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KJ法の作業において、「迷う」ポイントがいろいろあります。
特に初心のうちは、全ての工程が迷いの連続かもしれません。
「答は一つ」という方法でもないので、自分の作業が適正なものなのかどうか、常に不安になるかと思います。
特に、ラベルを集める、表札をつける、島の配置を考える、といったポイントでは、さまざまな可能性があるように思われて、迷いに迷う人も多いようです。
ラベル群がグループ編成によって統合されてゆき、最終的に10束以内にまでまとまったら、模造紙に図解化してよい。そういうルールがあるのですが、この10束以内のラベルの束を、模造紙にどう配置してよいものか、という迷い、これが最後の迷いのヤマかもしれません。
最終的に7個から10個といったあたりにまでまとまった場合、最初の大量のラベル群の呈している混沌の様相からすれば、スッキリしているとはいえ、いざ配置しようと思うと、やはり迷いが生じます。さまざまな可能性があるように思われて、何を根拠に、何を決め手に、「これだ!」という配置にたどり着けばよいのか、迷うわけです。
この、10個以内という、一望できるけれども構造として把握するには迷う、という束の群れを配置する際には、やはり「近さ」の感覚を駆使するのがKJ法らしいと言えましょう。
ラベルを集める際にも、「他のどれとよりも近い」という感覚を使ってグループ編成を行ないます。「似ている」でもなく「関係や繋がりがある」でもなく、正しいのは「近さ」です。
ラベル群の全体を「土俵」として、その中での「相対的な近さ」をよく吟味します。個々のラベルの、全体感を背景とした訴えかけの近さを吟味する、というのが精度の高い表現になります。それが、KJ法における「志」の感受の仕方です。
この感受を、最後のヤマである図解化においても生かすべきです。
他のどれとよりも「近い」と感じるラベルの束を、近くに置いてみる。とりあえず、という気持ちでもいいから、近くに置いてみる。
そのことで、全ての束をどう構造として把握するのかについて、ヒントが浮かぶことが多いのです。そのヒントから、するするっと配置が決まってゆく。
相対的な「近さ」を根拠とすることによって、「全体」にとって各束が何を訴えかけようとしているのか、という、「志」のバラエティーと関係性が自然に浮上する。そのことで、「全体」の訴えかけもまた、自然に浮上する。この感覚をつかむことが大切です。
その結果得られた構造というものには、こちらが「我(が)」で解釈して「決めた」という浮わついたものがなく、ラベルたちの訴えかけに導かれて自然と「決まった」という絶対感が滲みます。「迷い」の無い「全体」との出会いに、非常に心安らかな思いがいたします。
ラベル集めや表札づくりを丁寧に積み上げても、最後のヤマである図解化において、「なんとなく」「漫然と」といった印象の配置や関係線の入れ方になってしまいますと、構造の説明も漫然としたものになり、本質も的確に表現することができず、説得力の無い結果に陥ってしまいやすいものです。
構造を明晰に説明できること。
全体の本質を的確に表現できること。
ここで「迷い」があるようでは、せっかくのそこまでの作業が無駄になってしまいます。
KJ法の本質にある、ラベルたちの「志の感受」というものが適切にできるためには、トレーニングが必要です。
そのトレーニングは、あまりにも「分類」や「解釈」という姿勢に慣れてしまっている私たちのモノの見方を、根底から揺さぶることになりますが、この世界のあり方への素直な姿勢を取り戻すための「揺さぶり」は、実はとても心地良いものでもあります。
まっさらなお気持ちで、KJ法にまっすぐ出逢っていただければ嬉しいです。
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朝晩、自分なりのヨガの時間を持つようになってずいぶん経ちます。
なくてはならない時間、ではありますが、いつの間にか、巷に溢れる「なんちゃってKJ法」のごとく、「なんちゃってヨガ」になっているようにもおもわれて、最近は、YouTubeで短時間の動画を捜し、ちょっぴりスタジオでレッスンを受けている気分に浸ってみるようにしています。
直接対面で指導してもらうわけでもなく、オンラインでの個別レッスンでもないので、実践する私自身の「気づく力」に頼るしかありませんが、自分の身体に何が足りないのか、日々痛切に気づき続ける毎日です。
今年は、そのような気づきを積み重ねて、なにごとによらずナチュラルに変わっていければ。少しだけ変わり始めた身体感覚の延長に、しなやかな心身をイメージしたいところです。
ヨガのインストラクターの方は、基本、あまり押しつけがましい言葉づかいをなさいません。美しく微笑みながらお手本を見せてくれますが、「ここでみなさんも笑って」とはおっしゃらない。「口角上げて」と言われます。この違いは、なにかしら大事なポイントなのかと思われます。
ポーズに合わせて、自分の中の負の感情も自然に解放していいんだよ、という「ヨガ」らしいメッセージを伝えてくださることが多いので、そこには心理的な無理というものがありません。
そして、なぜかレッスンの終わりの方では、よく「口角上げて」と言われます。
「口角を上げる」ことと、「笑顔になる」こと、「笑顔を作る」こと、少しずつ違うことがわかります。
「笑顔を作る」のは、これは明らかに無理がある営みです。とても笑顔になんかなれない気分の時には、それを強いられるのは苦痛以外のなにものでもありません。
「笑顔になる」、これは、自然とそのような気分であれば、可能な営みです。
「口角上げる」。これは、とても笑顔になんかなれそうにない気分であっても、可能なことです。自身のその時の感情とは切り離して、どれほど暗い気分であったとしても、「口角を上げる」ことは可能です。その結果、自分の「口角を上げた」顔のイメージが脳裡に浮かびます。そこには、無理な作り笑顔とは別の、ある、可能性を秘めた表情が浮かぶような気がします。その、脳裡に浮かんだ映像が、自分の心にフィードバックされて、「自分は笑うことができる存在だ」というメッセージのように沁み込んでゆきます。そのメッセージが、自分の深層にある、類的な幸福感のようなものとリンクしますと、次第に「口角を上げた」表情は、自然な「笑顔」に近づいてゆく。
そんなプロセスを秘めているような気がしています。
身体のほんのささやかな「部分」は、そこだけ切り離されて存在しているわけではありません。(KJ法の図解における、一つの単位としての「ラベル」が、それだけで存在するのではなく、図解全体との関わりの中で、常に全体を映し込みながら存在するのと、とてもよく似ています。)
「口角」という、ささやかな部位が「上がる」だけで、それは、観念的に押しつけられた「笑顔」のイメージとは別の、自分に固有の身体の変化として、自分の全体へと有機的に働きかけてくれます。そして、自分の「全体」とは、自分の心身のことであり、その外側にあって深いつながりを持つ世界全体のことでもあるでしょう。
2024年、きびしい始まり方をしましたけれども、どれほどつらくきびしい状況におかれていても、「口角上げて」みることは、不自然な笑顔よりもきっと、この世界全体へ深く静かに働きかけてくれる営みだとおもわれます。
令和6年能登半島地震において被害にあわれた方々には、ことのほか、「元旦に生じた」ということがシンボリックにつらく感じられていることと存じます。負の想念に引きずられることなく、ささやかな場所から着実に、あたたかな日常を取り戻されますようお祈りいたします。
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コロナ禍以前に毎年開催しておりました「霧芯館KJ法ワークショップ」が、オンライン篇として復活いたしました。
以前のワークショップでは、京都駅近くの会場などをお借りして、夏と冬に年二回、同一テーマで実施。霧芯館の研修を受講されたみなさまに、全国からお集まりいただき、いくつかのチームに分かれて、夏は「パルス討論」という技法による「探検ネット」の作成、冬は「多段ピックアップ」によるラベルの精選を経て、「狭義のKJ法」のグループ作業をお楽しみいただいておりました。
毎年異なるテーマにて、参加者のみなさまの提示された大量のラベルという「渾沌」がKJ法によって構造化され、その本質を浮上させるプロセスを、グループ作業で味わっていただくわけです。
一見ささやかな事例や想いが、〈現在〉という時代を生きる私たちにとって切実な訴えかけをもつ貌を獲得してゆくプロセスは、毎回とてもスリリングでした。
さて、今回は、miroというツールを使って、オンライン上でのグループ作業が楽しめるように企画いたしました。
少人数によるグループ作業を、川喜田晶子のリーダーシップで体験していただく、新たなスタイルです。
「オンライン篇〈その1〉」のテーマは、「情報化社会の?ここが変"」といたしました。
私たちは、今、非常に高度な、そして日々めまぐるしく変化・進展する情報化社会の中で生活しています。その利便性の多大な恩恵をこうむっていることは、今さら言うまでもないのですが、その恩恵の裏側で、ささやかな異和感、不安、焦燥、怒りなどもまた、日常のさまざまなシーンにおいて湧き上がっていることも確かです。膨大な情報量に振り回され、インターネットやAIへの依存度を強めた、病んだ社会の様相にも直面させられています。
ワークショップご参加のみなさまの、ささやかな異和感をデータとして、KJ法によってそれらを構造化するならば、否応なくどこかへ向かって突き進んでいる、この高度情報化社会における、私たちの在り方を問い直すことができるでしょう。
すでに何回か実施しましたが、想定以上に、?ここが変”というデータ群の本質は、社会の、そして私たちの身体の深い病理につながっていると感じられています。
毎回少人数で、複数回の開催ゆえ、受講者のみなさまには、少しずつご案内を差し上げております。追加日程も検討中ですので、ご参加ご希望の方は、お問い合わせいただければさいわいです。
オンライン上のホワイトボードツールmiroは、直感的な操作が可能で、すぐに慣れますので、今後のKJ法の使いこなしにも活躍してくれると思います。この機会にご活用いただければとおもいます。
このようなツールでKJ法が使えるのも、情報化社会の恩恵そのものではありますが、その高度な発展の中で、私たちの存在がうつろな病理のループに陥らないように、AIには代替されることのないKJ法の生命に、ぜひ深く触れていただきたいと願っています。
2023年も、このブログをご愛読いただきましてありがとうございました。
穏やかな良き年の瀬をお迎えください。
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先日、ご近所のスーパーが閉店しました。
わが家から自転車で5分ちょっと。修学院の駅前にある、何十年もの間、地域に愛されてきたスーパーです。
古びたシャッターには、A4一枚くらいの「閉店のお知らせ」が貼られています。
閉店後数日して、その貼り紙に、二人ほどの感謝の言葉が書き込まれました。しばらくはそのままでしたが、つい先日見ますと、貼り紙いっぱいに、ぎっしりと書き込みがなされています。もはや余白がないほどに。
「京都産のお野菜美味しかった」
「長い間ありがとう!お疲れ様!」
「いつもうちの息子たちに声かけてくれてありがとう」
「初めてのおつかいに来たのがここでした。そんな私も25歳です」
「いか天、美味しかったよ〜」
「さみしいです」
「ショックです。でも感謝!」
などなど、どなたも名前など記すことなく、ただただ、お店の方々に伝えたい感謝と思い出を、切々と書き込んでおられます。
ああ、私もペンを持っていればよかった、という思いが湧いてきたのと同時に、日本人はこういう「寄せ書き」的な作業が大好きなんだな、とも思われて、しみじみとしばらくその貼り紙を眺めていました。
実は、KJ法の「探検ネット」を作る作業も、これに似ています。
一つのテーマをめぐって、あらゆる視角からデータの質のバラエティーを出し尽くすために、この「探検ネット」を作成し、そこで提示されたラベルから、バランス良く精選したラベル群を使っていわゆる「狭義のKJ法」へと進む。「狭義のKJ法」においては、グループ編成によってラベル群が構造化され、その本質が浮上する。これが、KJ法における問題解決のスタンダードな型です。
この「探検ネット」作成を数人でのブレーンストーミングとして行なうなら、「パルス討論」というディスカッションの技法で実施すると、たいへん楽しく盛り上がりつつ、効率とバランスのよい取材ができるのですが、このスーパーの貼り紙への「寄せ書き」も、本質的には同じ作業をしているな、と思いました。
寄せ書き的なシーンでは、自分も書き込みたい、と思ったとき、「他の人はどんなことを既に書いているだろう」と、見渡す作業をまずします。そして、「では、私だけの思いを新たに書き込もう」となり、「カレーコロッケ、絶品でした」と書いておこう、といった手続きになるでしょう。
「探検ネット」も同様に、各自、そのような意識で新たなラベルを模造紙に貼ってゆくことで、テーマをめぐってデータの質のバラエティーがみるみる確保されてゆくわけです。
さらに、「パルス討論」で「探検ネット」を作成する場合、他の人の意見を批判してはならない、というルールがあります。これも、「寄せ書き」のあたたかみに通じるものがあります。
欧米的なディスカッションの技法だのディベートだのにおいては、ついつい、何が正しいのか、とか、自分の意見のどこが相手と違うのか、等々、意見の対立や葛藤が生じやすい、むしろ、あえて生じさせるものですが、KJ法における取材やデータの統合においては、そのような個々人のダイレクトな対立・葛藤を基盤には据えません。
複数名で行なうならば、あくまでも、テーマにとって大事な訴えかけを持っていると思われるデータ群の「全体」というものが何を言わんとしているのかを、グループ全員で追求していくのがKJ法です。
個人と個人が、意見と意見が対決することによって、分析的な精度を高めたり、原因を特定したり、たった一つの正解を見出したりするのではない。
これは、東洋的な思想をバックボーンとするKJ法ならではの、非常にやわらかで強靱な「ゴールへの道のり」だとおもわれます。
個々人は、データ「全体」の訴えかけを知りたいという「欲」さえ共有していれば、対立することなく、合意形成へと進んでゆくことができるのです。
かといって、そこで個々人の固有性がないがしろにされるのではなく、データの差異もまた、恣意的にスルーされるのでもなく、異質さは止揚されて抽象度の高い本質へと導かれることになります。
川喜田二郎の創案したKJ法の根底に、個と全体との美しい融和の思想が込められていることを、長年お世話になったスーパーの「ロス症候群」に耐えながら、あらためて噛みしめてみたひとときでした。
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先日、片付けものをしていたら、古い楽譜がぞろぞろと出てきました。
三歳から小学校三年までピアノを習っていたので、その頃の練習曲や発表会用の楽曲や、ピアノをやめてから楽しみのためだけに弾きたくて入手した名曲シリーズ、ジブリシリーズといったラインナップです。
楽譜を見れば頭の中でスラスラと曲が流れていた頃もあったのですが、久しぶりのオタマジャクシは、もはやかなり異国語のようで、脳内の変換機能はずいぶんと錆び付いていることに気づいて、ひとり苦笑いいたしました。
それよりもびっくりしたのは、小学校二年のピアノの発表会でとてつもなく派手に大失敗してしまった時の記憶が、実に鮮やかに蘇ってきたことです。こちらの記憶は、脳内のハードディスクにしっかりと保存されていたようで、クリックするやいなや、鮮明な画像と音声で再生され出すではありませんか。
あの、「ステージ」という場所の非日常性が、幼い心身に与えた印象そのままに蘇るのは不思議なものです。
ピアノに向かって歩いてゆくときの、コツコツという床の反響具合。
客席に居る人々の顔のほの暗い輪郭。
熱を帯びた照明の眩しさ。
弾き慣れない演奏会用のグランドピアノの鍵盤の重さ。音の拡がりの果てしなさ。
日々、練習してきた曲とは思えない音色に戸惑い、頭の中が真っ白になってしまい、鍵盤の上を右往左往する両手が他人のもののようであったこと。
客席からさわさわと聞こえてくる同情・憐憫のささやき。
どうやって曲を終わらせたのか、わけのわからない時間を経て、家に帰り着いた時のご飯が「チキンライス」だったこと。日常の香りを鼻腔いっぱいに吸い込みながら泣きじゃくっていたこと。
その日の私にとっては、世界がぶっ壊れたような大事件だったわけですが、さいわい、たいしたトラウマにもならず、あと一年ほどはピアノを続け、次の年の発表会は無難に弾きこなして、その後、ピアノをやめたという経緯であったようです。
当時は悲痛な大事件であったにもかかわらず、時を経て思い返してみると、この「大事件」という一つの輪のおかげで、今の私の場所も定まっているところがあるようにも思われます。
一つの事件を、KJ法的に、一枚の「ラベル」、と言い換えるなら、それは、同じラベルであっても、その背景となるラベル群の「全体」というものが異なれば、ラベルの訴えかけも変わる、ということのようです。
幼い私にとって、発表会の大失敗は、「世界の壊れ」を象徴していたかもしれませんが、今の私の目からすれば、ここまで生き延びてきた人生における大小さまざまな事件たち、という「ラベル群」の「全体」を背景として、過去の悲痛事を感受するわけですから、その訴えかけは「世界の壊れ」ではなく、今の私を形づくる一つのいつくしむべき大切な「輪」ともなるのです。
KJ法は、同じデータでも、扱う人によって違う構造化の結果が出ます。
また、同じデータであっても、別のテーマと全体を背景とするなら、別の訴えかけを持ち得るのです。
つまり、訴えかけというものの真実は、客観的に固定されたものではない、ということです。
人生のほんの一コマについて想いを巡らすだけでも、このことは、素直に身に沁む真実であると気づいていただけるかとおもいます。
さておき、折しも芸術の秋。
最近はピアノを触っていなかったので、押し入れから古いデジタルピアノを出してきて、ちょっと触ってみようかと思います。脳内の錆びを落としてみたら、思わぬフォルダが次々と開くかもしれません。
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阪神タイガース、18年ぶりのリーグ優勝。
ファンの喜びはいかばかりでしょうか。
ここに至るまで、岡田監督が「優勝」を婉曲に表現してきた「アレ」という指示代名詞は、今年の流行語大賞になりそうな勢いです。
では、ちょっとブームに便乗しまして、ここでもKJ法の「アレ」について再確認しておきたいと思います。
このブログをいつもお読みいただいている方ならば、「アレ」が何を指しているのか、ピンときて下さるかと思うのですが、やはり、「アレ」=「志」ということになります。
KJ法の本質にまつわる最も重要な概念でありながら、残念なことに、この「志」をまっとうに意識しながらこの方法を使えている人は稀であると言わざるを得ません。この概念について正しく理解しないままKJ法を実践しても、それはただの「分類」になるしかないのです。ただの「分類」でよいのなら、KJ法を使う意味はありません。
現場に取材されたデータは、適切に単位化・圧縮化されてラベルに記されることで、一つの「個」としての輪郭を持ちます。輪郭を持つとはどういうことかと言うと、個々のラベルにそれぞれ訴えかけがあるということです。この訴えかけのことを「志」と呼ぶのですが、この「志」は、ラベル群の全体感を背景として定まるものであり、KJ法を使う側が好き勝手に解釈して決めつけるべきものではありません。
ラベル群の全体感を背景として個々のラベルを感受するからこそ、それらの「志」はシンボリックなものとして機能します。ラベルの表層的な意味内容として何に関係があるかとか、どのようなカテゴリーに属するか、ではなく、その場の「全体」を映し込んだ「個」として、ラベルたちはそれぞれの「志」の近さによって、グループを作り始めます。作られたグループの複数枚のラベルを統合する「表札」と呼ばれる概念もまた、新たな「志」を持つわけです。このような統合を重ねて、ラベル群は構造化されてゆきます。構造化された暁には、ラベル群全体の「本質」もまた、シンプルに把握できることとなります。
カテゴリーによって切り分けられるために「全体」があるのではなく、カテゴリーに収納されるべく都合よく切り分けられた「個」があるのでもなく、あくまでラベル群はボトムアップで「全体」の「志」へと発想の階段を上っていくわけです。
つまり、ラベルたちは、ラベル群の外部に存在するカテゴリーに分類してはめ込まれるために存在するのではなく、ラベル群の「全体」が何を訴えかけているのかを明らかにするためにそれぞれ「志」を持って存在している、ということです。
この「志」を適切に感受することこそが、この方法を生かすために最も大切な姿勢なのであり、また、AI任せにしたのではもったいない、人が味わうべき、人だからこそ味わい得る、至福の創造体験の要とも言える行為です。
KJ法が適切に使えているかどうか、セルフチェックするのはなかなかに難しいことですが、まずは、出来上がった図解を眺めてみて、ラベルたちがその「全体」の外部の「ありがち」なカテゴリーの箱に、単純に仕分けされているだけなのではないか、と疑ってみてください。
せめてこのチェックだけはしてみましょう。
まずは自身のKJ法の不全に気づくこと。
そこから「アレ」までの道のりのはじめの一歩となるはずです。
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「狭義のKJ法」におけるラベル群のグループ編成では、「表札づくり」の精度が、「ラベル集め」の適切さとともに、重要になります。
セットになったラベル複数枚に、それらを統合する表現としての「表札」を与えるのですが、この表札が不適切であることによって、ラベル群の構造化は、実にみすぼらしい「ただの分類」に陥ってしまいます。
最も大切なポイントは、それぞれのラベルの「訴えかけ」を感受することによって複数枚を統合すべきだ、ということであり、この「訴えかけ」のことを、〈志〉と呼びます。
この〈志〉は、ラベル群の全体感をバックにして定まるものであり、使い手が好き勝手にラベルの原因や背景を解釈してはなりません。
ラベルをセットにするのも、恣意的なストーリー作りや安直な分類に陥ることなく、ラベル群の全体感をバックにした、相対的な「近さ」の感覚を吟味して行うべきものです。
以前、霧芯館の研修を受講された方から、質問されたことがあります。
「この2枚のラベルに表札をつけるというのは、2枚の共通項を拾い上げればよいということですか?」と。
つまり、Aというラベルと、Bというラベルがあったとして、それぞれ、同じくらいの長さのリボンで表したとします。2枚のリボンの重なった部分を表札として採用すればいいのか、というイメージです。
これは、間違っています。
共通項を見つけよう、という意識で表札をつけますと、「共通項」に関係のあるものとしてAとBのラベルを眺めてしまうことになり、AとBの異質さの部分は無視されがちになるわけです。そのことで、分類目線のグループ編成に陥りやすくなります。発想も、らべるたちの本質に手の届かぬ、平板なものとなりやすいです。
