〈個〉のゆくえ

  • 2011.09.04 Sunday
  • 16:43
 KJ法を人に指導する、という仕事において最も難しいのは、ラベルの〈志〉を感受する個々人の資質に寄り添いながら、その延長上に発想されるはずのイメージを、既成のなにものにも回収されないように掬い上げることだといえるでしょうか。
 可能なかぎり本人の力でそのイメージを言葉として定着してゆくのを見守るのですが、ときには「こうではありませんか?」というヴィジョンを提示することもあります。
 素質に恵まれたバレリーナやフィギュア・スケーターの、腕の伸ばし方や指先の表情を少し変えさせることで、「あなたの表現したかったのは、こうでしょう?」と提示してみせる指導者のようなものかもしれません。
 すぐれた指導者なら、そのヴィジョンはけっして指導者の求めるものの押し付けではなく、本人自らも気づかぬうちに表現したがっているオリジナルな世界への道しるべとなるはずです。
 KJ法は、データに即するということと、個々人の個性が発現されることとが矛盾しない方法ですが、そこに創造的な感動が伴うのは、その結果が既成のなにものにも回収されないような独自の〈貌〉をもつからです。
 既成の価値観、ありきたりの概念、先行研究の枠組み、どこかで見たようなスローガン・・・。ともすれば人は、自らの感覚や知性を使うことがめんどうで、己れの繊細な感受のニュアンスを安易に放擲してしまいます。
 誰もが論駁し難い、善意や正義に満ちた概念ともなればなおのこと、いつのまにかそれらの概念に依存してしまいがちです。あまりにも衆目の批判し難い正義ともなれば、依存していることにさえ気づかぬまま、個々人の内面は空洞化してゆくこともしばしばです。己れの内面のうつろさを棚に上げて他者にその観念的な正義を強制することもまた、とかく善意とともになされて時代の空気を気まずくすることがあります。
 KJ法をつかうとは、実はそのような〈悪しき依存〉との地を這うような闘いであるともいえるのです。

 そんなことを考えたのは、先日TV放映されたアニメーション『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版・破』を観たことにもよります。
 1995〜1996年放映のTV版、1997年の劇場版においては、ヒト型戦闘兵器エヴァンゲリオン(エヴァ)にパイロットとして乗ることを強いられる少年の心の闇は、エヴァを拘束具として「逆切れ」的に暴発・解放させられ、「人類補完計画」という類的な悪夢へと回収されてしまう不毛さと、それを拒んでも対人的な神経症の地獄しか持ち合わせがないという世界観に帰着してしまっていましたが(その現実を観客に突きつけることがビターなねらいであったにせよ)、2009年に劇場公開されたこの『破』を観るかぎりにおいて、監督・庵野秀明は〈現在〉と丁寧に向き合いつつ、少年の心の闇を、「なにものにも回収されたくない」という根源的な叫びとして希望へと紡ぎ上げようとしているように見受けられます。
 少年たちを追いつめる不条理の描き方はより一層激烈なものとなり、この不条理感を、少なくとも無意識裡には、己れの身体を呪縛する不条理感の象徴として受け止める多くの若者たちがいることに震撼させられます。
 希望を紡ぐなら、既成のどんな価値にも依存できない、ぎりぎりの場所から紡ぐしかない。既成の価値観が無自覚に寄りかかってきた共同体的なぬくもりの残滓など、薬にしたくても無いような冷え切った身体感覚をもつ世代が、己れの身体感覚の狭小さに居直ることなく、現実に「賭ける」行為のなかから紡ぎ出そうとする希望。
『破』にはその希望の萌芽が見出されたようにおもわれます。
 2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版・序』に始まって、4部作として再構築された世界観のゆくえを、期待して見守りたいとおもいます。

 個人として分断され尽くした現在において、真に〈個〉として生きることが難しいという逆説。
 そのような逆説的な場所に追い込まれたからこそ、見えてくる希望というものもあるようです。




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