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KJ法の作業において、「迷う」ポイントがいろいろあります。
特に初心のうちは、全ての工程が迷いの連続かもしれません。
「答は一つ」という方法でもないので、自分の作業が適正なものなのかどうか、常に不安になるかと思います。
特に、ラベルを集める、表札をつける、島の配置を考える、といったポイントでは、さまざまな可能性があるように思われて、迷いに迷う人も多いようです。
ラベル群がグループ編成によって統合されてゆき、最終的に10束以内にまでまとまったら、模造紙に図解化してよい。そういうルールがあるのですが、この10束以内のラベルの束を、模造紙にどう配置してよいものか、という迷い、これが最後の迷いのヤマかもしれません。
最終的に7個から10個といったあたりにまでまとまった場合、最初の大量のラベル群の呈している混沌の様相からすれば、スッキリしているとはいえ、いざ配置しようと思うと、やはり迷いが生じます。さまざまな可能性があるように思われて、何を根拠に、何を決め手に、「これだ!」という配置にたどり着けばよいのか、迷うわけです。
この、10個以内という、一望できるけれども構造として把握するには迷う、という束の群れを配置する際には、やはり「近さ」の感覚を駆使するのがKJ法らしいと言えましょう。
ラベルを集める際にも、「他のどれとよりも近い」という感覚を使ってグループ編成を行ないます。「似ている」でもなく「関係や繋がりがある」でもなく、正しいのは「近さ」です。
ラベル群の全体を「土俵」として、その中での「相対的な近さ」をよく吟味します。個々のラベルの、全体感を背景とした訴えかけの近さを吟味する、というのが精度の高い表現になります。それが、KJ法における「志」の感受の仕方です。
この感受を、最後のヤマである図解化においても生かすべきです。
他のどれとよりも「近い」と感じるラベルの束を、近くに置いてみる。とりあえず、という気持ちでもいいから、近くに置いてみる。
そのことで、全ての束をどう構造として把握するのかについて、ヒントが浮かぶことが多いのです。そのヒントから、するするっと配置が決まってゆく。
相対的な「近さ」を根拠とすることによって、「全体」にとって各束が何を訴えかけようとしているのか、という、「志」のバラエティーと関係性が自然に浮上する。そのことで、「全体」の訴えかけもまた、自然に浮上する。この感覚をつかむことが大切です。
その結果得られた構造というものには、こちらが「我(が)」で解釈して「決めた」という浮わついたものがなく、ラベルたちの訴えかけに導かれて自然と「決まった」という絶対感が滲みます。「迷い」の無い「全体」との出会いに、非常に心安らかな思いがいたします。
ラベル集めや表札づくりを丁寧に積み上げても、最後のヤマである図解化において、「なんとなく」「漫然と」といった印象の配置や関係線の入れ方になってしまいますと、構造の説明も漫然としたものになり、本質も的確に表現することができず、説得力の無い結果に陥ってしまいやすいものです。
構造を明晰に説明できること。
全体の本質を的確に表現できること。
ここで「迷い」があるようでは、せっかくのそこまでの作業が無駄になってしまいます。
KJ法の本質にある、ラベルたちの「志の感受」というものが適切にできるためには、トレーニングが必要です。
そのトレーニングは、あまりにも「分類」や「解釈」という姿勢に慣れてしまっている私たちのモノの見方を、根底から揺さぶることになりますが、この世界のあり方への素直な姿勢を取り戻すための「揺さぶり」は、実はとても心地良いものでもあります。
まっさらなお気持ちで、KJ法にまっすぐ出逢っていただければ嬉しいです。
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朝晩、自分なりのヨガの時間を持つようになってずいぶん経ちます。
なくてはならない時間、ではありますが、いつの間にか、巷に溢れる「なんちゃってKJ法」のごとく、「なんちゃってヨガ」になっているようにもおもわれて、最近は、YouTubeで短時間の動画を捜し、ちょっぴりスタジオでレッスンを受けている気分に浸ってみるようにしています。
直接対面で指導してもらうわけでもなく、オンラインでの個別レッスンでもないので、実践する私自身の「気づく力」に頼るしかありませんが、自分の身体に何が足りないのか、日々痛切に気づき続ける毎日です。
今年は、そのような気づきを積み重ねて、なにごとによらずナチュラルに変わっていければ。少しだけ変わり始めた身体感覚の延長に、しなやかな心身をイメージしたいところです。
ヨガのインストラクターの方は、基本、あまり押しつけがましい言葉づかいをなさいません。美しく微笑みながらお手本を見せてくれますが、「ここでみなさんも笑って」とはおっしゃらない。「口角上げて」と言われます。この違いは、なにかしら大事なポイントなのかと思われます。
ポーズに合わせて、自分の中の負の感情も自然に解放していいんだよ、という「ヨガ」らしいメッセージを伝えてくださることが多いので、そこには心理的な無理というものがありません。
そして、なぜかレッスンの終わりの方では、よく「口角上げて」と言われます。
「口角を上げる」ことと、「笑顔になる」こと、「笑顔を作る」こと、少しずつ違うことがわかります。
「笑顔を作る」のは、これは明らかに無理がある営みです。とても笑顔になんかなれない気分の時には、それを強いられるのは苦痛以外のなにものでもありません。
「笑顔になる」、これは、自然とそのような気分であれば、可能な営みです。
「口角上げる」。これは、とても笑顔になんかなれそうにない気分であっても、可能なことです。自身のその時の感情とは切り離して、どれほど暗い気分であったとしても、「口角を上げる」ことは可能です。その結果、自分の「口角を上げた」顔のイメージが脳裡に浮かびます。そこには、無理な作り笑顔とは別の、ある、可能性を秘めた表情が浮かぶような気がします。その、脳裡に浮かんだ映像が、自分の心にフィードバックされて、「自分は笑うことができる存在だ」というメッセージのように沁み込んでゆきます。そのメッセージが、自分の深層にある、類的な幸福感のようなものとリンクしますと、次第に「口角を上げた」表情は、自然な「笑顔」に近づいてゆく。
そんなプロセスを秘めているような気がしています。
身体のほんのささやかな「部分」は、そこだけ切り離されて存在しているわけではありません。(KJ法の図解における、一つの単位としての「ラベル」が、それだけで存在するのではなく、図解全体との関わりの中で、常に全体を映し込みながら存在するのと、とてもよく似ています。)
「口角」という、ささやかな部位が「上がる」だけで、それは、観念的に押しつけられた「笑顔」のイメージとは別の、自分に固有の身体の変化として、自分の全体へと有機的に働きかけてくれます。そして、自分の「全体」とは、自分の心身のことであり、その外側にあって深いつながりを持つ世界全体のことでもあるでしょう。
2024年、きびしい始まり方をしましたけれども、どれほどつらくきびしい状況におかれていても、「口角上げて」みることは、不自然な笑顔よりもきっと、この世界全体へ深く静かに働きかけてくれる営みだとおもわれます。