表札をつける、という行為は、近いからセットになったラベルたちではありますが、それらの異質さを統合する、という仕事もしなくてはならないのです。
ですから、異質さをはらんだAとBの、「共通項だけを抜き出そう」、ではなく、異質さをはらんだAとBによって形成される「全体」の、その核心とは何だろう、という意識で表札をつけるべきなのです。
例を挙げてみましょう。
以前、「〈初対面〉のラビリンス」というテーマで、霧芯館のワークショップを行ったことがありましたが、そこで提示されたラベルに、
「大人になるうちにいいひとを演ずるのがうまくなるので、だまされることがある」
「本当の自分と作りすぎたキャラとのギャップに苦しくなる」
というものがありました。
この2枚に表札をつける際に、「共通項」という意識で見てしまいますと、たとえば、
「本当の自分を隠している場合がある」
「分厚い仮面をつけている場合がある」
「本当の自分ではなく、演じている自分で対面している」
「素顔と、初対面の時の演技との間には、ギャップがある」
といった表札になるでしょう。
これらの表札では、演じている、あるいは、仮面をつけている、あるいは、本当の自分と演じている自分にはギャップがある、という共通項に意識が向いており、2枚のラベルに含まれていた、異質さが無視されています。
演技としての「いい人」にだまされること、そして、本当の自分と仮面の自分との「ギャップ」に苦しむということ。
この異質さをも含めて発想し、統合するなら、たとえば、
「厚くなった仮面のキャラが自他を振り回す」といった表札なら合格、ということになります。単に、仮面や演技の存在を指摘するだけではなく、その不毛さや弊害についての訴えかけを端的に表現しておきたいところです。
異質さを統合するために、2枚なら2枚のラベルを、いつまでも「2枚ある」と認識していると、なかなか「一つの表札」にたどり着けないので、ついつい、言葉の上だけで小細工をしたくなり、強引なストーリー作りをしてしまったり、安直に共通項を抜き出して分類に流れたりしてしまうものです。
まずは、イメージとして一つになること。複数枚のセットが、一つの「全体」として見えるようになること。これが何より大切になります。
一つの「全体」として見えさえすれば、それをギュッと圧縮する発想と表現があればよいのです。
この「統合」の本質が腑に落ちるなら、水泳でいえば、まずは水に身体を委ねて浮けるようになったようなものかと思われます。
水に仰向けに浮かんで高い空を見上げるような心地で、KJ法の「全体」や「統合」や「志」という概念の本質に触れていただければ嬉しいです。
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「余白のある暮らしを」。
ご近所で新築中の家の外壁に、こんなコピーの記された垂れ幕がかかっていました。
デザインを担当した建築事務所のもののようですが、よいコピーだなと思いました。
自身の暮らしの「余白」の乏しさについて気づきを与えるような、また、空間だけではなく、時間や心や世界観の「余白」について、内省をうながすような。
思えば、空間に溢れる「物」の多さだけではなく、私たちの暮らしには、知識・情報がひっきりなしに流れ込んできており、時間や、世界の成り立ちそのものにおける「余白」もまた、圧殺されていることに愕然といたします。
空間にもゆとりがほしい、時間的にも余裕がほしい、いつもそう思いますけれども、それを、「ゆとり」「余裕」ではなく、「余白」と捉えることで、何かが変わる気がいたします。
「ゆとり」「余裕」という言葉には、現状を変えるのではなく、プラスアルファとしての時間や空間があればよいのにな、というぜいたくな欲望の匂いがいたします。
ところが、「余白」という言葉を提示されたとたん、ある限られたスペースや時間の枠の中に、いかにして「余白」を生み出すのかという、世界観の問題として、その制約に向き合うことになる。デザインとしての世界観の変革の問題になる。そこがとても興味深く思われます。
KJ法も、そういう意味で、作業過程内でその都度設定される枠組みの中の「余白」を味わう方法です。
限られたスペースである、小さな「ラベル」という宇宙の中に、データを書き込むという行為。無駄な言葉は使えません。データの訴えかけ(志)を感じさせるように、簡潔な表現をする必要があります。
ラベル群の「全体」が設定されたら、その「全体」の中でのラベルたちの「志」の相対的な「近さ」によってグループ編成を行います。
ラベルとラベルがセットになって、統合された表現へと転換される際にも(「表札をつける」と言いますが)、この小さな「ラベル」というスペースを大きくすることは許されません。あくまで同じ大きさのラベルの中に、複数枚のデータの訴えかけを圧縮して織り込めねばなりません。
このように、「枠組み」が設定される方法だと申しますと、なにやら息苦しく感じるかもしれませんが、この「枠組み」があればこそ、その内部に発生する「余白」によって、「全体」というものが活性化し、内部のデータも活性化し、無尽蔵の発想力・創造力というものを刺激する方法だと言うことができるでしょう。
完成した図解には、ラベル群が「島」として表現され、島と島の間には「余白」があります。この「余白」には、いくら汲んでも汲み上げきれないほどの、発想の海がひろがっているのを、出来映えのよいKJ法図解を見るたびに、深い感動をもって味わうことができます。
そこでは、どれか一つの島だけが主人公なのではなく、図解全体という世界の中で、互いに異質な島の全てが、謙虚にかつアクティヴに、全体を映し込みながら個としての輪郭を主張しているのです。
人間は、ともすれば自分だけがこの世界の主人公のような錯覚を持ってしまうのですが、「余白」に気づくとき、人間以外の真の主人公というものが存在するのではないか、そういう「不安」「畏れ」にも似た、謙虚なまなざしによって、この世界全体というものの輪郭を問い直すことになるのかもしれません。
みなさまの世界観の中に、一服の清涼剤のような「余白」への気づきが生まれますように、猛暑の京都より、お祈りしております。
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創造的な問題解決の営みにおいては、「判断→決断→執行」を「ひと仕事」と考えるべきだ、と、川喜田二郎は主張しています。
KJ法を問題解決のために活用する場合、6ラウンド累積KJ法という手続きがあり、その場合の6つのラウンドとは、「問題提起・状況把握・本質追求・構想計画・具体策・手順化」となります。いわゆる「狭義のKJ法」を、これら6つラウンドの姿勢転換のメリハリをつけて、累積させるという技であり、前半3つのラウンド、後半3つのラウンドをそれぞれまとめて、2ラウンドの累積で済ませる場合は、「判断ラウンド」と「解決策ラウンド」と呼びます。
そもそも何が問題であり、状況がどうなっていて、その本質は何なのか、「判断」できるということ。「判断」ができたなら、ベクトルを外向きに転じて「解決策」を打ち出し、手を下すこととなります。
創造的な「ひと仕事」のためには、実は、この「判断ラウンド」と「解決策ラウンド」の間に「決断」を挟む必要がある、というのです。すなわち、状況の本質がわかるだけではダメで、解決策に乗り出す前に、「ハラをくくる」という局面が必要だ、ということです。
なにかしらの問題解決を望むということは、そもそも、その現場になんらかの不全があるからです。ですので、KJ法で「判断ラウンド」を実践しますと、その不全の本質が浮上してくることになります。そのプロセスをきちんと踏みしめることが大切であり、この段階で、いたずらに事態を楽観視したり、不全を無理矢理ポジティヴに解釈したりするのはよくありません。テーマに沿って、あらゆる視角から不全の質のバラエティーを出し尽くし、それらの訴えかけを聴き届けるべきです。
そのことによって、「判断」が出来たなら、すぐに「解決策ラウンド」へ向かうべきかというと、そうではなく、川喜田二郎は、そこに「決断」というプロセスを挟むことで、ポジティヴにハラをくくれ、と言っているわけです。
現場の深刻な不全の本質が理解できた時というのは、とことん悲観的な状況に直面している、という場合が多いものです。状況の徹底的な洗い出しをすれば、「△△が出来ていない」「□□が十分でない」など、ありとあらゆる不全が、これでもかとばかり、私たちのモチベーションを下げようとしてきます。そこで、そのまま「解決策」を打ち出してゆこうとするのではなく、一度、「不全」の本質を反転させ、「○○すべきである」というポジティヴな言葉へと生まれ変わらせるためのプロセスが必要である、というのです。
不全を反転させれば、「われわれは、○○すべきである」という、力強い「決断」の位相が出現します。
この「決断」があればこそ、生き生きとした「解決策」のビジョンを提示し、具体化し、手を下してゆく意欲が生まれる、というわけです。
これは、単に、悲観的であるべきではない、楽観的な位相への転換が必要だ、というだけではなく、「後戻りしない」という重要な示唆をも含んでいます。
一度、「決断」したなら、そして、その「決断」に基づいて「解決策」へとベクトルを外向きに転換させたなら、決して後戻りするな、というわけです。手を下し始めてから「ああすればよかった」「こういうことも気になっていたのに」などと、後戻りするべきではなく、それぞれのラウンドというものを、徹底して踏みしめて前進すべきだ、ということです。
また、さらにもうひとつの示唆は、姿勢転換の重要性です。単に、悲観から楽観へ、という転換のみならず、「決断」も一つの重要な姿勢なのであり、このプロセスも含めて、「判断→決断→執行」で「一仕事」なのです。
KJ法においては、随所にこの「決断」とよく似たプロセスを見出すことができます。
ラベル一枚という小さな枠組みの中に、取材した内容を書き込むことによって、データを適切に「単位化・圧縮化」するという作業。
今、取り組むべきデータの「全体」とはどの範囲なのか、を明晰にする「土俵をはっきりさせる」という行為。
「多段ピックアップ」における「最後のピックアップ」での、「決断」による一枚一枚の選択、等々。
ゆるやかで、曖昧で、発散的な場面と、輪郭がクリアで、明晰で、集約的な場面とを、メリハリよく生き生きと往還することで、この方法は実のある成果を生み出すことが可能となります。
「楽天家の勝利だ」というのが、川喜田二郎の口癖でしたけれども、その「楽天性」の背景には、徹底した上質の「判断」と「決断」という裏付けがあったことに、想いを馳せていただければ嬉しいです。
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近年のサウナブームが火付け役だったようですが、「ととのう」という言葉をよく見かけるようになりました。
2021年の「新語・流行語大賞」にもノミネートされていたらしく、サウナのみならず、今では、禅やヨガ、心身へのなにかしらのアプローチによって日常を離脱するような体験や場所に、この言葉をあてがうことが多くなっているように感じます。
サウナで「ととのう」というのは、「サウナ」→「水風呂」→「室外での休憩」という体験が引き起こす、ある種のトランス状態をさすのだそうです。
つまり、急激な温冷刺激という非日常的な環境にさらされて、身体のテンションが上がった後、「休憩」によって副交感神経優位の状態を作り出すことで、くつろぎながらもアドレナリンは出ている、といった、不思議な感覚になるのだとか。
これはちょっと、KJ法の体験にも似ているな、と思いました。
KJ法において、一番「アドレナリン」が放出されるであろう作業は、「表札づくり」です。
一つのテーマについて収集されたデータ群の、全体が何を訴えかけているのかを知りたい、という時、KJ法では、個々のデータのグループ編成を重ねてデータを構造化するわけですが、そのグループ編成の要に「表札づくり」という作業があります。
セットになった複数枚のラベルに、「表札」と呼ばれる統合概念を文章として定着させる作業です。
この作業は、「近いのだけれども異質だ」という複数のものを一つにする作業です。その異質さに橋を架けるには、個々のデータを事実レベルとしてベタに感受していたのではダメで、一種、非日常的な「発想」というジャンプが必要になります。
日常的なレベルで整理するなら簡単なことで、既成のカテゴリーの箱に分類するか、ラベルとラベルをストーリーとして繋げて解釈すれば、ジャンプすることなく話は済むのです。そのようなベタな水平思考で話を済ませていたのでは、創造的な結果は生み出せません。
KJ法では、創造的なジャンプのために、ラベル群の全体感を感受しながら、個々人のそれまでの経験や記憶も総動員しながら、適切なイメージを生み出すのですが、初めて体験した人は、まさにびっしょり汗をかくような心的なエネルギーを使うこととなります。
マッチョなアスリートであっても、初めてヨガのレッスンを受けたら、たいして激しい動きをしていないのに内側から体が変わった、と感じるような、そんな非日常性だとも言えましょう。
「たいして激しい動きをしていない」というのは、KJ法ではどういうことかといいますと、個々人の「我」によって理知的に「頭」を使うという、いわゆる知育偏重教育でさんざん推奨されてきたであろう、筋トレ的・表層的な頭脳の使い方をしない、ということです。
KJ法では、あくまでも、データの全体が何を訴えかけようとしているのか、というところを、そのデータ群そのものに語らせるという姿勢をとりますから、個々人の理知的で上から目線の分析力は、時に邪魔者ですらあります。かといって、何も考えないわけではなく、データと個々人とのやりとりにおいて、素直な感受という受動性の中で、非日常的とも言える発想のジャンプが可能になるよう、心身を総動員してもいるわけです。
その結果、「表札づくり」を要とする「グループ編成」を重ね、KJ法の図解が完成いたしますと、不思議な「達成感」「昂揚感」に包まれます。まさにサウナ後のトランス状態、かもしれません。そして、そこには、編成を重ねていた際のアドレナリンのなごりもあって、格別の多幸感が形成されている、とも言えるでしょう。
KJ法によって「ととのう」のは、混沌とした状況のみならず、使い手であるわれわれ自身でもあるところに、この方法の優しさと厳しさが潜んでいます。
さまざまなITツールの発達によって、人でなければできないこととは何か、あらためて問われる時代となりました。
まるで、そのような時代の到来を見越していたかのように、川喜田二郎は、このKJ法という方法を、人ならではの自然な本性に即して創案いたしました。
人にとって、日常的でもあり、非日常的でもあるように、また、意識的でもあり、無意識的でもあるように、論理的でもあり、非論理的でもあるように、「発想」というものの総体をとらえ、人を幸福にする方法として生み出しました。人をなにかしらの既成概念やツールの奴隷にするような、わびしい世界観を忌み嫌っていた人でした。
紙きれとペンがあれば(あるいは、パソコン上の作図でもOK)可能となる、KJ法の「ととのう」体験。サウナ同様、きちんと「ととのう」には、勝手なやり方をしない方がよろしいです。霧芯館のオンライン研修にてお待ちしております。
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いわゆる「質的研究」でKJ法をご活用なさるという場合、論文発表の場においては、「なぜKJ法を使うのか」というその理由は、明晰に述べられるべきでしょう。
他にも分析方法はあるけれども、これこれこういう理由でKJ法を使うのだ、という理由が必要である、ということです。
KJ法でなければできないことは何か、ということを、よくわきまえてご活用いただくことが、質的研究に限らず、本来、問題解決の現場などでも、必要なことでありましょう。
単純に、量的に処理できないデータであるから、KJ法を使うのだ、というだけでは、理由として不十分であり、質的にデータを扱うということを、なぜKJ法によって為そうとするのか、という理由が欲しいところです。
つきつめれば、KJ法が、質的なデータというものに対して、どのような世界観で臨む方法であるのか、その本質について、使い手が自覚的であるべきだ、ということになります。
そこで、ある種、お約束のように記される、「客観的に分析できるから」「データを帰納的に扱えるから」「研究者の直感を大切にしてデータを扱えるから」「語り手の思いをあるがままに構造化できるから」といった理由を見かけることになりますが、実はいずれもKJ法の活用理由としてはふさわしくないものです。
「客観的に分析できる」とか「帰納的に扱える」と記しますと、いかにも、研究者の恣意性を排除して、データに即して分析したかのような印象を与えますけれども、KJ法は、「客観的」な方法でも「帰納的」な方法でもありません。もちろん、その逆の「主観的」な方法でも「演繹的」な方法でもないのです。
また、科学的であらんとし過ぎる悪弊を逃れ、研究者の直感を生かし、インタビューで語ってくれた人々の思いを大切にしたいというお気持ちはよくわかりますが、KJ法が「直感」に頼った方法であるとか「語り手の思いをあるがままに」生かした方法である、という理解も、正確なものではありません。
まず、「主観的」「客観的」のいずれでもない形で、KJ法はデータと向き合います。「己れを空しくして渾沌をして語らしめる」のがKJ法ですので、主観的であることはもちろん排除されますが、だからといって客観的であるわけではなく、KJ法によってデータが構造化された「図解」というものの中には、渾沌と使い手との相互作用によってしか産み出され得ない、個性豊かな、そして渾沌そのものの訴えかけというものが浮上しております。渾沌としたデータ群の素直な訴えかけというものの明示と、使い手の個性・オリジナリティーが豊かに表現されることとが、決して矛盾しないことこそがKJ法の醍醐味であるわけです。
次いで、「帰納的か演繹的か」といいますと、これもまた、いずれでもなく、「発想法である」との想いで、川喜田二郎が編み出した方法です。データの数の多さによって結果の確からしさを示すのでもなく、理念的な型によってデータを解釈するのでもなく、相互に異質なデータを「止揚」する「発想」があればこそ、データ群の真の訴えかけが浮上してくる方法です。その結果は、時に、データの語り手の自覚的な意図を超えたものでもあり得るのです。
その「発想」は、使い手の「直感」で恣意的になされるべきものではなく、あくまでも、データ群の訴えかけに素直なものであらねばなりません。
KJ法における「探検の五原則」の一つには、「なんだか気にかかる」データを拾え、というのがありますが、この「なんだか気にかかる」は、直感を駆使してよいとはいえ、野放図な直感信仰を奨励しているのではなく、あくまでも、取材するフィールドやデータ群の全体というものが何を訴えかけようとしているのか、という問いに対して、「なんだか気にかかる」という、使い手の無意識領域を駆使せよ、ということなのです。その訴えかけを無視して、自分勝手な価値観や既成のカテゴリーへのアテハメによってデータを拾ったり解釈したりしてはならないわけです。
もちろん、取材のみならず、データを統合してゆく際も同様です。
「客観」信仰によって、データを量的・分類的にのみ整理することからは、質的に有意義な結果は産み出されませんが、「主観」信仰「直感」信仰もまた、戒められるべきであり、私たちの、データ・フィールド・この世界というものとの向き合い方の質を、まずは整える必要があるのです。
素直にデータをして語らしめた図解というものは、「東洋美」を呈する、と、川喜田二郎が語っています。使い手の謙虚なまなざしが滲んだ、美しいものとなるのです。それは、図解をさっと眺めれば、すぐに伝わってくるものです。
己れの矮小な「我」というものを捨て、データの語りかけに対して身体を開いた、素直な世界観を。
その一点にこそ、創造性・オリジナリティーというものの逆説的な過激さが潜んでいるのです。
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「パレートの法則」、という法則があるそうです。
パレートという経済学者が提唱したもので、「20=80の法則」とも呼ばれています。
この法則を使えば、最小のエネルギーで最大の効果を上げることが可能になる、というわけで、マーケティングなどに応用されているとのこと。
たとえば、「ある店の利益の80パーセントは、全顧客の上位20パーセントの顧客がもたらしている」とか、「全商品の売り上げの80パーセントは、上位20パーセントの商品がもたらしている」ということに着眼して、効率よく利益を産み出そうというわけです。
KJ法の技法の一つに、「多段ピックアップ」という技法があり、これは一見、この「20=80の法則」に似ています。
取材で得たデータが100あったとして、それら全てを用いて「狭義のKJ法」を実践し、データの統合による構造化を実践するのではなく、たとえばそこから20のデータだけを精選して「狭義のKJ法」にもちこみ、構造化する、といった使い方をする技法です。このように、主として、取材されたデータを精選するときに威力を発揮する、魅力的な技法です。
この技法を説明するとき、私はよく、「ここで精選された20枚のラベルは、100枚から80枚を捨てた残り20枚ではなく、つまり、100−80=20、という20枚ではなく、実は、20=100、という20枚なのだ」、と申しております。
どういうことかと申しますと、100枚というラベル群から、そのラベル群全体の訴えかけを知る上で「なんだか気にかかる」という基準で段階的にピックアップされた結果の20枚は、その20枚をきちんと「狭義のKJ法」にっよってグループ編成して構造化すれば、100枚全てを使って構造化するのと同等の精度で構造化できて、本質も把握できる、ということなのです。80枚を切り捨てたわけではなく、100枚全てをこの20枚でシンボリックに代表させている、ということになります。
この技法には、「優先順位の低いもの、ダメなものを切り捨てる」という発想がありません。そのような「評価」を加えることなく、あくまでも「全体」の訴えかけを聴き取ろうという姿勢を貫く技法なのです。
ここでピックアップするデータは、量としての「上位」であろうが「下位」であろうが、なんらかのパフォーマンス上優秀であろうがなかろうが、かまわないのです。「全体」というものの訴えかけを知り、その本質を把握した上で問題を解決したい、という姿勢において「なんだか気にかかる」ならば、ピックアップしてよいのです。
大事なことは、ピックアップされた20枚なら20枚を、「残り80枚を切り捨てた、上位20枚」という目線で見ない、ということです。あくまでも、「100枚全てをこの20枚が、シンボリックに代表している」という目線で感受することで、これら20枚は、100枚の訴えかけをカバーすることができるのです。
つまり、これは人間にしかできない作業なのであり、使い手のまなざしがあればこそ、機能する技法なのだということです。
量的に評価を下し、ピックアップするだけなら、コンピューターがやってくれます。コンピューターの導き出した結果に従って20パーセントに集中すれば、手っ取り早いことでしょう。しかし、切り捨てた何割かの中に、思いがけない「宝」が眠っていないと、誰が保証できるでしょうか。そこには、「全体」の訴えかけを聴き取る姿勢というものはありません。冷徹な効率優先のまなざしがあるだけです。
では、KJ法は非効率的なしろものなのでしょうか?
