「多頭飼育」考
- 2022.06.24 Friday
- 17:25
「多頭飼育崩壊」という現象があります。
たくさんの犬や猫を、去勢手術も受けさせずに飼っているうちに、どんどん頭数が増え続け、衛生面でも飼い主の経済面でもどうにもならなくなってしまう状況というのが、社会問題にもなるほど。そこには明らかに飼い主のうつろな病理が潜んでいると思われます。
一方で、ブログやSNSでは、多頭飼育の醍醐味を魅力的に発信する方々もいて、多くのフォロワーを獲得していたりします。
多頭飼育したい、という飼い主の心理もさることながら、「わんず」や「にゃんず」が時にはケンカもしながら、なんだかんだ仲良くファミリーを形成しているさまに「萌え」る人々がたくさん存在する。この状況というものがとても興味深くおもわれます。
かくいう私も、とあるブログでの、「Tちゃんはそれまで、飼い主に無駄に咬みつくことが多かったのだけれど、Sちゃんをお迎えしてからというもの、すっかりそんな癖がなくなってしまった」という記事に、胸のすみっこが「きゅん」となったりしたものです。なんでも、後輩猫であるSちゃんが、「Tちゃん、咬まれるっていうのは、ほら、こんなに痛いものなのよ」とばかりに、Tちゃんを咬んでみせるという「教育的配慮」に満ち満ちた存在であるらしく。Tちゃんが「咬まれることの痛さ」を知り、他者を咬まなくなるという事態の中に、高度な「学習」の姿を垣間見た気がいたします。
そういえば、大ヒットした『鬼滅の刃』も、主人公たちが鬼と闘うストーリーの中に、ふんだんに「学習」というモチーフが散りばめられていました。
人に優しくされるというのは、こういう気持ちのよいものなのか、と学習したり、効率のよい身体の使い方、呼吸の仕方によって、想定以上のパフォーマンスが実現できるものなのだ、と学習したり。逆に、人から愛される体験が無かったことによって、「学習」の機会を持たずにいつしか「鬼」と成り果ててしまった者たちが描かれたり。
このアニメに対するフィーバーも、ある意味、私たちがどこかで「学習」し損なってきたもの、への渇きに起因していたかもしれません。異質なキャラクターの「多頭飼育」によって、私たちは過去の「学習」の欠落を埋め合わせていたようにもおもわれます。
最近の、スポーツチームへの応援の仕方にも、そんな切ない「埋め合わせ」の匂いがしないでもありません。たとえば、その日活躍した選手が、他のメンバーからこんな風に祝福されていた、とか、誰かがとんでもないエラーをしてしまったとき、メンバーがどんな風にそれを慰め、励ましていたか、とか。動画を見てコメントを書き込む際の「チェックポイント」が、実に細やかで突っ込んだ感情洞察・キャラクター洞察に満ち満ちているのが、昨今のスポーツチーム応援事情なのだな、とおもいます。アイドルグループに対するファンの「萌え」もまた然り。
「多頭飼育」と表現すると言葉が悪いかもしれませんが(そもそも、昨今の犬猫の飼い主たちの多くは、「飼育」という感覚ではなく、「お迎え」する、という、リスペクトいっぱいの感覚でペットたちとの共同生活を営んでいるようですし)、私たちは、「全体を個の総和である」と割り切りたくない存在なのだ、と、考えると、この状況はひとつの希望だともおもわれます。
チームというものが、個々の選手の能力の足し算ではないのだ、ということ。身体能力以外の資質も含めた存在としての全体感を持つ「個」というものが、同様の他のメンバーという「個」と、いわばかけ算としての相互作用によって、チームという「全体」が出来上がっている。メンバーそれぞれが互いに影響を与え合うドラマを経て学習・成長しながら、チームが強くなっていく。少年マンガの王道とも言えそうなパターンですけれども、「全体」とは生き物だ、ということです。そういう認識に、私たちは飢えている。
つまり、「個」と「全体」との間に、これほどにも「ドラマ」を見たいと望む私たちの状況は、とりもなおさず、成長過程において、日々の生活において、そのような生きた「ドラマ」を体験し損なってきたということを、訴えかけているのではないでしょうか。
「多頭飼育」が、病理として崩壊の様相を呈するのか、活力に満ちた「個」と「全体」を希求する世界観へと人々を押しやるのか、紙一重の〈現在〉という場所に、私たちは生きているのかもしれません。
KJ法という方法は、個々のラベルと、ラベル群全体との、実に生き生きとした発想のドラマによって成り立っています。
「全体は個の総和ではない」という川喜田二郎の言葉は、あるべき「個」とあるべき「全体」の姿を実現せずにはやまない、強い情熱に裏打ちされていることを、KJ法に関わる方々には深く感じていただければと願っています。
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