〈個〉と〈類〉

  • 2016.03.31 Thursday
  • 18:50

「現在では、龍は死にたえたと考えている人もいる。だが、実際にはまだ生きている。人が生きているかぎり、龍が死にたえることはないのである。
 では、どこにいけばみつかるのだろうか?
 答えは簡単である。
 龍は暗闇に住んでいる。だから、暗闇におりていけば、龍はみつかる。
 ところで、龍の数だが、古い文書にはこうある。
 “龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”
 残念ながら、わたしには、この意味をあきらかにすることはできない。」
(『龍使いのキアス』浜たかや 偕成社 1997年)
 
 浜たかやの壮大なファンタジー作品『龍使いのキアス』は、〈龍〉を呼び出すことで一つの民族のコスモロジーを蘇生させる物語ですが、その試みは、見習い巫女キアスのイニシエーションの“失敗”に端を発し、人と民族の重層的な〈闇〉をくぐり抜けることで、ついには世界を修復し、己れ自身のイニシエーションの意味に辿り着くまでの、キアスが担わされた試練の旅路のドラマです。
 その年に十五歳になる見習い巫女は、〈呼び出し〉という儀式によって一人前になります。太鼓の音に招かれた風の中で草原を舞う見習い巫女たちは、次々と〈呼び出し〉を受けてその本来の姿に変身してゆきます。鹿や鳥や花など、それぞれの本来の姿に呼び出されて〈変身〉できた者は一人前と認められ、変身できなかった者と、元の巫女の姿に戻れなかった者は、神殿から追放されてしまいます。
 周りの凡庸な巫女たちになじめないキアスの偏りを帯びたプライドは、己れが何かしら特異な能力をもつ偉大なもの、もしかしたら〈龍〉に呼び出されるのではないかと期待していたのですが、案に相違してキアスはキアスのままでした。
 神殿を追われたキアスの旅は、己れの本来の姿を捜し求める旅であり、同時に、この世界からある偉大な力が失われた謎を解き明かす旅でもあります。
 
 冒頭の引用は、舞台となっているモール地方の大巫女ナイヤによって書かれた文書という体裁をとることで、作者が〈龍〉の象徴性を簡潔に表現してみせた箇所です。
 短いけれども架空の神話としての体裁が象徴性を高めているせいで、私たちの〈生〉の困難の本質がどこにあるのかを無駄なく言い得ており、一篇のエピグラムのような趣きがあります。

 実際にはまだ生きている〈龍〉を、私たちは「死にたえた」と考えている。あるいは、〈龍〉が生きているとわかっていても、「暗闇」におりていくことができないでいる。だから、〈龍〉を見つけることができない。そして、“龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”という言葉の意味を、「大巫女」と呼ばれたナイヤもすでに、あきらかにすることはできなくなっていた。
 世界のこの〈いびつさ〉の構造は、〈近代〉によって私たちの魂が迷走するようになって久しいありさまを、端的にシンボライズしていると言えましょう。
“龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”
つまりここには、私たちの〈個〉と〈類〉のあり方をめぐるアポリアをふわっと超えてしまうまなざしが描かれているのですが、ただこのまなざしを持つという、それだけのことが出来なくて、私たちは自他や世界との関係を苦しみ続けているのだと言うこともできるでしょう。
 
『龍使いのキアス』には、〈龍〉を呼び出す呪法“ラマラ”と、他人の夢の中に入る呪法“リシ”がある、と述べられています。昔はリシもラマラも使える巫女がおおぜいいたけれど、今はいなくなってしまったのだ、とも。いずれも、使い方をまちがえれば不幸になるかもしれない、きわどい力なのだと。
 個々人の存在の根としての〈龍〉からはぐれたときに、人の夢は、その欠落を補うためのイメージを噴出させると考えるならば、リシという呪法は、他者の夢に入り込んで存在の根との関係を修復する技であり、そのような欠落が〈類〉として生じ、修復が必要になった文明への療法がラマラであろうとイメージすることが出来そうです。
 
〈現在〉の諸々の病理や、己れ自身の生き難さについて想うとき、いつもこの二つの呪法に相当するようなアプローチによって超えなければならないアポリアに直面させられていると感じられます。
 人がどのように他者と向き合うのか、どのように老いて死を迎えるのか、いかにして己れが己れであることに満ち足りるのか、どうすればこの世界を意味のあるものとして感受し、深く息づくことができるのか。
 どんな現場においても、どんな関係性の中で生きていようとも、日々のささやかな、あるいは深刻な生き難さには、己れの〈生〉の根拠の得体のしれない不明瞭さと底浅さの感触がつきまとっているようにおもわれます。いわば〈龍〉が死に絶えたと考える世界観の中で、非常に底浅いものを根拠に、私たちは虚無と我欲に翻弄されながら関係を病んでしまいます。
 “ラマラ”も“リシ”も使わずに幸せになれるのなら、それにこしたことはないのですが、〈現在〉は、孤独な偏りをもつ表現者でなくとも、つまりファンタジーにおける「巫女」のような立ち位置でなくとも、この〈龍〉の気配を触知して己れの〈生〉を意味づけるのでなければほんとうの自分に出会えない時代なのではないかという気がいたします。
 私たちは皆、十五歳の巫女と同じイニシエーションを課せられている、そんな感触が〈現在〉という時代の生き難さのど真ん中にあるようにおもわれるのです。
 自分は何者であり得るのだろう。
 何に〈呼び出し〉を受けるのだろう。
〈呼び出し〉を受け損なったら、この世界から放逐されてしまうのではないか。
 しかもその〈呼び出し〉が、ヴァーチャルなまがいものからの〈呼び出し〉であったとしたら。間違った姿を自分の本来の姿だと思い込むことで、狭い碁盤の目の上から落ちないでいるにしても、いつしか碁盤ごと、とんでもない場所に迷い込んでしまうとしたら。
 そんな切迫した混迷の様相が、若者のみならず、あらゆる世代を覆っているようにおもわれます。
 
 さまざまな現場の息苦しさ、生き難さに触れるたび、“実際にはまだ生きている”〈龍〉の息づかいを、「暗闇」に探り当てる叡智そして縁をと、祈るようなおもいです。



 





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