聖の弁証法

  • 2016.04.28 Thursday
  • 18:51
「攻撃性と憎悪・敵意を聖の弁証法を通して救いへと導いた古代人の智慧を、極度に非聖化された救いなき力とイデオロギーの対立抗争でしかない現代にどのように再評価し、価値を再発見し得るかに将来へのひとつの鍵がひそんでいるように思うのである。」(堀一郎 『聖と俗の葛藤』平凡社ライブラリー 1993年刊)
 堀一郎(1910年〜1974年)は、民俗学者の柳田國男に師事し、その娘婿となった人物ですが、宗教民俗学というジャンルを切り拓き、ミルチャ・エリアーデを日本に紹介したことでも知られています。
『聖と俗の葛藤』という書物には、「聖なるもの」を喪失した現代への暗い憤りが溢れています。よくもここまで「非聖化」され尽くしたものだ、という現代への認識はしかし、安易に「古代へ帰れ」といったアナクロニズムに陥ることなく、大衆的な規模で「聖」と「俗」が繰り返し葛藤を生起させることの意味を解き明かしながら、現代において生産的な「葛藤」と「聖なる価値」の蘇生が可能か否か、スリリングな問題提起がなされています。
 たとえば、成人式の儀礼について、次のような叙述があります。
「成人式儀礼にはさまざまなシンボリズムが使われるが、狩猟文化においては「解体儀礼」(体をバラバラに解体し、そしてその骨をもう一度集めて組み立て直すモチーフ。シベリアのシャーマンの巫病の神秘体験にはこのモチーフがしばしばあらわれる。)のイメージをもった儀礼が強く残っている。
 また農耕文化をもった民族では地母神とか地下の女怪物の胎内へ復帰するドラマチックな儀礼が見られるし、南の太平洋諸島では、ワニとか海の大きな怪物つまり水の精霊の腹の中に入ってもう一度生まれかわるという儀礼が見られる。」
 解体されたり胎内へ回帰したりといった混沌(カオス)をくぐり抜けることで、以前の自己ではない、聖なる自己として新生するというイニシエーションの構造に着目しています。
 日本でも、修験道のイニシエーションには、本尊(不動明王)と一体化する秘儀があり、いくつかの苦行を通して「死と再生」を象徴する行為が含まれているのだとも。
 つまり、「聖の弁証法」においては、一度カオスに戻るという体験が重要な意味を持つのだという認識です。
 
 このようなイニシエーションの構造と、集団的なオージー現象(マス・エクスタシーやマス・ヒステリア、たとえば日本で言えば念仏踊りやええじゃないか踊りのように、宗教的枠組みでの民衆のエネルギーの爆発を指す)の構造とがパラレルであるという視点にも刺激的なものがあります。
 イニシエーション、オージー現象、祭儀といった一時的カオスのもたらす非日常性は、そこでエネルギーが発散されることで結果として民衆のストレス解消となり、時に体制維持の好餌となる、といった冷徹な把握を交えながらも、すべてが「非聖化」され、葛藤も生産的なカオスへの回帰の機会も保証されない現代の平板な文明の様相に、堀一郎は危機感を抱いています。
 
「聖」と「俗」とが葛藤しながらカオスをくぐり抜け、新生する、このような「聖の弁証法」によって苦難を乗り越えたり、イニシエーションが成立したり、共同体の結束が強固なものになったり、文明の相貌が新たになったりするためには、ひとつの条件が必要であるようにおもわれます。
 それは、「混沌」に意味を感じられるということです。無駄に不条理なおもいをしている、理不尽に試練を強いられている、「混沌」の先には虚無しかない、そう考えるならば、仮に蘇生はしても虚無の風景は塗り変えられないのではないかとおもうのです。蘇生は「偶然」の産物でしかなく、ひとつの価値をめぐる「物語」を生きたことにはならないからです。
 どのように変わるのかについてのビジョンは与えられなくとも、良き方に変わる、そのことへの〈信〉があるとき、蘇生は根源的なものであり得るとおもわれます。
 それは、二元的に対立しているように見えるものの双方を包摂するようなスケールへのまなざしを、世界観として持ち得るかどうかということであり、堀一郎の言う「非聖化」も、単に「聖なるもの」だけの喪失ではなく、実は「聖と俗」という対立を超える世界を想い描き、信じる能力の喪失という不全に突き当たるのだと言えましょう。
 
 霧芯館の研修やワークショップを「修行の場」ととらえ、「また京都へ修行に行きます!」と言ってくださる受講者がおられますが、KJ法もまた、カオスに意味を感じつつ、その先に創造的な自己変革とダイナミックな問題解決がもたらされることへの〈信〉で成り立つ方法だと言えましょう。混沌をくぐり抜ける時間はまさに修行ですが、繰り返しKJ法を実践するうちに、どのような混沌でも必ず構造化され本質にたどり着くことができる、という〈信〉が鍛えられる方法でもあります。
 技法の細部にも「弁証法」的な精神が息づき、複数のラベルの〈志〉をすべて汲み上げて概念を創造的に統合することをあきらめない方法です。
 
 徹底的に「非聖化」されたように見える現代において、おそらくは個々人の内面でのこのような微細な「弁証法」的葛藤は、仮にKJ法を使わずとも日々繰り返されているのであり、堀一郎が語るほどにはのっぺりとした現代ではないと、私は考えております。
 人々の日常の細部には、宗教的な「聖」とは無縁でも、世界風景を一瞬、非日常的にきらめかせるような歓喜やカタルシスや他者・世界との交感や覚醒がはらまれており、そこで感受された「価値」をめぐって、個々人のデリケートな葛藤・修行がより良き蘇生・変革へと結びつくための強靭な世界観が、古代のようには大衆的な規模で保証されてはいませんけれども、そのことの並外れた困難と逆戻りのきかない立ち位置で混迷をきわめつつもなお、「聖の弁証法」は息づいているとおもわれるのです。
 
 あまたの「素手」の闘いが日々続けられている、と感じられます。KJ法という武器の威力を信じて霧芯館にお越し下さる方々の熱意に頭の下がる想いであり、個々人の精緻な葛藤や困難の現場に触れることで、根源的な〈信〉の手触りを得られることに感謝する日々です。


 
 
 熊本地震で被災された方々が、混沌とした状況の中でも〈信〉を失われずに一日も早く安心できる生活を取り戻されますように、心よりお祈り申し上げます。
 

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