〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

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