「生き切る」ために

  • 2012.10.29 Monday
  • 19:37
 明六社のメンバーに代表される明治初年の啓蒙思想家たちは、人々の気風を改造すべく、洋書の翻訳・紹介にいそしみましたが、鹿野政直著『近代日本思想案内』(1999年 岩波書店)によれば、彼らは一様に、「individuality」という語の翻訳に苦心したようです。
 当時の辞書にも、「分(わか)タレヌ事」つまり、それ以上分割できない個別、というこの語の原義を汲んだ表現は見られたものの、いまだとらえ難い概念として宙に浮いていたものとおもわれます。
「人々」「個々人々」「独自一箇」「各自一己」「人民各箇」などと工夫され、福沢諭吉が「独一個人の気象」と訳すようになる。実に見慣れぬ得体の知れない概念を、なんとか把握してその輪郭と核心に迫ろうとしていた様が興味深くおもわれます。
 さらに興味深いのは、「社会」という概念は、まったくもって理解できなかったという事情です。
 明治の初年だけの事情であれば、当然といえば当然のことですが、この頃大量に編み出された翻訳語たちは、いまもって私たちにとって日常語とはなりきっていない、と近代翻訳史の研究を踏まえて鹿野は述べています。
 いまでは、「社会」も「個人」も頻繁に使われる言葉ではありますが、あくまでそれらは「書き言葉」としての概念であり、日常に根を下ろしているとはいえない。
 この把握には、非常にリアルなものを感受いたします。
 明治期に外来の概念によって啓蒙されてゆくことが、人々にどのような世界風景の転変を刻印したのか、それが劇的な衝撃であるとともに、実はいかに底浅いものであったかをおもわずにはいられません。
 熟さぬ概念へと観念的に追い立てられた人々の深層の異和感は、昭和期に国民単位での退行と暴発をまねいたのだと、単純化して言うこともできましょうか。

「セカイ系」とよばれるサブカルチャーの作品群があります。『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下に出現したとされる、それらの作品群の特徴は、主人公を軸とする関係性が、「社会」「国家」といった中間項を媒介せずに世界の命運と直結するところにあるそうですが、そういう表現への飢渇感ひとつとってみても、現在の人々の身体にもまた、「社会」という概念への異和は底流しているようにおもわれます。また、「個人」をなんとかして砂粒のような無意味な単位ではなく、類的な解放をはらんだ概念として手応えをもって位置づけたいと、病理すれすれの悪戦や迷走が表現として生み出されていることに痛みをおぼえます。

 一人ひとりの老いや死の迎え方をおもうときも、その感触は強まります。
 社会での成功・業績の輝かしさが、その人の幸福な老いや死と必ずしも結びつくわけではなく、真の「individuality」として、それ以上分割することのできない、すなわち他と置き換えのきかない生を、どうすれば幸福に「生き切る」ことができるのか、迷走は続きます。迷走は続いているのですが、東日本大震災を機に、明らかにこの「生き切る」ことへの人々のおもいは、研ぎ澄まされ始めたように感じられます。

 一人ひとりが、手応えのある生を「生き切る」のは、ほんとうに大事業です。
 それぞれの「このように生きたい」という意識とはうらはらな場所に、真の願いがひそんでいることも多々あるわけで、もしも長年月にわたってそのような深層の願いを自ら押し込めて生きたならば、その老いがどれほどの「ツケ」の支払いに見舞われるかについて、誰しも身近な例のひとつやふたつは目にしているのが現在というものでもあります。
 必然的に、誰もが己れの意識と無意識とをフル稼働して生きることを、そしてその中で自らの「生き切る」イメージを自然に肯定的に紡いでゆく営みへの自覚が問われることとなります。

 KJ法を求める方々の、ちょうど意識と無意識の境目あたりに、そんな自覚がほの見えることを、私はとても頼もしいとおもうのです。



JUGEMテーマ:日記・一般
 

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM