無駄に使うな、贅沢に使え。

  • 2017.03.31 Friday
  • 15:31

 ずいぶん前のことですが、バイオリン作りの職人さんが、「木は、無駄に使うな、贅沢に使え。」と語っておられる記事を読んだことがあります。

 これは、素材としての木の、良い部分を効果的に使ってバイオリンにする、といった平板な意味ではなかろうとおもわれます。

 木には木としての命があり、その全体を生きています。その「部分」が使われてバイオリンとなるはずですが、使われない部分ははたしてただ廃棄されるだけなのでしょうか?

 私には、木が「ここを使ってくれ」と訴えかけてくる、そこを使うことが、木を全て使うのと同じ「贅沢」となる、そういう意味をもつ言葉と感じられます。それは、「評価」によって「良い部分」「悪い部分」を取捨選択する行為ではなく、「ここを使ってくれたら私の命はまるごと生きる」という木の訴えかけに従う行為なのだと。

 そして木がバイオリンとなった時には、そのバイオリンにもバイオリンとしての命が生まれます。それは木であったときの命と同じものではありませんが、バイオリンは、木の命を受け継ぎながら、新たな命として贅沢に転生し得るのだと。

 ものごとを「生かす」ことを考えるたび、いつもこの言葉が思い出されてなりません。

 

 KJ法において、この言葉が最も鮮やかに想起されるのは、「多段ピックアップ」という技法を駆使する時です。

 現場から取材されたデータが、ラベルに記入された結果大量枚数となった場合、KJ法ではそれらのラベル全てを使って「狭義のKJ法」の作業によって構造化することももちろん可能ですが、「探検ネット」上に配置された大量ラベルに対して「多段ピックアップ」という技法でラベルを精選し、その精選されたラベルを構造化することもできます。

 その結果は、全ラベルを用いたのに匹敵する、場合によってはそれを超える精度で優れた構造化や本質の浮上が可能となります。

 なぜそのようなことが可能なのかと言えば、たとえば200枚のラベルから、50枚のラベルを「多段ピックアップ」するという場合、200枚から150枚が棄てられたわけではなく、ピックアップされた50枚によって200枚全てを象徴的に感受しているのであり、いわば200−150の50枚ではなく、50=200であるような50枚だということなのです。

「なんだか気にかかる」という基準でピックアップするという行為は、評価目線によって「良し悪し」を決めつけるのではなく、無意識領域をも駆使した、全体感と個々のラベルの〈志〉の感受なのであり、既成概念や仮説にとって適合的か否かのチェックなどではありません。

 KJ法においては、「全体は個の総和ではない」のであり、ここでピックアップされた50枚も、すでに200枚という全体をシンボリックに背負っておりますし、これら50枚が「狭義のKJ法」で構造化されるならば、さらに個々のラベルの象徴的な意味は深く定まり、「土の香り」を残した抽象によって本質が浮上することとなります。

 

 この時、ラベル達は、無駄に使われることなく、非常に贅沢に使われた木として、優れたバイオリンのように生まれかわるのだと言えましょう。

 そこでは数の多さが確からしさを保証するのではなく、質のバラエティーの確保された〈全体〉を背景として、たった一枚のラベルでもシンボリックな〈志〉を獲得し、ダイナミックな発想に開かれた存在感を主張し始めます。

 出来ばえのよいKJ法図解を味わうとき、とても贅沢な気持ちになるのは、ラベルという〈個〉とラベル群という〈全体〉との間に、人の「象徴的感受」という心の働きを通して顕現するコスモロジーが有機的に息づくからだとおもわれます。

 

 おもえば、私たちも限られた時空間を生きております。

 自分という〈個〉が、何を〈全体〉として象徴的な存在たり得るのか。

〈木〉の訴えかけを損ねることなく、〈バイオリン〉としての可能性を生きられているのかどうか。

 そんなことを考えてみるのは、必要な贅沢とおもわれます。

 

 近頃よく、「スペック」という言葉が人について使われるのを目にします。そもそも「仕様」「性能」といった意味ですが、自身の履歴や他者の存在への評価として、「私のスペックはざっとこんな感じ。」とか、「A子の方がB子よりスペックが上。」「ハイスペック男子」などと使われているようです。

 目にするたび、なんとも言いようのないわびしい苦々しい痛ましさを感じます。

 ハイスペックであることで商品価値が高まる、そういう社会の目線に対応して適正に自己評価できるくらい大人である、との自負は、そういう価値尺度をもつ社会への毒念と、己れの更新のきかない「スペック」を見切る自嘲の念とに両足を踏みしめて、ぱさついたライフイメージをシビアに想定しようとしています。そして「スペック」という尺度によって存在が規定し切られた世界観が強固に彼らを抑えつけていることの不気味なほどの圧迫感がにじみ出ています。

「スペック」では見切れない世界の存在をどこかで感じているからこそ、「スペック」による自己評価に固執している、その痛みの自己主張でもあるのでしょうが、そこには〈木〉が〈バイオリン〉に転生する契機をあえて拒否した、己れの憎む社会の在り様への過剰適応の姿が垣間見られるようにおもいます。

 

 霧芯館には、80歳を超えた方が研修を受講しに来られることもあれば、大学生が自身の将来のために、自分でものを考え、問題を解決してゆくよすがにと、受講しに来られることもあります。

 概ね、世代が下がるにつれて、感受性がほっそりとしてゆき、世界観が痩せてゆくのを感じないわけにはいきませんが、それでも時折、びっくりするような深みのある内省力を若者に感じて驚嘆することもあります。

 そういう若者からは必ず、自分の限られた時空間を〈全体〉として、「無駄に使うな、贅沢に使え。」という言葉に相当するような内省力を働かせているという印象を受けます。〈木〉としての己れの深奥の訴えかけを、どうすれば〈バイオリン〉として生かせるのか、聴き取ろうとしている。

 うら若い身で、経験も見聞もさしてまだ広くはないはずですが、ささやかでも己れの世界と己れとの緊密な関係の意義へのあさはかでない洞察を、その作品から感じることができ、救われる気がいたします。

 

 咲き誇る花々を、今年は贅沢に味わってみたいとおもいます。

 

 

 

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