柳田國男と折口信夫

  • 2012.05.26 Saturday
  • 23:50

 民俗学者の柳田國男が強調した日本人の霊魂観のポイントの一つに、「死んでも遠くへ行かない」というイメージがあります。
 我々の祖先の霊魂は、この現世から隔絶した遠い場所へ行ってしまうのではなく、近くの山の中やせいぜい海の向こうといったところにとどまり、しかも顕幽二界の交通は容易かつ頻繁である、というものです。
 いまわの際の念願も達成されるし、生まれかわって霊魂が現世に復帰することも可能である、という、なんともポジティヴな〈連続〉の相貌を帯びた霊魂観に貫かれているのが柳田民俗学です。(折口論として〈ブログ「星辰 Sei-shin」における「〈藤村操世代〉の憂鬱」の中の「折口信夫の〈青あざ〉」〉も参照していただければさいわいです。→http://sei-shin.jugem.jp/

 対して、その弟子の折口信夫は、柳田に心酔してその学を受け継ぐのですが、はるかに不幸な匂いが彼の学問と表現にはたちこめています。
「全体、人間の持っている文芸は、どういう処に根を据えているかというと、生理的にも、精神的にも、あらゆる制約で、束縛せられている人間の、たとい一歩でもくつろぎたい、一あがきのゆとりでもつけたいという、解脱に対する憧憬が、文芸の原始的動機なのである。」
「こうして不思議な物語りと、多くの人の憧憬とを負うていた異郷は、明治大正の科学の光に逢うて、忽ち姿を隠してしもうたが、また新なる意味に於ける異郷が、われわれの胸に蘇り更に蘇らねばならぬ。いつまでも。」
(「異郷意識の進展」『折口信夫全集20』 中央公論社 1996年刊 より。旧仮名遣いは新仮名遣いに改めて引用。)
 この現世が逃がれようのない不条理に充ちているという、当時の青年層にとって普遍的ながら、あくまで折口の文学的な感受が、その異郷イメージに色濃く投影されて、独自の「マレビト」観を形成します。
「祖先の霊魂も、肉体を離れて他界に生きている。そうして時々、我々の前に、目には見えないが来臨したと言うしるしをみせる、とこう考えたのです。」(「神々と民俗」 同上所収)
 柳田的祖霊信仰を半ば強引に包摂しつつ、肉体と魂の分極、現世と他界との分極、という〈断絶〉の相にアクセントを置いた世界観が、「来臨」という語のニュアンスから濃密に顕ち上がります。

 彼らはいずれも、他の追随をゆるさない天才的な直観力で日本人の魂に底流する世界観の本質に迫った民俗学者であり、この師弟の対話では、他の弟子たちが立ち入ることのできない鋭利で豊かなイメージが空気のように交わされていたといいます。
 しかし、折口の柳田への心酔ぶりには常軌を逸するほどの過剰さがあったのに対して、柳田は折口の「マレビト」概念を認めようとはせず、その不健康な文学臭や性癖(同性愛やコカインの常習や不潔恐怖症など)には辟易していたふしが見受けられます。
 生まれたのは柳田が明治8年(1875年)。折口が明治20年(1887年)。
 わずか12年の差ですけれども、両者が精神形成した時代のこのわずかな差の内に、日本人にとって世界風景の質が大きく変容していったのであろうことを感じます。

 この師弟の世界観の差異や確執が私にとって興味深いのは、単に日本の民俗学を方向づけた二人の人物が好対照だからでもなく、明治期のちょっとした世代間ギャップが大きな世界認識の差異を生んでいるというだけでもなく、この二人の世界観のギャップに象徴されるような〈断絶〉を、私たちの〈現在〉もまた、随所に抱え込んでいるのを日々感じるからです。
 たとえば、宮崎駿のアニメーションと、庵野秀明のアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の世界観の落差。これは柳田と折口の構図に酷似しています。
 個々人の健やかな肉体の輪郭の強靭さをベースに、豊かに世界と交感し得る宮崎アニメの主人公たちと、神経症的な内面の鬱屈と暴発を世界の命運と直結させ、不条理の克服の方途を残酷に問いかける『エヴァ』の登場人物たち。
 折口が柳田に激しい憧憬と思慕を抱きながらも、独自の「マレビト」観を形成せずにはいられなかったように、若い世代は宮崎アニメに憧れつつも、いつもそこからはじかれてしまう自分たちの存在の欠落感に悩まされ、己れの病理とその超克のための悪戦を表現として生み出さずにはいられないかのようです。

 人を育てる現場や、家族の内部にも、多かれ少なかれ、このような世代間ギャップが生じて、互いに刺激し合い生産的に影響を与え合うよりもむしろ、ともすれば不毛で酷薄な〈断絶〉の様相を呈しています。
〈意味〉にみちあふれた育ちの中で豊かな身体性を無自覚に獲得してきた世代は、〈手持ち〉の豊かさゆえに他者への強制と安易な〈意味〉の蔑視に走りがちであり、対して無意味な世界風景に侵され続け、不条理と不信によって身体の硬直しきった世代は、世界と己れの振幅への決めつけと居直りによって呪詛と怨念をまき散らしがちとなります。
 この〈不毛〉の型が、実は近代精神史を貫いて根深く存在することに気づくとき、強制や我執や逆ギレに毒されることなく、〈意味〉を愛おしみたいと、切に想うのです。

 歌人としても活躍した折口は、晩年にこんな一首をのこしています。

 眉間(マナカヒ)の青あざひとつ 消すすべも知らで過ぎにし わが世と言はむ

 眉間に痣をもっていた折口の述懐ですが、短歌作品の中でこの「青あざ」は、近代に刻印された不条理な世界認識の型のメタファーとして解き放たれ、哀切な不能性で「わが世」を彩っています。
 苦々しい余韻が胸をうつ一首です。




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