中島敦の悲劇

  • 2018.10.26 Friday
  • 12:57

 

「山月記」で有名な中島敦に、「文字禍」(昭和十七年二月発表)というブラックな寓話風の小品があります。

 

 アッシリアの大王から、夜ごと図書館にうごめいているらしき文字の精霊について調査を命じられた老博士の悲劇ですが、その悲劇の核心は、奇妙に〈現在〉の私たちの生き難さに似ています。

 

 大王の命を受け、早速調査にとりかかった博士は、うずたかい書物の古知識の中から、文字の霊についての説を見出すことができませんでした。そこで彼は書物を離れ、ただ一つの文字を前に終日それと睨めっこをして過ごすようになります。(以下の引用は『ちくま日本文学全集 中島敦』より。)

 

「その中(うち)に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」

 

 そこで博士は、このばらばらの線に一定の音や意味をもたせているものこそ文字の霊ではないかと思い当たります。さて、それではその霊の影響とはどのようなものか? 街中を歩き回って、最近文字を覚えた人々を調査したところ、奇妙な統計が出来あがりました。

 

「文字を覚えてから急に虱(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが圧倒的に多い。」

「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。」

「獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。」

 

 このように文字の霊の威力を洞察した博士はしかし、そのことで霊から復讐されてしまいます。

 一つの文字と睨めっこすることで、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を体験してからというもの、それと同様の事態に、文字以外のあらゆるものについても直面してしまうようになったのです。

 

「彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰(しっくい)との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。人間生活のすべての根柢(こんてい)が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。」

 

 怖くなった博士は、早々に研究をまとめて大王に提出するのですが、文字の霊が人々に害を及ぼしているとの報告は、文字とその文化を統べる神を疑わぬ大王の怒りを買い、謹慎を命じられてしまいます。さらに、数日後の地震で数百枚の粘土板が、文字の霊の凄まじい呪いの声とともに書庫内の博士を圧死させてしまったのでした。

 

 作者・中島敦の中に、己れの魂の置き所の無さに対する深い絶望の念があったのであろうことを感じさせる寓話です。

 文字の霊に喩えられた西欧近代的な〈知〉とは、この世界を氷山にたとえるならば、その一角に過ぎず、世界の総体はほとんど水面下に隠れている。しかし、その氷山の一角に統べられてしまうことで、私たちは空の碧さを失い、獅子を射止められず、女を愛せなくなってしまう。

 ところが、そのカラクリを洞察することもまた、分析病にとりつかれることであり、近代的な〈知〉の堂々巡り、そして意味解体の果てのニヒリズムの狂気へと人を追いやってしまうことになる。

 世界の総体を、個々の存在を、歓びと智慧に満ちたものとして享受することのできない不幸が、ひしひしと伝わってきます。世界に、存在に、真に意味を与えているものから遠ざかるように遠ざかるように、歯車が回り始める怖さ。

 

 今おもえば、高校時代に現代文の教科書で触れた『山月記』もまた、観念の夢魔に生身を食い荒らされ、虎になってしまった男の悲劇でした。現実と肉体を忌避する観念的な芸術至上主義が、〈虎〉というむきつけの獣的な現実・肉体へと収斂してしまう逆説は、時代の病の本質を鮮やかに指し示していたことがわかります。

 作者にとっては、肉体を忌避することも〈死〉、獣的な肉体の欲望に身を任せることも〈死〉、二つの〈死〉は、実は一つの病の別の貌に過ぎないことへの洞察が、痛々しい主人公の叫びとなっていました。

 その病の中で、自分が人間であったことの記憶さえも失くしてしまう恐ろしさ、段階的に自分の生身が失われてゆく恐怖にさえざえと直面する苦しさ。

 

 主人公、そして作者の苦しさは、私たちの日常にも当たり前に潜んでいることに、ふと戦慄をおぼえます。

 観念的な〈知〉によって、あるいはバーチャルな〈情報〉によって、あるいは科学の名のもとに強制される合理的・機械論的・唯物論的な世界観によって、〈現在〉の私たちは不断に生身を削り落としたりすり替えたりしているのですが、それがあまりに「不断に」なので、恐怖心すらおぼえなくなってきているようにおもわれます。デジタルな修正を加えられた空の碧さや、バーチャルに露出され消費される〈日常〉や、〈数〉の支配力や、これ見よがしにエビデンスに固められた情報によって、いつしか氷山の「一角」はその割合を増し、氷山の全てにとって代わるのでしょうか?

 

 KJ法は、既成の観念的な〈知〉を排し、世界との主客融合的な交感によって我欲を超えた創造性を顕ち上げる方法ですが、あらためて、その方法の現在性と普遍性、それでいながら本質の理解において非常に困難な方法であることを感じます。

「文字禍」の博士が陥った「分析病」をも排することで、近代的な〈知〉のパラダイムというものを根こそぎ転倒し、世界と存在のもつ歓びと智慧を、個々人の手に取り戻す方法ですが、その本質にはフタをし、安易な分類・整理法、分析や恣意的な解釈に通じるものとして誤解されやすい方法でもあります。

 そのような誤解を一つひとつ打ち砕かれる衝撃を、ぜひ、無心で味わっていただきたいものとおもっています。

 

 一人ひとりが真の〈意味〉に出会う衝撃の場所からのみ、変わってゆく風景の確かさを握り締めつつ、どなたも歓びと智慧とに満ちた秋を満喫されますように祈念しております。

 

 

 

 

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刃の奥の光るまで

  • 2017.07.31 Monday
  • 15:09

 連日の猛暑。

 ブログも暑苦しくなく書くことができて、涼しく読んでいただけるのがよいかとおもい、今回はいくつかの夏の俳句、そして季節をちょっと先取りした秋の俳句を楽しんでみたいとおもいます。

 

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり   三橋鷹女

 