否、むしろ、KJ法こそが最も効率的に「全体」というものの訴えかけを「構造」として把握し、「原因」ではなく、その「本質」を導き出す方法なのだと思います。
「原因」というポイントを特定する、という目線には、「全体」を殺す世界観が潜んでいます。「原因」の誤った解釈は、いびつな解決策をもたらしてしまいます。切り捨てられた「部分」もまた、どこかで悲鳴を上げています。
「部分」と「全体」とが有機的に互いを支えあい、意味を持つように、この世界は感受されるべきであり、KJ法は、そのための最もまっすぐな武器なのです。
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写真とは、突き詰めれば、光と影の芸術である、と言われます。
私自身、写真を撮るのが大好きであっても、なかなかこの本質を体得し切れたとは言えないまま、やみくもに撮り続ける日々。それでも、この「光と影」のドラマに心ひかれている自分がいるのを、うっすらと感じるようになってまいりました。
カラー写真の優れたものは、色彩のあでやかさ、繊細さに目を奪われますが、それがモノクロに変換されてなお、むしろ変換されることで一層、心をうつものがあるかどうかというのは、その作品の本質的な出来ばえの、ひとつの試金石になるように思われます。
そこには、色という情報が断捨離された、純粋な「光と影」のドラマが浮上してまいります。そのことで、カラーの時には見えなかった、あるいは後景に退いていた、情景の本質に深々と出会うことがあります。
時折、1950年代頃の映像作品を観て、モノクロならではのドラマ性の豊かな表現に、どきりとすることもあります。比較して、今時のカラー映像の、なんと情報過多で苛立たしい刺激に溢れて底の浅いことか、と。
そもそも、写真芸術はモノクロでスタートしているわけで、その核心には、世界を「光と影」のドラマとしてとらえる、というまなざしが在ってあたりまえなのですが、そのまなざしの〈抽象度〉の高さ・豊かさというものを、素人の私は今さらのように追いかけている次第です。
この〈抽象度〉の上げ方は、どことなくKJ法におけるデータの統合にも通じるものがあります。
KJ法は、渾沌とした多様なデータを統合し、それらの訴えかけを構造化し、本質を浮上させることのできる方法です。
その過程において、非常に具象性の強い複数のデータから発想し、抽象度の高い概念へと転換するという作業が必要になります。
ラベルという形に落とし込まれたデータは、最初は具体的な表情をしていることが多いのですが、KJ法でラベルたちのグループ編成をする際には、それらの具体性を、発想をはらんだ抽象度の高い表現に落とし込むことで(ラベルを集めてグループを作り、それらに「表札をつける」と言います)、統合してゆくわけです。
その時、創案者である川喜田二郎は、「土の香りを残せ」と訴えています。つまり、抽象度を上げる行為が「観念的」なカテゴリー化であってはならないのであって、元ラベルたちの「土の香り」を感じさせるように、その具象性の真の訴えかけを強く感じさせるように、シンボリックな鮮度を持つべきだ、というのです。
たとえば、里山をフィールドワークしたことで「放置されて死んでしまった棚田がある」というラベルを得たとして、このラベルを、「農業に関係があるデータだ」といった具合に、「何らかのカテゴリーに関係があるかどうか」という分類目線で眺めるのではなく、「里山の伝統が息も絶え絶えである」という訴えかけとして感受するなら、シンボリックにデータの本質に迫れる、といったことです。
深い本質の把握には、まなざしの転換が必要です。
大量の知や情報や技術を積み重ねても、ものごとの本質にたどり着けるとは限りません。人の心を動かすことも、出来るとは限りません。
無機的な情報たちの〈量〉としての膨大さの圧の中で迷子になりやすい、あわれな現代人にとって、すぐれた芸術もKJ法も、手放してはならない貴重な領域なのだと痛感いたします。
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古沢良太脚本の「幻蝶」という舞台を、2012年でしたか、兵庫県立芸術文化センターまで観に行ったことがあります。
タイトルに心ひかれたのですが、そのイメージ通り、幻の真っ白な「ギフチョウ」を捜し求めて生活を破綻させていった蝶オタクの主人公(内野聖陽)と、彼に関わったせいで、それぞれの内に同質の衝迫が潜んでいることに気づかされてゆく人々のドラマでした。
非日常に魂を食われてしまう者と、そのような衝迫から己れの人生を遠ざけて歩もうとする者と、いずれかを美化するというのではなく、ただただ、人には、己れにも御し難い過激ななにものかが潜んでいて、そのなにものかを抱え持つゆえに、人は尊く、愚かで、愛おしい。そんな人間観が率直に弾けていたようにおもいます。
人がその人らしく生きようとしますと、どうしてもそこには、〈守り抜かねばならないもの〉の存在が浮上してくることでしょう。それは、自分以外の〈かたわれ〉のような存在であったり、達成したい〈夢〉であったり、己れの内なる純な子どものような心であったりするでしょう。そして、それを守ることの難しさに直面せざるを得ないでしょう。その難しさは、己れと他者・外界との戦いとなることもあれば、己れ自身の内なる二面性の葛藤というドラマとなることもあるでしょう。
そのような〈守り抜かねばならないもの〉〈聖なるもの〉を諦めない心は、しばしば克服すべき幼児性だとみなされますが、果たして〈聖なるもの〉を諦めることが大人になることで、守り抜こうとするのは幼い甘えにすぎないのでしょうか?
〈聖なるもの〉を守り抜こうとする心も無しに生き抜けるほど、この世界は甘くはない、というのが真相ではないのでしょうか?
そんなこんなで、今年は珍しく、古沢良太脚本の大河ドラマを(今のところ)観ています。
若き日の、か弱き兎のような家康が、戦国時代の過酷なサバイバルの中で、毎回窮地に立たされながら、〈聖なるもの〉を守り抜けるのかどうか、シビアな展開が続いています。
彼が守り抜きたい〈聖なるもの〉は兎というメタファーで、その心性を潰そうとする現世の圧力は狼や虎というメタファーで、描かれています。己れの大切な兎を守ろうとするなら、否応なく虎にならねばならない、という設定は、戦国時代を舞台としながら、現在の私たちの実存に食い込んでくるものでもあります。
さて、兎を守りながら虎になることができるのか。
虎になるということは、己れの手で、大切な兎を扼殺することではないのか。
フェイクの虎が、本物の虎になるためには何が必要なのか。
兎に居場所は与えられるのか。
気のもめる展開が待ち構えていそうです。
今年は年女でもあり(何回目かはさておき)、己れの兎の居場所をあらためて見つめ直してみたいとおもっています。
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今年もたくさんの方々との出会いがありました。
オンラインでの開催となってからも、多くの方々にKJ法の研修を受講していただき、たいへんありがたいことです。
京都・霧芯館へお越しいただいていた頃の、対面での研修ならではの良さもありました。
休憩時間にはコーヒーとお菓子でほっこりしていただき、よもやま話に花が咲くこともありました。「晶子先生の淹れてくださるコーヒーが美味しくて」とのご感想も嬉しかった想い出です。
対面だからこそ得られる、受講中のみなさまの、ラベルとのやりとりの感触の情報というものもありました。
ここ、京都・松ヶ崎という場所の空気感を知っていただくこともできました。秋の研修では、終了時ともなれば、近隣の里山から鹿の鳴く声が響き、どなたもびっくりされたものです。初めて聞いたという方も多く、交通至便ながら自然豊かな京都の町になごんでいただくこともできました。
オンラインでの開催となった今では、それらを研修時間に盛り込む余裕はありません。それでも、オンラインならではの良さというものも多々あります。
画面共有での精度の高い解説、他の受講者の方々とも同じラベルで「表札づくり」というラベル統合の技への挑戦を共有しながら学べるという、質の高さも得られます。他の方の発想や言葉のチョイスを知ることができるのは、とても意義深いことです。
なにより、今までは、交通費・宿泊費をかけて遠方からお越しいただいていたところ、北海道であれ九州であれ、いつでもオンラインでつながれる便利さは、お互いにとてもありがたいことではあります。
画面越しだから相手のことがわからないかといいますと、そういうものでもなく、KJ法の作業をほんの少しでもご一緒いたしますと、言葉の選び方、発想の質などから、みるみるその方の思考・感受のかたちが見えてまいりますので、想像していたよりもはるかに、オンラインでの研修開催のデメリットというものは少ないと感じています。
限られた研修時間での学びではありますが、研修後には、宿題の提出をお願いしておりますから、KJ法図解作品へのコメントや添削を通じて、さらにコミュニケーションは深まり、理解も進めていただくことができています。
KJ法での出会いとともに、今年も印象深かったのが、インスタグラムを通じての出会いでした。
私の投稿のスタイルは、身近な風景写真に詩的なキャプションをつける、あるいは、短歌を添える、というものですが、今年も写真好きの方々や、様々な領域のアーティストの方々、時に海外の方々、そしてまた、それぞれの生活を丁寧に愛おしむように生きておられる方々と、心温まるやりとりを体験することができて、幸せなことでした。
実は、写真をレタッチしたり、それに言葉を添えるという私の表現は、KJ法の核心の部分とよく似たセンスで行なっています。
撮った写真が「レタッチしてもらいたがっている方向性」を聴き届けて編集する(もちろん、写真が「レタッチして欲しくない」と訴えている場合もあります)。そして、その写真が訴えかけている〈詩情〉を言葉として紡ぐ。
つまり、「己れを空しくして、写真をして語らしめよ」というのが、私の「写真と言葉」による表現のエッセンスです。
振り返れば、2022年も、寝ても覚めても、KJ法的に世界を視て、KJ法的に感受性を駆使して、KJ法的に表現をしてきたのだな、と、改めて骨の髄までKJ法的な自分に感じ入っている、師走の暮れとなりました。
どうぞ、ご自愛の上、よい年をお迎えください。
今年もこのブログをご愛読いただきまして、ありがとうございました。
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KJ法において、取材は「探検」という姿勢でなされるべきです。
創案者である川喜田二郎は、「探索」と「探検」を区別しており、野外科学、そしてKJ法を駆使する際の取材の姿勢は、「探検」であるべきだ、と主張しています。
「探索」といった場合は、探しものが最初からわかっている場合。
「探検」といった場合は、探しものが最初からわかっていない場合。それどころか、どんなデータが良いデータなのかさえもわかっていない場合。つまり、フィールドが混沌としていて、得体がしれない場合、そこでの取材は「探検」と呼ぶべきだ、というのです。
「野外科学」の「野外」という言葉も、川喜田二郎は、建物の内か外か、といった、〈場所〉の概念としてではなく、そこが自分にとって混沌としたフィールドである、という〈姿勢・態度〉の概念として提唱しています。だから、そのフィールドは、ネパールでもよいし、一冊の本の中でもよいし、自分の心の中でもよいわけです。
そこで、混沌としたフィールドに飛び込む際の「探検の五原則」を、川喜田二郎は明示しています。
「360度の視角から」「飛び石づたいに」「ハプニングを逸せず」「なんだか気にかかることを」「定性的にとらえよ」という五つの原則です。
それぞれ、大事なことを訴えており、私たちは、己れの姿勢をそこできちんと整えてかからねばならないのですが、最近、特に強調しておきたいと思うのが「なんだか気にかかることを」という原則の内実です。
既成の価値観にとらわれず、「なんだか気にかかる」と思ったことは、しっかり取材しておこう、ということであり、その「気にかかる」根拠を説明できるから良いデータであり、説明できないから悪いデータである、ということにはならない、という点が大事です。言葉でうまく説明できないけれども気にかかる、という「気にかかり方」というものを、KJ法では大切にするのです。
ところが、最近、ここを強調しますと、「自分の好きなデータを拾えばいいんだ」という風に了解してしまう人が多いようなのです。
実はこの「なんだか気にかかる」という原則は、取材されたデータから、「多段ピックアップ」という技法によって、データを精選する時にも意識すべきものなのですが、たくさんあるラベル化されたデータから、「なんだか気にかかる」を大切にして拾いましょう、と申しますと、その結果がひどく偏っている、浮わついている、という場合が多いようなのです。
そういう場合、何が起こっているかといいますと、おそらく、自分にとってうっすら浮かんでいる仮説を裏づけてくれそうなデータへと目が行っていたり、自分個人の価値観にしっくりくるという意味で「気にかかる」データであったりするようなのです。
根本的に、何を修正しなければならないかと申しますと、今、KJ法によって何について明らかにしたいのか、というテーマ性をしっかり握りしめていないといけないということ。そして、そのために、今からKJ法を実践することで、目の前のラベル群全体が何を訴えかけようとしているのかを明らかにするところなんだ、という点が腑に落ちていないといけない、ということです。
当然といえば当然なのですが、この二点が忘却された状態で作業を致しますと、テーマ(問い)についての答が得られない結果となりかねません。それでいて、自分の仮説にとっては都合のよいラベルを拾っているので、どことなく気分だけは良い、などという、歪んだ状態に至りつきかねません。
「なんだか気にかかる」ラベルを拾いましょう、といわれたとたん、自分の中の非合理的な直感を使ってよいのだ、と思ったとたん、自分の「我(が)」が前面に出てしまうのです。むしろこのとき、自分の「我」は後景にしりぞかせ、ラベルたちの訴えかけを素直に知りたい、という望みだけを強く持ち、「なんだか気にかかる」ラベルを拾うべきなのです。
そうすれば、自然とバランス良くピックアップされることとなり、混沌としたデータたちが「全体」として訴えかけていることを構造化してゆくという、「狭義のKJ法」の作業のための、適切なデータを整えることができるわけです。非合理的な感覚を駆使するからといって、それが主観的に過ぎないとか、恣意的であるとか、そういう偏りからは解き放たれているべきなのがKJ法の精神です。
合理性も、非合理性も、真に科学的であるためには必要なものです。
科学とは、その両者を適切に駆使して、この世界を解き明かすものであるはずです。
KJ法は、非合理性だけをやみくもに強調する方法ではなく、場面に応じた適切な姿勢転換によって、合理性と非合理性、意識と無意識の共働を可能とし、渾沌を精度の高い構造化へ、その本質の浮上へと導く方法です。
技法は繊細かつダイナミックに成り立っていますので、ちょっとした姿勢のズレがいびつな結果を生むことになりかねません。丁寧にこの方法の本質を学んでいただきたいとおもっています。
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「魔法使いであることと船乗りであることとは、それほど無関係なことではない。どちらも空や海を相手の仕事であり、強い風を手なずけて、それを利用するなど、たがいに疎遠なものを近づけることをその業(わざ)としているからである。」(ル=グウィン 著/清水真砂子 訳『ゲド戦記 ? さいはての島へ』)
人々が無気力になり、世界中がまるで死を待ち望んでいるかのような気配に包まれたとき、一国の王子アレンと、大賢人と呼ばれる魔法使いゲドが、小さな船で旅に出ます。この世界から魔法が失われているのはなぜか、その原因を突きとめるために。
小さな船の帆に、ゲドは時に魔法の風を、時には自然の風をはらませながら、さいはての島へと旅を続けます。
この世界に死をもたらす元凶の、底なしのうつろさが暴かれる一冊です。
喩として、どこか、今の私たちの世界風景に似ていないこともありません。
引用した箇所を、KJ法にひきつけて言い換えるなら、「KJ法が使えることと芸術作品を生み出すこととは、それほど無関係なことではない。どちらも渾沌を相手の仕事であり、己れの無意識をうまく引き出して、たがいに異質なものをひとつにすることをその業としているからである。」といったところでしょうか。
あるいは、「KJ法が使えることと科学者であることとは、それほど無関係なことではない。どちらもこの渾沌とした世界から得られたデータを相手の仕事であり、データの語りかけをうまく引き出して、無秩序の中から秩序を生み出すことをその業としているからである。」とも言えるでしょう。
KJ法は、科学的でもあり、芸術的でもある、唯一無二の方法論なのです。
芸術的であるのはなぜかと言えば、この方法の成果というものが、KJ法を実践する者の固有の創造的な貌を持つからであり、科学的であるのはなぜかと言えば、KJ法によって明らかになるデータ群の本質というものが、個々人の恣意性から解き放たれた、データ全体の訴えかけを素直に表明しているからです。
このような二面性を持つKJ法は、その二面性をともに十分に生かし切って活用したいものです。一見矛盾しているかのような、この二面性がひとつになってこそ、データたちもまた、異質さを超えてひとつの本質へと辿り着くことができます。
そのことの楽しさを味わえるのは、コンピューターではなく、人間であればこそ。
うつろでない、固有の感受性、固有の貌を持つ、人間によってこそ、切り拓かれる風景というものがあります。そこに立脚してこそ、堅固な科学性もまた命を持つのです。
この世界を死臭に浸してしまわないための〈旅〉が必要な時代であると感じています。
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ちょうど昨年の今頃、「正しいのは〈近さ〉」という記事を書きました。
KJ法における「ラベル集め」というものが、ただの分類や、恣意的な分析・解釈によってなされやすいのは、この〈近さ〉という感覚が腑に落ちていないせいでもありましょう。
「似ている」というのと「近い」というのと、それではいったいどう違うのか。
昨年も書きましたように、KJ法における〈近さ〉の吟味とは、その時のラベル群全体を「土俵」とした、その土俵の中での〈志〉の相対的な近さの吟味です。
KJ法で「土俵をはっきりさせる」というのは、今、眼前の問題解決やテーマのために取材されたデータがあったとして、その中で、「どれだけを全体として設定するかをはっきりさせる」ということです。
狭義のKJ法に取り組む際には、そこまでに取材されたラベルの全てなのか、そこから精選された30枚、といったラベル群なのか、「土俵をはっきりさせて」実践することになります。
この「土俵がはっきりしている」からこそ、その中で、あくまでも相対的に、このラベルと、「他のどれとよりも近い」ラベルはどれか、といった具合に、〈志〉の近さを吟味することが可能になります。(〈志〉とは、ラベル群全体を背景とした、個々のラベルのシンボリックな訴えかけのことです。)
さて、ここで、「近い」という感覚を駆使するのか、「似ている」という感覚を駆使するのか、ですが、創案者である川喜田二郎が、なぜ「近さ」で集めようとしたかといえば、それは、ラベルたちの訴えかけというものを、常に、個々のラベルと全体との間の切っても切れないやりとりの中で感受・発想していたからだと言えましょう。
少し、ラベルの気持ちになるためのたとえ話をしてみましょう。
なんらかの新商品の開発を、ある部署で担当したとします。
その部署の全員が、いくつかのグループを作って仕事に取り組み、この開発を成功させる、という課題に直面したとして、上司が、「考え方の似ている者でグループを作って作業を進めよう」と言ったとします。
個々のメンバーは、そこで、自分と考え方の似ている者を探そう、という目線で部署内を見渡すことになります。その時、その目線には、「似ている者と似ていない者」という二分法のバイアス、あるいは、「似ている者と、他のいくつかのグループ」といった分類的発想のバイアスがかかるのではないかと思うのです。少なくとも、自分と似ている者と、それ以外、というバイアスは強くかかるでしょう。そして、そもそも部署全体で何をなさねばならないのか、ということも少々棚上げして、自分中心に「似ている」を探し始めることでしょう。
ところが、「自分と考え方の近い者とグループを作ってみよう」と言われたとしたら。そこには、部署全体の中で、自分と近いもの、少し近い者、あまり近くない者、遠い者、といった、「近さ」のグラデーションを感じ取る目線が働くのではないでしょうか。さらに、「近い者」とグループを作るとしても、お互い完全に一致するわけではなく、異質さをはらんでいて当然なんだ、という意識も維持しているだろうと思われます。その異質さによって、プロジェクトの全体を有意義に動かしてゆくべきだ、という意識も抱くでしょう。
自分中心に「似ている者」を探して、その「似ている」は、「ほぼ一致」、といった気持ちで、自分のグループ以外を排除するような目線に立つのと、個々のメンバーが、部署全体を意識しつつ、相対的な「近さ」によって、他者の異質さをも尊重しながらグループを作るのとでは、どちらが生産的なパフォーマンスを産み出せるかといえば、明らかに後者だろうと思うのです。
「近さ」は、全体を意識しながら個の輪郭を定めてゆく目線だということです。「似ている」は、全体を忘却した雑な仕分け意識に陥りやすい。そこでは、全体も個も粗雑に扱われていることに気づきたいものです。
KJ法で、ラベル集めが上手くできていない場合とは、たいていこの「似ている」という意識の低さからきているのです。こういう意識の低さがありますと、セットになったラベルが3枚あったとして、それぞれにはらまれた異質さは安易にスルーされ、ラベルたちに「表札」と呼ばれる統合概念を文章で書こうという段階になりますと、3枚なら3枚を集めた意味というものの感じられない、発想の乏しい結果を生んでしまいます。
「近さ」という意識を持つことで、常に、全体感を背景とした〈志〉の感受を心がけるようになり、セットになった複数枚のラベルを感受する場合も、その異質さによって高次の概念へと創造的に発想する意欲を持ち続けることができるわけです。
異質さがあればこその発想であり、統合です。統合された結果、ラベル群は構造化され、その本質を浮上させてくれます。
「似ている」という意識による分類目線では、生き生きとした発想を生むことなく、水平的な整理に終始し、ラベルたちの訴えかけの本質には辿り着くことができません。
正しいのは、やはり〈近さ〉。
たとえ話から、〈近さ〉のニュアンスを高精度に掴んでいただければ嬉しいです。
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KJ法には、たった一人で実践する「個人KJ法」と、グループで実践する「グループKJ法」があります。
