「ギャップ萌え」症候群

  • 2017.06.30 Friday
  • 17:28

「ギャップ萌え」という言葉があるようです。

 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。

 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマンティシズム等々がキャラとして設定・演出されたり、人間関係の中で垣間見られることで、「かわいい〜」「萌え」「きゅん死」をそそるというわけです。

 確かに上手く表現されればこれらのギャップの意外性は、「キャラが立つ」し、ドラマも盛り上がるし、現実の人間関係においても花も実ももたらすかもしれません。

 

 そういえば、とわが身を振り返ってみると、私自身も幼い頃から立派な「ギャップ萌え」症候群であったと、ふと気がつきました。

 

 以前も紹介しましたが、「少年少女世界の名作文学」というシリーズに読みふけっていた頃のお気に入りは、『赤毛のアン』や『スペードの女王』、『秘密の花園』、冒険活劇では『怪傑ゾロ』「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、『巌窟王』等々。

 大貴族の腰抜けのどら息子、と周囲にも婚約者にも見せかけておいて、仮面をつけた「怪傑ゾロ」が胸のすくような勧善懲悪をやってのけるとか。

 アルセーヌ・ルパンがガニマール警部を手玉にとって秘宝を盗み出しながら、人殺しはせず女には優しい、とか。

『巌窟王(つまり、モンテ・クリスト伯)』の主人公が、無実の罪に陥れられて15年間も牢獄で暮らしながら、同じ牢に居た老司祭から知識と教養と宝のありかを授かり、脱獄後は別人となってかつての仇に復讐を果たしてゆくとか。

『赤毛のアン』のように、ファンタジー体質の主人公が、融通のきかないリアリストたちとの葛藤の中で、リアリストの内に秘められていた意外な衝迫や情愛を引きずり出すとか。

『秘密の花園』で、甘やかされて神経質でわがままで心身ともにこの上なく不健康だった孤児の少女が、ひきとられたお屋敷の「花園」を復活させる秘密を味わうことで、自分と周囲を蘇生させてゆくとか。

『スペードの女王』のように、現実を野心的にのし上がろうとしていた青年が、賭け事の魔力に翻弄されて身を滅ぼすとか。

 

 どうやら幼い頃から、「ギャップ」によって際立つ存在の意外性、人の想定外の振幅が浮上する面白さ・怖さというものに惹きつけられていたようです。つまり、実に立派な「ギャップ萌え」症候群であったと言えそうです。

 今もその症状は相変わらず。

「ギャップ」によって顕わになる人や世界の表情に触れることで、生きる活力が湧いてくると言ってもいいくらいです。

 なにしろKJ法も、異質な(つまりギャップのある)データを統合し、それらの本質に迫ってゆく方法ですし。完成したKJ法図解を見れば、自分や他者の想いもかけない発想や感受性や存在感に出会える、貴重な方法です。ありがたいことに、仕事もまた「ギャップ萌え」症候群の私にとってうってつけだったりするので、「萌え」の種にはこと欠かない生活であるかもしれません。

 

 昨今、このような「ギャップ萌え」に人々が意識的・自覚的になっているというのは、ある意味、人物像や関係における平板さへの抵抗、とも言えましょうが、少々不自然なものも感じないではいられません。

 ドラマのキャラ設定においても、ことさらなギャップの作り込みは、かえって説得力を失くし、ただ「狙っているだけ」という印象を与えるばかりでわびしいもの。

 現実の恋愛においてもわざとギャップを見せるといった計算は、なにやら小賢しい不自然なテクニックと思われます。

 メディアで露出された芸能人の日常に人々が過剰に群がるのも、無性にギャップに渇くせいでしょうか。

 

 平板な世界や平板な人物像が嫌、何かを取り戻したい、そういう気持ちがせり上がるのは無理からぬものがありますが、こまごまとその渇きを癒やすためにむやみに散らかっている「ギャップ」とそれに対する「萌え」には、奇妙に「安心したがっている」においがします。

 つまり、本来の世界の振幅の巨大さを恐れるあまり、日々、微細な「ギャップ萌え」で渇望をこまめに処理しておかないと危ないのではないか、と怖れているようにも見えます。

 そして、日常に豊かに潜んでいる「ギャップ」からは、かえって目をそらしているのではないか、ともおもわれます。

 日々、見慣れた風景や関係の中にも、壮大な「ギャップ」は潜んでいて、私たちに世界の振幅の大きさをきちんと伝えてくれているはずだとおもうのですが、そういう日常から目をそらし、現状を脅かす得体の知れない非日常からも目をそらし、浮足立った「萌え」だけが蔓延しているようにもおもわれます。

 

 表現においても生活においても、なにかしら本来の「幅」を失くしてうろたえているような。

 ここに足を踏んばればいい跳躍ができる、といった拠り所を失くしているような。

 この幅の中でだけ「ギャップ萌え」してね、と何かから強制されてでもいるような。

 なによりも、自分の内から失われた「ギャップ」を、ことさら外部に求めて痙攣的な刺激を消費・享受しようとしているような。

「ギャップ」を成り立たしめている不可知の渾沌にはフタをすることで、「ギャップ」によって世界をかえって狭く規定し直しているような。

 

 ただ分極しているだけ、ただ散らかっているだけ、といった「ギャップ」の深まらなさを超えて、蘇生した世界を見ることができれば、その世界の変容ぶりにはさぞ「萌え」ることだろうとおもわれます。

 

 

 

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