天上と地上

  • 2014.11.29 Saturday
  • 22:43



「詩を描(えが)く」という授業も後期後半を迎えました。
 アートやデザインにおける〈表現〉を志す学生たちの感性が、言葉として開花する様を目の当たりにし、毎週鋭い興奮をおぼえます。
 鋭い、というのは、彼らの無意識の〈痛み〉を感じずに済まされることが無いからです。
 毎週提出される詩作品に表れた内面の、およそ逃げ場の無い息苦しさ、生き難さは極限的なものがあります。
 にもかかわらず、それらをごまかさない強さ、他者に向けるのと同じ刃を己れ自身に向けるハラのすわりには、毅然としたものがあることに感嘆いたします。
 
 彼らの作品と、そこからイメージされるテーマと近しい近現代の優れた詩歌の解説で成り立つ授業ですが、ときには近年の歌謡曲やアニメーションを論じることもあります。
 中島みゆきの楽曲によって学生の作品のテーマ性の振幅を身体的・情感的に押しひろげてみたり。
 庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマと文字通り〈シンクロ〉させることで明治以降の表現史の本質をなぞってみたり。
 ことに、『エヴァ』における「ATフィールド」と「人類補完計画」のイメージは、近現代史のアポリアを象徴的に把握する上でとても効果的な喩として機能します。
 自他の境界として作用し、神経症的な異和感が強靭な武器として効力を発する「ATフィールド」によって、『エヴァ』の主人公たちは「使徒」と呼ばれる敵と戦うのですが、彼らがこの武器を駆使して闘いながらエヴァというロボットとともに「覚醒」することは、実は「人類補完計画」の一環として、すべての人と人との境界を融かし去ってスープのようにしてしまうプログラムに組み込まれている。この奇異な設定は、人という存在が、個でありたいと願うと同時に、その孤独に耐えきれず、他者と融合し尽くしたいと願う存在でもあるというジレンマを、シンプルに象徴しています。
 まさに「ATフィールド」的な、神経症的で地上的な「個」への徹底した分断の歴史が、昭和初期のウルトラナショナリズムの狂気(「人類補完計画」的な)を生み出したことを想起するならば、『エヴァ』のテーマが近代精神史の本質を深く穿ったものであることが理解されます。地上的な「個」への分断が昂進すればするほどに、天上的な「類」的一体化への観念的な幻想もまた昂進したのであり、近代史のプロセスが、このような逆説の内に、実はおよそ全うな「個」も「共同性」も築き得なかったことを再認識させられます。

 天上と地上の分極は、戦後もまた繰り返されます。
 高度経済成長を成し遂げるとともに、再びその分極のきしみが大衆的な規模で生じ始めたとき、中島みゆきが登場して人々の深層の渇きを掬い上げ、暗い鬱屈を歌い始めます。
 
1970年代から現在に至るまで、彼女の作品の豊かな抒情の本質は、この天上と地上の分極とその超克のドラマの、潮(うしお)のような解放であり、情念的な身体の稀有なスケールに支えられてそれが成し続けられているのだと言うことも出来ましょう。

 学生たちもまた、「ATフィールド」的な自意識と不条理感をもてあましていますが、彼らの作品には、他者に「伝わる」という楽観的な「信」が欠落しているのを感じます。いきおい表現は複雑に屈折し、精緻な言葉の斡旋によって、解放感よりは閉塞感をのみ強く訴えかけてきます。
 それでも、その閉塞感の高精度な表現の果てに、私はなにかが形を成すのではないかと信じたい気がいたします。というのも、その閉塞感の中に溺れて嬉々としている表現ではないからです。己れの場所が、本来的な場所からはるかにかけ離れたものであることを痛み、生の絶対感の希薄さを苦しむ、鋭利で正確な感受性と認識がうかがえるからです。
 そういう正確な「刃」を言葉として発するとき、彼らは一様にとても激しい。
 一見クールな言葉の端々に、痛みとともに自他に振るう刃の痕がとても鋭く刻まれている。
 この世界のあたたかさをあきらめずにまさぐり続け、固有の痛みや苦しみを、普遍的な地平に解き放つための〈身体〉を粘り強く鍛えてゆくことで、
いつか、彼らが「麦の唄」(中島みゆき・最新シングル)の歌詞のように、凛々しくて情感あふれる「一本の麦」に育つであろうことを、信じてみたいとおもうのです。