どちらかのやり方を知っていれば、もう一方も出来るかというとそうではなくて、ラベル群のグループ編成のステップは、それぞれにふさわしいやり方で進めなければなりません。
どちらの方が精度の高い結果(KJ法として適切な図解)に導かれるかといいますと、ケースバイケースなのですが、大事なことは、グループKJ法を実践するメンバーは、それぞれ「個人KJ法」に熟練していた方がよい、ということです。
ステップの違いの中で、最も重要な点は、「ラベル集め」をする際に、「個人KJ法」においては、ラベル群すべてを見渡しながら、セットになるラベルとセットにならない「一匹狼」とを確定してゆくのですが、「グループKJ法」においては、セットが作られますと、それは束ねられて一度作業スペースの隅にまとめておかれる、という点です。
つまり、「個人KJ法」においては、セットになったものと一匹狼、という状態を一望しながら、「このようなラベル集めの結果でよいだろうか」という吟味をすることができる。このセットは、セットになることでずいぶんと発想が飛躍するが、こちらのセットはかなり地味な飛躍だな、とか、これら一匹狼たちは、もうこれ以上セットになる可能性はないのだろうか、といった点を、チェックすることができる、そういう利点があるのです。
それに対して、「グループKJ法」では、一枚のラベルに対して、他のどれとよりも〈志〉が近い、という判断によってラベルが集められ、セットを作りますと、基本的に、そのセットが適切かどうかを点検する機会はその後無いわけです。メンバー全員で、合意の上でセットを決定してゆき、一匹狼も確定されてゆく、その流れを、逆戻りしてやり直したりしますと、いつまでたっても先に進めなくなりますので、全体感をバックにして「ラベル集め」の結果をチェックする目線というものが、どうしても手薄になるわけです。
そういう意味では、グループKJ法の結果の方が粗っぽいように思われるかもしれませんが、「グループKJ法」のよいところとしては、やはり、たった一人の視点ではなく、メンバー全員の合意の上で進めてゆくことにより、その作業の中で、自分一人では決して思いつかなかったかもしれないような発想と出会える、その歓びの大きさ、合意形成の道筋の刺激的でナチュラルな体感と達成感の大きさ、が挙げられるでしょう。
そして、もう一つ大事なことは、「ラベル集め」において、全体感をバックにしたセットの適否のチェックはやや手薄ながら、この「ラベルを集める」という行為が、ラベルの「近さ」によって為されるのだということが身に沁みるように技法が組み立てられている、という点です。
たった一人で作業をいたしますと、ともすれば「似ているな」とか「○○に関係があるな」とか、「○○のカテゴリーに入れられるな」といった、既成の枠組みによる分類へと滑っていきやすいこの「ラベル集め」なのですが、「グループKJ法」においては、ラベル群の全体感をバックにして、「他のどれとよりも近いものはどれか?」という吟味を、メンバー全員で実践しているということが、確実に身に沁みてまいります。
この体験はとても大切であり、KJ法という方法の、最も核心の部分を、自然に刺激的に実に愉快に体に沁み込ませることができるのです。
結果として、多少、出来上がったセット間の抽象度にばらつきがあったり、「しまった、こちらをセットにしておくべきだった」みたいなことが生じるとしましても、ゆるやかな全体感を共有しながら構造化に導くという意味では、メンバーの力量があれば、それほど不適切な結果にはならないものです。
「メンバーの力量」という意味で、やはり、必要になってくるのが、「個人KJ法」としてのトレーニングです。常にラベル群の「全体感」をバックにして〈志〉を感受すべきであること、「ラベル集め」の後の「表札づくり」における適切な発想と表現力。これらの技量無しに、まっとうな構造化は出来ません。
そんなわけで、「個人KJ法」と「グループKJ法」、実は、車の両輪のようなものであり、両者を根気よくトレーニングしていただけると、個人としてもグループとしても、実に生産的な結果が得られることになります。
特に、グループKJ法のリーダーができる、というのは、とても高度な力量を必要とします。「個人KJ法」の適確な実践能力とともに、メンバー全員の発想を、己れの我(が)ではなしにまとめ上げる能力も、グループ作業では必要となります。つまり、ラベル達が訴えかけていることを己れを空しくして聴き届けるのがKJ法ですが、メンバーそれぞれがラベル達をどのように感受して、どのように発想しようとしているのか、時に、メンバーがうまく口では言えない、といった場面で、良質の汲み上げ方をしてみせる、そういう技が必要になります。
この、ラベル達の訴えかけに加えて、メンバー全員の訴えかけをも、素直にかつ適切な深さをもって汲み上げることができれば、「グループKJ法」の成果は、「個人KJ法」の成果を上回るだろうと思われます。
個人として、いわゆる「質的研究」において論文を執筆する上でKJ法を活用する場合は、個人KJ法のマスターで十分ですが、組織としての問題解決においては、両方のトレーニングがなされることが理想的です。
巷には、ゆるくてゆるくておよそKJ法とはいえない代物が溢れています。それらは、ラベル達の訴えかけなど無視して、恣意的な主観を野放しにしたものであったり、およそ発想というものの無い、機械的な「整理」に過ぎないものであったりいたします。
この方法の奥深さをあなどることなく、まっすぐにKJ法に出逢っていただきたいと願っています。
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KJ法とは、個と全体との生き生きとした「やりとり」を意識しながら、渾沌としたデータ群からその本質を浮上させることのできる方法です。
なんらかのテーマに沿って取材されたデータがたくさんある状態。これは「渾沌」です。大量のデータであり、その質のバラエティーも多彩であるなら、それらがいったい何を訴えかけているのか、すぐに把握するのは非常に困難です。
しかし、その「渾沌」が、質のバラエティーとしてある程度整理されますと、私たちは少なからず安心いたします。「なるほど、このテーマにとって大事な訴えかけを持つデータというものは、このようなバラエティーがあるのだな」ということが把握できる状態になりますと、もはや、それらの大量のデータ群に対して、「渾沌」とはみなさなくなります。
それでも、その状態ではまだ、テーマに対して質が「いろいろあるな」ということが確認できるだけですので、テーマという「問い」の「答」は出ておりません。
「答」を得るために(つまり、データ群が「全体」として何を訴えかけているのかを明らかにするために)、KJ法では、それら大量のデータ群から、場合によっては、データを精選します。そして、精選したデータによって、構造化が行なわれ(「図解」という形でその構造を明晰にし)、本質を把握しやすい状態にまで辿り着くわけです。
以上のプロセスは、技法として説明するなら、次のような手続きとなります。
まず、取材した内容を単位化・圧縮化してKJラベルに適切に落とし込み、大量枚数のラベル群によって「探検ネット」と呼ばれる図解を作成することで、「渾沌」を「全体」として把握し直します(ここで、質のバラエティーなら一望できる状態になります。取材に不備・不足があるかどうかもチェックできますので、必要ならば、さらにラベルを追加して質のバラエティーを充実させます)。そして、「多段ピックアップ」という技法によってラベルを精選し、精選したラベル群によっていわゆる「狭義のKJ法」を実践することで、ただの質のバラエティーの展開としての「全体」は、改めて創造的に発想され統合されて構造を獲得し、その本質を浮上させることが可能となります。
このように、得体のしれない「渾沌」が、「探検ネット」→「多段ピックアップ」→「狭義のKJ法」というプロセスを辿ることで、美事にその本質を明らかにするわけです。
言葉で説明いたしますと、簡単なことのように見えるかもしれませんが、この技法の流れというものを、一度でも、自身の切実な課題に沿って粘り強く実践した人は、ただ単に、渾沌としていたラベル群が「整理」されただけなのではなく、そのプロセスを通して、作業主体であるはずの自分自身の固い殻のようなものが融解し、それまでの「主体と客体」といったモノの見方そのものが壊れる体験をされることになるはずです。
その行為は、「個々のラベル」と「ラベル群全体」という意味での「個と全体」のあり方についても、私たちの認識を刷新する力を持っていますが、それ以上に、「自分という個」と「この世界という全体」との間の関わりのあり方をもダイナミックに塗り替える力を持っています。
それまで、「分析」「分類」という思考パターンしか持たなかった人が、KJ法による「統合」のあり方にめぐり逢う姿を見るのは、感動的なものです。
これまで、その衝撃によって激変した多くの方々の表情の記憶。それらは、私にとって、この仕事をしてきたことの、最も美しくて心強い財産かもしれません。
もちろん、衝撃を受けた方々にとっても、KJ法と出会ったときの記憶と、その後のKJ法との関わりというものは、大きな財産になっているはずだと思います。
「分析」は、「全体」をひたすら「個」に分解し、「個」と「個」の関係性は因果律によって結びつけられますが、そこに「全体」との有機的な意味を保った「個」の姿は見出されず、すぐれた分析においても、「全体」はともすれば切り分けられてゆく最初のベースとしてのみ存在します。
「分類」においてもまた、無機的なカテゴリーへの「全体」の切り分けによって、「個」はその意味を剥奪されます。
「切り分ける」世界観というものが、いつの間にか、私たちの無意識まで浸潤し、世界を、他者を、モノを、自分自身を、切り分けて細分化してその意味を剥奪することに慣れきってしまっている状況というものが、私たちの現在のさまざまな課題の根っこにしがらんでいるようにおもわれます。
「切り分けない」思想へ。
切り分けられて意味を奪われることで得た表層的な明晰さの裏側で、本来の世界、本来の自分や他者というものへの飢渇感が増幅しないはずがありません。
その飢渇感がいびつな形で暴走して、世界を気まずいものにしないようにと、創案者である川喜田二郎は、KJ法を私たちに遺してくれたのだと思うのです。
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]]>「多頭飼育崩壊」という現象があります。
たくさんの犬や猫を、去勢手術も受けさせずに飼っているうちに、どんどん頭数が増え続け、衛生面でも飼い主の経済面でもどうにもならなくなってしまう状況というのが、社会問題にもなるほど。そこには明らかに飼い主のうつろな病理が潜んでいると思われます。
一方で、ブログやSNSでは、多頭飼育の醍醐味を魅力的に発信する方々もいて、多くのフォロワーを獲得していたりします。
多頭飼育したい、という飼い主の心理もさることながら、「わんず」や「にゃんず」が時にはケンカもしながら、なんだかんだ仲良くファミリーを形成しているさまに「萌え」る人々がたくさん存在する。この状況というものがとても興味深くおもわれます。
かくいう私も、とあるブログでの、「Tちゃんはそれまで、飼い主に無駄に咬みつくことが多かったのだけれど、Sちゃんをお迎えしてからというもの、すっかりそんな癖がなくなってしまった」という記事に、胸のすみっこが「きゅん」となったりしたものです。なんでも、後輩猫であるSちゃんが、「Tちゃん、咬まれるっていうのは、ほら、こんなに痛いものなのよ」とばかりに、Tちゃんを咬んでみせるという「教育的配慮」に満ち満ちた存在であるらしく。Tちゃんが「咬まれることの痛さ」を知り、他者を咬まなくなるという事態の中に、高度な「学習」の姿を垣間見た気がいたします。
そういえば、大ヒットした『鬼滅の刃』も、主人公たちが鬼と闘うストーリーの中に、ふんだんに「学習」というモチーフが散りばめられていました。
人に優しくされるというのは、こういう気持ちのよいものなのか、と学習したり、効率のよい身体の使い方、呼吸の仕方によって、想定以上のパフォーマンスが実現できるものなのだ、と学習したり。逆に、人から愛される体験が無かったことによって、「学習」の機会を持たずにいつしか「鬼」と成り果ててしまった者たちが描かれたり。
このアニメに対するフィーバーも、ある意味、私たちがどこかで「学習」し損なってきたもの、への渇きに起因していたかもしれません。異質なキャラクターの「多頭飼育」によって、私たちは過去の「学習」の欠落を埋め合わせていたようにもおもわれます。
最近の、スポーツチームへの応援の仕方にも、そんな切ない「埋め合わせ」の匂いがしないでもありません。たとえば、その日活躍した選手が、他のメンバーからこんな風に祝福されていた、とか、誰かがとんでもないエラーをしてしまったとき、メンバーがどんな風にそれを慰め、励ましていたか、とか。動画を見てコメントを書き込む際の「チェックポイント」が、実に細やかで突っ込んだ感情洞察・キャラクター洞察に満ち満ちているのが、昨今のスポーツチーム応援事情なのだな、とおもいます。アイドルグループに対するファンの「萌え」もまた然り。
「多頭飼育」と表現すると言葉が悪いかもしれませんが(そもそも、昨今の犬猫の飼い主たちの多くは、「飼育」という感覚ではなく、「お迎え」する、という、リスペクトいっぱいの感覚でペットたちとの共同生活を営んでいるようですし)、私たちは、「全体を個の総和である」と割り切りたくない存在なのだ、と、考えると、この状況はひとつの希望だともおもわれます。
チームというものが、個々の選手の能力の足し算ではないのだ、ということ。身体能力以外の資質も含めた存在としての全体感を持つ「個」というものが、同様の他のメンバーという「個」と、いわばかけ算としての相互作用によって、チームという「全体」が出来上がっている。メンバーそれぞれが互いに影響を与え合うドラマを経て学習・成長しながら、チームが強くなっていく。少年マンガの王道とも言えそうなパターンですけれども、「全体」とは生き物だ、ということです。そういう認識に、私たちは飢えている。
つまり、「個」と「全体」との間に、これほどにも「ドラマ」を見たいと望む私たちの状況は、とりもなおさず、成長過程において、日々の生活において、そのような生きた「ドラマ」を体験し損なってきたということを、訴えかけているのではないでしょうか。
「多頭飼育」が、病理として崩壊の様相を呈するのか、活力に満ちた「個」と「全体」を希求する世界観へと人々を押しやるのか、紙一重の〈現在〉という場所に、私たちは生きているのかもしれません。
KJ法という方法は、個々のラベルと、ラベル群全体との、実に生き生きとした発想のドラマによって成り立っています。
「全体は個の総和ではない」という川喜田二郎の言葉は、あるべき「個」とあるべき「全体」の姿を実現せずにはやまない、強い情熱に裏打ちされていることを、KJ法に関わる方々には深く感じていただければと願っています。
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川喜田二郎と、その友人であり、同じく文化人類学者であった岩田慶治氏との対談に、『人類学的宇宙観』という書があります。(講談社現代新書 1975年)
現在という時空の抱え込んでしまった閉塞感に対して、この世界をどう観るか、という場所から本質的な対話がなされた書物であり、互いの世界観の異質さを潔く認め合いながらのびのびと語り合う姿勢は、今日の学会、知識人、物書きの世界から失われて久しい志の高さと世界視線の広やかさを印象づけます。
そこで、日本の芸術の特質について、川喜田二郎がこんなことを語っています。
「昔、大阪市立大学に私がいたとき、芸術学の鼓常良さんが話されたことだが、西洋の油絵はワクがあって、つまり輪郭をつくって、そこに完結された世界をつくり出している。ところが日本画はそうではなしに、まわりがフワフワとなって、そのまま限定もなくひろがっているというのです。たとえば掛軸の絵がある。掛軸の絵というものはそこだけで完結しているのかというと、あれは床の間においてはじめて掛軸たりうる。では、床の間の世界というのはそれで完結しているのかというと、そうではなくて、部屋の中の一隅の床の間ということだ。では、部屋の中の世界というのはそれで完結しているのかというと、日本の家屋の特色に出ているように、障子一枚あけたらぬれ縁で、庭につながっていて、外の自然へと境界なしに、ズルズルと続いているというのです。これを鼓さんはドイツ語でラウメンロージヒカイト、つまり「ワクどりのなさ」と形容したんです。」
「KJ法のラベルには物理的なワクがあっても、そこで訴えているものごとは、中心性はあるが、周辺は宇宙の果てまでひろがっている。だからまわりから規定していこうというのと違うのです。中心性だけあって、まわりはフワーとしている。だからこそ二枚、三枚のラベルがお互いに親和力を発揮して、そこになにかの渦が起こりうるのだと思うのです。」
KJ法の本質には、日本的な世界観がひろがっていることを述べているわけですが、この「中心性だけあって、まわりはフワーとしている」とはどういうことかと言いますと、KJ法で〈志〉と呼ばれる、ラベルの訴えかけ、これがそれぞれのラベルには一つ含まれていて、訴えかけそのものはたしかに存在するのだけれども、分析的に規定された輪郭を持たない、ということです。
分析的な輪郭の規定とはどういう作業かと言いますと、たとえば、里山の現状について「放置されて死んでしまった棚田がある」といったラベルがあったとして、棚田は農業に関係がある、とか、農業の継承者不足で棚田が維持できないからだ、とかいった具合に、ラベルが何に関係があるのか、なぜそのような事態が生じているのか、と、ラベルの外側から輪郭を規定しにかかる作業だということです。
KJ法では、そのような分析的・原因探索的姿勢によって、ラベルを一元的に規定してかからないのです。
では、ラベルの中心性=志をどのようにとらえればよいか、といいますと(あくまで、里山について取材された他のラベル達の形成する全体感をバックにして定まるものではありますが)、たとえば、里山の伝統が息も絶え絶えである、といった風に、棚田の死というものをシンボリックに感受して把握すべきものなのです。棚田とは、里山の伝統のシンボルであり、それが死んでしまった風景というのは、里山の伝統そのものの死を意味するのだ、といった具合に。
これは、ラベル群のグループ編成において、どのラベルとセットになるかによって、別の志として感受されても構わないものであり、一元的な意味の規定がなされるわけではないのです。(分析的思考に慣れた人は、一つのラベルに対して、その原因としてふさわしい他のラベルを見つけると、セットにして強引なストーリー作りをしやすいものです。注意が必要です。)
では、KJ法のそのようなラベルの「セット」を作る作業が、恣意的で好き勝手なものかと言いますと、そうではなくて、ラベル群の全体というものを「土俵」として設定し、その「土俵」内において、「他のどれとよりも志が近い」ものをセットにするのであり、その「近さ」の吟味においては、あくまで「ラベル群全体の訴えかけとは何か」を明確にするための、「相対的な」近さの吟味を丁寧に致します。こちらの「我」でセットを作るのではありません。そこに、主観でも客観でもなく、帰納でも演繹でもない、発想法としてのKJ法の核心があります。合理的客観主義からも、分析的な思考の優秀さからも、決して見えてこない、対象の「訴えかけ」の本質へのアプローチが、KJ法の真骨頂です。
己れを空しくして渾沌をして語らしめる、というのは、そういうことなのです。
これを実現するためには、まず、ラベルをどのように見るのか、が大切になるのであり、日本画の掛軸、床の間、部屋、外の自然、といった具合に、ラベルとその周辺、ラベル群全体、生の現場、といった、連続感のある世界の中で、ラベル同士が〈志〉を交わし合う、有機的でシンボリックな意味の沸き立つ作業がなされねばなりません。
昨今の教育現場では、論理的・分析的で厳密な規定力によって対象を一元的に切り取るところから思考する鍛錬ばかりがなされているようですが、KJ法はその対極にある思考方法であり世界観なのだということを、あらためてひしひしと感じます。
だからこそ、そのKJ法でなければ、世界観の狭小さによって追い詰められた文明のいびつさを是正することもかなわないのだ、とも感じます。
ラベルという小さな世界に宇宙が宿っているということを、ぜひ、生々しく体感していただきたいものです。
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KJ法における「表札づくり」について、少し突っ込んだお話をさせていただきましょう。
いわゆる「狭義のKJ法」とは、「ラベルづくり」に始まって、「グループ編成」を経て「図解化」し、「叙述化」するという一連のプロセスを指すのですが、「グループ編成」は「ラベル拡げ」「ラベル集め」「表札づくり」という三つのステップから成り立っています。
プロセスのどれ一つとしてないがしろには出来ないのですが、中でも、この方法の成否を分けるのは「表札づくり」です。
霧芯館の過去のワークショップにおいて、「〈初対面〉のラビリンス」というテーマを設定したことがありました。
さまざまな現場で〈初対面〉によって関わりが始動し、時にはその関わりの質を〈初対面〉が大きく決定づけてしまうことさえあります。〈初対面〉という渾沌に対して、私たちがどのような姿勢で臨んでいるのかを掘り起こすことで、渾沌に対して抱くべきまなざしを構造化してみたいというのがねらいでした。
そこで提示されたラベルの中に、「めんどくさい」というラベルがあります。
このラベル一枚だけを読んでも、何がどのように「めんどくさい」のか、なにが原因で「めんどくさい」のか、わからないわけです。しかし、このラベルはワークショップの当日、多くのチームでピックアップされ、構造化された図解の中で存在感を放っていたラベルでもあります。
分析的な思考方法に馴れた方は、このラベルの「原因」を他のラベルに求めてしまうという間違いを犯します。「原因」として腑に落ちやすいラベルとこのラベルとをセットにして、表札づくりにおいても、「原因→結果」という形の表現で、「ストーリー作り」をしてしまうのです。
KJ法では、表札づくりにおいて「原因探し」をするのはよろしくありません。複数のラベルをセットにする際に、「原因と結果」とか「ものごとの生起した順番」とか、理屈によってストーリーを作って安堵してしまうのはNGです。
そこには「発想」というものが無いからです。そして、時に恣意的な解釈を野放しにする結果をも招くからです。
たとえば、「初対面の時、相手を値踏みしているように、自分も値踏みされている」というラベルと、この「めんどくさい」をセットにして、「初対面は、互いに相手を値踏みし合う場となってしまい、めんどくさい」と表札をつけたとします。ここには新たな発想は無く、思考は水平にすべっているだけだということがおわかりいただけるとおもいます。そして、「めんどくさい」理由は、「初対面で互いを値踏みし合う」からだ、という風に狭く一元的に規定されてしまっています。
