中島敦の悲劇

  • 2018.10.26 Friday
  • 12:57

 

「山月記」で有名な中島敦に、「文字禍」(昭和十七年二月発表)というブラックな寓話風の小品があります。

 

 アッシリアの大王から、夜ごと図書館にうごめいているらしき文字の精霊について調査を命じられた老博士の悲劇ですが、その悲劇の核心は、奇妙に〈現在〉の私たちの生き難さに似ています。

 

 大王の命を受け、早速調査にとりかかった博士は、うずたかい書物の古知識の中から、文字の霊についての説を見出すことができませんでした。そこで彼は書物を離れ、ただ一つの文字を前に終日それと睨めっこをして過ごすようになります。(以下の引用は『ちくま日本文学全集 中島敦』より。)

 

「その中(うち)に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」

 

 そこで博士は、このばらばらの線に一定の音や意味をもたせているものこそ文字の霊ではないかと思い当たります。さて、それではその霊の影響とはどのようなものか? 街中を歩き回って、最近文字を覚えた人々を調査したところ、奇妙な統計が出来あがりました。

 

「文字を覚えてから急に虱(しらみ)を捕るのが下手になった者、眼に埃が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者などが圧倒的に多い。」

「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。」

「獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。」

 

 このように文字の霊の威力を洞察した博士はしかし、そのことで霊から復讐されてしまいます。

 一つの文字と睨めっこすることで、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を体験してからというもの、それと同様の事態に、文字以外のあらゆるものについても直面してしまうようになったのです。

 

「彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰(しっくい)との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。人間生活のすべての根柢(こんてい)が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。」

 

 怖くなった博士は、早々に研究をまとめて大王に提出するのですが、文字の霊が人々に害を及ぼしているとの報告は、文字とその文化を統べる神を疑わぬ大王の怒りを買い、謹慎を命じられてしまいます。さらに、数日後の地震で数百枚の粘土板が、文字の霊の凄まじい呪いの声とともに書庫内の博士を圧死させてしまったのでした。

 

 作者・中島敦の中に、己れの魂の置き所の無さに対する深い絶望の念があったのであろうことを感じさせる寓話です。

 文字の霊に喩えられた西欧近代的な〈知〉とは、この世界を氷山にたとえるならば、その一角に過ぎず、世界の総体はほとんど水面下に隠れている。しかし、その氷山の一角に統べられてしまうことで、私たちは空の碧さを失い、獅子を射止められず、女を愛せなくなってしまう。

 ところが、そのカラクリを洞察することもまた、分析病にとりつかれることであり、近代的な〈知〉の堂々巡り、そして意味解体の果てのニヒリズムの狂気へと人を追いやってしまうことになる。

 世界の総体を、個々の存在を、歓びと智慧に満ちたものとして享受することのできない不幸が、ひしひしと伝わってきます。世界に、存在に、真に意味を与えているものから遠ざかるように遠ざかるように、歯車が回り始める怖さ。

 

 今おもえば、高校時代に現代文の教科書で触れた『山月記』もまた、観念の夢魔に生身を食い荒らされ、虎になってしまった男の悲劇でした。現実と肉体を忌避する観念的な芸術至上主義が、〈虎〉というむきつけの獣的な現実・肉体へと収斂してしまう逆説は、時代の病の本質を鮮やかに指し示していたことがわかります。

 作者にとっては、肉体を忌避することも〈死〉、獣的な肉体の欲望に身を任せることも〈死〉、二つの〈死〉は、実は一つの病の別の貌に過ぎないことへの洞察が、痛々しい主人公の叫びとなっていました。

 その病の中で、自分が人間であったことの記憶さえも失くしてしまう恐ろしさ、段階的に自分の生身が失われてゆく恐怖にさえざえと直面する苦しさ。

 

 主人公、そして作者の苦しさは、私たちの日常にも当たり前に潜んでいることに、ふと戦慄をおぼえます。

 観念的な〈知〉によって、あるいはバーチャルな〈情報〉によって、あるいは科学の名のもとに強制される合理的・機械論的・唯物論的な世界観によって、〈現在〉の私たちは不断に生身を削り落としたりすり替えたりしているのですが、それがあまりに「不断に」なので、恐怖心すらおぼえなくなってきているようにおもわれます。デジタルな修正を加えられた空の碧さや、バーチャルに露出され消費される〈日常〉や、〈数〉の支配力や、これ見よがしにエビデンスに固められた情報によって、いつしか氷山の「一角」はその割合を増し、氷山の全てにとって代わるのでしょうか?

 

 KJ法は、既成の観念的な〈知〉を排し、世界との主客融合的な交感によって我欲を超えた創造性を顕ち上げる方法ですが、あらためて、その方法の現在性と普遍性、それでいながら本質の理解において非常に困難な方法であることを感じます。

「文字禍」の博士が陥った「分析病」をも排することで、近代的な〈知〉のパラダイムというものを根こそぎ転倒し、世界と存在のもつ歓びと智慧を、個々人の手に取り戻す方法ですが、その本質にはフタをし、安易な分類・整理法、分析や恣意的な解釈に通じるものとして誤解されやすい方法でもあります。

 そのような誤解を一つひとつ打ち砕かれる衝撃を、ぜひ、無心で味わっていただきたいものとおもっています。

 

 一人ひとりが真の〈意味〉に出会う衝撃の場所からのみ、変わってゆく風景の確かさを握り締めつつ、どなたも歓びと智慧とに満ちた秋を満喫されますように祈念しております。

 

 

 

 

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