令和6年能登半島地震において被害にあわれた方々には、ことのほか、「元旦に生じた」ということがシンボリックにつらく感じられていることと存じます。負の想念に引きずられることなく、ささやかな場所から着実に、あたたかな日常を取り戻されますようお祈りいたします。
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コロナ禍以前に毎年開催しておりました「霧芯館KJ法ワークショップ」が、オンライン篇として復活いたしました。
以前のワークショップでは、京都駅近くの会場などをお借りして、夏と冬に年二回、同一テーマで実施。霧芯館の研修を受講されたみなさまに、全国からお集まりいただき、いくつかのチームに分かれて、夏は「パルス討論」という技法による「探検ネット」の作成、冬は「多段ピックアップ」によるラベルの精選を経て、「狭義のKJ法」のグループ作業をお楽しみいただいておりました。
毎年異なるテーマにて、参加者のみなさまの提示された大量のラベルという「渾沌」がKJ法によって構造化され、その本質を浮上させるプロセスを、グループ作業で味わっていただくわけです。
一見ささやかな事例や想いが、〈現在〉という時代を生きる私たちにとって切実な訴えかけをもつ貌を獲得してゆくプロセスは、毎回とてもスリリングでした。
さて、今回は、miroというツールを使って、オンライン上でのグループ作業が楽しめるように企画いたしました。
少人数によるグループ作業を、川喜田晶子のリーダーシップで体験していただく、新たなスタイルです。
「オンライン篇〈その1〉」のテーマは、「情報化社会の?ここが変"」といたしました。
私たちは、今、非常に高度な、そして日々めまぐるしく変化・進展する情報化社会の中で生活しています。その利便性の多大な恩恵をこうむっていることは、今さら言うまでもないのですが、その恩恵の裏側で、ささやかな異和感、不安、焦燥、怒りなどもまた、日常のさまざまなシーンにおいて湧き上がっていることも確かです。膨大な情報量に振り回され、インターネットやAIへの依存度を強めた、病んだ社会の様相にも直面させられています。
ワークショップご参加のみなさまの、ささやかな異和感をデータとして、KJ法によってそれらを構造化するならば、否応なくどこかへ向かって突き進んでいる、この高度情報化社会における、私たちの在り方を問い直すことができるでしょう。
すでに何回か実施しましたが、想定以上に、?ここが変”というデータ群の本質は、社会の、そして私たちの身体の深い病理につながっていると感じられています。
毎回少人数で、複数回の開催ゆえ、受講者のみなさまには、少しずつご案内を差し上げております。追加日程も検討中ですので、ご参加ご希望の方は、お問い合わせいただければさいわいです。
オンライン上のホワイトボードツールmiroは、直感的な操作が可能で、すぐに慣れますので、今後のKJ法の使いこなしにも活躍してくれると思います。この機会にご活用いただければとおもいます。
このようなツールでKJ法が使えるのも、情報化社会の恩恵そのものではありますが、その高度な発展の中で、私たちの存在がうつろな病理のループに陥らないように、AIには代替されることのないKJ法の生命に、ぜひ深く触れていただきたいと願っています。
2023年も、このブログをご愛読いただきましてありがとうございました。
穏やかな良き年の瀬をお迎えください。
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先日、ご近所のスーパーが閉店しました。
わが家から自転車で5分ちょっと。修学院の駅前にある、何十年もの間、地域に愛されてきたスーパーです。
古びたシャッターには、A4一枚くらいの「閉店のお知らせ」が貼られています。
閉店後数日して、その貼り紙に、二人ほどの感謝の言葉が書き込まれました。しばらくはそのままでしたが、つい先日見ますと、貼り紙いっぱいに、ぎっしりと書き込みがなされています。もはや余白がないほどに。
「京都産のお野菜美味しかった」
「長い間ありがとう!お疲れ様!」
「いつもうちの息子たちに声かけてくれてありがとう」
「初めてのおつかいに来たのがここでした。そんな私も25歳です」
「いか天、美味しかったよ〜」
「さみしいです」
「ショックです。でも感謝!」
などなど、どなたも名前など記すことなく、ただただ、お店の方々に伝えたい感謝と思い出を、切々と書き込んでおられます。
ああ、私もペンを持っていればよかった、という思いが湧いてきたのと同時に、日本人はこういう「寄せ書き」的な作業が大好きなんだな、とも思われて、しみじみとしばらくその貼り紙を眺めていました。
実は、KJ法の「探検ネット」を作る作業も、これに似ています。
一つのテーマをめぐって、あらゆる視角からデータの質のバラエティーを出し尽くすために、この「探検ネット」を作成し、そこで提示されたラベルから、バランス良く精選したラベル群を使っていわゆる「狭義のKJ法」へと進む。「狭義のKJ法」においては、グループ編成によってラベル群が構造化され、その本質が浮上する。これが、KJ法における問題解決のスタンダードな型です。
この「探検ネット」作成を数人でのブレーンストーミングとして行なうなら、「パルス討論」というディスカッションの技法で実施すると、たいへん楽しく盛り上がりつつ、効率とバランスのよい取材ができるのですが、このスーパーの貼り紙への「寄せ書き」も、本質的には同じ作業をしているな、と思いました。
寄せ書き的なシーンでは、自分も書き込みたい、と思ったとき、「他の人はどんなことを既に書いているだろう」と、見渡す作業をまずします。そして、「では、私だけの思いを新たに書き込もう」となり、「カレーコロッケ、絶品でした」と書いておこう、といった手続きになるでしょう。
「探検ネット」も同様に、各自、そのような意識で新たなラベルを模造紙に貼ってゆくことで、テーマをめぐってデータの質のバラエティーがみるみる確保されてゆくわけです。
さらに、「パルス討論」で「探検ネット」を作成する場合、他の人の意見を批判してはならない、というルールがあります。これも、「寄せ書き」のあたたかみに通じるものがあります。
欧米的なディスカッションの技法だのディベートだのにおいては、ついつい、何が正しいのか、とか、自分の意見のどこが相手と違うのか、等々、意見の対立や葛藤が生じやすい、むしろ、あえて生じさせるものですが、KJ法における取材やデータの統合においては、そのような個々人のダイレクトな対立・葛藤を基盤には据えません。
複数名で行なうならば、あくまでも、テーマにとって大事な訴えかけを持っていると思われるデータ群の「全体」というものが何を言わんとしているのかを、グループ全員で追求していくのがKJ法です。
個人と個人が、意見と意見が対決することによって、分析的な精度を高めたり、原因を特定したり、たった一つの正解を見出したりするのではない。
これは、東洋的な思想をバックボーンとするKJ法ならではの、非常にやわらかで強靱な「ゴールへの道のり」だとおもわれます。