あるいは「ご破算にできる関係性より逃げられない関係性の方が重い」というラベルと「めんどくさい」がセットになり、「逃げられない関係性の中で無理をするのはめんどうだ」といった表札をつけるのも同様に、なにが「めんどくさい」のかを、セットにしたラベルによって狭く規定してしまっています。
実験科学的・分析的な思考方法に馴れてしまっていますと、この「めんどくさい」というラベルのシンボリックな曖昧さというものに耐えられず、何がめんどくさいのか、どうしてめんどくさいのか、早く明晰に規定したい、という欲求が先走るのでしょう。ついついこの「ストーリー作り」の罠というものに足をすくわれてしまうようです。
では、この「めんどくさい」をどのように位置づけるのがKJ法として適切なのか。
本来、対象としているラベル群全体の中でそれぞれのラベルの訴えかけを位置づけるべきものですから、セットになったラベルだけで表札づくりの良し悪しを問うべきではないのですが、参考例として語るなら、このラベルを最後まで「一匹狼」として他のどのラベルともセットにしないでそっとしておく、というのも面白いですし、さきほど挙げたラベルと3枚でセットにするなら、そこで嫌でも発想の抽象度を上げねばならず、表札をつける意味のある作業も可能です。
「初対面の時、相手を値踏みしているように、自分も値踏みされている」
「ご破算にできる関係性より逃げられない関係性の方が重い」
「めんどくさい」
これら3枚に仮に表札をつけるなら「社会的な価値の枠組みや関係性による重苦しい拘束が、初対面から起動する」とでも。要するに、社会に縛られる重苦しさが始まってしまうんだよね、というわけです。多少、何がめんどくさいのか、を規定したことにはなりますが、これくらい抽象度というものがあれば、発想が水平にすべっていないことがおわかりいただけるでしょう。
ここでは、互いに値踏みし合う行為の中に、社会的な価値の枠組みで互いを評価し合っているまなざしを、逃げられない関係性の中に、社会的な拘束力を感じ取ることで、初対面というものが「社会の枠組みに縛られる場なんだ」という発想を得ています。「めんどくさい」も、これらとセットになることで、のびやかな自然体のお付き合いではなく、とりあえず初めは社会的な「貌」によって関係をスタートさせざるを得ない、場合によってはそのような関係を維持せざるを得ない、そんな「めんどくささ」として、包括的かつ本質的な訴えかけを得ることになります。
たった3枚ですけれども、仮にこれらの背後にある他のラベル達を見ないままであったとしても、〈初対面〉というものが一つの「ハードル」として私たちに与える緊張感の本質に、かなりの深度で触れられる気がいたします。
ラベルの訴えかけを、KJ法では〈志〉と呼びますが、この〈志〉は、「分析的」な視線・思考では感受を間違えます。
ラベル群の全体感を背景として、シンボリックに個々のラベルを感受しながら、統合してゆくことが大切です。
原因ではなく本質を把握する、KJ法のまっとうな威力というものに、少しでも触れていただければさいわいです。
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ほんとうによくわかっていることなら、1分で説明することもできるし、2時間かけて説明することもできる。
しっかりした理解というのは、そういうものではないでしょうか。
案外難しいのは、短い方かもしれません。
よく勉強したことなら、たくさんの情報を片っ端から説明すれば2時間くらい費やすことは容易かとおもいます。
ところが、それらを圧縮して1分で説明するとなると、何かを伝えたことにはなっていなかったりする。テーマを反復して「いろいろありました」で終わってしまう。
KJ法が素晴らしいのは、この「1分でも2時間でも」をいずれも充実させることができる、という点です。
一冊の本の内容をほぼラベル化して、KJ法で図解化したとしましょう。その結果をプレゼンする、あるいは、論述する。こういうトレーニングをいたしますと、たくさんの情報というものが、情報量として人を圧倒するのではなく、構造化されて説得力のある形で本質を浮上させる姿と、そのような行為をくぐり抜けた自分自身が「一皮むけた」感覚に感動いたします。このテーマについてなら「どこからでもかかってこい」といった気持ちになれる。ほんとうの意味で知識や情報が自分のものになる、というのはこういうことか、と納得できる。
ただ、KJ法がいわゆる「ナンチャッテKJ法」であった場合には、そのような効果は期待できません。
「ナンチャッテKJ法」がもたらしてくれるのは、せいぜい情報の分類・整理にすぎないからです。既成のカテゴリーに情報を仕分けする行為というのは、人の創造性を深いところから刺激することがありません。仕分けした結果というものも、分類箱のバラエティーが一望できるだけのことであり、構造として全体を把握することも、その本質を的確に表現することもできずに終わってしまいます。
まっとうなKJ法は、エネルギーの必要な作業です。ものの見方の根底的な転換も必要になります。
たくさんのラベルに記された情報が、小グループをつくり、中グループをつくり、大グループを、と、徐々に徐々に統合されてゆく、その小さな作業の一つひとつをおろそかにせず、データをして語らしめる素直な「発想」を積み重ねて大量のデータはまとまりを帯びてゆきます。
図解上では、ラベルのグループは「島」として表現されますが、10個以内の島になるまで統合され、論理的な落ち着きの良さを追求して構造を見出されたそれら複数の島々から、図解全体の簡潔なタイトルも考案する必要があります。
この「タイトルの考案」を手抜きいたしますと、どういう結果になるかといいますと、里山がどのような世界観でできあがっているのかを浮かび上がらせた図解であるはずなのに「里山について」とか、介護の現場の困難の本質を見出せるはずの図解に「介護をめぐって」とか、テーマを反復するようなタイトルをつけてしまうわけです。
そのあげく、プレゼンや論述をいたしますと、各島をただ「列挙しただけ」の結果となり、構造も本質も把握できていない状態の、漫然とした情報量の提示に終わるわけです。
KJ法は、近いけれども異質な複数のものを一つにする、という作業が基本にあります。ラベルをグループにしてゆく作業は、この基本型の積み重ねですが、図解を完成させる、いわば画竜点睛ともいうべき「タイトルの考案」もまた、10個以内の「近いけれども異質な島々」を一つにする作業です。自分にとって都合の悪い島をスルーすることなく、全てを言い尽くせたという手応え、本質として腑に落ちる感触が得られたなら、ようやく図解の完成です。
数十、数百もの情報を全て見渡して、一気に一言で本質を洞察して表現するのは誰でも至難の業です。ところが、KJ法の実践は、それを可能にしてくれますし、そのための作業において費やしたエネルギーの何倍もの「御利益」をもたらしてくれるものでもあります。
「1分でも2時間でも」説明できるということは、だらだらと情報量を陳列することでもなく、ざくっとカテゴリーを提示することでもなく、論理的な説得力をもった構造の把握と、深い本質の提示であるべきです。そして、その構造・本質を生み出す行為に、創造という〈意味〉がはらまれているべきです。
「一皮むけて」みたい方は、霧芯館の扉をたたいてみていただきたいと思いますし、KJ法に慣れたつもりの方々も、日々のトレーニングをお忘れなく。
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表題は、「ゆきげこう」と読みます。
歳時記には、「雪解(ゆきどけ・ゆきげ)」が春の季語として掲載されておりますが、そこに「光」が添えられることで、季節を示すアイテムというよりも、季節の変化を察知する私たちの五感と密接なイメージが顕ち上がります。
「変化」という言葉それ自体は、良きことでも悪しきことでもないはずですが、こと季節に関しては、私たち日本人はその「変化」を実に細やかに愛着をもって感受してきた歴史が長いようにおもわれます。
どの季節が好きかという好みは人それぞれであっても、それが移り変わることと、変わり目にのみ感受する「光」のあり方、「風」や「香り」や「気配」のあり方というものに、私たちは鈍感ではいられない民族でありましょう。
特に、冬の寒さの中にも春の気配を微かに感受するとき、そこには闇の中に一筋の光明を見出すときのような、希望や憧憬の感覚が重なります。
しかも、その「変わり目」への愛おしみの感覚は、必ずしも「冬を憎み春を愛する」のではなく、「闇を忌避し光だけを望む」のでもなく、季節の「巡り」の感覚に支えられた「変わり目」への愛なのではないかとおもわれます。
だからでしょうか、私は、この「雪解光」という言葉に、不思議な既視感をおぼえます。
本来、雪解け、雪解、という季語は、雪国の風土に根ざした季語だったのでしょうけれども、そこに「光」が添えられるとき、身体の奥底から、自分はその光を見たことがある、という感覚がせり上がってくるようにおもわれるのです。「雪解け」にまつわる風景を直接見たことはなくとも、「光」によって「雪解け」という季節の変わり目を感受する、その心ばえなら、私たちの魂はちゃんと知っているのにちがいない、そんな気がするのです。
言葉は、武器です。
何と戦う武器かといえば、リアルな体験や世界のありようや深い感動というものが、言葉によって粗雑に概括され、観念的な記号と化してしまうことと戦う武器なのです。
その武器は、「変わり目」という刹那が、季節の「巡り」の感覚に支えられてはかなくない意味を持つように、言葉を超えた世界との交感に支えられて効力を発揮します。
KJ法においても、データが統合され、構造化されてゆく上で、「言葉」による統合がなされていますが、ほんとうの統合は、言葉ではなく、イメージでなされるべきものです。複数のデータがイメージによって融合し、それに「言葉」が与えられているにすぎません。しかし、そこで実現された「言葉」の力は、ただの分類や恣意的な分析・解釈によってデータ群の語りかけが歪曲されてしまうことと戦うことのできるものなのです。ですから、「言葉」だけでKJ法が上手くできるようになろうとしても、それは、観念的なアイテムとしてしか実感の無い季語を投入して無理矢理俳句を作ろうとするようなものなのです。
観念的な記号と化したさまざまな概念やカテゴリーや、はかなく消費されてゆくあざといイメージたちに取り囲まれ、私たちの身体はずいぶんと狭苦しく無機的な容器となり果て、痙攣的な刺激に馴らされて感度も低下しているように思われます。
本来の私たちの感覚の振り幅というものを、言葉の深度というものを、見つめ直したいものです。
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インスタグラムを始めてから二年ほどになります。
いろいろな方の投稿・ギャラリーを拝見しておりますと、それぞれの〈こだわり〉が感じられ、そこに自分とは異質な世界の視え方が存在することの手触りに、粛然とした心持ちをおぼえることがあります。
野鳥や花や瀧といった被写体へのこだわりもあれば、モノクロームにこだわる方、青という色にこだわる方、マクロ、オールドレンズ、フィルム等々、自分らしい表現を求めて、どなたも〈こだわり〉を持って投稿しておられます。
その〈こだわり〉が表現として意味のあるものになるためには、表現する側と、表現を享受する側に、ある〈土俵〉の共有が必要になるのではないか、と思います。
たとえば、こういう魅力的な写真になったのは、AというレンズではなくBというレンズでもなく、Cというレンズを使ったからだ、といったことを、作品を享受する側は必ずしも理解していなくてもよい。そのような知的了解という意味での〈土俵〉ではなく、「AでもBでもなくC」という〈こだわり〉によって追い求められている表現の境地の感触のようなもの、その質感への感受力という〈土俵〉が共有される必要があるのではないでしょうか。
なぜこの人はモノクロームでしか撮ろうとしないのか、その理由を知らずとも、モノクロームにこだわり、色を断捨離することでしか表現できない世界を伝えたいのだ、というまなざしは感じることができます。
なぜ被写体の輪郭をここまで曖昧にしようとするのか。そのための技術的な試行錯誤はわからずとも、その曖昧さへの強度の〈こだわり〉からは、現実世界へのなにがしかの異和感をくみ取ることはできます。
私たちは、そのようにして、異質な他者の世界観と、本質においてきちんと出会う能力を持っているのだ、表現したいという衝迫と、それを深く享受したいという衝迫とがせめぎ合うことで形成される感受性の〈土俵〉というものが、それを可能にしているのだ、ということに、畏怖の念とともにやすらぎをおぼえます。
KJ法は、問題解決の方法であり、合意形成の方法でもあります。
渾沌を構造化してその本質に出会うこと。
異質な他者と表層的でなく合意に至ること。
いずれも、これほどに個々人の世界の視え方が多様化した時代においては、かつてないほどに困難なことだと言えましょう。
しかし、相手の他者性への畏怖の念を忘れず、人の本性に刷り込まれた、その他者性に架橋することのできる能力への信頼感を呼び起こすならば、かつてない困難は、かつてない創造性の交響へとシフトすることも可能でありましょう。
〈こだわり〉の彼方に、深々とした表現の歓びと、本質的な出会いの沃野が拡がっていることを祈念して。
2022年、どなたにとってもすがすがしく、豊かに他者と響き合う一年となりますように。
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泉鏡花の『夜叉ヶ池』という作品の中で、登場人物が「人は心のままに生きねばならぬ」と叫ぶシーンがあります。
もともとこの作品が好きだったのですが、今年になって、1979年に篠田正浩監督によって映画化されたものを、デジタルリマスター版で観ることができました。
坂東玉三郎が、夜叉ヶ池に棲む龍神の姫と、村に暮らす女性百合の二役を演じ、百合の夫役を加藤剛が演じています。
我欲にまみれた村人たちによって、雨乞いの生け贄として拉致されんとする百合を、夫の晃が守り抜こうとするクライマックスに、加藤剛のあの清冽で気高い声音で叫ばれる冒頭の言葉は、観る者の魂のど真ん中を射抜くように、混じりっ気の無い生き様を突きつけます。
「心のままに」とは、どのような生き方でしょう。
コロナ禍というものは、ある意味、人にそれぞれの「心のまま」とは何か、考えさせる状況を作り出したような気もいたします。
人それぞれ、この「心のまま」を明晰に自覚できる場合もあれば、無自覚に求めて迷走している場合もあるかもしれません。
もしかしたら、迷走していることこそが「心のまま」への近道なのであり、明晰な自覚は大きな迷妄であるといったこともあり得るでしょう。
それくらい、己れの「心のまま」を知ることは難しいとおもいます。
「地の時代」から「風の時代」へのシフトが進んでいる、と言われます。
そのシフトが一人ひとりにとって幸福なかたちで、もっとも深いレベルにおける「心のまま」を実現することが可能となるようなものであることを祈念しつつ。
どうぞ温かくして、よい年の瀬をお迎えくださいますように。
本年も、このブログをご愛読いただきまして、ありがとうございました。
十月桜がまだ咲いています。
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以前、滋賀県で住環境デザインを学ぶ学生さんたちにKJ法を伝授していた時のこと。
大学近傍の里山を3日間みっちりとフィールドワークしてきた彼らのラベルに「里山には信号機がほとんど無い」というものがありました。あるいは、「里山では、道に迷ったとき、携帯のGPS機能を使おうかと思ったが、なぜか機械に頼るのは避けたかった」といったラベルも。
車の通りと人通りが少なければ信号機も少なくてすむのかもしれませんが、現代っ子・都会っ子の彼らは、そういう因果律的な解釈をしたかったわけではなく、里山に流れている独特の時間の感覚に鮮烈な印象を抱いたのだとおもわれます。
都会で生きる時間というものが、ちょうど信号機によって縛られ、統御されているかのような、外部から与えられた管理の枠組みとしての機械的・無機的なものであるのに対し、里山にはそのような枠組みが無いことに、学生さんたちの身体が鮮やかに反応したことを感じます。
道に迷ったとしても、里山という世界でGPS機能などというものに頼るのはよろしくない。そんな感覚が身の内から湧き上がってきたのでしょう。己れの五感・第六感を駆使すれば、必ず道はわかる。あるいは、いっそこの迷子の時間を存分に楽しんでやれ。
そんな解放感に包まれながら、己れの内にも眠っていた反・都会的な衝動に、まんざらでもないな、という想いを抱いたことでしょう。
KJ法は、空間的な方法でもあり、時間的な方法でもあります。
混沌としたデータ群が、図解という形で構造化されるという意味では、空間的な方法ですが、その完成した図解を、他者に向かって説得的に語ろうとする時には、時間的な流れを編み出すことになります。
この、空間と時間が一体となった「物語的な意味」が生成されることで、KJ法を駆使する者には創造的な体験が身体に刻みつけられますし、その図解と叙述に触れた者もまた、同じ物語を追体験することが可能となります。
そこで体験する空間も時間も、社会に溢れている規格品の時空間とはひと味もふた味も違うものです。里山に包まれて己れの内なる野生味に目覚める学生達のように、無機的な尺度から解き放たれた営みによって、創造という「自由」の味をしめることとなります。
現在の私たちは、大量の知や情報を、日々誰かと共有して過ごしています。しかし、その「共有」の多くは実に表層的であり、場合によっては共有させられることが苦痛な「押しつけ」や過度の不快な「刺激」でさえあります。
ほんとうは、断片的な知や情報を伝えたいわけではないのに、このような「共有」に馴らされた私たちは、断片としてしか他者に伝える術を持たず、とりあえず「共有」することで他者と接点を持った気になり、社会の内部に場所を得た感覚によって、なにがしかの不安をなだめつつ、浅い呼吸を繰り返しているような毎日。
ちょうど信号機によって流されたりせき止められたりしながら、大量にネット空間を行き交うような知や情報を、とりあえず安全に、情報迷子・情報難民にならないように享受しなければいけない。そんな強迫観念が、私たちを息苦しくさせていることに、時々全身的にうんざりしてみるのも悪くありません。
観念的な規格の外側へ。
私たちの内に眠っている「自由」の総量は、実は恐るべき膨大さであると想うのです。
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質的研究のためにKJ法をご活用になる方々にとっては、インタビューで得られた多様で渾沌とした語りの質や、アンケートの自由記述部分の多彩な内容を構造化したい、というご希望が、KJ法への入り口となっている場合がほとんどです。
そのような取材内容を、KJ法に持ち込むには、まず、小さな「ラベル」にデータを落とし込むという作業が必要になります。
そこでは、得られた資料(数人分のインタビューの逐語録や、アンケートの自由記述など)を、適切に「単位化・圧縮化」して、「ラベル化」することになります。
語り手・書き手は、初めから「ラベル」に落とし込むのに適切な長さで、一つの内容を語ったり書いたりしてくれているわけではありません。冗長であったり、主語・目的語がぬけていたり、あちこちに話が飛んでいたりするそれらの元データを「ラベル化」するためには、「ここに一まとまりの内容がある」という判断で「単位化」することと、それでも長い場合、「圧縮化」する、という手続きによって、小さなラベルに落とし込むことになるわけです。
そのとき、大事な姿勢は、まずは全体感を粗くとも把握しておく、ということです。
どちらかといえば女性に多い問題点なのですが、インタビューの逐語録が数人分手元にある、といった場面で、いきなりAさんならAさんの逐語録をラベル化し始める方がおられます。全員分の逐語録を読んでからではなく。仮に全員分を読んでから作業を始めたとしても、なぜか女性は、Aさんの逐語録をラベル化し始めますと、Aさんの語りの文脈に没頭してしまいます。研究のテーマが何であったかも忘れ、全員分の逐語録を読んだことによって曖昧ながらも把握した全体感も忘れ、Aさんの語りの文脈の中に埋もれてしまいます。
その結果、「ラベル化」は、その一枚のラベルだけを読んでも通じる、という大前提が崩れてしまうのです。
ご本人は、Aさんの逐語録ならよく読んでいますので、前後の文脈も理解している。その流れの中で、逐語録から気にかかる一部分をただ抜き出す、というやり方で、ラベル化を行なってしまうわけです。
こういう作業をしてしまいますと、前後の文脈から切り離されては成立しようのない内容が、一枚のラベルに書き込まれ、それを元ラベルとして「狭義のKJ法」へと進んだ暁には、個々のラベルの訴えかけが不明瞭な、実にしまりのない統合をせざるを得ないわけです。
全員分の逐語録や、アンケートの自由記述の全体というもの、それらを繰り返しよく読んで、粗くとも〈全体〉をイメージすること。
これが前提となって、〈個〉を適切に設定し、意味をもって把握することが可能となるのです。「〈個〉を適切に設定する」、とは、ここでは「ラベル化」のための単位化・圧縮化が上手くできることであり、「意味をもって把握する」とは、そのラベルには、テーマにとって何かしら大切な訴えかけが含まれていそうだ、ということを感じ取ることです。
KJ法においては、この、「粗くとも〈全体〉を素描する力」と「〈個〉を適切に設定し、意味をもって把握する力」とは、切り離せないものとして駆使しなければなりません。そして、KJ法の技法体系は、常にこの二つの力の均衡・往還によって威力を発揮するように成り立っています。
たかがラベル、されどラベル。
小さなラベルに落とし込む、というそれだけの作業ですが、そこにも、創案者である川喜田二郎の、〈全体〉と〈個〉をめぐる壮大な思想が綿密に練り込まれているのを感じます。
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]]>川喜田八潮 著、時代劇戯曲『闇の水脈 天保風雲録』が、本日2021年10月15日、発売となります。第一部・第二部、2冊同時刊行です。
アマゾンおよび全国の書店で発売されます。
アマゾンはこちら↓
『闇の水脈 天保風雲録 第一部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293494/
『闇の水脈 天保風雲録 第二部』https://www.amazon.co.jp/dp/4434293508/
内容紹介
激動の天保期。諸価値のせめぎ合う開国前夜。
巨大な陰謀の渦に巻き込まれていく刈谷新八郎。
家族にも、大人たちのつくり出す世界にも、心の居場所を見出せない青年・刈谷新八郎は、北斎の〈龍〉に出逢い、生きる意味を掴みかける……
時代を動かそうとする者たちと、踏みにじられる者たちとのはざまで、新八郎が転生を遂げることとなる〈闇〉の世界とは?
