なにしろ秋なので
- 2019.09.29 Sunday
- 18:38
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文句なしに好きな作業というものがあります。
ブログで何枚かの写真をどの順番で掲載しようか、と悩むとき。
パソコンに取り込んである音楽から、お気に入りの楽曲だけを一枚の音楽用CDにどういう順番で書き込もうか、と悩むとき。
KJ法の作業で言えば、10個以内のグループに統合されたラベル群を、一枚の模造紙にどう配置しようか、と悩むとき。
いずれも悩み・迷いのつきまとう作業なのですが、その悩み・迷いがとても楽しい。
自分の中の、意識化できない部分を、意識化するかしないかというぎりぎりの場所へ持ち出しながら、でも最終的に意識化しない部分が大満足するように、ああでもないこうでもないと、煩悶する。その、意識と無意識のぎりぎりのところに今、自分の意識のセンサーと無意識のセンサーの両方を駆使している、その感触がなんとも心地よいのです。
3つ目は、いつもKJ法の仕事で味わえることなので幸せですが、研修受講者のみなさんにとってはかなり産みの苦しみにもなる場面のようです。
2つ目の、音楽CDの編集作業も大好きなのですが、昨今の忙しさの中では、そんな作業に時間を費やしていては楽しすぎて罪悪感すらおぼえてしまうので、このところ味わえていません。
1つ目の写真については、こうしてブログで時たまご披露するための作業で、ほどよいエネルギーをかけ、ほどよい解放感を得られて、これも幸せです。
プロの画家さんが、いくつかの作品を画廊に展示するときや、ミュージシャンが楽曲を集めて一枚のアルバムにするときも、きっと、この意識と無意識の往還を、プロの高精度のセンサーを駆使して、絶対感をおぼえるかたちへと整える、そういう作業をしているはず。そこでは、ひとつの作品だけと対峙している時とは異なる、全体の中での作品の意味が浮上してきます。
KJ法の大事なツボとして、「全体感を背景として、個々のラベルの〈志〉を感受して」と申し上げるのですが、その「全体感を背景として」感受する〈志〉というのは、実は、アルバムの中での個々の楽曲の意味のようなものだと言うことが出来ます。一曲だけを聴くなら、色々な解釈が出来るけれども、アルバム全体の中でのこの曲の意味は、となると、あるイメージとして定まってくる。一枚だけのラベルを恣意的に解釈するのではなく、KJ法はいつも、全体感の中で〈志〉を聴き取ろうとするわけです。
どのような表現においても、すぐれた「作品」というものは、その完成形へと精度を上げるための、産みの苦しみ・悩み・迷いがあります。そこに楽しさもつきまとっていますが、意識と無意識の葛藤がスリリングに、その人らしく、実にその人らしく繰り広げられているものです。
それらの作品を味読する側もまた、楽しみながらその意識と無意識の奥ゆきへと十分に感受性・想像力を働かせたいものだとおもいます。
まだまだ残暑は続くものの、なにしろ秋ですから。
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