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「戦後」と「近代」

  • 2014.10.31 Friday
  • 22:02
 今年度後期は、芸術系の大学で「詩を描(えが)く」という授業を担当しています。
 キャンバスに絵画を描くように、短さという制約をキャンバスとして、言葉というモチーフを使って「描く」ように詩作品を作ってもらう試みです。そのことが、〈表現〉の振幅をおし拡げる原動力ともなるように。
 芸術系の大学とはなにかとご縁が深いのですが、今年はKJ法ではなく、「詩」の制作に関わる授業を展開することとなり、毎週スリリングな歓びをおぼえています。若い世代を対象に、歌人・文芸批評家としての仕事が出来るのも嬉しいことです。
 毎週、詩作品を提出してもらうのですが、彼らの無意識の、一筋縄ではいかない複雑さ・精密さ・真剣さに感動しつつ、その表現営為が言語・非言語を問わずより豊かなものとなるための手助けができればと、一週ずつこちらも真剣勝負です。
 KJ法の図解作品に対する批評営為と同じく、彼らの作品という〈全体〉を土俵として、その中で個々の言葉やイメージが何を象徴的に表現しようとしているのか、読み解くことが批評の土台となりますが、そこにはKJ法という〈型〉が無いので、言葉は自在に、時に散漫に紡がれ、恣意性もまたアートとして成り立つ部分もあります。
 しかし、その一見散漫さや恣意性とも見える言葉の斡旋が説得力を持つのは、やはり個々の言葉が、作品の〈全体〉とのあいだに、有機的で力強いシンボリックな〈絆〉を結んでいる場合だと言えましょう。その〈絆〉の結び方が、それぞれの身体史・生活史から紡ぎ出されて個々人の〈文体〉を形づくり、〈言霊(ことだま)〉としての威力を持つのだとおもわれます。

 詩作品から感受される彼らの蒼々とした身体史・生活史の、不思議に成熟・老成した面持ちにも感銘を受けます。閉塞感が強くて痛ましいこともあるのですが、欺瞞の無い、社会や自他の病理への鬱屈した本質追求力にも瞠目させられます。

 興味深かったのは、「〈リアル〉の系譜」と題した講義の際に、1980年代・1990年代・2000年代のミュージックシーンを象徴する楽曲とその歌詞を扱ったときのこと。
 1980年代に、高度消費資本主義社会の爛熟した世相において、時代の深層にうずもれた課題を真裸の魂で訴えた尾崎豊。
 尾崎の死後、「ビジュアル系バンド全盛期」を徹底して象徴するかのように、終末観的・退廃的美意識で1990年代のみを駆け抜けたMALICE MIZER(マリス・ミゼル)。
 そこから脱退してソロ活動を始めたGACKTの21世紀的表現が、それまでの病理・課題を総括できる場所から臨んだ「身体の解放」という地平。
 そこには、リアルな〈生〉の意味・手応えを奪う不条理な世界(観)との三者三様の個性的な闘いが繰り広げられていたことが、クリアに把握できます。
・・・と、三者の表現を時代精神の変遷とともに比較解説したとき、彼らに「今、〈リアル〉に感じられる表現は?」と投票してもらったところ、
1位:尾崎豊
2位:GACKT
3位:MALICE MIZER
という結果が得られたことでした。
 1位に尾崎が君臨し、僅差で2位にGACKT。
 1990年代に生まれた学生たちにとって、尾崎の1980年代の表現が今もなお生々しいこと。
 1990年代の幻想美・退廃美によって不条理な現実を超えることはもはや出来ないこと。
 すでに提示され尽くした病理・課題を、観念的な倫理観によってではなく、「身体を解放する」表現によって超えたいと望んでいること。
 閉塞感を抱えつつも、ふつふつと熱い欲動がうごめいているような印象を受ける結果でした。

 これら三者の楽曲にそれぞれの時代を代表させるというのは、非常に単純化して戦後の表現史・精神史を象徴させたことになりますが、単純化することで逆に、戦後の精神史というものが、近代の精神史を圧縮した表情を持つことにも気づくことができるようにおもわれます。
 時代の表層を覆うものと深層で進行する課題とのギャップ。
 内攻した病理の退嬰的な暴発。
 そして病理の超克への胎動。