幕末ニートの苦悩と新生の予兆を描く時代劇巨編!
あらすじ
天保十四年(一八四三)晩秋の閏九月、江戸下町・本所回向院の境内で、生き別れとなっていた、ふたりの中年の男女が、十年ぶりに劇的な再会を果たした。
男は、今は、浅草で私塾・水明塾を営む市井の陽明学者・河井月之介、女は、常磐津の師匠・音羽。
ふたりは、互いの数奇な運命について語り合い、今、再びめぐり逢ったことの不思議さの中に、この世の裏に秘められた、目に視えぬ霊妙な〈闇〉の気配を感受するのだった。
そこには、同時に、六年前に起こった大塩平八郎の乱に象徴される、天保期の荒廃した不条理な世相が影を落としていた……
一方、水明塾の塾生で、月之介の愛弟子である旗本の青年、刈谷新八郎は、己れの生きる意味を見出すことができずに、〈引きこもり〉の部屋住み暮らしを続けながら、もがき苦しんでいた。
心の通わない家族と冷やかで殺伐とした大人たちのつくり出す、閉塞した空気感の中で、ひとり無意味に朽ち果てていくような不遇感に苛まれながら、懸命に〈出口〉を探し求める新八郎は、月之介の娘である恋人の絵師・お京の助言で、彼女の師匠である葛飾北斎の娘・お栄に出会い、北斎の肉筆画の世界に息づく〈龍〉の気配に、思わぬ〈生〉の啓示を受けることになる……
水明塾の仲間で、秘密結社・革世天道社のメンバーであった親友・小幡藤九郎の思いもかけぬ〈悲劇〉に、いや応もなく巻き込まれてゆくことで、新八郎の運命もまた、大きく狂い出し、この世の秩序を超えて妖しくうごめく〈闇〉の世界へと転生を遂げてゆく……
徳川幕藩体制が大きく揺れ動き、近代と前近代の諸価値が烈しくしのぎを削り合う、黒船来航前夜の、アナーキーな空気感の漂う天保期を舞台に、「幕末ニート」刈谷新八郎の劇的な生の軌跡を描き上げる時代劇巨編。
著者コメント
文芸評論家・川喜田八潮の、劇作家としての初めての著作となります。
今回刊行の『天保風雲録』は、実は、私の時代劇戯曲『闇の水脈』シリーズ四部作の「第一作」に当たります。残りの三作品は、その「続篇」として、すでに書かれ完成しています。それらのタイトルは以下の通りです。
『闇の水脈 愛憐慕情篇』
『闇の水脈 風雲龍虎篇』
『闇の水脈外伝 潮騒の声』
これらの『闇の水脈』シリーズ四部作は、本年も含め、これから四年間かけて、毎年一作ずつ(それぞれ二巻本の形で)順次刊行してゆく予定です。本作『天保風雲録』を面白くお読み頂けた読者の皆様が、続篇の方も楽しみにしてお待ち頂けるなら、作者としてとても嬉しく思います。
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KJ法は、似たようなラベルを集めればいいのだ、と、勘違いされています。
これは大きな間違いであり、正しいのは〈近さ〉。
データの記されたラベルたちの〈志〉(ラベルのシンボリックな訴えかけ)の〈近さ〉で集めるのが正解です。
この〈近さ〉は、ラベル群全体の中での相対的な〈近さ〉を吟味すべきであり、安易に「直観で」「主観的に」集めればいいのだ、と思ってしまうと、恣意的な解釈が野放しとなり、あるいは安っぽい分類に陥り、完成したKJ法図解は、ラベル達の訴えかけからはかけ離れたものとなってしまいます。
科学的であること=客観的であること、と考えるなら、KJ法は確かにそういう科学の枠組から逸脱した方法です。
しかし、KJ法=恣意的な主観的方法、と考えるなら、これも大きな間違いです。
主観でもなく、客観でもなく、KJ法が誠実であろうとするのは、ラベル達という渾沌の訴えかけだ、ということです。
これを明らかにするために、実験科学的・分析的・客観的なアプローチをとるのではなく、かといって主観的に恣意的に勝手な解釈を展開するのでもなく、「渾沌としたデータをして語らしめる」のがKJ法です。
「渾沌」は、適切な取材によって、まずは「全体」としてある程度の目鼻立ちを獲得し、それらがKJ法によって統合・図解化されることで「構造化」され、その「本質」を明らかにする。このプロセスは、常に「全体」と「個」というものをどのように感受するのか、という世界観と密接に結びついてなされねばなりません。KJ法の各技法には、この世界観が自然に丁寧に織り込められており、分析的・客観的な操作に陥ることなく、恣意的・主観的な解釈に横滑りすることなく、「全体」の中における「個」の訴えかけを聴き届け、発想しながら統合する営みが推し進められます。
この、ラベル達の訴えかけを、全体という「土俵」の中で、相対的な「近さ」によってグループ編成してゆくという、KJ法の核心は、実に安直にただの「分類」や「分析」「解釈」へと転落しやすいものです。
霧芯館では、この核心部がお一人ずつに伝わるように、オンライン研修後に各自で取り組んでいただく課題へのフォローバックまで含めての研修です。
自分のやってみたラベルの集め方、表札のつけ方に対して、添削されてみる体験なくしては、この方法はなかなか身につくものではありません。
さまざまなこの方法への誤解を超えて、適確な発想力を駆使できることが、お一人ずつの問題解決力、質的データへのアプローチ力というものを格段に飛躍させることになります。
安易な「ナンチャッテKJ法」との違いを、本物の発想力への道筋を、ぜひ、ご自身のお手元のラベル達とのやりとりで、体感していただきたいと願っています。
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KJ法は、データの記入されたラベル群が統合され、構造化されることで、ラベル達の訴えかけというものの本質を浮上させることのできる方法です。
この、取材した内容を「ラベル」にする、という行為においては、「単位化」と「圧縮化」が必要になります。
なんらかのテーマをめぐっての複数人に対するインタビューの逐語録がある、といった場合、語り手は、小さなラベルに記入するのにちょうどよい長さで想いやアイデアを語ってくれているわけではありません。だらだらとまとまりのない語りであったり、同じことを何度も言い換えて語っていたり、言いかけて語尾が曖昧であったり、主語や目的語が省かれていたりします。
その語りを、どのようにして小さなラベルに記入するのがKJ法にとって有意義なのか。語りの〈全体〉の訴えかけが適切に構造化されるために、これは大切なステップです。
そこで、「単位化」と「圧縮化」という目線の判断が必要になります。
ここに一まとまりの内容がある、という判断。こちらとあちらの内容をまとめてひとまとまりとしよう、といった判断。それが「単位化」ですが、それでも長々としていて、小さなラベルにおさまらないなら、抽象度を上げた表現にするなど「圧縮化」をしなければなりません。
この、「単位化」と「圧縮化」が適切になされてはじめて、「狭義のKJ法」と呼ばれる一連の作業のスタート地点である「ラベル化」が成功いたします。
逐語録から機械的に抜き出したり、分節化したりするようでは、すなわち、この「ラベル」というものを、逐語録の全体から分断された、無機的な断片、「セグメント」として把握するなら、それはKJ法ではありません。
〈全体〉から切り取られはしますが、ラベルには、一つの完結した「単位」としての訴えかけ、〈志〉と呼ばれるシンボリックな訴えかけが含まれており、〈全体〉との曖昧で刺激的な創造的やりとりを息づく小宇宙なのだ、と感受してはじめて、KJ法はまっとうに機能します。
創案者である川喜田二郎が語るように、「〈全体〉は〈個〉の総和ではない」のです。
つまり、KJ法とは、「脱・セグメント」的世界観によって成り立っていると言えましょう。すなわち、「脱・分析」であり、「脱・分類」でもあり、個々のラベルへの放恣な解釈を野放しにしないという意味では「脱・解釈」でもあります。
セグメントの集合は、無機的であるがゆえに、一見、科学的に扱いやすいように思われがちですが、恣意的な解釈や分類や分析へと投げ出された、危険なデータの群れであるとも言えましょう。真にデータ群が訴えかけていることとは何かについて、KJ法は実に自然な科学性を駆使することができます。
部分とは、〈全体〉から切り離された意味のない断片ではなく、〈全体〉との生き生きとしたやりとりの中でその訴えかけを浮上させてゆく完結した小宇宙なのであり、そんな小宇宙がミクロにもマクロにも、入れ子のように存在するものとして、世界が感受され、KJ法の図解もまた、構造の内に、そんな入れ子式の宇宙が濃密に孕まれています。
たかがラベル、されどラベル。
一つひとつのラベルの小宇宙の〈志〉を、ラベル群という大宇宙との交感においてしっかりと聴き届けながら、「渾沌をして語らしめる」方法の奥深さを、ぜひ、味わっていただきたいと思っています。
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KJ法が問題解決において有益であるためには、完成された図解が、「問い」に対する「答」を表現していなければなりません。
たとえば、「現在とはどういう時代なのか?」という「問い」があったとして、KJ法図解を作成してもそれに対する「答」が出ていないようでは、この方法を使う意味がありません。
「狭義のKJ法」図解が完成しますと、その図解に「タイトル」をつけますが、それは、「問い」に対する「答」が得られているかどうかの確認のためでもあります。
「現在とはどういう時代なのか?」という「問い」を立てて取材をし、図解を作っておきながら、完成図解に「現在をめぐって」「現在の状況」「現在の様々な問題」などとタイトルがついてしまっているようでは、なんのためにこの方法を使っているのかわかりません。
いわゆる「ナンチャッテKJ法」と呼ばれるような、ただの分類でしかない結果を導く安易な活用においては、当然のように、こういう事態に陥ってしまいます。
ただの分類的「ナンチャッテKJ法」は、「現在」をめぐるデータが、いくつかの既成のカテゴリーに整理された状態なら生み出すことができます。でも、「現在とはどういう時代なのか」をそこから説明することはできません。せいぜい、「高齢化の問題、経済の問題、ITの問題、心の病の問題、環境問題・・・・」といった問題が「いろいろあります」としか説明できないわけです。
「分類」という作業は、いわば、先に箱を用意しておいて、そこへデータを仕分けする作業です。
「高齢化問題」という箱を用意しておく。高齢化に関係があるラベル(KJ法では、データは小さなラベルに記されています)は内容を問わず、全てこの箱に入れてしまう。「心の病」という箱を用意しておく。メンタルの問題は全てそこへ放り込む。こういう作業を致しますと、確実に、完成された図解は「いろいろあります」というだけの図解になるわけです。
KJ法が、「分類」にならないためには、「先に箱を用意しない」という覚悟が必要です。
あくまで、ラベル達の訴えかけの近さによってグループを作らなければなりません。
ラベル群全体を背景とした、この「訴えかけ」のことを、〈志〉と呼ぶのですが、この〈志〉の近さでセットを作ることで、たとえば、「経済」に関係があるラベルと「心の病」に関係があるラベルがセットになったりもします。既成のカテゴリーの枠を飛び出して、ラベル達は、真の〈同志〉を見つけるのだと言えましょう。
グループ化されたラベル達は、図解上で「島」を形成しますが、それらの「島」は、自分とラベル達とのオリジナルなやりとりによって発生した、オリジナルな「島」の名前をつけられて、構造化されます。その結果、世界に一つだけの図解が完成することになります。
構造を説明することで、「現在とはどういう時代なのか?」という「問い」に対して、説得力のある「答」を述べることができますし、「タイトル」をつける作業によって、その「構造」のど真ん中をひと言で言うこともできます。
こういう作業を経て図解を論述するならば、単に島の内容の列挙にとどまらぬ、迫真力のある説明ができるはずであり、「データをして語らしめる」とはどういうことなのか、腑に落ちる体験につながります。
それは、図解作成者の主観によって成り立つ恣意的なものでもなく、無味乾燥な客観的な分類・整理でもなく、世界に一つという固有の真実の場所から普遍性に触れられる、創造的な営為なのだということです。
パソコンがやってくれること、AIにできることはたくさんあります。
KJ法は、人間にしかできない作業をいたします。
「答」を得るために、時間とエネルギーをかけます。その営為が、全身の細胞が沸き立つような創造的な営為であることに、自分にしかできない固有の営為であることに、これからたくさんの人々に気付いていただかなければならない。そういう気がしています。
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服を一着、迎える。
ペットを我が家に迎える。
最近、「迎える」という言葉がこのように使われているのを、よく見かけます。
服を購入するのではなく、自分のクローゼットに迎え入れる。
ペットを飼い始めるのではなく、自分の家に迎える。
そこには、ウェルカムの気持ちとともに、対象を自分の我で選んだというよりも、向こうがやって来てくれる、なにものかの意志が、対象を自分のところへ導いてくれている、そんな〈縁〉への慎ましさの感覚が働いているようにおもわれます。そして、対象が服であれペットであれ、人間を相手にしているのと同等のお付き合いが始まるのだ、そんな期待感も込められているような気がします。
KJ法という方法の本質にも、同じような慎ましさの感覚が存在します。
データの〈志〉に対する慎ましさの感覚が、この方法をまっとうに機能させてくれるのです。
KJ法における〈志〉とは、そのデータの書き込まれたラベルのシンボリックな訴えかけのことであり、その訴えかけは、こちらが上から目線で解釈したり、分析したり、分類したりして規定するものではなく、ラベル群の全体感をバックにして、ラベル間の相対的な質の近さを丁寧に吟味することで浮上してくるものです。
丁寧なこの〈志〉の統合を繰り返すことで、最終的に図解としてデータが構造化されますと、ラベル達が言いたがっていたことというものが、自然に明晰になり、全体の「本質」というものを把握することができるようになるわけです。
その一貫した作業工程の中において、私たちの「我」というものは、身を乗り出すことが許されません。ラベル達の〈志〉を統合しながら、「本質」を追求するような言葉を紡ぎ出し、「表札」として定着させていく作業においても、私たちは、常に徹底的に受け身であれ、と創案者・川喜田二郎は語っています。徹底的な受け身の中にこそ、真の能動性・創造性というものを見出した彼の哲学は、決しておろそかにすべきものではありません。
安易な分類、こちらの恣意的な解釈、原因追求型の分析、いずれをも排して、データの統合はなされねばなりません。
とはいえ、その作業は、実に愉快なものでもあるべきで、「眉間に皺など寄せるな」とも、彼は語っていました。
近いけれども少しずつ異質なもの達が、目の前に一望できる状態のとき、人はなんと愉快にフレッシュに、さまざまなことを連想し、発想し、本質へと導かれてゆくことか。
ラベル達が自然と集まりだして、渾沌がやがて明晰な構造を露わにすることの、なんと爽快な体験であることか。
渾沌をして語らしめる体験において、己れの「我」が剥がれ落ち、データと己れとの一体となった往還の感覚によって、視界が開けるような瞬間の、なんと充足感のあることか。
〈志〉を、己れを空しくして迎えつつ、渾沌が本質を浮上させてゆく道程を、ひとりでも多くの方に体感していただければと、霧芯館では、オンライン研修にて、この方法の濁りのない体験をご準備してお待ちしております。
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KJ法においては、なんらかの取材がなされた後、その内容をまずは小さなラベルに落とし込むことで、データとして整えられ、統合化への道が始まります。
小さなラベル一枚には、一つの内容が適切に書き込まれねばなりません。
その時、一つのラベルには「一つの〈志〉」がある、と、KJ法では表現します。
これは、「今から、ラベル達を、既成のカテゴリーに分類しよう」とか、「ラベル群の分析を始めよう」という意識になってはいけない、ということでもあります。
目の前に、分析したり分類したりすべきラベル達がある、という風に見てしまうと、そこからの作業は、KJ法ではなくなってしまうのです。
ラベル群全体というものを背景として、テーマにとってシンボリックな訴えかけというものが、それぞれのラベルには含まれている。そのように感受してはじめて、KJ法は適切に機能いたします。その訴えかけを〈志〉と呼びます。この〈志〉が統合されることで、データの構造化がなされます。
それがどれほど「分類」や「分析」とかけ離れた営みであることか。
〈志〉という概念に込められた、この方法の核心は、残念なことにあまり理解されておりません。ですから、実に安易にただの「分類」や恣意的な「分析」「解釈」へと横滑りしてしまうわけです。
ただの「分類」であっても、ある程度の整理には役立ちますし、その「分類」をベースにして、シャープな「分析」や「解釈」をすることも可能ではありますが、そこで実現された結果は、「ラベル達が訴えかけていること」にはなり難いのです。
シャープな分析や解釈というものを「仮説」とし、それを「検証」することの意義は大きいとしても、「仮説」そのものを、データの訴えかけに即して素直に、かつ、個性的に発想することの意義もまた、見失われてはならないのであり、KJ法は、そのような発想力を大切にし、その発想力のベースとなる全体観・世界観の蘇生のために編み出された方法でもあります。
個々のラベルをどのように感受するのか。
それは、ラベル群〈全体〉、そしてその〈全体〉の前提となる、渾沌としたフィールドの感受と切り離せないものです。緻密な技法体系を丁寧に実践し、「〈全体〉は〈個〉の総和ではない」ことに気付くとき、この方法の奥へ、一歩踏み込んだことになります。
ラベル達の訴えかけが、素直にかつ個性的・創造的に構造化されることの楽しさ。そして、これをグループで行なった時の、合意形成力の強靱さ。
曖昧な渾沌から明晰な構造が浮上する歓びを、ただの「分類」でお茶を濁さない快感を、ご縁のある方々にぜひ、味わっていただきたいものです。
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前回の記事で、写真家ソール・ライターについて書きましたけれども、当事者にも隠された意味を浮かび上がらせる、という点で、KJ法もまた、彼の写真と同じ本質を抱え持っている、とも言えます。
ライターの写真が、被写体が「撮られていることを知らない」せいで、いわば盗撮的な視点によって、被写体自身も自覚していないような、情景の中の一部としての存在の意味を立ち上がらせているように、KJ法もまた、取材されたデータというものは、それぞれの〈志〉について自覚的ではない、ということができます。
KJ法における、データの〈志〉とは何か、といいますと、データ群の全体感というものを背景として、個々のデータが何をシンボリックに訴えかけようとしているか、であると表現できます。
KJ法の使い手である個人が、データをいかに解釈するか、いかに分析するか、分類するか、ではなく、データそのものが、データ群の全体感というものの中で何かしらの訴えかけを発している。そう感受するのでなければ、そもそもKJ法という方法は始まらないのです。
そのことがきちんと理解されていないために、KJ法はいともたやすく「分類」的なただの整理法へと堕落させられてしまうわけです。
たとえば、ここに、自分にとって大切な、こだわりの30冊の本があったとします。それをどのように整理しようか、と考えて、図書館へ行くならば、図書館には既に、カテゴリー別の本棚がありますので、自分の大切な30冊は、そのカテゴリーに沿って「社会学」の本棚なり、「文芸書」の本棚なり、「児童書」の本棚なりへ分類してみることが可能です。
KJ法では、そのような既成のカテゴリーを使わずに、それぞれの本の訴えかけに従うのです。その訴えかけの近さによって、グループになる本たちに、オリジナルの本棚を作ってゆく。グループを編成して10個以内の本棚にまとめる。そういう作業によって、世界にたった一つしかない、オリジナルな図書館ができあがる。
単純に喩えるならば、KJ法はそういう作業をする方法です。
本の意味を恣意的に分析・解釈するのでもなく、ましてやただの分類をするのでもなく。
この、KJ法の核心としての技法が「狭義のKJ法」と呼ばれる部分ですが、この核心部の技法がきちんと機能するためには、その前提として適切な「取材」ができていなければなりません。