「夏痩せ」したことと、「嫌いなものは嫌いだ」という自己主張との「取り合わせ」が張りのある句です。

 俳句における「取り合わせ」は、「つかず離れず」が良いと言われます。つまり、あまりにも露骨な因果関係で密接すぎるのも良くないし、飛躍が大きすぎて、読者に連想を働かせることが出来ないのも良くない。ほどよい異質さが互いを引き立て合うのが良い。(ちょっとKJ法に似ています。近いけれども異質な、いくつかのものを同時に視野におさめると、人は発想しないではいられない、そういう楽しさを、俳句もKJ法も身にまとっています。)

 ですからこの句も、夏痩せしてでも嫌いなものは食べないといった好き嫌いではなく、人生観としての「嫌い」の一徹さを感じ取るのが面白いでしょう。

 夏痩せしているのに、作者の病的な面持ちは想像できず、むしろ背筋のしゃんと伸びた姿が想い浮かびます。

 

 水晶を夜切る谷や時鳥   泉鏡花

 

 水晶で細工物が作られるのでしょうか。「谷」という異空間に隠れ里のような幻想性の響き、しかもわざわざ「夜」切るという営みに、芸術的な孤独さが匂います。明治の文豪が、小説によって〈日常〉の奥にとびっきりの〈非日常〉を紡ぎ出す時空間を生きていた、その息づかいが「時鳥(ほととぎす)」の声と響き合ってしんしんと神秘的です。

 

 刃(は)の奥の光るまで研ぐ夕ひぐらし   上野さち子

 

〈日常〉の料理の道具としての庖丁を、夕暮れに研ぐことで、また次の日の〈日常〉の準備をする。その営みが、「ひぐらし」と取り合わせられることで、〈非日常〉の声を聴く営みに変容します。「刃の奥の光るまで」はつまり、庖丁なら庖丁の真の命、魂、そういうものが光るまで、研ぐ。日常的な営みとは別の場所に非日常があるのではなく、日常に徹することで日常が底光りし始める。それこそが、一如となった真の日常・非日常であり、〈生〉の底光る姿なのだと。鏡花の句と対比すると、対照的でもあり実は連続しているとも感じられて刺激的です。

 

 一条の激しき水や青薄   松本たかし

 

 潔さが魅力的な松本たかしの句です。

 まだ穂の出ない青々とした薄(すすき)は夏の季語。それをひとすじほとばしる激しい水に喩える鮮やかさ。写生が象徴に転じるときの醍醐味をずばりと感じさせてくれます。

 

 真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道   中村草田男

 

「降る雪や明治は遠くなりにけり」で有名な草田男の句ですが、大好きな句の一つです。

 今日では、「白痴」というだけで差別用語だ、などと騒がれそうですが、人々が共同体というものをベースにして生きていた頃の、常人ならざる魂の持ち主への、むしろおおらかな畏怖が感じられ、コスモロジーの広やかさを見せつける句だとおもうのです。

 あるいは、この作者(明治34年生まれ)においても既に、伝統的な共同体のコスモロジーからの乖離があり、その自意識がこういう句を作らせたのかもしれませんが。

 どの道を往こうか。

「秋の道」はもちろん、人生における岐路の象徴でありましょうが、「真直(ます)ぐ往け」と、白痴が指し示す。それを啓示として、おおらかに従う感受性は、私たちのこわばった世界観を解きほぐしてくれます。

 私たちは、岐路に立たされたとき、どんな涼しげな選択が出来るでしょう。

 

 旧暦ではもうすぐ秋。

 涼しげな魂で季節を楽しみたいものです。

 

 

 

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聖の弁証法

  • 2016.04.28 Thursday
  • 18:51
「攻撃性と憎悪・敵意を聖の弁証法を通して救いへと導いた古代人の智慧を、極度に非聖化された救いなき力とイデオロギーの対立抗争でしかない現代にどのように再評価し、価値を再発見し得るかに将来へのひとつの鍵がひそんでいるように思うのである。」(堀一郎 『聖と俗の葛藤』平凡社ライブラリー 1993年刊)
 堀一郎(1910年〜1974年)は、民俗学者の柳田國男に師事し、その娘婿となった人物ですが、宗教民俗学というジャンルを切り拓き、ミルチャ・エリアーデを日本に紹介したことでも知られています。
『聖と俗の葛藤』という書物には、「聖なるもの」を喪失した現代への暗い憤りが溢れています。よくもここまで「非聖化」され尽くしたものだ、という現代への認識はしかし、安易に「古代へ帰れ」といったアナクロニズムに陥ることなく、大衆的な規模で「聖」と「俗」が繰り返し葛藤を生起させることの意味を解き明かしながら、現代において生産的な「葛藤」と「聖なる価値」の蘇生が可能か否か、スリリングな問題提起がなされています。
 たとえば、成人式の儀礼について、次のような叙述があります。
「成人式儀礼にはさまざまなシンボリズムが使われるが、狩猟文化においては「解体儀礼」(体をバラバラに解体し、そしてその骨をもう一度集めて組み立て直すモチーフ。シベリアのシャーマンの巫病の神秘体験にはこのモチーフがしばしばあらわれる。)のイメージをもった儀礼が強く残っている。
 また農耕文化をもった民族では地母神とか地下の女怪物の胎内へ復帰するドラマチックな儀礼が見られるし、南の太平洋諸島では、ワニとか海の大きな怪物つまり水の精霊の腹の中に入ってもう一度生まれかわるという儀礼が見られる。」
 解体されたり胎内へ回帰したりといった混沌(カオス)をくぐり抜けることで、以前の自己ではない、聖なる自己として新生するというイニシエーションの構造に着目しています。
 日本でも、修験道のイニシエーションには、本尊(不動明王)と一体化する秘儀があり、いくつかの苦行を通して「死と再生」を象徴する行為が含まれているのだとも。
 つまり、「聖の弁証法」においては、一度カオスに戻るという体験が重要な意味を持つのだという認識です。
 
