〈闇〉の居場所〜中里介山の場合〜

  • 2015.11.30 Monday
  • 14:57

「笛吹川」という小説に遭遇しました。
原稿用紙にして十枚にも満たないであろうと思われる掌編というべきものですが、久々に底知れない〈闇〉の深さを感じさせる作品に出会った気が致しました。
 
 作者は中里介山。あの『大菩薩峠』という長編時代小説の作者です。
 明治十八年生まれの中里介山が、大正二年から都新聞に連載を始め、昭和十六年まで、三十年近くにわたって書き続けられた大長編ですが、主人公の剣客・机竜之助が、無意味に人を斬り、あるいは破滅させ、関わる者を次々とその業に巻き込みながら幕末という時代をさまよい続ける、タナトスに魅入られた魂の遍歴の物語であり、ついに未完のまま、作者は昭和十九年に亡くなっています。
 戦後(昭和35年・36年)に製作された、市川雷蔵の妖気あふれる演技による映像作品が、原作の〈闇〉の深さを表現し得てこれも見事です。
 原作の舞台となる時代が慶応三年で未完となったことも象徴的で、明治維新というものをあくまで認めたくなかった作者の暗い情念を感じさせます。登場人物たちは慶応三年のカオスの中に放たれたまま、幕末以降現代に至るまで居場所の与えられない〈闇〉のかたちについて私たちに問いかけているかのようです。
 
「笛吹川」は、中里介山が弱冠二十歳の明治三十八年に「火鞭」という雑誌に発表した小説であり、語り手が甲信の連山を望みつつ遡った笛吹川のほとりの村で、「瀧」を祀る祭礼に遭遇した際の逸話という形式をとっています。壮烈な「瀧」の威容と、その瀧にまつわる哀切な悲恋の融け入る〈闇〉の深さが、潔い文体で鮮烈に描かれます。
 
「水勢肥え溢れる様な丈餘の大瀧。前山の断崖を劈(つんざい)て奔下しそれが斜に流れて、すぐ我脚下なる、方一町ばかりの大洞穴の中に大巴小巴を捲きつゝ流れ込むのである。あゝ怖るべき此の大洞穴! 鬱然たる深山木(みやまぎ)はその四辺を蔽ふて洞内夜よりも暗く、蛟龍(こうりゅう)珠を得て驕ると云つた様な水の流は一種凄烈の気を放ちつゝ悠々として底知れぬ洞穴に捲き込む。捲き込むと共に、はじめ白かつた水は青くなり、青かつた水は黒くなつた。黒くなり遂に白光を帯びて来た。白光を帯ぶるや否や膓(はらわた)の底から人を戦慄せしむる様な凄絶な唸聲が耳を貫いて起るのである。
 汝我に来れと死の神より招かれた様な言ふべからざる恐怖に打たれて自分は石像の如く深淵を眺めて立盡した。」(「笛吹川」より 『明治文学全集83』所収:筑摩書房刊 旧漢字は適宜新漢字に改めた)
 
 我に返った語り手の前に、白装束の一隊が神輿(みこし)をかかげて進んできます。神輿の中には、熨斗(のし)をかけ水引で結んだ重箱が一組。神主とおぼしき人物に尋ねれば、「お鮨(すし)様」の祭礼であるといい、謂(いわ)れを語り始めます。
 この瀧の大洞穴は「釜」と呼ばれ、その「釜の主神(ぬし)」にお礼のため、毎晩笛を吹きに来る美少年が居た、と。名を権三という鮨屋の息子。父も亡くし長患いの母一人子一人、その母のために商いをしているのですが、毎朝川下で鮎を捕ってそれでお鮨を作って湯治場へ売りに行く。その鮎が、毎朝決まった数だけ「ウケ」の中に入っていて、しかも作っただけのお鮨が必ず売り切れる。母が言うには、「釜の主神様」のお蔭だから、お礼をしなくちゃいけない、と。少年にできることといえば、生まれた時から肌身離さぬ横笛を吹いて差し上げることくらい。一日でもこの笛を吹かない日があれば間違いなく死んでしまう、というほど少年の愛した横笛の音を聞けば、泣かぬ村人はいない。その横笛を、毎晩釜の主神のために吹きにくるのだという。瀧の前で権三の語るのを聞いた村の豪家の娘、雪子は胸打たれ、ふたりが月下に相擁して泣いた六月の十三夜。その夜以来、「釜の主神」のために吹いていた笛は、少年が恋人を呼ぶべき笛と変じたのですが、そのことを、嫉妬深き「釜の主神」は怒ったのだというのです。
 その怒りを鎮めるために、雪子に白羽の矢が立ちます。人身御供に捧げねば、笛吹川沿岸五十八箇村は大旱魃にあうと。
 白無垢に身を包み白馬に負われ、従容として雪子が深淵に呑まれたその刹那、駆けつけた権三は「生れて以来腰を放さぬ横笛を抜くより早く淵に投じて渦に弄ばれつゝ沈み行く有様を快げに眺むること霎時(しばし)、やがて我と身を跳らして狂瀾の中に美人の跡を追ふた」のが時あたかもふたりが出会って一年後の十三夜。
 以来、供養のために、毎年六月十三夜、お鮨をこの釜の中へ供えるのだが、そのお重が水引をかけたまま川下へ流れ寄り、中のお鮨だけは無いのだと、神主の語りでこの小説は終わっています。
 
