、生きる活力が湧いてくると言ってもいいくらいです。

 なにしろKJ法も、異質な(つまりギャップのある)データを統合し、それらの本質に迫ってゆく方法ですし。完成したKJ法図解を見れば、自分や他者の想いもかけない発想や感受性や存在感に出会える、貴重な方法です。ありがたいことに、仕事もまた「ギャップ萌え」症候群の私にとってうってつけだったりするので、「萌え」の種にはこと欠かない生活であるかもしれません。

 

 昨今、このような「ギャップ萌え」に人々が意識的・自覚的になっているというのは、ある意味、人物像や関係における平板さへの抵抗、とも言えましょうが、少々不自然なものも感じないではいられません。

 ドラマのキャラ設定においても、ことさらなギャップの作り込みは、かえって説得力を失くし、ただ「狙っているだけ」という印象を与えるばかりでわびしいもの。

 現実の恋愛においてもわざとギャップを見せるといった計算は、なにやら小賢しい不自然なテクニックと思われます。

 メディアで露出された芸能人の日常に人々が過剰に群がるのも、無性にギャップに渇くせいでしょうか。

 

 平板な世界や平板な人物像が嫌、何かを取り戻したい、そういう気持ちがせり上がるのは無理からぬものがありますが、こまごまとその渇きを癒やすためにむやみに散らかっている「ギャップ」とそれに対する「萌え」には、奇妙に「安心したがっている」においがします。

 つまり、本来の世界の振幅の巨大さを恐れるあまり、日々、微細な「ギャップ萌え」で渇望をこまめに処理しておかないと危ないのではないか、と怖れているようにも見えます。

 そして、日常に豊かに潜んでいる「ギャップ」からは、かえって目をそらしているのではないか、ともおもわれます。

 日々、見慣れた風景や関係の中にも、壮大な「ギャップ」は潜んでいて、私たちに世界の振幅の大きさをきちんと伝えてくれているはずだとおもうのですが、そういう日常から目をそらし、現状を脅かす得体の知れない非日常からも目をそらし、浮足立った「萌え」だけが蔓延しているようにもおもわれます。

 

 表現においても生活においても、なにかしら本来の「幅」を失くしてうろたえているような。

 ここに足を踏んばればいい跳躍ができる、といった拠り所を失くしているような。

 この幅の中でだけ「ギャップ萌え」してね、と何かから強制されてでもいるような。

 なによりも、自分の内から失われた「ギャップ」を、ことさら外部に求めて痙攣的な刺激を消費・享受しようとしているような。

「ギャップ」を成り立たしめている不可知の渾沌にはフタをすることで、「ギャップ」によって世界をかえって狭く規定し直しているような。

 

 ただ分極しているだけ、ただ散らかっているだけ、といった「ギャップ」の深まらなさを超えて、蘇生した世界を見ることができれば、その世界の変容ぶりにはさぞ「萌え」ることだろうとおもわれます。

 

 

 

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〈出逢い直し〉のラビリンス

  • 2017.02.23 Thursday
  • 17:50

 この冬は、ツグミにとてもよく出逢います。

 このツグミには宝ヶ池の梅園で出逢ったのですが、斜め上方へ投げた遠い目と、ややナルシシスティックな立ち姿に、ユーモラスなケレン味を感じてうっとりしてしまいます。

 

 

 ほんとうは、昨年までも身近にたくさん居たのかもしれませんが、昨冬初めてツグミを識別できるようになったので、この冬はしばしば視野に入ってきます。

 見慣れてくると、視野のすみっこでかすかに跳び跳ねる気配がするだけでも、ムクドリでもないし、スズメでもないし、ツグミなのだと気がつくようになりました。ツグミならではのまるまるころころした重量感とリズム、独特の声の艶にも敏感になってきました。

 この冬の私の風景を豊かにしてくれた立役者です。

 

 出逢うというのは、初めてのようで実は初めてではない、という感慨を、この頃よく抱きます。

 初対面だと思っていても、実は私たちの認識を超えたところで出逢った記憶を持ちながら、出逢い直しをしているのだ、という感慨です。

 だから、私がツグミという野鳥の姿に「萌え」てしまうのも、昨冬初めて出逢った時に、出逢い直しをしたせいかと思うのです。

 新鮮だけどとても懐かしい。

 感動を伴う出逢いにおいては、いつも個人史の枠組みや個体の輪郭を超えたところで「既に知っている」という感触に包まれるのを、私はどうすることも出来ませんし、日常的に目にする風景や光や風や水面のざわめきにも、時には誰か懐かしい人の気配が融け込んでいるように感じることもあります。「今、そばに居るな。」といった感触です。