 このようなイニシエーションの構造と、集団的なオージー現象(マス・エクスタシーやマス・ヒステリア、たとえば日本で言えば念仏踊りやええじゃないか踊りのように、宗教的枠組みでの民衆のエネルギーの爆発を指す)の構造とがパラレルであるという視点にも刺激的なものがあります。
 イニシエーション、オージー現象、祭儀といった一時的カオスのもたらす非日常性は、そこでエネルギーが発散されることで結果として民衆のストレス解消となり、時に体制維持の好餌となる、といった冷徹な把握を交えながらも、すべてが「非聖化」され、葛藤も生産的なカオスへの回帰の機会も保証されない現代の平板な文明の様相に、堀一郎は危機感を抱いています。
 
「聖」と「俗」とが葛藤しながらカオスをくぐり抜け、新生する、このような「聖の弁証法」によって苦難を乗り越えたり、イニシエーションが成立したり、共同体の結束が強固なものになったり、文明の相貌が新たになったりするためには、ひとつの条件が必要であるようにおもわれます。
 それは、「混沌」に意味を感じられるということです。無駄に不条理なおもいをしている、理不尽に試練を強いられている、「混沌」の先には虚無しかない、そう考えるならば、仮に蘇生はしても虚無の風景は塗り変えられないのではないかとおもうのです。蘇生は「偶然」の産物でしかなく、ひとつの価値をめぐる「物語」を生きたことにはならないからです。
 どのように変わるのかについてのビジョンは与えられなくとも、良き方に変わる、そのことへの〈信〉があるとき、蘇生は根源的なものであり得るとおもわれます。
 それは、二元的に対立しているように見えるものの双方を包摂するようなスケールへのまなざしを、世界観として持ち得るかどうかということであり、堀一郎の言う「非聖化」も、単に「聖なるもの」だけの喪失ではなく、実は「聖と俗」という対立を超える世界を想い描き、信じる能力の喪失という不全に突き当たるのだと言えましょう。
 
 霧芯館の研修やワークショップを「修行の場」ととらえ、「また京都へ修行に行きます!」と言ってくださる受講者がおられますが、KJ法もまた、カオスに意味を感じつつ、その先に創造的な自己変革とダイナミックな問題解決がもたらされることへの〈信〉で成り立つ方法だと言えましょう。混沌をくぐり抜ける時間はまさに修行ですが、繰り返しKJ法を実践するうちに、どのような混沌でも必ず構造化され本質にたどり着くことができる、という〈信〉が鍛えられる方法でもあります。
 技法の細部にも「弁証法」的な精神が息づき、複数のラベルの〈志〉をすべて汲み上げて概念を創造的に統合することをあきらめない方法です。
 
 徹底的に「非聖化」されたように見える現代において、おそらくは個々人の内面でのこのような微細な「弁証法」的葛藤は、仮にKJ法を使わずとも日々繰り返されているのであり、堀一郎が語るほどにはのっぺりとした現代ではないと、私は考えております。
 人々の日常の細部には、宗教的な「聖」とは無縁でも、世界風景を一瞬、非日常的にきらめかせるような歓喜やカタルシスや他者・世界との交感や覚醒がはらまれており、そこで感受された「価値」をめぐって、個々人のデリケートな葛藤・修行がより良き蘇生・変革へと結びつくための強靭な世界観が、古代のようには大衆的な規模で保証されてはいませんけれども、そのことの並外れた困難と逆戻りのきかない立ち位置で混迷をきわめつつもなお、「聖の弁証法」は息づいているとおもわれるのです。
 
 あまたの「素手」の闘いが日々続けられている、と感じられます。KJ法という武器の威力を信じて霧芯館にお越し下さる方々の熱意に頭の下がる想いであり、個々人の精緻な葛藤や困難の現場に触れることで、根源的な〈信〉の手触りを得られることに感謝する日々です。


 
 
 熊本地震で被災された方々が、混沌とした状況の中でも〈信〉を失われずに一日も早く安心できる生活を取り戻されますように、心よりお祈り申し上げます。
 

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〈望む〉力

  • 2015.07.30 Thursday
  • 18:01
 ある20代の女性の言葉が印象的でした。
「私は勘がいい方なんですが、いつも、その勘よりも、こうした方が得だとか、有利だとか、そういう気持ちで、勘の方にフタをしてきた気がするんです。そうやってフタをしたときにいつも道を間違えてしまって。」
 これは今の若い世代に共通する苦い苦い認識のようにおもわれました。
 大学で講義などしますと、今の学生は、ちゃんと聴いているのかいないのか、釈然としない表情だったりするのですが、ふと、今、こちらの言葉が皆のはらわたに沁みわたっている、と感じる瞬間があるもので、昨年度も学生の「詩作品」の解説の折に、このような苦い認識が切ないくらいはねかえってきたことがありました。

 **************
 
 ゴーストタウンに堕ちた鳥
 
「主」を探して飛ぶ小鳥
理想郷目指して飛び続け
休むことなく飛び続け
「主」を見つけて飛び急ぎ
「主」を映した鏡に衝突
目眩と絶望に包まれて
小鳥は孤独に堕ちてった
 