個々人は、データ「全体」の訴えかけを知りたいという「欲」さえ共有していれば、対立することなく、合意形成へと進んでゆくことができるのです。
かといって、そこで個々人の固有性がないがしろにされるのではなく、データの差異もまた、恣意的にスルーされるのでもなく、異質さは止揚されて抽象度の高い本質へと導かれることになります。
川喜田二郎の創案したKJ法の根底に、個と全体との美しい融和の思想が込められていることを、長年お世話になったスーパーの「ロス症候群」に耐えながら、あらためて噛みしめてみたひとときでした。
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先日、片付けものをしていたら、古い楽譜がぞろぞろと出てきました。
三歳から小学校三年までピアノを習っていたので、その頃の練習曲や発表会用の楽曲や、ピアノをやめてから楽しみのためだけに弾きたくて入手した名曲シリーズ、ジブリシリーズといったラインナップです。
楽譜を見れば頭の中でスラスラと曲が流れていた頃もあったのですが、久しぶりのオタマジャクシは、もはやかなり異国語のようで、脳内の変換機能はずいぶんと錆び付いていることに気づいて、ひとり苦笑いいたしました。
それよりもびっくりしたのは、小学校二年のピアノの発表会でとてつもなく派手に大失敗してしまった時の記憶が、実に鮮やかに蘇ってきたことです。こちらの記憶は、脳内のハードディスクにしっかりと保存されていたようで、クリックするやいなや、鮮明な画像と音声で再生され出すではありませんか。
あの、「ステージ」という場所の非日常性が、幼い心身に与えた印象そのままに蘇るのは不思議なものです。
ピアノに向かって歩いてゆくときの、コツコツという床の反響具合。
客席に居る人々の顔のほの暗い輪郭。
熱を帯びた照明の眩しさ。
弾き慣れない演奏会用のグランドピアノの鍵盤の重さ。音の拡がりの果てしなさ。
日々、練習してきた曲とは思えない音色に戸惑い、頭の中が真っ白になってしまい、鍵盤の上を右往左往する両手が他人のもののようであったこと。
客席からさわさわと聞こえてくる同情・憐憫のささやき。
どうやって曲を終わらせたのか、わけのわからない時間を経て、家に帰り着いた時のご飯が「チキンライス」だったこと。日常の香りを鼻腔いっぱいに吸い込みながら泣きじゃくっていたこと。
その日の私にとっては、世界がぶっ壊れたような大事件だったわけですが、さいわい、たいしたトラウマにもならず、あと一年ほどはピアノを続け、次の年の発表会は無難に弾きこなして、その後、ピアノをやめたという経緯であったようです。
当時は悲痛な大事件であったにもかかわらず、時を経て思い返してみると、この「大事件」という一つの輪のおかげで、今の私の場所も定まっているところがあるようにも思われます。
一つの事件を、KJ法的に、一枚の「ラベル」、と言い換えるなら、それは、同じラベルであっても、その背景となるラベル群の「全体」というものが異なれば、ラベルの訴えかけも変わる、ということのようです。
幼い私にとって、発表会の大失敗は、「世界の壊れ」を象徴していたかもしれませんが、今の私の目からすれば、ここまで生き延びてきた人生における大小さまざまな事件たち、という「ラベル群」の「全体」を背景として、過去の悲痛事を感受するわけですから、その訴えかけは「世界の壊れ」ではなく、今の私を形づくる一つのいつくしむべき大切な「輪」ともなるのです。
KJ法は、同じデータでも、扱う人によって違う構造化の結果が出ます。
また、同じデータであっても、別のテーマと全体を背景とするなら、別の訴えかけを持ち得るのです。
つまり、訴えかけというものの真実は、客観的に固定されたものではない、ということです。
人生のほんの一コマについて想いを巡らすだけでも、このことは、素直に身に沁む真実であると気づいていただけるかとおもいます。
さておき、折しも芸術の秋。
最近はピアノを触っていなかったので、押し入れから古いデジタルピアノを出してきて、ちょっと触ってみようかと思います。脳内の錆びを落としてみたら、思わぬフォルダが次々と開くかもしれません。
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阪神タイガース、18年ぶりのリーグ優勝。
ファンの喜びはいかばかりでしょうか。
ここに至るまで、岡田監督が「優勝」を婉曲に表現してきた「アレ」という指示代名詞は、今年の流行語大賞になりそうな勢いです。
では、ちょっとブームに便乗しまして、ここでもKJ法の「アレ」について再確認しておきたいと思います。
このブログをいつもお読みいただいている方ならば、「アレ」が何を指しているのか、ピンときて下さるかと思うのですが、やはり、「アレ」=「志」ということになります。
KJ法の本質にまつわる最も重要な概念でありながら、残念なことに、この「志」をまっとうに意識しながらこの方法を使えている人は稀であると言わざるを得ません。この概念について正しく理解しないままKJ法を実践しても、それはただの「分類」になるしかないのです。ただの「分類」でよいのなら、KJ法を使う意味はありません。
現場に取材されたデータは、適切に単位化・圧縮化されてラベルに記されることで、一つの「個」としての輪郭を持ちます。輪郭を持つとはどういうことかと言うと、個々のラベルにそれぞれ訴えかけがあるということです。この訴えかけのことを「志」と呼ぶのですが、この「志」は、ラベル群の全体感を背景として定まるものであり、KJ法を使う側が好き勝手に解釈して決めつけるべきものではありません。
ラベル群の全体感を背景として個々のラベルを感受するからこそ、それらの「志」はシンボリックなものとして機能します。ラベルの表層的な意味内容として何に関係があるかとか、どのようなカテゴリーに属するか、ではなく、その場の「全体」を映し込んだ「個」として、ラベルたちはそれぞれの「志」の近さによって、グループを作り始めます。作られたグループの複数枚のラベルを統合する「表札」と呼ばれる概念もまた、新たな「志」を持つわけです。このような統合を重ねて、ラベル群は構造化されてゆきます。構造化された暁には、ラベル群全体の「本質」もまた、シンプルに把握できることとなります。
カテゴリーによって切り分けられるために「全体」があるのではなく、カテゴリーに収納されるべく都合よく切り分けられた「個」があるのでもなく、あくまでラベル群はボトムアップで「全体」の「志」へと発想の階段を上っていくわけです。
つまり、ラベルたちは、ラベル群の外部に存在するカテゴリーに分類してはめ込まれるために存在するのではなく、ラベル群の「全体」が何を訴えかけているのかを明らかにするためにそれぞれ「志」を持って存在している、ということです。
この「志」を適切に感受することこそが、この方法を生かすために最も大切な姿勢なのであり、また、AI任せにしたのではもったいない、人が味わうべき、人だからこそ味わい得る、至福の創造体験の要とも言える行為です。
KJ法が適切に使えているかどうか、セルフチェックするのはなかなかに難しいことですが、まずは、出来上がった図解を眺めてみて、ラベルたちがその「全体」の外部の「ありがち」なカテゴリーの箱に、単純に仕分けされているだけなのではないか、と疑ってみてください。