「取材」において、重要なポイントとなるのは、果たしてテーマに対して取材されたデータの「質のバラエティー」というものが、バランス良く出尽くしているのかどうか、という点です。
混沌としたフィールドにおいて、バランス良く、効率よく、「状況の底に徹した」取材ができるようでなければ、その後の「狭義のKJ法」部分もまた、偏った結果に陥ってしまいます。
KJ法における問題解決のためのスタンダードな「型」として、「探検ネット」を作成して適切な取材を行ない、「多段ピックアップ」によってデータを精選し、「狭義のKJ法」でそれらを構造化する、という流れがあります。
この流れを丁寧に実践できることで初めて、データたちは自身の〈志〉というものを明晰にすることが可能となるわけです。
自分自身の〈志〉に無自覚であったデータたちが、KJ法図解が完成した暁に、それぞれの〈志〉を明晰にして、イメージ豊かに構造化される、そのプロセスには、創案者である川喜田二郎の、自然な人間性への洞察に裏づけられた、精緻な方法論というものが潜んでいます。
安易な分類・分析に堕することなき、本来のKJ法の姿というものに、一人でも多くの方々に触れていただきたいと願っています。
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写真家・ソール・ライター(1923〜2013)。
京都駅の美術館「えき」で開催されていた「永遠のソール・ライター」を観て、この世界を蘇生させるまなざしについて語りたいおもいに駆られました。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/20_saulleiter/
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/21217
1950年代から、ニューヨークで第一線のファッション・フォトグラファーとして活躍するも、1980年代には商業主義と一線を画し、その後はひたすら自分のためだけに写真を撮り続けたソール・ライター。しかし、2006年にドイツの出版社から初の写真集が刊行されると、彼の作品の数々は、再び大きな反響を世界中に巻き起こしたのだとか。
2017年、日本でも初の回顧展が開催され、それに合せて出版された写真集は、日本の写真集業界でも異例のベストセラーに。
今、再発見された彼のまなざしの魅力とは、その核心とは何でしょう。
私には、写真芸術の本質について語る資格はありませんが、彼に視えている世界風景というものの本質は、あらゆる芸術や表現、そして「生きる」という営みの本質にもつながる、普遍的な奥ゆきを暗示しているようにおもわれました。
彼が、「私はシンブルに世界を見ている。それは、尽きせぬ喜びの源だ」と言うとき、その「シンプル」さとは何か、という問題が、彼の表現の核心を表しているようにおもわれます。
「シンプル」と呼ぶことにむしろ異和感をおぼえるほど、彼の作品は、「間接性」によるもどかしさを訴えかけています。
被写体は、雨粒まみれのガラス越しに撮影されたり、窓枠に遮られて歪みを提示していたり、高所からなんらかの障害物越しに切り取られていたり、霧や雪によって霞まされていたり、傘に隠されて部分しか見えなかったり。あるいは、映り込みやシルエットによってシャイにほのめかされるポートレートなども、彼らしい表現、と思われます。
真っ正面から被写体を撮るということを回避した、間接性・部分性・曖昧性。そのことで否応なくかき立てられる、存在や世界の全体像への渇き。それが、重苦しさは無いけれど陰翳のある物語的な〈詩〉として顕ち上がり、観る者をその〈詩〉の潤いで包み込む。彼の写真を観る時のある種のなつかしさの感覚は、そういう〈物語詩〉をほのかに共有する喜びなのではないでしょうか。
「シンプル」なのは、写真を撮る視点というよりは、〈詩〉として顕ち上がる情景把握なのだと感じられます。
では、それを可能ならしめているものは何でしょうか。
写真とは、そもそも全体から部分を断片として切り取っているのだから、技術的な確かささえあれば、誰だってそのような〈詩〉を提示し得るのではないか、ともしも考えるなら、それは、きちんと写生さえすれば、五七五という〈型〉の制約によって誰だって優れた俳句が作れる、と考えるようなものではないでしょうか。
確かに、堅固なリアリズム的な写生の技術、撮影技術というものの成果が、それだけで象徴性を獲得して、〈詩〉として享受できる表現となり得る場合はありますけれども、そこに表現者の感受した〈詩〉があるかどうか、つまりはこの世界を蘇生させたい、という衝迫があるかどうか、この世界を〈意味〉のあるものとして見ているかどうか、ということになると、また別問題でありましょう。
時に、盗み見的な視点で撮影される彼の写真の被写体たち。障害物に隠されながら、全体としての意味をふくよかに再現させる情景たち。
そこには、ソール・ライター個人の視点、というものを〈我〉として主張するのではない、存在と世界と己れの行為に対するつつしみ深さが感じられます。
カメラを通して、彼は、自分自身もひとつのメディアとして、個人の輪郭を超えたなにか大いなるものへと、まなざしを差し出しているようにおもわれます。
今、撮影しているのは〈自分〉というちっぽけなものではない。〈自分〉を通して顕現する何ものかのまなざしが、ただの被写体や風景を、情景へ、詩へと、昇華しているのだ、といった。
そのことの「シンプルさ」というものが、彼の表現をささやかだけれども温かな〈意味〉で彩っている。
雨粒にまみれたガラス越しの人物は、個人としての生活史の輪郭を抱えながらも、それを包み込む〈水〉の気配に、自らはそれと知らずに包まれて柔らかな〈意味〉を獲得しています。
高所から盗み見られた、雪道を歩む赤い傘の人物は、たくさんの足跡の中に自らの足跡を紛れ込ませながら、〈人生〉という雪道をひたすらに、いずこかのかりそめの目的地へと歩を進めています。
「主体と客体」という分離したまなざしを排すること。〈神の目〉としての盗み見や俯瞰による、被写体それ自身にも隠された〈意味〉の発見。それが、ソール・ライターにとっての世界の発見であり、〈詩〉の発見でもあったことでしょう。
〈神の目〉といっても、それはキリスト教的な〈神〉ではなく、むしろ一神教的な峻厳さから人を解き放ちつつ、人や風景の在りようにのびやかな〈意味〉を与えてくれるような、洒脱な〈目〉であったかもしれません。
日本で彼の人気が一気に高まったことにも、そんなやわらかな〈意味〉を感じさせる情景への、日本人の感受性の親和力が関わっている。そう思われます。
写真に限らず、映像にまつわる技術的な進歩にはめざましいものがあります。
デジタルな技術を駆使するならば、かつて不可能であったことがいともたやすく、誰もが実現できるものとなりつつある現在。
そこで私たちが日々浴びるように目にする映像の、いったいどれほどが、この世界を蘇生させてくれるのでしょうか。逆に、私たちの呼吸を圧迫し、神経を摩耗させ、生命力を奪い去る表現にも多々、触れざるを得ない今日この頃。
「尽きせぬ喜びの源」として、世界を見ることの温かさ。
〈詩〉として蘇生する世界への希望を、ソール・ライター再発見の潮流に見ることができるなら、嬉しいことではないでしょうか。
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どこかのお宅の飼い猫でしょうか、住宅街の中で遭遇した一匹の猫の写真を撮りましたら、なんともいえず猫らしい表情をしていました。
真っ昼間の路上ですが、「今から、猫にしか猫が見えない暗闇へ紛れ込むんだから、声をかけるなよ、ついてくるなよ」と言われたような。
猫という動物は、たとえ人に飼われていても、それは仮の姿。人ではなく、場所が気に入っているだけ、などと言われますが、この猫も今から、おそらくは飼い主の知らない、人間の立ち入れない時空間へ紛れ込んでしまうのだろう、と思われました。
猫同士、夜は猫の集会場に集まって情報交換している、などと聞いたこともあります。猫同士のみならず、この世界の〈闇〉の領域、人間にとっては異次元の空間とも、やりとりしているのかもしれません。
飼い主が、「うちの猫のことならなんでも知っている」などと思い込んでいるのは、猫の存在のほんの一部分に過ぎず、人のうかがい知ることのできない〈闇〉を存分に呼吸して彼らは〈猫〉たり得ている。そんな気がいたします。
猫だけではなく、野鳥も、樹木も、その存在は、人の目で「認識」している部分だけで生きているのではなく、人智をはるかに超えた〈闇〉と、軽々とつながっているように感じられます。こともなげに深々と、〈闇〉を呼吸しているようにおもわれます。
猫や鳥にできるのなら、人間もできて当たり前なのではないでしょうか、本来。
いやむしろ、自分自身気づかぬ内に、そういう呼吸をしているからこうして生きられている、と言えるのかもしれません。
よく知っている誰か、よく知っている自分、そんな思い込みをさくっと手放してみるならば、私たちはもっと、〈闇〉を深く呼吸して、おもいもかけない自分を自分らしく生き、他者や世界との関わりは陰翳を増すのではないでしょうか。
ときどき、ふと、身近な人の存在に対して、「まだ見ぬ、まだ知らぬ、まだ触れたことのない9割がある」と思って、その9割への畏怖と敬意を新たにする。
ときどき、己れの知らない己れがまだ9割以上ある、と思って、その〈闇〉の深さと可能性に、畏敬の念を抱いてみる。
そのような〈闇〉と触れたときの感覚というものは、いつも〈詩〉を曳いているようにおもわれます。世界や他者や自分が無機的な断片ではなく、やわらかな拡がりと意味を持っている、そう信じられる〈詩〉の手触りに、魂が潤います。
人と人、人と世界の関わり方が表層的には大きく変わらざるを得ない今、〈存在〉が乾かぬよう、痩せ細らぬよう、深々と呼吸したいものです。
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]]>2021年1月8日に、霧芯館−KJ法教育・研修−のホームページをリニューアルいたしました。
URLは以前と同じですが、こちらからアクセスして下さい。最新の状態をご覧いただけます。 → http://mushin-kan.jp
各ページの内容を、旧ホームページよりもシンプルに整理して掲載しております。
昨年(2020年)10月に、研修コースをオンライン化いたしましたので、今までに、霧芯館(京都市)へお越しいただいて対面形式での研修を受講された方は、オンラインでは次にどのコースを受講するのがよいか、迷われると思います。お気軽にメール・お電話でご相談ください。
また、Zoomにて開催しておりますが、オンラインによる受講に不安をお持ちの方も、ご遠慮なくご相談ください。事前のオンラインテストなども承ります。
研修コースは三種類。
〈個人KJ法1日体験コース〉〈取材力養成コース〉〈応用技法活用コース〉の順番で受講していただくのがステップアップのためには有効です。
質的研究のためにご活用の方は、 〈個人KJ法1日体験コース〉〈取材力養成コース〉の受講を必須とお考えください。この両コースには、研修受講後の課題提出も含まれており、KJ法図解作品への丁寧な添削・コメントを差し上げております。
まずは、お気軽にメール・お電話にてお問い合わせください。
詳細は、霧芯館ホームページにて。→http://mushin-kan.jp
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「風の時代」の到来である、と言われています。非常に大きなパラダイムシフトが起こっているのだ、と。
占星術的な見方によれば、二百年以上も続いた「地の時代」から「風の時代」へとシフトするのだそうです。昨年から、すでにそのシフトは徐々に始まっており、昨年12月22日から、いよいよ本格的な「風の時代」に突入したのだと。
詳しい星の配置・移動のことはわからなくても、「地」から「風」へ、と言われるだけで、イメージは感覚的に想起できます。また、占星術など信じない、という人でも、この一年ほどの世の中の激動の本質には、なにかしら世界観的・価値観的な大変動がはらまれているのを、ひしひしと感じないではいられないでしょう。
大規模な価値観の変動が良き方へとシフトすることを祈りつつ、この「風の時代」をどのように生きるのか、ではなく、「地」の時代であろうと「風」の時代であろうと、忘れてはならないまなざしというものがある、とも思います。
ヨガの本質が、呼吸・姿勢・瞑想であると言われるように、たいていの健康法や武術の本質には、身体を整えることと心のありようとが不即不離であるとの考え方が潜んでいるようにおもわれます。呼吸によって自身のからだと世界との往還が生じ、個体としての輪郭を保ちつつも、私たちは個体としてのみ完結しているのではなく、世界を呼吸することでむしろ個体たり得るのだと感じます。また、柔軟でブレないということが矛盾のない形で実現される姿勢を保つ力を得て、己れをくっきりとかつとらわれのない存在としてイメージできるようになれば、「地」「風」「水」「火」どのような星回りの時代であろうと、どのようなシフトが起ころうと、対応できるのではないでしょうか。
そういえば、昨年、大ヒットした『鬼滅の刃』、テレビ放映されたアニメは観たのですが、そこには、「呼吸」の大切さがこれでもかと表現されていました。
主人公の少年は、鬼になってしまった妹を人間に戻すため、鬼と戦い続けるのですが、己れの身体能力を最大限に引き出すためには、〈全集中の呼吸〉をしなくてはなりません。この呼吸をマスターしつつ、そこに技としての〈水の呼吸〉や〈火の呼吸〉が繰り出され、切迫した戦いを斬りぬけてゆきます。
面白かったのは、修行のために、主人公が〈全集中の呼吸〉を24時間できるようになろうとすることでした。眠っている時も絶え間なく。
〈全集中の呼吸〉によって瞬発的に身体能力を上げていた、それを絶え間なくできるようにすることで、己れの基礎体力を格上げするわけです。
この『鬼滅の刃』という作品には、登場人物たちが何かを「学習する」姿がさまざまに描かれています。人に優しくされるとどのような気持ちになるかを学習したり、己れの心のままに判断することを学習したり、他者の内に、表面からは見えない傷や病があることを学習したり、ちょっとした体の動かし方の違いがどれほど大きなパワーを生み出すかを学習したり。主人公の竈門炭治郎はことのほか、この「学習能力」が高い少年ですが、鬼と戦うために、アスリートのような訓練をしながら心も体も「強く」なってゆく姿に、日本中が熱狂しました。もしかして、私たちは誰もが、何かを「正しく学習し損なっている」という感覚を抱いているのではないだろうか。ふとそんなことを思わずにはいられませんでした。
さて、〈全集中の呼吸〉を24時間できるようになろう、という代わりに、私としましては、KJ法的まなざしを24時間駆使しよう、と言ってみたい気持ちがあります(笑)。
霧芯館で研修を受講された方々から、時々、「先生はこんなことをいつもなさっているのですか?」と聞かれることがあります。
たった一つの「表札をつける」という作業の奥深さに驚嘆された方のご感想ですが、おそらく、初めてラベルたちをグループ編成し、「表札をつける」とはどういうことなのか、研修で体験されますと、初めて〈全集中の呼吸〉をしてみた炭治郎君のような状態になるのかと思われます。「きつい」と。
ではいっそ、24時間やってみましょう。
ご研究のため、組織での問題解決のため、そういう場面でのみ、KJ法が使えるパワーを一時的に駆使しようとしても、そう都合良く上手く使えるものではありません。
呼吸・姿勢・瞑想が一体となってまっとうなヨガとなるように、KJ法も、データとの適切なやりとり、KJ法の本質のブレない理解、とらわれのない己れと世界へのまなざし、これらが一体となって発動してはじめて、そのパワーを発揮してくれます。
いつでもKJ法的目線で、この世界に、渾沌とした情報に、自身の現場に、真向かうことができれば、「きつい」などとは感じなくなります。
そもそも、そのときだけ使おう、などと考えるのはもったいない、豊潤な方法です。
2021年、「風の時代」へ。
KJ法とともに、軽やかに、爽やかに、呼吸することにいたしましょう。
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霧芯館のある京都市松ヶ崎から、北の岩倉方面へ向かう坂は、狐坂と呼ばれています。
車の通行量も多い坂道ですが、坂の側面や、ちょっと道をはずれたところには、里山の雑木林もあり、野生の鹿や野鳥に出くわすことも。
写真はそんな坂道のはずれにあって目を引いた植物でした。
調べてみると、クサギという落葉樹だそうです。雑木林に自生するらしく、星の形の赤紫のがくと、藍色の実が印象的です。葉はピーナッツに似た匂いがするのだとか。
紅葉の季節を少し過ぎた雑木林で、この赤紫のがくと藍色の実の姿は、なにかとても強い訴えかけを発しているように感じられました。晩秋に、この藍色の実を落とすのだそうですが、実を落とす前のこの鮮やかな色と形には、凜とした意志のようなものさえ感じられ、それでいてその意志を言葉にしようとすると、なにかがすり抜けてしまいそうな。
2020年について振り返ることにも、このクサギの姿との出逢いについて語ろうとするのと同じような、語り難さがあります。
強いて言うなら、〈個〉として生き抜こうとすることや意志を持つことと、〈類的〉に存在すること、そのどちらかにおいてのみものごとを考えるなら、きっといびつになってしまう。そんな語り難さの感覚であるかもしれません。また、クサギの姿や2020年の出来事というものを、知識の集積や解釈によって語ろうとしても非常にむなしい。そういう感覚であるとも言えましょうか。
クサギの実が、星の形のがくに背中を押されるようにして旅立とうとしている、その印象的なイメージを、イメージのままに共有するのも悪くないように思われます。
解釈されることを拒みながら、それでも鮮やかな意味の強さ、訴えかけの強さを持つ出来事や風景というものがあります。
どうか、くれぐれもご自愛の上、よいお年をお迎えください。
本年も、ご愛読いただきまして、ありがとうございました。
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お知らせです。
昨年上梓致しました『J-POPの現在?〈生き難さ〉を超えて』に続くJ-POP論の第二弾、『J-POPの現在 ? かたわれ探しの旅』 が刊行されます。いずれも川喜田八潮との対談形式の共著となります。
今回も、J-POP作品の歌詞の読み解きを通して、KJ法で斬り込むのと同様、〈現在〉という時代の本質に斬り込んでまいります。
********
BUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、米津玄師、King Gnu 等々……彼らの表現における「かたわれ探し」の現在性とは?
米津玄師「Lemon」「馬と鹿」、菅田将暉「まちがいさがし」、BUMP OF CHICKEN「天体観測」、RADWIMPS「前前前世」、King Gnu「白日」など、人気曲の数々を〈愛〉というテーマのもと、「かたわれ探し」という視点から論じる。
〈生き難さ〉を打開してくれる切実な「命綱」としての「かたわれ」。
孤独と閉塞を打ち破るヒントがここにある――。
*********
2020年12月15日刊行予定です。
アマゾンから予約できます。→https://www.amazon.co.jp/dp/4434282727/
今回の『J-POPの現在?』では、「かたわれ」がテーマです。
「ソウルメイト」「ツインソウル」といった言い方で語られることもある「かたわれ」。
相手が異性であるか同性であるかにかかわらず、この「かたわれ」との出逢いを求めて私たちの無意識は激しく渇き、「かたわれ」を命綱のようにして私たちはかろうじて本当の意味で呼吸できる。そういう飢渇感が蔓延しているように感じます。
J-POPの楽曲のみならず、新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』や、現在大ヒットしている『鬼滅の刃』といった作品にも、「かたわれ」への激しい飢渇感が表現されているように思われます。
「かたわれ」とはどういう存在なのか?
「かたわれ」と間違えずに出逢うにはどうすればよいのか?
「かたわれ」との〈愛〉の迷走を超えるためには?