ある日小鳥を見つけた少年が
小鳥を拾って労わるが
堕ちた哀れな小鳥には
溜め息一つ伝わらなかった

 **************
 
 タイトルにおいてすでに、この一篇の詩の結末と枠組みが読者に伝えられているわけですが、その枠組みの提示とほぼ七五調のレトロな韻律が演劇的な効果を醸して、読者と小鳥の悲劇性との距離感を保証しています。読者は、演劇的な空間での出来事として、やや「他人事」として、この詩を鑑賞し、隠喩を読み解こうとする余裕を持つことができます。
「主」とは、自分に固有の人生の意味をもたらすものであり、この一篇には、その「主」に出会うことができなかった世界風景の苦々しさが溢れています。人であれ、職業であれ、表現の手段であれ、風景であれ、私たちは自分が自分であることを支えてくれる固有の出会いによって〈生〉を意味づけようとしますが、それは「理想郷」と表現されるほどに、手に入れ難いものだと位置づけられています。
「少年」は、小鳥にとっての「主」であったのでしょうが、その虚像を映した「鏡」に衝突して死んでしまうという齟齬、少年が小鳥を見つけた時にはもはや小鳥には何も伝わらないという齟齬、そこに両者の出会いを困難にしているものの姿が凝縮して顕われています。
 本物ではなく虚像に惑わされる悲劇、自分を超えた力が自分を幸福にはしないように強力に働いてしまうという無力感。
 私たちは、合理的な判断によって、相対的により有利な進路を、職業を、伴侶を択ぶことが幸せになることだ、という風に思わせられている。虚像によって〈生〉を満たせと強いられる。仮にその強制力を脱して本物の〈生〉の充溢を望んだとしても、本物と虚像とを見わける力が小鳥の中にはない。そういう不毛さの悲劇がこの詩の中に描かれている。そう解説したときの、学生たちの全身から発した緊張感のある悲哀を忘れることができません。
 彼らはこの世界の強固な枠組みをあなどってはいません。決してその枠組みから逸脱しないように、極度の緊張と努力によって日常生活を送っているように見えます。しかし、悲哀でもあり、救いでもあるのは、彼らは、そのような身構えによってこそ幸せになれると信じているわけではない、ということです。やむを得ず、仕方なく、神経症的に枠組み内の関係を維持し、枠組み内のルールで身を処すようにしてはいますが、その「仕方ない」という身構えの殻を脱ぎ捨てたい、とも思っている。ただ、その「脱ぎ捨てたさ」さえも、自分のいったいどこに潜んでいるのやら、そんなものが存在しているのかどうかさえもあやふやで、「脱ぎ捨てたさ」が暴発して自他を壊すことへの不吉な想いを捨てきれずに、せわしない呼吸を強いられている。
 切ないのは、あまりにも幼い頃から強いられてきた身構えによって、もはや、自分の望みが自分で望んだものなのか、他者に望むように強いられたものなのかの区別さえつかなくなってしまっているということ。さらには、「自分で望む」ということもまた、「主体的に生きるべきだ」という強迫観念として作用し、矮小な「主体性」を駆使してその望み方を誤ってしまいやすいということ。
 ちょうどKJ法ではラベルたちを「分類」してはいけないと言われても、初心者には自分が「分類」をしているのか「創造的な発想」によってラベルを統合しているのか、区別がつかない場合があるように。「発想」したつもりでも、それが「我」によってまとめたものなのか、データをして語らしめたものなのかの区別がつかないように。
 
 このような「区別」のつかなさの内に、〈現在〉の悲劇が凝縮されているようにおもわれます。
 
 合理的な判断か、直観に頼るべきか、という議論にもいかがわしいものがあります。
 先ほどの20代の女性は、今ではよき仕事に巡り合えて充実した生活を送っているのですが、その仕事を択んだ「勘」なるものには、いかほどの体験知や世界観の醸成や身体感覚の練磨が含まれていることか、と想われます。理性も感情も経験も集約された彼女の存在の忘我の渇望の泉へと縁が引き寄せられて、天職がぽとりと降ってきたような一瞬の出会いのことを「勘」と呼ぶのではないでしょうか。
 私たちは「合理」なるものをあまりにも狭く限定して、身を利したりものごとの根拠を客観的に明晰にして他者を説得するために意識しがちですが、そのことで「勘」とか「直感」と呼ばれるものを、ひどく神秘的で根拠を持たぬ領域へとこれまた狭く押しこめすぎているようです。
「勘」なるものを支える領域にも理性は潜み、「合理性」なるものを支える領域にも人の無意識の広大で野性味のある能力は関わっているはずです。
 
 貧しく分極した概念のあわいで、私たちは大切な「区別」から遠ざかってしまっています。若い世代は少なくともその「区別」ができない己れの悲劇をどこかで自覚していますが、なんの苦々しさも無く、その「区別」を隠ぺいしてきた時代というものがあまりにも長かったような気がいたします。
 
「望む」ことの困難さを、神経症的にではなく、超えられる時代へ。すでに舵は切られているとおもわれてなりません。





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まなざしの分水嶺

  • 2015.06.28 Sunday
  • 18:42

 以前、大学で「住環境デザイン」を学ぶ学生さんたちとご縁がありましたが、その一人が大学を卒業後、自作の散文詩をまとめたものを送ってくれました。
 一篇一篇が珠玉の作品で、みずみずしい幼児性が青枯れずに成熟するというのはこのような感受性において可能なのだ、とおもわせる、内省的な抒情性が美しい表現でした。
 
**********************
 
   潮汐の目撃者    
                             田中亜梨紗
 
世界が染め変わってゆくさまを、見たことがある
 
それは 深くこべりついていた汚れが、ぱらぱら剥がれ落ちていったような
一筋の光が差し込んできたと想えば、一気に身体を光に囲われてしまったような
黒の石ばかりで敷き詰められていた碁盤が、たった一枚の白によって すべてひっくり返ってしまったような
 
あのひといきに満ちてきたものを、
どれだけの言葉を、どんな配置で並べたのなら伝えられるだろう
 
それでも歌のフレーズによくある夜明けとは、あんな景色をいうのだろう
だから それを口ずさむアーティストを、同じ景色を見たのだと勝手に身近に想う
 
誰しもが見れるわけではないものを 確かに目撃した
誰に悟られるわけでなく、ただ一人で噛みしめていた
感動は余韻を長く深く残し、世界を変えたことを、人はわたしを見て後になってから気付く
 
あの衝動は 海を渡っていても 山を越えていても不思議なことではなくて
世界は本気で臨んだなら、ひと手間で、一瞬で、望む色に染め変えることができる
 
あの衝動の際、確かにわたしの足もとを波がさらった
その波は、今も世界を覆うように漂い続けている
波は満ちた側と干いた側、どちらの岸へも人を運ぶ
わたしは世界を慕える満ちた側へと誘われたけれども、
今、波に足元をなでられたひとの進行方向が、どちらかは測れない
 
世界はひとつ、それは確かなことなのに、リバーシブルな表情を持っている
 
満ちた側の人は世界のつるつるした面に触れていて、顔をうずめても 身体を預けても気持ちがよくて、
隣人の手は暖かくて、景色は輝かしく眼まで届けられる
 
干いた側の人はザラザラとした面に触れていて、肌をこすりつけて痛みを覚えて、
次はこすりつけないようにと、身体を縮こませて閉鎖的になってゆく
人の爪の鋭さが気になって、ずっと目の前で砂嵐が起きているような景観なのだ
 