 KJ法の内でも外でも、アートの内でも外でも、私たちが超えねばならない病理というものは、既に出尽くしているようにおもわれます。
 それらを総括できる場所に居ることを今一度ハラに据えて、私たちの〈身体〉の望むものを少しでも豊かにみずみずしく思い描き、解放すべく、日々の一呼吸ずつを、まなざしの一つずつを、そして言霊としての言葉一語ずつを、大切に生きたいものです。




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〈まなざし〉のゆくえ

  • 2012.02.25 Saturday
  • 20:09
 NHKのETV特集「見狼記〜神獣 ニホンオオカミ〜」(2012年2月19日放送)を興味深く観ました。

 ニホンオオカミは、明治38年に絶滅したとされています。
 番組は、1996年に秩父の山中でニホンオオカミらしき獣と遭遇し写真撮影に成功した男性の、オオカミとの再会を切望する生活を追い、また、オオカミを祀るやはり秩父の釜山神社の宮司や、今も「オオカミ講」という講を組んでいる集落の信仰のかたちを追い、幕末の動乱と天変地異の時代に急速に拡がりを見せた「オオカミ信仰」の姿を追い、オオカミと人とのやりとりによって「見えない力」が〈信〉というかたちで息づくさまを掬い上げようとしています。

 1996年に遭遇して以来、オオカミとの再会を望み続けて調査・山歩きを続ける上述の男性は、自分が死んだら奥秩父の山中に土葬にしてもらって、オオカミがそれを掘り出して食べてくれたら最高、と目を輝かせます。
 それは「鳥葬」ならぬ「狼葬」への激しい憧憬のようです。

 川喜田二郎の著作『鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記―』は、『ネパール王国探検記』と並んであまりにも有名ですが、そこには、死者を鳥葬に付すという習俗を持つ異文化への、明朗闊達で五月晴れのような好奇心とロマンティシズムがみなぎっていました。1958年に行われた学術探検の記録です。
 それから50年以上経て、「鳥葬」あるいはこの「見狼記」で渇望される「狼葬」というもののリアリティーはどこにあるでしょうか。
 この番組で一人の男性に想い描かれた「狼葬」は、伝統的・文化的な背景を持つものではありません。チベットの習俗と全く同じ心性に支えられているとはいえませんが、それゆえにこそ、今の日本において特異な世界観・死生観へと己れ一身のまなざしを開きたがっていることは、現代人の極限的な渇望を象徴しているといえるでしょう。
 神性を帯びた生き物に供することによって、自然・宇宙の循環へと死後の身を解き放ちたいという渇望。
 その過剰な渇望によって逆に、現代人が追いつめられている閉塞感の場所が透けて見えるようです。

 昨年開催された「霧芯館 KJ法ワークショップ」では、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」(ここでの〈かくれんぼ〉は生老病死や他者性との〈かくれんぼ〉という象徴的な意味合いです)というテーマでディスカッションを行いましたが、そこで20代初めの学生さんが、「鳥葬」が話題にのぼった際にスリリングなラベルを提示してくれました。
「鳥葬では、(遺体の骨を砕くという)破壊行為によって、遺体の中の精神を解放し、再生させようとしている。」というものです。
「鳥葬」の即物的で血なまぐさい手続きに違和感をおぼえ、どことなくげっそりしていた他の参加者たちを感嘆させたラベルでした。
 福祉を学ぶこの青年は、チベットの習俗に詳しいわけでもなかったでしょうが、老いや死と向き合う現場の中で、人の本質的な渇望のかたちを掬い取ろうとするまなざしを鍛えていたのかもしれません。

 死後、という見えない向こう側へのまなざし。
 そのまなざしの振幅が、福祉や医療の現場、否、現在のあらゆる現場の閉塞感を左右していると感じます。
 そのまなざしは、日常にみちあふれる「見えない力」との不断のやりとりによってのみ、練られてゆくはずのものであるとも、感じます。
 そのようなやりとり無しに、老いや死や襲い来る不条理と向き合えるほど、生活するということは安易な営みではないはずだ、とも。

 釜山神社の77歳の宮司は、300年来のしきたりを守って、今も毎月一度の「お炊き上げ」を欠かしません。奥ノ院近くの谷に出かけ、人の手を触れずにといで炊き上げた一升の米を、人目に触れることなくオオカミに供える神事です。
 一ヶ月前のおひつを持ち帰ると、おひつの米は一粒のこらず無くなっていて、おひつのふちには獣の歯形がのこされています。
「(ご飯を)残されるようじゃ困る。」とあたりまえに語る宮司の言葉は、「見えない力」の測り知れない大きさを身体化し切って、むしろ淡白な響きを帯びています。「ごあいさつを欠かしてはいけない。」とも。

