泥まみれの神様

  • 2017.09.30 Saturday
  • 19:10

 

 沖縄県宮古島に「パーントゥ」という奇祭があるそうです。

 泥まみれの三体の神様=パーントゥが集落を練り歩き、誰彼かまわず泥を塗りたくってゆくのだとか。お年寄りだろうが子どもだろうが、新築の家だろうがパトカーだろうが、観光客だろうが女性だろうが、お構いなし。

 このパーントゥは、森の奥深くにある御嶽(ウタキ)という聖域(普段は神に仕える「ノロ」と呼ばれる者たちしか踏み入ることができない)で泉の泥を身にかぶってから集落に繰り出すようです。全身に蔓草をまとい、手に持った仮面で顔を隠して。

 写真を見ると、ちょうど宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」に似ています。

 人々は、パーントゥを怖がって必死で逃げ回りながらも、つかまって泥を塗りたくられると皆一様にうれしそうになる。新築の家では、パーントゥに「入ってもらわなかったら、困る」のだと。泥が魔除けになるそうです。

 

 小林紀晴『ニッポンの奇祭』(講談社現代新書)には、この「パーントゥ」の他にも、著者の生地である長野県諏訪の「御柱祭(おんばしらさい)」や、大分、宮崎、高知、埼玉、岩手、福島の奇祭が写真とともに紹介されています。

「御柱祭」はじめ、大分県国東市の火祭り「ケベス祭」、あるいは福島県相馬市の「相馬野馬追(そうまのまおい)」など、一つ間違えれば命にかかわる、怪我をする、といった緊迫感のある祭りも多く、著者がしばしば「度を超えている」と記すように、そこには私たち戦後の市民社会的、高度消費資本主義社会的な常識の枠をはみ出た人々の〈貌〉が活写されています。

 

「次第にあたりは暗くなってきた。パーントゥは途中で何度か差し添え人のような人が持ったバケツに入った泥を補充するように全身にかぶり、その度に息を吹き返すように元気になった。そして、再びアスファルトに泥をしたたらせながら、誰かを追いかけ、泥を塗りたくる。

 南の海から流れ着いたといわれている仮面をつけた怪物。神か、あるいは魔物か。どちらでもあるのかもしれない。その強烈な異物である存在が、現実に鋭く突き刺さっていく。これもまた古層に違いない。人々を追いかける姿に、さらに追われる人々の姿にそれを垣間見た。不思議なことに、追われ、泥を塗りたくられた人の表情には恍惚があった。世には怖いものが存在するということを知らしめる存在。おそらくパーントゥはそんな意味を持っている。それを私は畏れという名のつつしみだと感じた。

 すべてが終わるとパーントゥの身体、つまり泥だらけの蔓を編んだものは海に流されるという。パーントゥは森から生まれながら、かつて仮面が流れついた海に帰るのだ。」

 

 伝統だから守り伝えなければ、とか、学問として歴史や民俗の探究をしようとか、そういう身構えとは全く異質なものに駆り立てられて、祭りの写真を撮っている著者の息づかいが伝わってきます。ちょうど、祭りの中の人々を、「個人の意志を超えた何かに突き動かされている」と著者が感じているのと同じように。

 

「私は長いあいだ写真に過去は写せないと思い込んでいた。目の前のものを、今しか撮れないのが写真の大前提に変わりないが、それでも祭りを撮ることで、『遠い過去』も写せることを知った。/このとき、祭りを通して、『古層』を撮るという背骨みたいなものが見えた。」(「諏訪発、奇祭への旅」講談社:読書人の雑誌「本」2017年9月号より)

 

 洪水のように出版される新刊書には日頃あまり注意を払わないのですが、私どものところへお送りいただいた出版案内に、ふっとこの一節を見出して、心惹かれたのでした。

 

 写真を撮るという〈表現〉を通して、著者は、自身と、自身の生きるこの〈現在〉という時代の振幅を押し拡げたがっている。あるいは、存在の振幅の押し拡げられた〈貌〉を、〈現在〉や〈個人〉という輪郭のほどけた表情を、自我や社会の枠など蹴散らしてせり上がってくる時空のあり方を、自身を通して表現として定着させたがっている。「古層」とは、単に大和政権以前の縄文的なもの、という以上に、人を人たらしめている壮大な渾沌のダイナミズムに対して、人が今とは異質な大いなるつつしみを抱いて〈個〉と〈類〉のせめぎ合いを生きていた時代の世界観、とも言えましょうか。

 それを写したいという衝迫に、非常にシンパシーをおぼえました。

 著者は1968年生まれですが、諏訪の「御柱祭」を成長過程に刻み付けながら、農耕的なそして多分に狩猟民的な色合いの濃い民俗・信仰に包まれながら、同世代とはかけ離れた身体の〈記憶〉を抱え持ったことで、おそらく〈現在〉との激しいきしみに日々消耗感や異和感をおぼえつつ〈表現〉への契機を持ってしまった人物とおもわれます。

 

 観念的な伝統保護のスローガンや学的探究とは無縁の、生活者の切迫した〈表現〉として、祭りでしか見ることのできない「古層」の姿、〈個〉の〈類〉的な表情、自分以外の記憶の生々しさが追い求められていることに、懐かしさとともに現在的な鮮度をおぼえます。

 

 奇祭ではありませんが、霧芯館のある京都市のここ松ヶ崎にも新宮神社という氏神様を祀った小さな神社があり、秋は収穫祭が行われます。普段はひっそりしていますが、大祭は地元の人たちでにぎわう由緒ある神社です。地元の小学校四年生の女の子が巫女となって八乙女の舞を奉納するのですが、十数年前に一度だけ、当時三十歳前後だったでしょうか、ご神職の息子さんが前夜祭と大祭で、「陵王の舞」と呼ばれる舞を披露してくださったことがありました。

 見上げると、神木の梢に縁どられた空に、煌々と輝く満月。前夜祭ゆえ、巫女の少女たちとその家族くらいしか観る人がいない小さな境内で、この舞によって現出した時空間のことが、今も忘れられません。

 仮面とは妖しいもので、その場の空気を一変させてしまいます。

 勇壮だけど不気味でもある面と、手に持った金のバチ。そのバチの先ですっと顔を指されると、異次元の存在に強く自分が結び付けられてしまうのを感じます。

 何もかもが象徴的な意味合いを濃く帯びて、風景も観客の貌さえも彫りが深くなり、さっきまでの顔見知りとは違う人たちがそこに居ます。

 泥は塗りたくられませんでしたが、魂には、相貌を一変させた世界の陰翳が塗りたくられた気がしてなりませんでした。

 

 今年も十月末には秋の大祭。一期一会のあの「舞」の記憶が蘇ります。

 

 

 

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