今のわたしは、波が額にまで届くまでになっていて、ずっとこれからも浸ったままでいたのなら、
どんな状況にも潤えない、渇いていた季節の自分を、いずれは忘れてしまうのだろうか
失くしてしまいたい想い出なのに、大事にとっておきたい氣もするのは何故だろう
それを知るために、動いて、食べて、寝て、創ることを生の中で繰り返していくのだろうか
 
満ち干しのちょうど中間地点まで降り立ち、両側の人を見つめてみる
干いていた頃の自分を恥ずかしく想うのは、もうよそう
両側に浸ったことのある自分だからこそ、ふり幅を大きく世界と人を見つめてゆける
そして、出来る限り、干いた側の住人を満ちた側へ呼び続けよう
イヤミや負担にならない程度に、微力だとしても、わたしからも波を起こし続けることは出来る
 
あの潮汐のとき、わたしは十七歳になっていた
同年代が青春時代と呼べる頃、わたしは真っ白になった
 
波に乗り、陸へ辿りつき、自分の足で歩き始める
 
ようやく、生まれてきた

 
**********************

 
 素直に味わうなら、縁ある読み手は、己れの内の「転生」の瞬間を呼び寄せることができるでしょう。そして、この社会の内のいかなる「ディバイド」よりも深く見極めなければならないのは、この作品の中で描かれている「ディバイド」なのだと気づくなら、私たちは己れの世界観の透度を命懸けで更新しなければならない。そういう内省へと読み手を誘う衝迫力が、ものしずかな文体に滲んでいます。
 
世界は本気で臨んだなら、ひと手間で、一瞬で、望む色に染め変えることができる
 
 このフレーズに「本気で臨む」ことのできる縁ある読み手はこの世界に少なからず存在するのであり、彼らの身体のささやかな変容の惹き起こす〈波〉によって、さまざまな空疎な観念や欺瞞や狂騒や不条理感が洗い晒され、世界はいずれ本質的な転生を実に涼しげに遂げてみせるだろうと想われます。
 そういう過激で静謐な分水嶺を、この作品はくっきりと明示しているかのようです。
 
 霧芯館でKJ法に出会うことで、このような「転生」を味わう方もおられます。
 この方法が、本質において「世界観」の更新に関わるものだからです。
 たった1日の研修で触れた、ケーススタディのためのたった20枚のラベルによって、そんなことが可能になるのか、と、受講されたご本人が最もびっくりしておられるわけですが、完成されたKJ法図解に、初めて出会う、しかし懐かしい己れ自身の貌を見出すことで、受講者は「潮の満ちた側」へと歩み出すのであり、「ようやく、生まれてきた」ことを深く知ることになります。




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写生と抒情

  • 2015.03.31 Tuesday
  • 20:10

「一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を咏嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に『詩』を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。                    
()それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆『抒情詩』に属するのである。」(萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』より 斜体部分、原文は傍点 岩波文庫・1988年)
 
 昭和8年から10年にかけて萩原朔太郎(1886〜1942)が刊行していた個人雑誌「生理」に連載されていた文章です。
 写生という技術だけを追求しても〈詩〉は成り立たないのだという本質論には、内攻する不条理感を超えようとして世界観の更新のための表現に一語一語を研ぎ澄ましていたであろう朔太郎の気迫が感じられます。
 
 この文章の中で朔太郎は、与謝蕪村の句に明治の新体詩人の作品と同質の抒情を見出して、奔放な解釈を試みています。
  人間に鶯鳴くや山桜
という句の「人間」は、「ひとあい」ではなく「にんげん」と読むべきであるとか、
  地車のとどろと響く牡丹かな
では、地車(じぐるま)を地軸と解釈し、地球の回転する音と牡丹の幻想とのとり合わせをイメージしてみたり、その蕪村解釈の手つきには、朔太郎の受けた近代の傷の場所から希求する不安定なロマンティシズムが滲んでいます。
 己れの解釈を披露しつつ、同時に朔太郎は、正岡子規(1867〜1902)に始まる「写生主義」の視角からなされた蕪村評価を転倒しようともしています。
 俳句や短歌を近代的な文芸として確立せんとした正岡子規にとって、「写生」は唯一無二の武器であり、堕落した型に安住してしまって鮮度を喪失した伝統を超え、みずみずしい風景を奪回するために、強硬にこの「写生」の意義を強調し、写生の名手として蕪村を評価したわけでした。
 子規の俳句および俳句観は、朔太郎の言うほど詩心の無いものではありません。
 少なくとも子規ひとりは、写生を強調しつつも前近代的なコスミックな身体のスケールを保持し得ており、貪欲に渉猟された鮮度の高いモチーフで塗り替えられた日常は、雄渾でみずみずしい振幅をもつものでした。
 しかし、子規の流れをくむ者たちが、子規のようなコスミックな身体をもたずに強調する「写生」は、これまたいつしか堕落して「自然主義文学」という理念と結びつき、「詩」を喪ってゆきました。近代社会の病理も進行して、朔太郎を育んだ世界風景は、子規を育んだそれとは異質の圧力として個人の魂にからみつき、神経症的な生存感覚とそれを超克するための表現は、いきおい幻想的な跳躍力を求めました。
 朔太郎の蕪村解釈にも、そのような跳躍力がよく表れています。
 
 とはいえ、詩がどのようなものであり続けねばならないかという本質論としては、前述の朔太郎の文章は、今なお私たちの世界観を揺るがす力をもっています。子規のように、己れを支えてくれるコスミックな身体という大きな舟を持たないために、己れ自身や世界との亀裂の感触が表現の原動力だったのであり、命懸けで詩の本質を握りしめて風景を塗り替えたかったのであろう、と想われて、なにか懐かしい一文です。
 