 

 大学での教え子のTさんから以前いただいたメールの中に、印象深いフレーズがありました。

「本当のほんとうは、人は完全に悟っているんだけど、わざとそれらを忘れて、自分の欲しい分量ずつ、思い出しているんじゃないかな、とも想います。」

「本当のほんとうは」「完全に」「わざと」「自分の欲しい分量ずつ」といった修飾語の緻密さが味わい深くて、丁寧に吟味せずにはいられないフレーズです。

 私たちは、この人生で少なからず迷走しますし、少しでも幸せになろうとするなら、試行錯誤しつつ修行を重ねに重ねて、確信は持てないけれども良き方であろうと信ずる方へ進もうと悪戦苦闘するものですが、彼女のこの言葉によるならば、私たちの迷いの姿は表層にすぎなくて、「本当のほんとうは」既に悟っている、それも「完全に」悟っているのだということになります。それなのに、「わざと」その悟りを忘れて、「自分の欲しい分量ずつ」思い出しながら生きているのだと。

 なかなか人生とは面倒なものです。面倒だけれども、今のところ出逢えている自分は本来の自分の氷山の一角に過ぎないのであり、まだまだ思い出していない自分が測り知れないほどあるのだと想うことは、己れにしがらんでいる意識の拘束がふいっとほどけるようで晴れ晴れ致します。

 

「悟り」とは、完全な、あるいは本来の、自分との出逢いであるとするならば、私たちはそれと正しく「出逢い直す」ために、一度わざと全て忘れなければならないのかもしれません。

 この人生の意味は、その「出逢い直し」の道程の豊かさにかかっているのだとすれば、道程を豊かにするために、意識と無意識を総動員し、内省力の限りを尽くして、「自分の欲しい分量ずつ」適切に思い出しながらより完全な「出逢い直し」へと近づいてゆく必要がある。

 時には、適切に「思い出さない」能力も駆使する場合だってあるのかもしれません。これ以上他者や自分の〈闇〉を見てしまうと自分の中の何かが危なくなる、と感じたら、人は全速力でそこから遠ざかることで「出逢い直し」を回避する場合もあります。人によっては、危険と感じてかえって深みにはまってゆく場合もあるでしょう。

 

 人それぞれの本能や叡智で、「自分の欲しい分量」の適切さを測りながら生きることになるのだとおもいますが、私はそのような「思い出し」にかけては貪欲なのかもしれません。初めて出逢った人や風景に、心の中で「よっ、久しぶり」と声をかけていることが多いと感じます。

 だからといって迷走しないというわけではないので、これからもまだまだ遠い本来の自分に、より深く豊かに出逢えるよう、精進して歩んでまいりたいとおもいます。

 

 

 

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2016年を振り返って

  • 2016.12.24 Saturday
  • 16:08

 

 今年も、11日いっぱいいっぱいで生きてきた、という想いがひしひしとこみ上げてくる年の瀬です。

 日々の生活のたいへんさ、慌ただしさを抱えつつも、一年間のこのKJblog2月に開設したブログ「星辰」における記事を見直しますと、ずいぶんとたくさんの表現を公にすることができていて、積み重なったものの重みと手応えをずっしりと感じます。

 試みに、それらの記事からタイトルや単語を適当にピックアップして羅列してみますと、「初対面」「ラビリンス」「縁」「一本の線」「聖の弁証法」「断捨離」「神歌唱」「個」「類」「藤村操世代」等々。

 この一年私がこだわってきたことはどうやら、「新たなお気に入りが一つ増えた」というタイプの出会いではなく、「これ一つあればいい」というものに出会えるかどうかなのだということのようです。

 部屋の「断捨離」をするときも、「神歌唱」に出会ったときも、「一本の線」の記事で述べたように、たった一本の線がすべての線を象徴的に担える、という世界観を握りしめようとしていたようにおもわれます。その世界観があるならば、人はいくつもの選択肢を「断念」することなく、たった一回の人生を「決断」によって雄々しく生きられるような気がいたします。

 ここまで歩いてきた中で、いくつもの大切なものを喪失してきましたが、それでもなお、諦めたり棄てたりといった「断念」によってそのことを彩るのではなく、「決断」によって実は何一つ諦めずに全てを祝福していたいと願っています。

 

 私なりの世界観、私なりの「決断」で生きようとするとき、縁ある方々に支えていただいていることもまた、痛感いたします。

 夏からずっと腰痛で辛い思いをいたしましたが、今年は霧芯館のワークショップに協力してくれるスタッフさんにも新たな若手が増え、参加者のみなさんの熱意にも後押しされ、無事に開催できたことに感謝せずにはいられません。

