他人とは思われない風景

  • 2019.02.27 Wednesday
  • 18:23

 

 このあした春はじめての霧を吸ひやはらかな思ひとなりて歩けり   前川佐美雄

 

 先日の明け方、ちょうどこの歌のような風景が窓の外に広がっておりました。

 

 

 

 そういえばこの頃、霧の中で自分の輪郭をほどくような時間を過ごせていないなと気づかされ、忘れ物を受け取りに、霧の中深く歩み入りたいような衝動をおぼえました。

 

 風景には、いつもなにかしら過去や未来からのメッセージが既視感として含まれているようにおもわれます。その風景の中に、自分の欠片(かけら)が散りばめられている、と感じるような、どこか懐かしく、しかも絶対的に新鮮である、という瞬間。人との出会いならば「他人とは思われない」という感覚を呼び起こす瞬間があるように、風景にも、「他人とは思われない風景」というものがあるのです。

 それは、必ずしも幸福な感触とばかり結びついているとは言えないもので、初めて世界との断絶を魂に刻まれた瞬間の記憶や、闇の底をさまようような胸苦しい混沌や、喪失や、他者との疎隔や、まさに今現在の生き難さを想起させることもあるのですが、そのような痛みとともに、鮮やかな修復や蘇生がもれなくまとわりついているような。一粒の涙の中に、喜怒哀楽が美しいコラージュとなってきらめいているような。

 風景に、そのような自分の欠片としての涙が散らばっている姿は、曇り空であろうと霧の中であろうと闇夜であろうと、きらめきを帯びています。

 そのきらめきの手触りによって、風景は、私の心身が世界から断片として孤立しないように守ってくれているのでしょうか。

 

 前川佐美雄(1903−1990)という歌人も険しい人で、昭和五年刊行の『植物祭』という歌集には、己れの病理やストレスを「短歌」という器に盛りながらまじまじと凝視するような、端正ながら鋭利な批評意識の横溢する歌がみっしりと詰め込まれています。

 冒頭の一首においても、「霧」を吸うことでかろうじて「やはらかな思ひ」となった彼の内には、自他や世界へのひりついた対立感が暴れ出しそうだったことでしょう。昭和初年という時代の、個々人が無意味な断片へと追い詰められてゆき、カオスを求めて暴走しそうな空気が、とても現在的に顕ち上がっている歌集です。

 

 一人ひとりが無意味な断片のような場所に追いやられてゆく時代において、あくまで「一人ひとり」が、どのようにこの世界と絆をとり結べばよいのか。

〈現在〉のさまざまな課題が、いつもこの一点に集約されてゆくのを感じます。

 断片としての明晰な輪郭を、その輪郭を保つ強固な自我を、機能的で効率のよい関係を、身体を、ライフイメージを、目標を、能力を、結果を、価値を。そこで求められる明晰さの底浅くてもろいこと。

 常に輪郭の明晰さを要求する不可視の圧力は、得たいの知れない〈闇〉の暴発を封じ込めようとするかのごとくですが、その強迫的な明晰さこそが、大規模なストレスのカオスの醸成源でもある。そういう圧力と暴発とのあやうい葛藤の強まりを、世相から感じることが多くなりました。

 しかし、〈時代〉の流れが圧倒的に見えるときほど、実は、一人ひとりのまなざしが効力を発揮するときなのではないかと、思われてなりません。

 ものごとの本質というものは、いつも逆説を孕んでいますから。

 

 明晰な輪郭を浅はかでなく顕ち上げられる存在は、たっぷりと霧を吸って育ったのだと。少なくとも私の欠片の潜む風景は、そんな逆説をきちんと伝えてくれているようにおもわれます。

 

 

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