 KJ法の本質論として言い直してみましょう。
「KJ法を用いる目的は、渾沌をして語らしめることによって、KJ法の使い手の真に個性的な創造性を発現することにある。単にデータを分類して客観的に整理するだけでは創造的ではない。つまり言えば、この世界の渾沌とした事象を〈志〉を持つものとして象徴的に感受し得る世界観を所有する時にのみ、初めて真のKJ法作品が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋のKJ法作品は、本質的に皆、芸術的な科学性を有するのである。」
 
 詩も、KJ法も、ただただ端的に、私たちに「世界観を鍛て」と訴えかけているのだとおもわれます。




 朝ざくら垢離を終へたる世がひとつ     桐島絢子


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虚無の影

  • 2011.11.30 Wednesday
  • 17:26

 わが息もて花粉どこまでとばすとも青森県を越ゆる由なし
                           (『田園に死す』1965年刊・所収)
 寺山修司(1935〜1983)の短歌作品です。

「花粉」には、「花」という存在の全体性から切り離され、〈生殖〉という特化したメカニズムだけを担ってあてどなく浮遊する、あやうくも観念的なエロスのイメージが漂います。
 その息で「花粉」をどこまで飛ばそうとも、決して「青森県」を越えることはない・・・。
 自身が「花粉」のように濫作する多彩な表現によっては、己れを拘束する枠組みを越えることはあり得ないのだということを見据える、哀切な一首です。
「青森県」は寺山の故郷であり、歌集『田園に死す』には、〈近代〉によって痛めつけられひび割れた土俗の、歪んだ〈闇〉が酷薄に濃密に描き出されています。
「越ゆる由(よし)なし」には、「越えることができない」のではなく、自身の営為にはそもそも「越える」ことを可能にする根拠が存在しないのだ、という虚無の影がひらめきます。
 戦後間もなく、短歌という形式に〈虚構性〉を華麗に導入したとされ、短歌・俳句・詩・評論・演劇・映画等、さまざまなジャンルの表現に過食症的な激しさで己れを駆りたてていった寺山ですが、その一見〈自由〉な前衛的表現も、彼のとらわれている世界と同一平面上にむなしく「花粉」を増殖させていったに等しく、自ら増殖させたいびつな世界風景によって自家中毒を起こしたような最期が痛ましくおもわれます。

 この短歌作品が戦後生まれの読者にとっても生々しいとすれば、私たちを息苦しく取り巻く可視的な世界の枠組みの強度を、寺山にとっての青森県が象徴するからでありましょう。また、その枠組みを越えることのできる身体というものを、きちんと信じられるかと問われれば、誰もが躊躇うからでありましょう。

 KJ法を通して私が出会う方々は、いずれも触れれば血の噴き出るような現場を抱えておられます。
 医療や福祉や教育の、特に今年の現場の切迫感には、問題の本質を否応なく直視させるものがあります。
 被災地に駆けつけ、津波と瓦礫の汚泥にまみれた被災者の衛生状態を気遣って「足湯」のケアを繰り返すとき、高齢者のオムツを交換することに介護士の誇りを感じるとき、虐待の兆候に目配りするとき、自殺企図からギリギリで生還した方に向き合うとき、彼らは皆一様に、それを物理的なボディーへのケアであるとは考えません。
 人々が何に苦しんでいるのか、ボディーへのケアを通して何が変わり、何を届けることができるのかと問うています。
 そのとき彼らは、無意識裡にではあっても、寺山が直面した可視的な世界の枠組みを越えようとしているように、私にはおもわれます。
 そのように問題を立てるのでなければ、そもそも自身が医療や福祉に関わろうとすること、自身が自身であることの意義が、根底から崩れ去ってしまうのだ、といった切迫感を、ことに若い世代から印象づけられます。
 彼らは観念的に「こころが大切」とお題目を唱えているのではありません。優しさを売り物にしたいわけでもありません。偽善は大嫌いな人たちです。
 ただ、自分自身の直面している苦しさ・生き難さが、傷つき弱い立場にある人々の強いられている不条理と、あまりにも深く象徴的にクロスするのだという感覚を、ごまかせないのだとおもうのです。

 彼らが大切にする「情」や「こころ」は、ヴァーチャルな癒しでも気やすめでもありません。寺山が越えようとして越えられなかった場所を、ささやかだけれどもリアルに越えたところにある感触です。
 身体的なその振幅の安堵と確信のために、泥にまみれた足が洗われ、オムツが換えられ、手が握りしめられたり、まっすぐに目がみつめられたりしています。
 そのような不可視の振幅への〈信〉と個々の肉体の輪郭の確かさとは、本来矛盾するものではないはずです。

 KJ法という方法もまた、不可視で理知ではとらえ難い〈渾沌〉と、個々のラベルに輪郭をもって記されたデータとの、不明瞭な関係に耐えながら作業を進め、霧のような〈渾沌〉の芯をリアルなものとして手にするに至る、そういう方法です。

 近現代史にこびりついた寺山的虚無の影というものを、粘り強く払拭してゆく闘い。
 巨大な不条理によって、自らの内なる虚無の影を励起されながらも、そういう闘いを推し進めている人々との出会いによって、日々勇気づけられています。





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〈かごめかごめ〉雑感

  • 2011.10.11 Tuesday
  • 22:32
 今夏(8月6日)開催いたしました、「霧芯館 KJ法ワークショップ」のテーマは「〈かくれんぼ〉ができない私たち」でした。
〈かくれんぼ〉を象徴的にとらえる発想のディスカッションを通して、〈現在〉の病理の本質を浮かび上がらせる試みです。
〈かくれんぼ〉の〈鬼〉を、〈死〉や〈病〉や〈老い〉や〈他者〉ととらえるなら、私たちの〈かくれんぼ不全〉の状況は深刻です。
 また、〈かくれんぼ〉という遊びが、シンプルでありながら人生の底知れない深みを提示することにもまた、畏れの感覚を抱かずにはいられません。
 参加者のディスカッションの成果としての「探検ネット」図解には、象徴としての〈かくれんぼ〉をめぐるさまざまな事例やその本質への洞察が散りばめられ、それぞれの現場の痛みがにじみ出ていました。参加者の想いや怒りが、あるべき〈かくれんぼ〉から個々人を遠ざけている社会に対して、またその中で内面を空洞化させてゆく個々人に対して、しっかりと向けられていたことは、主催者の私にとって実に意義深いことでした。