せめてこのチェックだけはしてみましょう。
まずは自身のKJ法の不全に気づくこと。
そこから「アレ」までの道のりのはじめの一歩となるはずです。
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「狭義のKJ法」におけるラベル群のグループ編成では、「表札づくり」の精度が、「ラベル集め」の適切さとともに、重要になります。
セットになったラベル複数枚に、それらを統合する表現としての「表札」を与えるのですが、この表札が不適切であることによって、ラベル群の構造化は、実にみすぼらしい「ただの分類」に陥ってしまいます。
最も大切なポイントは、それぞれのラベルの「訴えかけ」を感受することによって複数枚を統合すべきだ、ということであり、この「訴えかけ」のことを、〈志〉と呼びます。
この〈志〉は、ラベル群の全体感をバックにして定まるものであり、使い手が好き勝手にラベルの原因や背景を解釈してはなりません。
ラベルをセットにするのも、恣意的なストーリー作りや安直な分類に陥ることなく、ラベル群の全体感をバックにした、相対的な「近さ」の感覚を吟味して行うべきものです。
以前、霧芯館の研修を受講された方から、質問されたことがあります。
「この2枚のラベルに表札をつけるというのは、2枚の共通項を拾い上げればよいということですか?」と。
つまり、Aというラベルと、Bというラベルがあったとして、それぞれ、同じくらいの長さのリボンで表したとします。2枚のリボンの重なった部分を表札として採用すればいいのか、というイメージです。
これは、間違っています。
共通項を見つけよう、という意識で表札をつけますと、「共通項」に関係のあるものとしてAとBのラベルを眺めてしまうことになり、AとBの異質さの部分は無視されがちになるわけです。そのことで、分類目線のグループ編成に陥りやすくなります。発想も、らべるたちの本質に手の届かぬ、平板なものとなりやすいです。
表札をつける、という行為は、近いからセットになったラベルたちではありますが、それらの異質さを統合する、という仕事もしなくてはならないのです。
ですから、異質さをはらんだAとBの、「共通項だけを抜き出そう」、ではなく、異質さをはらんだAとBによって形成される「全体」の、その核心とは何だろう、という意識で表札をつけるべきなのです。
例を挙げてみましょう。
以前、「〈初対面〉のラビリンス」というテーマで、霧芯館のワークショップを行ったことがありましたが、そこで提示されたラベルに、
「大人になるうちにいいひとを演ずるのがうまくなるので、だまされることがある」
「本当の自分と作りすぎたキャラとのギャップに苦しくなる」
というものがありました。
この2枚に表札をつける際に、「共通項」という意識で見てしまいますと、たとえば、
「本当の自分を隠している場合がある」
「分厚い仮面をつけている場合がある」
「本当の自分ではなく、演じている自分で対面している」
「素顔と、初対面の時の演技との間には、ギャップがある」
といった表札になるでしょう。
これらの表札では、演じている、あるいは、仮面をつけている、あるいは、本当の自分と演じている自分にはギャップがある、という共通項に意識が向いており、2枚のラベルに含まれていた、異質さが無視されています。
演技としての「いい人」にだまされること、そして、本当の自分と仮面の自分との「ギャップ」に苦しむということ。
この異質さをも含めて発想し、統合するなら、たとえば、
「厚くなった仮面のキャラが自他を振り回す」といった表札なら合格、ということになります。単に、仮面や演技の存在を指摘するだけではなく、その不毛さや弊害についての訴えかけを端的に表現しておきたいところです。
異質さを統合するために、2枚なら2枚のラベルを、いつまでも「2枚ある」と認識していると、なかなか「一つの表札」にたどり着けないので、ついつい、言葉の上だけで小細工をしたくなり、強引なストーリー作りをしてしまったり、安直に共通項を抜き出して分類に流れたりしてしまうものです。
まずは、イメージとして一つになること。複数枚のセットが、一つの「全体」として見えるようになること。これが何より大切になります。
一つの「全体」として見えさえすれば、それをギュッと圧縮する発想と表現があればよいのです。
この「統合」の本質が腑に落ちるなら、水泳でいえば、まずは水に身体を委ねて浮けるようになったようなものかと思われます。
水に仰向けに浮かんで高い空を見上げるような心地で、KJ法の「全体」や「統合」や「志」という概念の本質に触れていただければ嬉しいです。
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「余白のある暮らしを」。
ご近所で新築中の家の外壁に、こんなコピーの記された垂れ幕がかかっていました。
デザインを担当した建築事務所のもののようですが、よいコピーだなと思いました。
自身の暮らしの「余白」の乏しさについて気づきを与えるような、また、空間だけではなく、時間や心や世界観の「余白」について、内省をうながすような。
思えば、空間に溢れる「物」の多さだけではなく、私たちの暮らしには、知識・情報がひっきりなしに流れ込んできており、時間や、世界の成り立ちそのものにおける「余白」もまた、圧殺されていることに愕然といたします。
空間にもゆとりがほしい、時間的にも余裕がほしい、いつもそう思いますけれども、それを、「ゆとり」「余裕」ではなく、「余白」と捉えることで、何かが変わる気がいたします。
「ゆとり」「余裕」という言葉には、現状を変えるのではなく、プラスアルファとしての時間や空間があればよいのにな、というぜいたくな欲望の匂いがいたします。
ところが、「余白」という言葉を提示されたとたん、ある限られたスペースや時間の枠の中に、いかにして「余白」を生み出すのかという、世界観の問題として、その制約に向き合うことになる。デザインとしての世界観の変革の問題になる。そこがとても興味深く思われます。
KJ法も、そういう意味で、作業過程内でその都度設定される枠組みの中の「余白」を味わう方法です。
限られたスペースである、小さな「ラベル」という宇宙の中に、データを書き込むという行為。無駄な言葉は使えません。データの訴えかけ(志)を感じさせるように、簡潔な表現をする必要があります。
ラベル群の「全体」が設定されたら、その「全体」の中でのラベルたちの「志」の相対的な「近さ」によってグループ編成を行います。
ラベルとラベルがセットになって、統合された表現へと転換される際にも(「表札をつける」と言いますが)、この小さな「ラベル」というスペースを大きくすることは許されません。あくまで同じ大きさのラベルの中に、複数枚のデータの訴えかけを圧縮して織り込めねばなりません。
このように、「枠組み」が設定される方法だと申しますと、なにやら息苦しく感じるかもしれませんが、この「枠組み」があればこそ、その内部に発生する「余白」によって、「全体」というものが活性化し、内部のデータも活性化し、無尽蔵の発想力・創造力というものを刺激する方法だと言うことができるでしょう。