 秩父・三峯神社を中心とするオオカミ信仰(秩父には今もオオカミを祀る神社が21社もあるとのこと)が、幕末の動乱期に拡がりを見せたこととさりげなく対比しながら、この「見狼記」は、東日本大震災後の現代人のまなざしの深化のゆくえを個々人に問いかけているようです。



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2010年と1910年

  • 2010.02.06 Saturday
  • 17:03

 NHKスペシャル「無縁社会・無縁死3万2千人の衝撃」(2010年1月31日放送)を観ました。
 家族とも地域とも会社ともつながりを失って、〈無縁死〉と名づけるしかない死に方をした人が、2008年には全国で3万2千人も存在したことに衝撃を受け、NHKが調査・制作したドキュメントです。
 大河ドラマ「龍馬伝」のすぐ後に放送されたこの番組には、幕末以降の精神史的な暗部が現在においてどのように集約的に表われているか、象徴的に感受させる迫力がありました。

 この10年、地方都市は一気に衰退が進み、かつて上京して孤独に働き続けた人々が、帰るべき故郷を失い、都心での〈無縁死〉を迎える。そんな人々の遺品整理を自治体から請け負う「特殊清掃業者」というビジネスの急成長。家族も引き取らない遺骨を供養し続ける寺や無縁墓地。
 家族に代わり、死亡後の葬儀・納骨・遺品整理などを行うNPOの窓口には、生前に契約を結ぶ孤独な単身者が殺到。会員は急増する一方。若くして契約を結ぶ人々も増えているとのこと。
 高卒後、大手都市銀行に勤め、家族よりも会社を優先し続けた挙句の熟年離婚により、生涯の夢「家族団らん」を失い、糖尿病と鬱病とに苦しみながら、自身と会社の栄華とが一体化していた時代の思い出を、かつての大量の取引先の名刺や会社の発展史の記録を見つめながら回顧する、初老の男性の凄惨なまなざしは、観る者の心胆を寒からしめる迫力がありました。
「全部自分に(ツケが)返ってきた。今みたいなかたちで。」と自虐的な微笑みをかみしめる男性の表情に、胸を衝かれた視聴者も多かったことでしょう。

 ドキュメントはさまざまな物理的な孤独の周辺を洗い直しているのですが、それらが実は精神的な孤独の象徴でしかないことを、観る者は否応なく身体の深部に抱え込まされます。
 単身の高齢者ばかりではなく、一見、家族や友人にもめぐまれ、何不自由ないとおもわれる若者たちの内面には、より一層酷薄な荒涼たる孤独の風景が拡大・増殖していることを、いささかでも現在のなにがしかの〈現場〉に触れている人ならば、少なくとも無意識では感受していることでしょう。
 私自身、KJ法を必要とされる方々との関わりを通して、かつて私たちを支えてきた、自明とおもわれていたさまざまな共同性の保護膜が、いたるところで崩壊していることを目の当たりにします。
 それをうやむやにしてきたことの「ツケ」は、ずいぶんと長く積み重なっているとおもわれます。

 1910年(明治43年)に刊行された石川啄木(明治19年〜45年)の歌集『一握の砂』に、次のような一首があります。

 解剖(ふわけ)せし
 蚯蚓(みみづ)のいのちもかなしかり
 かの校庭の木柵の下

 KJ法創案者である川喜田二郎が、生前よく明治の40年代について、「天地浩然の気が失われた。」と悲憤しておりましたが、啄木のこの短歌には、「腑分け」すなわち「解剖」というまなざしによってずたずたにされた同時代の大衆の「いのち」への、悲憤と愛惜がこもっていて象徴的です。
 己れ自身も含めて、腑分けされた「蚯蚓」のようなわびしいいのちへと矮小化されてしまった、その精神的な風景の〈剥落〉のすさまじさは、明治においてはことのほか極限的なものがあったでしょう。
 そのことへの本質的な内省の持ち越された100年の「ツケ」。

 NHKスペシャルの「無縁社会」というタイトルには、私たちがどんな場所からものごとをとらえなおさなければならないかについての内省を促す契機がひりひりと刻み付けられているようでした。

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