 この掌編が象徴しているものは、人身御供で災害を防ごうとする前近代の共同体の蒙昧さでもなく、前近代的蒙昧さに潰された近代的な恋愛の末路でもなく、前近代と近代といった線引きさえ空しく感じさせるような、土俗の〈闇〉の底知れなさであると感ぜられます。
 前近代においても、その共同体の〈類〉的な心性から反り返ってしまう〈個〉の魂は存在していたでしょうし、近代においても、分断された〈個〉を溢れる〈類〉的な渇望が歴史を揺さぶったのでありますが、この小説は、そのような葛藤を、個人か共同体かというレベルで描くのではなく、そのいずれをも凌駕する圧倒的な〈闇〉のドラマとしておそるべき簡潔さと妖気で描き出しています。
 少年が吹く笛は、〈個〉の哀しみを解き放つ笛であり、〈類〉によっては癒され切ることのない魂の哀切さが聞くものを泣かせ、「一人で吹いちやあ一人で泣け終(ちま)うんです」と少年が語るように、誰よりも己れ自身を癒すための表現でした。その表現を、「瀧」の主神は加護の「礼」として受け入れていたのですが、少年の笛が一人の美女のために吹かれるようになることを主神は許さなかった。共同体の因習という装置を借りて主神が美女を呑み込み、少年を呑み込んでしまう結末は、民の蒙昧さなどに帰することのできるものではなく、次元の異なる凄絶な〈闇〉のありかたを感じさせます。凄絶ではあるけれども、現世的な〈類〉に融け切れないふたりの魂の故郷のようにも感じさせるものがある。
 このエピソードそのものは、その土地に伝わる民潭に取材したものであったかもしれませんが、作者は、単なる「言い伝え」を書きとどめたかったのではなく、前近代的な信仰の対象としての「釜の主神」の威力を描きたかったのでもなかったでしょう。そのような共同幻想のお膳立てをぬきにしても、「瀧」に備わった〈闇〉の意志、作者が譬えるところの〈龍〉の気配に人は震撼するのだと、冒頭の「洋服扮装(すがた)」の語り手による「瀧」の描写は告げています。
 ここで描かれる少年の「笛」に託された表現も、悲恋も、「瀧」の神秘も、共同体社会といった現実的なシステムなどではくくり切ることのできない深い〈闇〉に存在の根拠を持っていて、登場人物がその〈闇〉に肌身を触れて生きて死ぬ様が、私たちの生存感覚を揺さぶります。現在の私たちの誰が、これほどの生の根拠の深さを得て日々を呼吸できているだろうか、と。
 瀧に笛を投げ入れた少年が快げに笛のゆくえを眺めて己れもまた瀧に身を投じたのは、前近代的な因習の犠牲となった美女に殉じたのではなく、己れの〈個〉の表現と恋の至純とを、「瀧」の主神になら捧げてよしとする快さだったのであろうかとおもわれます。
 
『大菩薩峠』という大長編を貫くのもおそらく、幕末以来迷子になっている、このような生の根拠の深さの手触りへの飢渇なのであり、連載が開始された大正二年から昭和にかけて人々の生存感覚の根が一層衰弱し、いよいよ追いつめられていった〈闇〉が迷走し、暴発する姿であったでしょう。
 世間にも社会にも国家にも生きるための究極の根拠をおかず、それらから派生するもろもろの観念に魂を回収させないことが、今も私たちの巨大な困難であり続けているのであり、机竜之助というキャラクターの象徴性は、いまだ死ぬことなくこの国の〈闇〉をさすらっているような気がいたします。



 

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