完成した図解には、ラベル群が「島」として表現され、島と島の間には「余白」があります。この「余白」には、いくら汲んでも汲み上げきれないほどの、発想の海がひろがっているのを、出来映えのよいKJ法図解を見るたびに、深い感動をもって味わうことができます。
そこでは、どれか一つの島だけが主人公なのではなく、図解全体という世界の中で、互いに異質な島の全てが、謙虚にかつアクティヴに、全体を映し込みながら個としての輪郭を主張しているのです。
人間は、ともすれば自分だけがこの世界の主人公のような錯覚を持ってしまうのですが、「余白」に気づくとき、人間以外の真の主人公というものが存在するのではないか、そういう「不安」「畏れ」にも似た、謙虚なまなざしによって、この世界全体というものの輪郭を問い直すことになるのかもしれません。
みなさまの世界観の中に、一服の清涼剤のような「余白」への気づきが生まれますように、猛暑の京都より、お祈りしております。
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創造的な問題解決の営みにおいては、「判断→決断→執行」を「ひと仕事」と考えるべきだ、と、川喜田二郎は主張しています。
KJ法を問題解決のために活用する場合、6ラウンド累積KJ法という手続きがあり、その場合の6つのラウンドとは、「問題提起・状況把握・本質追求・構想計画・具体策・手順化」となります。いわゆる「狭義のKJ法」を、これら6つラウンドの姿勢転換のメリハリをつけて、累積させるという技であり、前半3つのラウンド、後半3つのラウンドをそれぞれまとめて、2ラウンドの累積で済ませる場合は、「判断ラウンド」と「解決策ラウンド」と呼びます。
そもそも何が問題であり、状況がどうなっていて、その本質は何なのか、「判断」できるということ。「判断」ができたなら、ベクトルを外向きに転じて「解決策」を打ち出し、手を下すこととなります。
創造的な「ひと仕事」のためには、実は、この「判断ラウンド」と「解決策ラウンド」の間に「決断」を挟む必要がある、というのです。すなわち、状況の本質がわかるだけではダメで、解決策に乗り出す前に、「ハラをくくる」という局面が必要だ、ということです。
なにかしらの問題解決を望むということは、そもそも、その現場になんらかの不全があるからです。ですので、KJ法で「判断ラウンド」を実践しますと、その不全の本質が浮上してくることになります。そのプロセスをきちんと踏みしめることが大切であり、この段階で、いたずらに事態を楽観視したり、不全を無理矢理ポジティヴに解釈したりするのはよくありません。テーマに沿って、あらゆる視角から不全の質のバラエティーを出し尽くし、それらの訴えかけを聴き届けるべきです。
そのことによって、「判断」が出来たなら、すぐに「解決策ラウンド」へ向かうべきかというと、そうではなく、川喜田二郎は、そこに「決断」というプロセスを挟むことで、ポジティヴにハラをくくれ、と言っているわけです。
現場の深刻な不全の本質が理解できた時というのは、とことん悲観的な状況に直面している、という場合が多いものです。状況の徹底的な洗い出しをすれば、「△△が出来ていない」「□□が十分でない」など、ありとあらゆる不全が、これでもかとばかり、私たちのモチベーションを下げようとしてきます。そこで、そのまま「解決策」を打ち出してゆこうとするのではなく、一度、「不全」の本質を反転させ、「○○すべきである」というポジティヴな言葉へと生まれ変わらせるためのプロセスが必要である、というのです。
不全を反転させれば、「われわれは、○○すべきである」という、力強い「決断」の位相が出現します。
この「決断」があればこそ、生き生きとした「解決策」のビジョンを提示し、具体化し、手を下してゆく意欲が生まれる、というわけです。
これは、単に、悲観的であるべきではない、楽観的な位相への転換が必要だ、というだけではなく、「後戻りしない」という重要な示唆をも含んでいます。
一度、「決断」したなら、そして、その「決断」に基づいて「解決策」へとベクトルを外向きに転換させたなら、決して後戻りするな、というわけです。手を下し始めてから「ああすればよかった」「こういうことも気になっていたのに」などと、後戻りするべきではなく、それぞれのラウンドというものを、徹底して踏みしめて前進すべきだ、ということです。
また、さらにもうひとつの示唆は、姿勢転換の重要性です。単に、悲観から楽観へ、という転換のみならず、「決断」も一つの重要な姿勢なのであり、このプロセスも含めて、「判断→決断→執行」で「一仕事」なのです。
KJ法においては、随所にこの「決断」とよく似たプロセスを見出すことができます。
ラベル一枚という小さな枠組みの中に、取材した内容を書き込むことによって、データを適切に「単位化・圧縮化」するという作業。
今、取り組むべきデータの「全体」とはどの範囲なのか、を明晰にする「土俵をはっきりさせる」という行為。
「多段ピックアップ」における「最後のピックアップ」での、「決断」による一枚一枚の選択、等々。
ゆるやかで、曖昧で、発散的な場面と、輪郭がクリアで、明晰で、集約的な場面とを、メリハリよく生き生きと往還することで、この方法は実のある成果を生み出すことが可能となります。
「楽天家の勝利だ」というのが、川喜田二郎の口癖でしたけれども、その「楽天性」の背景には、徹底した上質の「判断」と「決断」という裏付けがあったことに、想いを馳せていただければ嬉しいです。
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近年のサウナブームが火付け役だったようですが、「ととのう」という言葉をよく見かけるようになりました。
2021年の「新語・流行語大賞」にもノミネートされていたらしく、サウナのみならず、今では、禅やヨガ、心身へのなにかしらのアプローチによって日常を離脱するような体験や場所に、この言葉をあてがうことが多くなっているように感じます。
サウナで「ととのう」というのは、「サウナ」→「水風呂」→「室外での休憩」という体験が引き起こす、ある種のトランス状態をさすのだそうです。
つまり、急激な温冷刺激という非日常的な環境にさらされて、身体のテンションが上がった後、「休憩」によって副交感神経優位の状態を作り出すことで、くつろぎながらもアドレナリンは出ている、といった、不思議な感覚になるのだとか。
これはちょっと、KJ法の体験にも似ているな、と思いました。
KJ法において、一番「アドレナリン」が放出されるであろう作業は、「表札づくり」です。
一つのテーマについて収集されたデータ群の、全体が何を訴えかけているのかを知りたい、という時、KJ法では、個々のデータのグループ編成を重ねてデータを構造化するわけですが、そのグループ編成の要に「表札づくり」という作業があります。
セットになった複数枚のラベルに、「表札」と呼ばれる統合概念を文章として定着させる作業です。
この作業は、「近いのだけれども異質だ」という複数のものを一つにする作業です。その異質さに橋を架けるには、個々のデータを事実レベルとしてベタに感受していたのではダメで、一種、非日常的な「発想」というジャンプが必要になります。