〈かくれんぼ〉ばかりではなく、古くから伝わる子どもの遊びのいくつかには、今なお戦慄すべき〈生〉と〈死〉のリアリティーの振幅がこもっているようにおもわれます。

 民俗学者の柳田國男によれば、〈かごめかごめ〉という遊びの起源は、「神降ろし」にありました。一人を数人が輪になって取り囲み、神の託宣をとりつがせるのです。そこで選ばれる子どもは、「因童(よりわらわ)」などと呼ばれます。

「一通りの方法で所要の状態に至らない場合は、一人を取り囲んで多勢で唱え言をしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。(中略)今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中の中の小坊主」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正しくその名残である。(中略)我々の祖先たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。」(柳田國男「山の人生」(1926年)、『遠野物語・山の人生』岩波文庫版所収)

 異界の消息を聴くことが、ムラに生きる上でいかに大切なことであったかがしのばれます。異能を持つ者、異界に近しい資質を持つ者、あるいはムラの外からやってくる者たちは、ときに貴重な消息を告げるまで、取り囲まれて責めたてられるほどに。

 この〈かごめかごめ〉という遊びにひそむ〈強迫〉の感触を浮かび上がらせた表現として、GACKT(ガクト)の「Vanilla」という楽曲のプロモーションビデオは出色の出来栄えです。
 1999年、ソロ活動を開始させて日も浅いGACKTの2ndシングル「Vanilla」は、軽快で退廃的な曲相が、サビであやしくファルセット(裏声)に脱けて不穏なエロティシズムを解放してみせる、GACKTファンには人気のナンバーです。

 ah いくつ朝を迎えれば ah 夜は終わるのだろうか
 ah 空に散りばめられた ah 白い花に囲まれて逝く(「Vanilla」より)

〈終わらない夜〉(=不条理の繰り返される現実)に追い詰められてこそ、他界的・幻想的なユートピアに向けて飛翔するエネルギーが炸裂するのだという、GACKTらしいマゾヒスティックなロック魂がポップに韜晦されていて、複雑な聴きごたえがあります。
 この曲のプロモーションビデオにおける〈かごめかごめ〉の遊戯は、GACKTというアーティストが資本主義の業界において商品を世に送り出すという営為にまつわる、彼の悲喜劇的な異和感のメタファーとして感受することができます。
 どことなくナース服のパロディーめいた紅白のユニフォームを着て、〈かごめかごめ〉の輪のように、檻(あるいは透明なケース)の中で歌い踊るGACKTを囲繞する無機的な表情の一団はシュールで不気味です。
 透明なケースは、GACKTの背後でときに閉じ、ときにわずかに開いて、この〈拘束〉が実は、当人が気づかぬだけで、出ようと思えば出られる檻なのだという演出も周到です。
 異能の才を持つGACKTに、突出した、ただし売れる商品を生み出せと迫る、顔の無いユニフォームの一団は、彼の才能を搾取・消費することで、フラットな日常に一時的に風穴を開けつつも、集団としてのアイデンティティーへ素早く復帰してゆく者たちでしょう。
〈個〉として担うべき課題を放擲したうつろさの病理への批判が小気味よく、また、〈サイボーグ〉や〈ヴァンパイア〉というメタファーを、繰り返しライブの物語世界の核に据えたがる、GACKTの異形意識の根深さが想われます。

 芸能界で突出した表現を生む、という営為ならずとも、私たちはこれに似た〈かごめかごめ〉の〈鬼〉の不安を、社会生活の中でしばしば刻まれているようにおもいます。
 組織の中で、否、義務教育をくぐり抜ける過程ですでに、誰もが大なり小なり刻まれる傷であるかもしれません。
 どこか自分は人とちがう、集団になじめない、他者がこわい、人とちがうことをいつも責められているような恐怖・・・。
 そういう自分をもてあましたことのない人はいないでしょう。
 ムラとその外側にある異界、そのような異質さのメリハリや豊かなシンボリズムを社会が失くせば失くすほどに、個々人の内面は〈他者〉を極度に恐れるようになったとも言えましょう。
 共同体の課題として類的に担われていたものを、徹底的に〈個〉として担わねばならなくなったのが〈現在〉である、とも。

〈かくれんぼ〉や〈かごめかごめ〉という遊戯にはらまれる孤独の質感は、そこから目をそらすなと、時代をこえて端的に訴えかけているようにおもわれます。





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〈個〉のゆくえ

  • 2011.09.04 Sunday
  • 16:43
 KJ法を人に指導する、という仕事において最も難しいのは、ラベルの〈志〉を感受する個々人の資質に寄り添いながら、その延長上に発想されるはずのイメージを、既成のなにものにも回収されないように掬い上げることだといえるでしょうか。
 可能なかぎり本人の力でそのイメージを言葉として定着してゆくのを見守るのですが、ときには「こうではありませんか?」というヴィジョンを提示することもあります。
 素質に恵まれたバレリーナやフィギュア・スケーターの、腕の伸ばし方や指先の表情を少し変えさせることで、「あなたの表現したかったのは、こうでしょう?」と提示してみせる指導者のようなものかもしれません。
 すぐれた指導者なら、そのヴィジョンはけっして指導者の求めるものの押し付けではなく、本人自らも気づかぬうちに表現したがっているオリジナルな世界への道しるべとなるはずです。
 KJ法は、データに即するということと、個々人の個性が発現されることとが矛盾しない方法ですが、そこに創造的な感動が伴うのは、その結果が既成のなにものにも回収されないような独自の〈貌〉をもつからです。
 既成の価値観、ありきたりの概念、先行研究の枠組み、どこかで見たようなスローガン・・・。ともすれば人は、自らの感覚や知性を使うことがめんどうで、己れの繊細な感受のニュアンスを安易に放擲してしまいます。
 誰もが論駁し難い、善意や正義に満ちた概念ともなればなおのこと、いつのまにかそれらの概念に依存してしまいがちです。あまりにも衆目の批判し難い正義ともなれば、依存していることにさえ気づかぬまま、個々人の内面は空洞化してゆくこともしばしばです。己れの内面のうつろさを棚に上げて他者にその観念的な正義を強制することもまた、とかく善意とともになされて時代の空気を気まずくすることがあります。
 KJ法をつかうとは、実はそのような〈悪しき依存〉との地を這うような闘いであるともいえるのです。