 また、このブログの文章、写真、そして「星辰」での表現を楽しみにしてくださる方々にも、いつも熱風を送っていただいていると感じております。

 私自身は、自らめらめらと熱い火柱のようなエネルギーを立ち上げてそれを周りに振りまくタイプではないとおもうのですが、読者の方々は、意外にも私の表現から熱や癒しを受け取ってくださるようで、そのことが私の動力源となっているのであり、世界は〈気〉や〈熱〉や〈風〉や〈水〉などが常に流れ巡って成り立つものとの想いをあらたに致します。

 ですので、私にできるささやかな表現を、常に澄んだものとして発したいと、可能な限り澄み切ったものとして発したいと願っています。その〈気〉がどこまで巡り届くのか、それは私の意志などはるかに超えたことでありましょうが、縁ある誰かの真摯な「決断」の支えともなればと想います。

 

 読者のみなさま、どうか良い年の瀬をお迎えください。

 

 

 

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紅葉占い

  • 2016.11.27 Sunday
  • 17:33

 KJ法の真髄は、ものごとを象徴的に感受することにありますが、今年の紅葉によって世界をシンボリックに感受するなら、この世界はその表層のいかがわしさにもかかわらず、やはり意味に満ちて澄んでいる。そう感じられる風景を、今回は写真で綴ってみたいとおもいます。

 

 写真は素人なのですが、みなさんから褒められることが多く、そういうときの歓びは、文章に感銘を受けていただいたときにひけをとりません。写真も一つの表現ですので、身体表現として素直に私の写真を気に入ってくださる方々の存在は、文句なくありがたいものにおもわれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

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“ラビリンス”としての縁

  • 2016.07.30 Saturday
  • 18:01

 

 今年2月に開設致しましたブログ「星辰 Sei-shinも、月に一度、数本の論稿を掲載し続けるというペースを保ちながら、半年近くがたちました。

 川喜田八潮の評論として、戦後史、宮沢賢治の童話、『新世紀エヴァンゲリオン』、藤沢周平作品、哲学書(ドゥルーズの『スピノザ』)等がとりあげられ、書評ではいよいよスピノザの『エチカ』論も連載がスタートしました。

 川喜田晶子は「〈藤村操世代〉の憂鬱」をこつこつと連載しております。

 

 川喜田八潮の旧稿・新稿を読むことで、批評の対象を押さえ切るその“握力”の強さに改めて瞠目しながら、毎月の編集作業を楽しみつつ更新しております。

 哲学書も、アニメーションやテレビドラマも、時代小説も、どのような対象を論じる時も、観念的な高みから啓蒙的に語るのではなく、オタク的な好みを披瀝するのでもなく、己れの生き難さの本質をつきつめ、あくまで“生活”を通して世界風景を塗りかえる営みとして、批評という表現が真に成立しているのは、この「星辰」という場だけであることに、書き手は二人とも満ち足りた誇りを感じております。

 ・・・などと手前みそなことを書かずとも、ご縁のある方はついうっかりブログに足を踏み入れて、途中でやめられなくなっているのかもしれません。

 

 さて、霧芯館の方も、もうすぐ恒例の夏のワークショップですが、今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」と致しました。〈初対面〉というささやかな切り口から、人や場所や風景との関わりにおいて、つまりはこの世界の混沌に対して、私たちが抱くべきまなざしの質を問うことができるかと考えております。

 こちらも、“ついうっかり”霧芯館に足を運んでしまって、いつのまにかKJ法の修行に明け暮れておられる方々がたくさんいらっしゃいます。

 問題解決や質的研究への活用といった動機、ネットや口コミといったきっかけはあるはずですし、それぞれにとても真剣な想いを抱いて霧芯館へお越しくださっているのですが、私の側からは、どなたも“ついうっかり”来られた、ようにいつも感じています。つまり、ご本人の動機やきっかけを超えたところに、“縁”の糸が(赤いのかどうかわかりませんが)働いていて、その糸に引っ張られてあるいはその糸をたぐって辿り着いてしまった、みたいな感触です。そんな得体の知れない糸に引っ張られて辿りついてしまうのも、まんざら悪くないな、と思っていただけるなら、この仕事をしていてよかったなとおもわれます。

 

 “ついうっかり”という副詞を用いてみることで、なにかしら、人と人の“縁”というものの“ラビリンス”のような得体の知れなさに、ほほえましいあたたかみを感受できる気がするこの頃です。

 

 

 

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