日常的なレベルで整理するなら簡単なことで、既成のカテゴリーの箱に分類するか、ラベルとラベルをストーリーとして繋げて解釈すれば、ジャンプすることなく話は済むのです。そのようなベタな水平思考で話を済ませていたのでは、創造的な結果は生み出せません。
KJ法では、創造的なジャンプのために、ラベル群の全体感を感受しながら、個々人のそれまでの経験や記憶も総動員しながら、適切なイメージを生み出すのですが、初めて体験した人は、まさにびっしょり汗をかくような心的なエネルギーを使うこととなります。
マッチョなアスリートであっても、初めてヨガのレッスンを受けたら、たいして激しい動きをしていないのに内側から体が変わった、と感じるような、そんな非日常性だとも言えましょう。
「たいして激しい動きをしていない」というのは、KJ法ではどういうことかといいますと、個々人の「我」によって理知的に「頭」を使うという、いわゆる知育偏重教育でさんざん推奨されてきたであろう、筋トレ的・表層的な頭脳の使い方をしない、ということです。
KJ法では、あくまでも、データの全体が何を訴えかけようとしているのか、というところを、そのデータ群そのものに語らせるという姿勢をとりますから、個々人の理知的で上から目線の分析力は、時に邪魔者ですらあります。かといって、何も考えないわけではなく、データと個々人とのやりとりにおいて、素直な感受という受動性の中で、非日常的とも言える発想のジャンプが可能になるよう、心身を総動員してもいるわけです。
その結果、「表札づくり」を要とする「グループ編成」を重ね、KJ法の図解が完成いたしますと、不思議な「達成感」「昂揚感」に包まれます。まさにサウナ後のトランス状態、かもしれません。そして、そこには、編成を重ねていた際のアドレナリンのなごりもあって、格別の多幸感が形成されている、とも言えるでしょう。
KJ法によって「ととのう」のは、混沌とした状況のみならず、使い手であるわれわれ自身でもあるところに、この方法の優しさと厳しさが潜んでいます。
さまざまなITツールの発達によって、人でなければできないこととは何か、あらためて問われる時代となりました。
まるで、そのような時代の到来を見越していたかのように、川喜田二郎は、このKJ法という方法を、人ならではの自然な本性に即して創案いたしました。
人にとって、日常的でもあり、非日常的でもあるように、また、意識的でもあり、無意識的でもあるように、論理的でもあり、非論理的でもあるように、「発想」というものの総体をとらえ、人を幸福にする方法として生み出しました。人をなにかしらの既成概念やツールの奴隷にするような、わびしい世界観を忌み嫌っていた人でした。
紙きれとペンがあれば(あるいは、パソコン上の作図でもOK)可能となる、KJ法の「ととのう」体験。サウナ同様、きちんと「ととのう」には、勝手なやり方をしない方がよろしいです。霧芯館のオンライン研修にてお待ちしております。
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いわゆる「質的研究」でKJ法をご活用なさるという場合、論文発表の場においては、「なぜKJ法を使うのか」というその理由は、明晰に述べられるべきでしょう。
他にも分析方法はあるけれども、これこれこういう理由でKJ法を使うのだ、という理由が必要である、ということです。
KJ法でなければできないことは何か、ということを、よくわきまえてご活用いただくことが、質的研究に限らず、本来、問題解決の現場などでも、必要なことでありましょう。
単純に、量的に処理できないデータであるから、KJ法を使うのだ、というだけでは、理由として不十分であり、質的にデータを扱うということを、なぜKJ法によって為そうとするのか、という理由が欲しいところです。
つきつめれば、KJ法が、質的なデータというものに対して、どのような世界観で臨む方法であるのか、その本質について、使い手が自覚的であるべきだ、ということになります。
そこで、ある種、お約束のように記される、「客観的に分析できるから」「データを帰納的に扱えるから」「研究者の直感を大切にしてデータを扱えるから」「語り手の思いをあるがままに構造化できるから」といった理由を見かけることになりますが、実はいずれもKJ法の活用理由としてはふさわしくないものです。
「客観的に分析できる」とか「帰納的に扱える」と記しますと、いかにも、研究者の恣意性を排除して、データに即して分析したかのような印象を与えますけれども、KJ法は、「客観的」な方法でも「帰納的」な方法でもありません。もちろん、その逆の「主観的」な方法でも「演繹的」な方法でもないのです。
また、科学的であらんとし過ぎる悪弊を逃れ、研究者の直感を生かし、インタビューで語ってくれた人々の思いを大切にしたいというお気持ちはよくわかりますが、KJ法が「直感」に頼った方法であるとか「語り手の思いをあるがままに」生かした方法である、という理解も、正確なものではありません。
まず、「主観的」「客観的」のいずれでもない形で、KJ法はデータと向き合います。「己れを空しくして渾沌をして語らしめる」のがKJ法ですので、主観的であることはもちろん排除されますが、だからといって客観的であるわけではなく、KJ法によってデータが構造化された「図解」というものの中には、渾沌と使い手との相互作用によってしか産み出され得ない、個性豊かな、そして渾沌そのものの訴えかけというものが浮上しております。渾沌としたデータ群の素直な訴えかけというものの明示と、使い手の個性・オリジナリティーが豊かに表現されることとが、決して矛盾しないことこそがKJ法の醍醐味であるわけです。
次いで、「帰納的か演繹的か」といいますと、これもまた、いずれでもなく、「発想法である」との想いで、川喜田二郎が編み出した方法です。データの数の多さによって結果の確からしさを示すのでもなく、理念的な型によってデータを解釈するのでもなく、相互に異質なデータを「止揚」する「発想」があればこそ、データ群の真の訴えかけが浮上してくる方法です。その結果は、時に、データの語り手の自覚的な意図を超えたものでもあり得るのです。
その「発想」は、使い手の「直感」で恣意的になされるべきものではなく、あくまでも、データ群の訴えかけに素直なものであらねばなりません。
KJ法における「探検の五原則」の一つには、「なんだか気にかかる」データを拾え、というのがありますが、この「なんだか気にかかる」は、直感を駆使してよいとはいえ、野放図な直感信仰を奨励しているのではなく、あくまでも、取材するフィールドやデータ群の全体というものが何を訴えかけようとしているのか、という問いに対して、「なんだか気にかかる」という、使い手の無意識領域を駆使せよ、ということなのです。その訴えかけを無視して、自分勝手な価値観や既成のカテゴリーへのアテハメによってデータを拾ったり解釈したりしてはならないわけです。
もちろん、取材のみならず、データを統合してゆく際も同様です。
「客観」信仰によって、データを量的・分類的にのみ整理することからは、質的に有意義な結果は産み出されませんが、「主観」信仰「直感」信仰もまた、戒められるべきであり、私たちの、データ・フィールド・この世界というものとの向き合い方の質を、まずは整える必要があるのです。