 そんなことを考えたのは、先日TV放映されたアニメーション『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版・破』を観たことにもよります。
 1995〜1996年放映のTV版、1997年の劇場版においては、ヒト型戦闘兵器エヴァンゲリオン(エヴァ)にパイロットとして乗ることを強いられる少年の心の闇は、エヴァを拘束具として「逆切れ」的に暴発・解放させられ、「人類補完計画」という類的な悪夢へと回収されてしまう不毛さと、それを拒んでも対人的な神経症の地獄しか持ち合わせがないという世界観に帰着してしまっていましたが(その現実を観客に突きつけることがビターなねらいであったにせよ)、2009年に劇場公開されたこの『破』を観るかぎりにおいて、監督・庵野秀明は〈現在〉と丁寧に向き合いつつ、少年の心の闇を、「なにものにも回収されたくない」という根源的な叫びとして希望へと紡ぎ上げようとしているように見受けられます。
 少年たちを追いつめる不条理の描き方はより一層激烈なものとなり、この不条理感を、少なくとも無意識裡には、己れの身体を呪縛する不条理感の象徴として受け止める多くの若者たちがいることに震撼させられます。
 希望を紡ぐなら、既成のどんな価値にも依存できない、ぎりぎりの場所から紡ぐしかない。既成の価値観が無自覚に寄りかかってきた共同体的なぬくもりの残滓など、薬にしたくても無いような冷え切った身体感覚をもつ世代が、己れの身体感覚の狭小さに居直ることなく、現実に「賭ける」行為のなかから紡ぎ出そうとする希望。
『破』にはその希望の萌芽が見出されたようにおもわれます。
 2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版・序』に始まって、4部作として再構築された世界観のゆくえを、期待して見守りたいとおもいます。

 個人として分断され尽くした現在において、真に〈個〉として生きることが難しいという逆説。
 そのような逆説的な場所に追い込まれたからこそ、見えてくる希望というものもあるようです。




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自分というフィールド

  • 2011.03.01 Tuesday
  • 23:41
 問題解決において、KJ法を累積的に活用すると有効な場合があります。
 川喜田二郎は、「6ラウンド累積KJ法」という形で、その姿勢転換のステップを提示しました。
 問題提起、状況把握、本質追求、構想計画、具体策、手順化。
 どんな問題でも必ずこの6ラウンドを累積させなければならないというわけではなく、問題が複雑であったり、グループでの合意形成を段階的に明晰に確認しながらプロジェクトを進めなければならないときなどには、この6ラウンドのことさらな姿勢転換によって、問題解決への推進力が格段に増す、という主張なのです。

 どのラウンドも重要なのですが、最初のラウンドとして「問題提起ラウンド」が設定されていることに、私はいつもKJ法ならではの深みを感じます。

 このラウンドでは、自分の内面への探検を行います。
 自分はいったい何を探求したいのか、何が気にかかっているのか、自分自身のなぜだかわからない気がかりというものを掘り起こして明晰にするラウンドです。
 このラウンドを踏まえてこそ、次の「状況把握」や「本質追求」が適確になされ、「構想計画」以降の解決へのステップも実り多くブレのないものとなるわけです。

「自分の気がかりくらい自分でわかっている」と思われるかもしれませんが、はたして自分とはそんなに自分にとって明晰なものでしょうか。
 KJ法の多彩な技法の内には、理知で把握し得る明晰さというものへの根底的な問い直しが随所にはらまれています。
「問題提起ラウンド」を問題解決の最初のステップとして設定するのも、そんなKJ法的まなざしに由ると言えるでしょう。

 児童文学作家である浜たかやの作品に、『月の巫女』(1991年 偕成社刊)という長編ファンタジーがあります。
 文化人類学や神話学の該博な知識が融かし込まれ、ダイナミックな文明論的視野をはらむ、壮大な傑作ファンタジーなのですが、その中で、混沌とした女性原理、非合理的な〈闇〉や〈水〉を象徴する登場人物が、男性原理のみで一つの王国を支え続けたことの〈ツケ〉を背負わされて暴走する〈王〉と、次のようなやりとりをする場面があります。

「〈デイーの舌〉、わしがなんのためにここへきたか知っていような。」〈デイーの舌〉はこたえなかった。ふかい目でザトガルをみつめたままぎゃくにききかえした。「そなたは知っているのですか、ユルンの王?」

〈闇〉や〈水〉の横溢する世界にはからずも激しく吸引され、自らの治める王国を崩壊へと導く道をユルンの王ザトガルはひた走っているのですが、己れの累積した〈渇き〉や〈疲労〉の本質に対して無自覚なザトガルと、彼を通して顕われる世界の再生への奔流を見つめる巫女〈デイーの舌〉のふかいまなざしとの対比が鮮やかに象徴的な場面です。
 浜たかやの作品には、自分で自分のことがわからないというもどかしさや不安や畏怖の念を世界認識の根底に据えるべきだという、深い憤りが通底しており、人間や世界の振幅のみすぼらしさに知らず知らず馴れきってしまった私たちのまなざしを根底から揺るがすパワーにみちています。

 川喜田二郎の提唱した「野外科学」の精神において、「野外」という概念は場所の概念ではありません。自身の内面もまた、〈探検〉すべき一つの渾沌としたフィールドであるとみなすことのできる開放的な〈態度〉の概念なのであり、そこでは、「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」といった「悪ざとり」をまず徹底して排する必要があります。
 KJ法は、自分自身をも含めたあらゆる渾沌への畏怖をとり戻す方法である、とも言えるかもしれません。






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