素直にデータをして語らしめた図解というものは、「東洋美」を呈する、と、川喜田二郎が語っています。使い手の謙虚なまなざしが滲んだ、美しいものとなるのです。それは、図解をさっと眺めれば、すぐに伝わってくるものです。
己れの矮小な「我」というものを捨て、データの語りかけに対して身体を開いた、素直な世界観を。
その一点にこそ、創造性・オリジナリティーというものの逆説的な過激さが潜んでいるのです。
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「パレートの法則」、という法則があるそうです。
パレートという経済学者が提唱したもので、「20=80の法則」とも呼ばれています。
この法則を使えば、最小のエネルギーで最大の効果を上げることが可能になる、というわけで、マーケティングなどに応用されているとのこと。
たとえば、「ある店の利益の80パーセントは、全顧客の上位20パーセントの顧客がもたらしている」とか、「全商品の売り上げの80パーセントは、上位20パーセントの商品がもたらしている」ということに着眼して、効率よく利益を産み出そうというわけです。
KJ法の技法の一つに、「多段ピックアップ」という技法があり、これは一見、この「20=80の法則」に似ています。
取材で得たデータが100あったとして、それら全てを用いて「狭義のKJ法」を実践し、データの統合による構造化を実践するのではなく、たとえばそこから20のデータだけを精選して「狭義のKJ法」にもちこみ、構造化する、といった使い方をする技法です。このように、主として、取材されたデータを精選するときに威力を発揮する、魅力的な技法です。
この技法を説明するとき、私はよく、「ここで精選された20枚のラベルは、100枚から80枚を捨てた残り20枚ではなく、つまり、100−80=20、という20枚ではなく、実は、20=100、という20枚なのだ」、と申しております。
どういうことかと申しますと、100枚というラベル群から、そのラベル群全体の訴えかけを知る上で「なんだか気にかかる」という基準で段階的にピックアップされた結果の20枚は、その20枚をきちんと「狭義のKJ法」にっよってグループ編成して構造化すれば、100枚全てを使って構造化するのと同等の精度で構造化できて、本質も把握できる、ということなのです。80枚を切り捨てたわけではなく、100枚全てをこの20枚でシンボリックに代表させている、ということになります。
この技法には、「優先順位の低いもの、ダメなものを切り捨てる」という発想がありません。そのような「評価」を加えることなく、あくまでも「全体」の訴えかけを聴き取ろうという姿勢を貫く技法なのです。
ここでピックアップするデータは、量としての「上位」であろうが「下位」であろうが、なんらかのパフォーマンス上優秀であろうがなかろうが、かまわないのです。「全体」というものの訴えかけを知り、その本質を把握した上で問題を解決したい、という姿勢において「なんだか気にかかる」ならば、ピックアップしてよいのです。
大事なことは、ピックアップされた20枚なら20枚を、「残り80枚を切り捨てた、上位20枚」という目線で見ない、ということです。あくまでも、「100枚全てをこの20枚が、シンボリックに代表している」という目線で感受することで、これら20枚は、100枚の訴えかけをカバーすることができるのです。
つまり、これは人間にしかできない作業なのであり、使い手のまなざしがあればこそ、機能する技法なのだということです。
量的に評価を下し、ピックアップするだけなら、コンピューターがやってくれます。コンピューターの導き出した結果に従って20パーセントに集中すれば、手っ取り早いことでしょう。しかし、切り捨てた何割かの中に、思いがけない「宝」が眠っていないと、誰が保証できるでしょうか。そこには、「全体」の訴えかけを聴き取る姿勢というものはありません。冷徹な効率優先のまなざしがあるだけです。
では、KJ法は非効率的なしろものなのでしょうか?
否、むしろ、KJ法こそが最も効率的に「全体」というものの訴えかけを「構造」として把握し、「原因」ではなく、その「本質」を導き出す方法なのだと思います。
「原因」というポイントを特定する、という目線には、「全体」を殺す世界観が潜んでいます。「原因」の誤った解釈は、いびつな解決策をもたらしてしまいます。切り捨てられた「部分」もまた、どこかで悲鳴を上げています。
「部分」と「全体」とが有機的に互いを支えあい、意味を持つように、この世界は感受されるべきであり、KJ法は、そのための最もまっすぐな武器なのです。
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写真とは、突き詰めれば、光と影の芸術である、と言われます。
私自身、写真を撮るのが大好きであっても、なかなかこの本質を体得し切れたとは言えないまま、やみくもに撮り続ける日々。それでも、この「光と影」のドラマに心ひかれている自分がいるのを、うっすらと感じるようになってまいりました。
カラー写真の優れたものは、色彩のあでやかさ、繊細さに目を奪われますが、それがモノクロに変換されてなお、むしろ変換されることで一層、心をうつものがあるかどうかというのは、その作品の本質的な出来ばえの、ひとつの試金石になるように思われます。
そこには、色という情報が断捨離された、純粋な「光と影」のドラマが浮上してまいります。そのことで、カラーの時には見えなかった、あるいは後景に退いていた、情景の本質に深々と出会うことがあります。
時折、1950年代頃の映像作品を観て、モノクロならではのドラマ性の豊かな表現に、どきりとすることもあります。比較して、今時のカラー映像の、なんと情報過多で苛立たしい刺激に溢れて底の浅いことか、と。
そもそも、写真芸術はモノクロでスタートしているわけで、その核心には、世界を「光と影」のドラマとしてとらえる、というまなざしが在ってあたりまえなのですが、そのまなざしの〈抽象度〉の高さ・豊かさというものを、素人の私は今さらのように追いかけている次第です。
この〈抽象度〉の上げ方は、どことなくKJ法におけるデータの統合にも通じるものがあります。
KJ法は、渾沌とした多様なデータを統合し、それらの訴えかけを構造化し、本質を浮上させることのできる方法です。
その過程において、非常に具象性の強い複数のデータから発想し、抽象度の高い概念へと転換するという作業が必要になります。
ラベルという形に落とし込まれたデータは、最初は具体的な表情をしていることが多いのですが、KJ法でラベルたちのグループ編成をする際には、それらの具体性を、発想をはらんだ抽象度の高い表現に落とし込むことで(ラベルを集めてグループを作り、それらに「表札をつける」と言います)、統合してゆくわけです。
その時、創案者である川喜田二郎は、「土の香りを残せ」と訴えています。つまり、抽象度を上げる行為が「観念的」なカテゴリー化であってはならないのであって、元ラベルたちの「土の香り」を感じさせるように、その具象性の真の訴えかけを強く感じさせるように、シンボリックな鮮度を持つべきだ、というのです。
たとえば、里山をフィールドワークしたことで「放置されて死んでしまった棚田がある」というラベルを得たとして、このラベルを、「農業に関係があるデータだ」といった具合に、「何らかのカテゴリーに関係があるかどうか」という分類目線で眺めるのではなく、「里山の伝統が息も絶え絶えである」という訴えかけとして感受するなら、シンボリックにデータの本質に迫れる、といったことです。
深い本質の把握には、まなざしの転換が必要です。
大量の知や情報や技術を積み重ねても、ものごとの本質にたどり着けるとは限りません。人の心を動かすことも、出来るとは限りません。
無機的な情報たちの〈量〉としての膨大さの圧の中で迷子になりやすい、あわれな現代人にとって、すぐれた芸術もKJ法も、手放してはならない貴重な領域なのだと痛感いたします。
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古沢良太脚本の「幻蝶」という舞台を、2012年でしたか、兵庫県立芸術文化センターまで観に行ったことがあります。
タイトルに心ひかれたのですが、そのイメージ通り、幻の真っ白な「ギフチョウ」を捜し求めて生活を破綻させていった蝶オタクの主人公(内野聖陽)と、彼に関わったせいで、それぞれの内に同質の衝迫が潜んでいることに気づかされてゆく人々のドラマでした。
非日常に魂を食われてしまう者と、そのような衝迫から己れの人生を遠ざけて歩もうとする者と、いずれかを美化するというのではなく、ただただ、人には、己れにも御し難い過激ななにものかが潜んでいて、そのなにものかを抱え持つゆえに、人は尊く、愚かで、愛おしい。そんな人間観が率直に弾けていたようにおもいます。
人がその人らしく生きようとしますと、どうしてもそこには、〈守り抜かねばならないもの〉の存在が浮上してくることでしょう。それは、自分以外の〈かたわれ〉のような存在であったり、達成したい〈夢〉であったり、己れの内なる純な子どものような心であったりするでしょう。そして、それを守ることの難しさに直面せざるを得ないでしょう。その難しさは、己れと他者・外界との戦いとなることもあれば、己れ自身の内なる二面性の葛藤というドラマとなることもあるでしょう。
そのような〈守り抜かねばならないもの〉〈聖なるもの〉を諦めない心は、しばしば克服すべき幼児性だとみなされますが、果たして〈聖なるもの〉を諦めることが大人になることで、守り抜こうとするのは幼い甘えにすぎないのでしょうか?
〈聖なるもの〉を守り抜こうとする心も無しに生き抜けるほど、この世界は甘くはない、というのが真相ではないのでしょうか?
そんなこんなで、今年は珍しく、古沢良太脚本の大河ドラマを(今のところ)観ています。
若き日の、か弱き兎のような家康が、戦国時代の過酷なサバイバルの中で、毎回窮地に立たされながら、〈聖なるもの〉を守り抜けるのかどうか、シビアな展開が続いています。
彼が守り抜きたい〈聖なるもの〉は兎というメタファーで、その心性を潰そうとする現世の圧力は狼や虎というメタファーで、描かれています。己れの大切な兎を守ろうとするなら、否応なく虎にならねばならない、という設定は、戦国時代を舞台としながら、現在の私たちの実存に食い込んでくるものでもあります。
さて、兎を守りながら虎になることができるのか。
虎になるということは、己れの手で、大切な兎を扼殺することではないのか。
フェイクの虎が、本物の虎になるためには何が必要なのか。
兎に居場所は与えられるのか。
気のもめる展開が待ち構えていそうです。
今年は年女でもあり(何回目かはさておき)、己れの兎の居場所をあらためて見つめ直してみたいとおもっています。
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今年もたくさんの方々との出会いがありました。
オンラインでの開催となってからも、多くの方々にKJ法の研修を受講していただき、たいへんありがたいことです。
京都・霧芯館へお越しいただいていた頃の、対面での研修ならではの良さもありました。
休憩時間にはコーヒーとお菓子でほっこりしていただき、よもやま話に花が咲くこともありました。「晶子先生の淹れてくださるコーヒーが美味しくて」とのご感想も嬉しかった想い出です。
対面だからこそ得られる、受講中のみなさまの、ラベルとのやりとりの感触の情報というものもありました。
ここ、京都・松ヶ崎という場所の空気感を知っていただくこともできました。秋の研修では、終了時ともなれば、近隣の里山から鹿の鳴く声が響き、どなたもびっくりされたものです。初めて聞いたという方も多く、交通至便ながら自然豊かな京都の町になごんでいただくこともできました。
オンラインでの開催となった今では、それらを研修時間に盛り込む余裕はありません。それでも、オンラインならではの良さというものも多々あります。
画面共有での精度の高い解説、他の受講者の方々とも同じラベルで「表札づくり」というラベル統合の技への挑戦を共有しながら学べるという、質の高さも得られます。他の方の発想や言葉のチョイスを知ることができるのは、とても意義深いことです。
なにより、今までは、交通費・宿泊費をかけて遠方からお越しいただいていたところ、北海道であれ九州であれ、いつでもオンラインでつながれる便利さは、お互いにとてもありがたいことではあります。
画面越しだから相手のことがわからないかといいますと、そういうものでもなく、KJ法の作業をほんの少しでもご一緒いたしますと、言葉の選び方、発想の質などから、みるみるその方の思考・感受のかたちが見えてまいりますので、想像していたよりもはるかに、オンラインでの研修開催のデメリットというものは少ないと感じています。
限られた研修時間での学びではありますが、研修後には、宿題の提出をお願いしておりますから、KJ法図解作品へのコメントや添削を通じて、さらにコミュニケーションは深まり、理解も進めていただくことができています。
KJ法での出会いとともに、今年も印象深かったのが、インスタグラムを通じての出会いでした。
私の投稿のスタイルは、身近な風景写真に詩的なキャプションをつける、あるいは、短歌を添える、というものですが、今年も写真好きの方々や、様々な領域のアーティストの方々、時に海外の方々、そしてまた、それぞれの生活を丁寧に愛おしむように生きておられる方々と、心温まるやりとりを体験することができて、幸せなことでした。
実は、写真をレタッチしたり、それに言葉を添えるという私の表現は、KJ法の核心の部分とよく似たセンスで行なっています。
撮った写真が「レタッチしてもらいたがっている方向性」を聴き届けて編集する(もちろん、写真が「レタッチして欲しくない」と訴えている場合もあります)。そして、その写真が訴えかけている〈詩情〉を言葉として紡ぐ。
つまり、「己れを空しくして、写真をして語らしめよ」というのが、私の「写真と言葉」による表現のエッセンスです。
振り返れば、2022年も、寝ても覚めても、KJ法的に世界を視て、KJ法的に感受性を駆使して、KJ法的に表現をしてきたのだな、と、改めて骨の髄までKJ法的な自分に感じ入っている、師走の暮れとなりました。
どうぞ、ご自愛の上、よい年をお迎えください。
今年もこのブログをご愛読いただきまして、ありがとうございました。
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