J-POPの楽曲で歌われている「かたわれ探し」「かたわれへの愛」に込められた衝撃や葛藤の本質を、歌詞の緻密な読み解きによって浮かび上がらせ、私たちが他者との関わりにおいて陥る迷走、閉塞、我執や強制といった病理を超える道筋を解き明かします。
さまざまな現場に渦巻く、〈関係〉をめぐる病理。誰もが抱える不条理感や閉塞感。
今回取り上げた楽曲たちの歌詞に救われる想いがする瞬間、私たちは「かたわれ」を通してそれらの病理や葛藤を超えようとしているのではないかとおもいます。
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このたび、霧芯館の研修コースをオンライン化いたしました。
詳しくは、ホームページをご覧ください。→http://mushin-kan.jp
本来、対面での研修が望ましいのですが、ソーシャルディスタンスを保っての実施は難しく、オンライン化の運びとなりました。
内容としては、今までの〈個人KJ法1日体験コース〉はほぼそのままに、〈取材と応用コース〉につきましては〈取材力養成コース〉と〈応用技法活用コース〉に分割した形になっております。
質的研究でご活用の皆様は、〈個人KJ法1日体験コース〉と〈取材力養成コース〉の受講を必須とお考えください。
Zoomでの開催となります。
パワーポイントなど使っての解説とともに、若干、受講者のみなさまの発想ともやりとりしながら、具体的な作業工程の緻密な追跡によってこの方法の本質に触れていただきます。また、受講後、課題の提出によって個々人の理解を深めていただくことになりますので、受け身のセミナーではなく、お一人ずつの資質や理解力に寄り添う研修スタイルは、以前のままです。
詳細はメールにてお問い合わせください。
今までも、全国から多くの受講者のみなさまに京都までお越しいただいておりましたが、オンライン化によって、さらにお気軽に遠隔地の方々ともお話できることとなりました。
KJ法という奥深い方法との、本質的で誠実な出逢いをご用意してお待ち申し上げております。
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インスタで様々な方のお写真を日々拝見していますと、風景に対する感受性が、自分の中で少しずつ変化してゆくような気がしている今日この頃。
一番変わったと思われるのは、風景の中に「鉄分」が存在することへの抵抗感が少なくなったことかもしれません。
「鉄分」、文字通り鉄でできた物体が映ってしまうこと、あるいは、「鉄」に代表されるような人工的な物体が画面の中に入ってしまうこと。そういうことを避けるように避けるように今までは風景に対してカメラを向けてきたのですが、むしろ、「鉄分」の投入が粋であったり、画面を引き締めたり、自然物との対比が奥ゆきを生み出したりすることに目覚めた、といったところでしょうか。
服のコーディネートで言うなら「差し色」的な効果であるかもしれません(笑)。
以前の私なら考えられなかったことですが、車の局面に映り込む空や樹木の表情に「萌え」てみたり、夕焼け空を区切る電線に情緒を感じてみたり、水たまりに映り込む電柱や電線を夢中で撮っていたり。
何度となく繰り返し通りかかっている道ばたの、何の変哲も無い草木や水の流れや空を行き交う雲の表情に、まだまだ美しさが潜んでいるように感じられ、SNSを通じた出逢いから得られる新鮮なまなざしに感謝しつつ、秋を大切に過ごしたいと思います。
川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/
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昨年、夏と冬に開催いたしました「霧芯館KJ法ワークショップ2019」、その「作品・解説集」が完成し、8月初旬には参加者のお手元に届けることができました。
昨年のテーマは「イメージの力」。
グループKJ法および個人KJ法によって作成されたいくつかの図解、そしてその解説を収めました。
「イメージ」という漠然としたものの「力」がどれほど強大であるか。その「力」が、良きにつけ悪しきにつけ、人の無意識にダイレクトに働きかけ、この現実を塗り替える様、軽々と超える様が、図解にはダイナミックに浮上していました。
そもそも、論理的ではない「イメージ」。にもかかわらず、この曖昧な力が膨張・暴走を始めますと、論理などでは抑えのきかない事態が生じます。
人は、人を、論理で説得しようとしますし、論理的な説得力というものの凄みは言うまでもないのですが、その説得力はまず「意識」に働きかけます。「意識」が説得されることで、場合によっては、その人の「無意識」まで変化してゆくこともあるわけですが、イメージは、「意識」を経由することなく、「無意識」に忍び込むことがあります。あるいは、「論理」そのものを「イメージ」として感受し、「無意識」に流れ込ませてしまうこともあります。そのとき人は、その「イメージ」の力に抗うのが非常に困難になります。
悪いイメージは、人を恐ろしい悪循環へと陥れますし、逆に、良いイメージを日々己れの無意識に刷り込んでやることで、信じられないような「引き寄せ」的な好循環も生じます。
そして、一度膨張・暴走し始めた「イメージ」は、人を良い意味でも悪い意味でも「縛る」ことを始めます。
うまく付き合わないと、とてもやっかいな代物であるこの力。
印象的なラベルがありました。イメージとは、「幸福や不幸になるエッセンス」だと。
だからこそ、この力は、困難な現実、不条理な現実というものに直面したときに、あくまで幸福に「生き抜く」ために、人に与えられた力なのだということを、忘れずにいたいとおもいます。
さまざまな「制約」にまみれたこの現実。
さまざまな距離を超え、隔たりを超え、悪しき暗示を超え、「イメージ」を味方にしなやかに生き抜きたいものです。
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朝晩、軽くヨガをする習慣がありますが、あまりに疲労がたまっているなと感じた時は、お香などくゆらせて昼間でも少しヨガをして、そのまましばらく寝落ちしてしまうようにしています。
ヨガの一連のポーズは、最後に、「シャバ・アーサナ」と呼ばれる仰臥の姿勢で締めくくられます。「屍のポーズ」という意味だそうですが、この、ただ仰臥しているだけの時間があることで、そこまでの一連のポーズが意味を持ち、自然治癒力が高まるのだとか。
そのことを初めて知ったとき、己れを「屍」と意識しながらの仰臥は、私の肉体としての輪郭を揺さぶり、意識と無意識を激しく揺さぶったようでした。仰向けになりながら、理由のわからない涙がぽろぽろこぼれたことを憶えています。
蛹が蝶になるときも、蛹の中では一度輪郭のない混沌とした状態になるとか。
それまでの秩序がひとたび混沌とした状態へと還されることがないと、根源的な変容というものはなされないのでしょうか。秩序に慣れた身は、大きな変容の兆しというものには恐怖を感じてしまい、不安に身体が縮こまる想いがいたしますけれども、混沌がただの無意味ではないことへの〈信〉に支えられるならば、本質的な変容は、いたずらに怖れる必要のないものかもしれません。
感染症の蔓延、災害の多発、周囲からは非のうちどころのない才能に恵まれているとしか思われない若者の自死等々、混沌とした世相は、文明の疲弊と無縁ではないように思われます。
混迷の底に身を横たえて、己れの個としての輪郭を一度ほどいてみるならば、自律神経の乱れが整うように、世界観の芯が整う。文明にもそんなメンテナンスの時間が必要なのではないかと感じます。この混迷の期間というのは、あるいは、無理矢理強いられたメンテナンスであるかもしれない。一人ひとりの、社会の、文明の、そして世界全体の。
ヨガは、心と体を〈結ぶ〉、という意味であるそうです。風景の変容が、大切な〈結び〉としてなされることを、祈ってやみません。
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今月は写真のみ更新です。
合歓(ネム)の花。高い枝にやわらかな花の姿。
ムラサキツユクサ。横顔まで懐かしい和のたたずまい。
〈水〉を連想させる紫陽花。深い場所から汲み上げる〈水〉を花として世界に放つ姿。
雫の形の雫(笑)。滑り落ちて弾けて輪廻して、また〈水〉として世界に降り注ぐ。
アメンボの生み出す波紋が重なり合う水面。
静けさを訴えかける波紋。波立ちと静寂。矛盾するものがなんの矛盾もなく美しく存在する、厳粛さ。
どうぞみなさま、お健やかにお過ごしください。
川喜田八潮との共著『J-POPの現在 ?〈生き難さ〉を超えて』→https://www.amazon.co.jp/dp/4434268465/
プレスリリースはこちら→https://www.excite.co.jp/news/article/Prtimes_2019-12-20-46294-19/
川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/p/B6Xd2oSAKoW/
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朝焼の中に地上の日出づる 中村草田男
朝焼に染まった空、そこに日輪がしずしずと昇りゆく、シンプルな光景が眼に浮かびます。
日が昇るからこそ、空が朝焼けているのであり、実は、日の出という一つのことが起こっているにすぎないはずなのですが、この句は、あえて朝焼と日輪とを対極的に配してみせ、そのことで異質な二つの次元を提示しようとしています。
朝焼は天に属する事象。日が昇るのは地に属する事象。
輪郭が定かでなく、広大な空を美しいグラデーションで染め上げる朝焼は、日輪とは別の天の意志を感じさせるエリア。
くっきりとした輪郭を持ち、地平線の下から徐々に姿を現し、天のエリアを背景として自我意志を持つ生き物のごとく上昇してゆく日輪は、地上に属する存在。
そこには、正反対の存在感があるにもかかわらず、この「地上の日」というものは、あくまでも、朝焼を背景としてこそ、その自我意志を発揮できるのではないか。そうも感じさせてくれます。
私たちの存在は、あくまでもこの肉体という明晰な輪郭を持ってこそ、その有限の生をまっとうできるわけですが、その自我意志なるものがきちんと意味を持って機能するためには、朝焼のような天のエリアを背負っていないといけないのではないか。己れ一人で輝けると考えるとすれば、それはとても傲慢なことなのではないか。自我が輝けばこそ、空は朝焼けるのですが、その自我を輝かせているのは、実は天なるエリアなのではないのでしょうか。
KJ法という方法も、実は、この句のような世界観で成り立っています。
たくさんのラベル達が統合され、構造化され、KJ法図解が出来上がる時、個々のラベルは、図解全体を背景にしてこそ、それぞれの〈志〉が明確なものとなり、その輪郭を主張することができます。ラベル達が存在してこそ図解が完成するのですけれども、それは、「渾沌をして語らしめる」という、「天のエリア」に相当する世界観があればこそなのであり、ラベル達の勝手で尊大な自己主張の総和として図解があるのではありません。逆に、図解をバラバラに分析して、朝焼と日輪に分類したり、地上的な機能的意味だけに規定し尽くそうとするのでもありません。
この、「天のエリア」に相当する世界観抜きに、KJ法はKJ法たり得ないのです。
また、世界も、人も、そのような世界観抜きに、本来的な豊かな振幅を取り戻し得ないのだと思います。
混迷は試練となって、私たちに世界観を問いかけ続けているようです。
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新緑の季節が訪れようとしています。
霧芯館の近くの里山では、樹々がみずみずしく芽吹き、風が渡り、ウグイスが鳴き誇っています。そこに染み渡っているメッセージには、微塵も暗い影や邪気というものがありません。その〈気〉のメッセージというものに、私は日々、支えられているようにおもいます。
もし、今、この状況下において、なんらかの〈悪〉の意思というものがあるなら、それは、何をもくろむでしょうか?
「もう世界は終わってしまう」「これは世界の崩壊の兆しなのではないか」「もうだめだ」「あの人が駄目だったとは、なんて怖い状況なのだろう」「世界は生き延びられないに違いない」「これほど深刻な状況はかつてなかった」「誰も体験したことのない恐怖の風景が待ち構えている」そんなメッセージを人々の魂に刷り込んでゆけばいい。特に、誰もが心の支えにしていたような人物の悲惨な姿、絶望の風景、そういうものを通して、シンボリックに刷り込むのが効果的であるはず。あるいは、深刻な状況の具体的な描写に満ちた情報をまき散らして、人々の想像力を陰惨に駆使させるようにすればいい。
そういう〈悪〉の意思こそが、今、世界を席巻しようともくろんでいるのだとしたら、私たちは、本質的に何をどう闘えばよいのでしょうか。
〈悪〉の意思は、なによりも、人々の想像力を悪しき方向へ導き、神経をいたずらに消耗・疲弊させ、心身の免疫力を低下させることをもくろむはずでしょう。
一人ひとりが今、世界に対してできる最大の貢献があるとするならば、自身の〈気〉を弱めないことであろうとおもわれます。自身の免疫力を低下させないため、そして、身近な人々を守り、世界の〈気〉を晴朗に保つため。個々人の最大の責任のありかは、そこであろうと。
医療現場の方々の日々の奮闘に感謝し、ご無事を祈りつつ、個々人にできる闘いの場所を明確にすることは、これから向かう世界の価値観の大いなる転生のためにも、必須のことであろうと思います。
それぞれが魂をのびやかに呼吸させ、晴れ晴れとした〈気〉を巡らせること。かなしみに満ちた世界風景によって魂を疲弊させ、邪気に巻き込まれてしまわぬこと。
どうか、お一人ずつ、お健やかな〈気〉を保たれますように。世界が良き方へ導かれますように。
川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja
インスタで、「#表現をとめるな」というタグを作ってみました。→https://www.instagram.com/explore/tags/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%82%92%E3%81%A8%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%AA/?hl=ja
充実したギャラリーとなっています。ご高覧いただければさいわいです。
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このところ、インスタグラムでしばしばフォト短歌を投稿しています。
写真と短歌を組み合わせることで、表現したい叙情・詩情というものが、ある種のデザイン性を帯びて読み手に届きやすいものになる、そういう手応えが楽しくて、旧作・新作とりまぜて写真をキャンバスとして短歌を載せています。
片われは 空に融けるか
沈黙と呼吸(いき)は深いか
涙は出るか
顔にはマスクをしなければならないとしても、私たちの片われとしての無意識には、のびのびと呼吸をさせてみたい。言葉にならない沈黙の深さを、感受性や共感能力や想像力の沃野を、解き放ちたい。
そんな想いを歌ってみました。
誰もが、日々の錯綜した情報や混沌とした見通しの悪さによって意識を痛めつけられることで、無意識までもその呼吸を狭められているようにおもわれます。
そのような意識と無意識の絆があるならば、逆に、無意識を健やかに保つことで、私たちの意識は、どれほど救われることでしょうか。
どなたも、どうか深い呼吸を。
情報に毒されない深い沈黙を。
みずみずしい世界との絆の手触りを。
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春立つやあかつきの闇ほぐれつゝ 久保田万太郎
あかつき、と言えば、まだ夜が明ける前のほの暗い時間帯のこと。
冬のあかつきの闇の深さ、きん、と世界が凍てついたような孤独で厳しい風景というものが、立春とともにほぐれてゆく。そういう季節感を切り取った句ですけれども、人それぞれのくぐり抜けてきた闇と、その融解、光の兆しの感触を想起させる句でもあります。
暦の上だけでも春が立つ、そこに、闇がほぐれてゆく気配を感じ取るように、私たちもしばしば、まだものごとがけっして順調に進んでいるとはいえない、好転の兆しが見えない、混沌の中にいる、そんな状況においても、かすかなかすかな気配としての「ほぐれ」を感じ取ることがあります。しかも、凍てついたあかつきの闇が暗ければ暗いほど、混迷が深ければ深いほど、かえってその「ほぐれ」は鮮明で確かなことすらあります。あくまで気配にすぎないのに、なぜか疑いようがないほどに、確かな手触りを帯びて、その気配は立ち上がってきたりするのです。
そんな気配を探して、感じ取って、触れて、確かめて、握りしめて、信じて、賭けて、祈って、変わってゆく。
それは、受け身のように見えて、実はしんしんと深く主体的・能動的な身構えであるとおもわれます。
混迷の季節。
あかつきの闇の「ほぐれ」を、一人ひとりが丁寧に感受し、真に生命的な季節を迎えたいものです。
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ご近所の年配のご夫婦が、ときどきご自宅の玄関先で「ほっこり」とした時間を過ごしておられるのを見かけます。
特にご主人はしばしば、木の切り株でできた小さなテーブルにお茶など置いて、読書三昧。時には奥様とゆったり語らいながら、誰にも奪えないお二人の時間を味わっておられます。
目の前はかなり交通量の多い車道であり、地域の資源ゴミ置き場やら郵便ポストやらがあるところで、お世辞にも閑静な場所というわけではないのですけれども、お二人とも、そのような喧噪にはいっこうにお気持ちを乱されているご様子がなく、樹木の気配やシジュウカラのさえずりや季節の息づかいだけを深々と吸い込んでおられるようで、そこには「ほっこり」と、そして凜とした世界があることに感動します。
穏やかなひとときを過ごしておられるようでいて、そこには一つの〈闘い〉があるようにも思われます。自分の〈コスモス〉としての世界を紡ぐ〈闘い〉が。
昨年の11月からインスタグラムを始めた私ですが、そこで出逢うことのできた方々の中にも、写真を通して、そのような穏やかで凜とした〈闘い〉の姿を示してくださる方がたくさんいます。
自分の「好き」を公表し、「好き」でいくらでもどこまでも一瞬でつながることのできる、ネット上の社交場ですが、ともすれば〈数〉という評価や、他者の目線や、トレンドや、そこはかとなく漂う常識的な空気などに足をすくわれそうになる、試練の場でもあります。
それらに足をすくわれずに、自分の〈コスモス〉としての世界を紡ぐのは、楽しそうに見えて実は、繊細で豪胆な〈闘い〉の気力も必要とされるようにおもわれます。
〈数〉ではなく、あくまでも一人ずつの聴き手に届けるための表現を模索するロックシンガーや、日常の、どこまでもささやかな日常の一コマを丁寧に愛おしむ、端正なご婦人のたたずまいや、雪に包まれた峻厳な八ヶ岳で研ぎ澄まされている山男のまなざしや、日々のきらめきや鬱屈の瞬間を俳句や短歌に収め続ける方々や、絵画、木工細工、ジュエリー、野鳥、などなど、それぞれに自分の〈コスモス〉を紡ぎながら、純度の高い時間とつながりとを模索している方々の姿は、私に深い慰藉と刺激を与えてくれます。
そんなこんなで、私も未熟な写真の腕前をかえりみず、ときには短歌を、ときには定型にとらわれない自由な発想の言葉を、視覚的な表現として発信している昨今です。
写真というキャンバスに短歌を描くのは、歌詞に曲を与えるようなもので、短歌だけで完結するのとはまた異なる命を与えることになります。過去の歌作に新しい命を吹き込むことができるのも、うれしいことです。
しかも、「アプリ」なるものの発達で、写真への縦書きの文字入れなども実に手軽に試みられ、ちょっとした時間を〈表現〉のためにあてがうことができるのも魅力です。
日々、まなざしを鍛え、〈コスモス〉を紡ぐ闘いを、ささやかに持続できればと願っています。
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2019年の「霧芯館KJ法ワークショップ」のテーマは「イメージの力」でした。
「毎年のテーマ、楽しみにしているんですが、どうやってテーマを決めるんですか?」と、参加者の方々からよく質問されます。
「降りてくるのを待つんです。」とお答えするのですけれども、今年のテーマも、もやもやした状態から決断へのプロセスは、やはり「降りてくる」という感じでした。
この「降りてくる」という言葉は、自分の我(が)ではなく、私を通してなにものかの力が、なにかをさせたがっている、という感覚をうまく表現したものだと思うのです。そのような力がまさに熟して降りてくる瞬間、みたいなものを受け止める。ワークショップのテーマに限らず、そんな「なにものか」とのやりとりこそが、〈決断〉のためにはいつも必要だという気がしております。
今年のワークショップで浮かび上がった「イメージ」の本質には、まさに、人の合理的な「我」を超えたものがありました。ひとつ間違えれば、膨張・暴走して私たちをとんでもないところへ追いやる力も持っている「イメージ」ですが、うまく付き合うなら、私たちの合理的な現実把握の枠組みを蹴散らして、不条理や限界を超えてゆくことを可能にする、潜在的なパワーを秘めた宝刀のようなもの。
人に与えられたこの不思議な力は、私たちの無意識にダイレクトに働きかけ、肉体や現実というものを矮小に決めつけてしまっている私たちを揺さぶり、「生き抜く」ために必要な、とてつもないディレクションを差し出してくれたりします。
そんな「イメージ」とのやりとりを味わいながら、走り抜けた2019年でした。
KJ法について言えば、「モノづくり」の現場の方々の熱いニーズに触れることができた年でもありました。
「そもそも何をつくればよいのか」「そもそも消費者はなにを求めているのか」「そもそも自分たちはなにをつくりたいのか」
そんな「そもそも」を真剣に問い直したい方々と、熱のこもった時間を共有する機会に多々恵まれたのは楽しくしあわせなことでした。
個人的には、12月20日、川喜田八潮との共著『J-POPの現在 ?〈生き難さ〉を超えて』を出版することができました。
「KJ法じゃなくてJ-POPなんですか?」とびっくりされもしましたが、私にとっては、あまり大きなギャップを感じていない、そのことにむしろ、自分でびっくりしているところもあります。
〈現在〉を突きつめ、〈生き難さ〉とはなにかをつきつめ、多彩な表現や、KJ法でいうところの〈志〉を統合する営みとしては、同じアプローチをしているとも言えます。
むしろ、ついでに始めたインスタグラムでは、想定外の楽しさをおぼえ、想定外の世界の拡がり方をしているような。
写真に短い言葉を添える。
未熟な技の写真ではありますが、そこに言葉の力をどう作用させるのか、日々「降りてくる」瞬間を味わうのが心地よく、また、思いもよらない方々の世界の視え方やフォローに出逢うなど、行動半径の乏しい私にとっては、不思議な風穴が開いた気分を味わっています。
2020年は、おそらく、〈価値〉というものへの問い直しが進む、そういう時代へと突入するのではないかと感じています。そして、その〈価値〉の根っこには、私たちの〈無意識〉が大きく位置を占め、その〈無意識〉を動かすパワーをどのように広く深くイメージするのか、そのことがより一層きびしく問われる時代に差しかかっているのだと感じながら、まずは目前のおせち料理の準備を進めたいとおもいます。
いつもお読みいただきありがとうございます。
どうぞ良いお年をお迎えくださいますように。
『J-POPの現在 ?〈生き難さ〉を超えて』好評発売中→amazon
プレスリリースはこちら→https://www.excite.co.jp/news/article/Prtimes_2019-12-20-46294-19/
川喜田晶子インスタグラムはこちら→https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja
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去る12月7日、「霧芯館KJ法ワークショップ2019其ノ二」を開催いたしました。(於・京都テルサ)
今年のワークショップのテーマは「イメージの力」。
夏のワークショップにおいて、このテーマについて参加者が提示してくださった数百枚のラベルから、私がまずピックアップしておいた70枚のラベルがあり、今回の「其ノ二」では、各チームでさらにピックアップした20枚ほどのラベルを使っての「グループKJ法」の実践を行いました。
完成した図解は、それぞれのチーム独自の「イメージとはどういう力なのか」についての本質追求の表情を持っています。
イメージが、私たちの心身や現実の状況とやりとりをすることでいかにパワフルに事態を動かしてゆくか。
イメージの持ちよう次第で、不可能を可能にするパワーを持つけれども、そのパワーゆえに、両刃の剣であることの怖さ。
現実とはかけ離れたイメージが一人歩きしたり、別のイメージへと着せ替えられたり、人を翻弄する危うさ、あるいはイメージに縛られて盲目になってしまう危うさがある。それらを超えて、人だけが持ち合わせているイメージの豊かな源泉へとたち還りたいという衝動。
状況を癒し、変容させるパワーをもつ薬箱のような「イメージ」だけれども、都合よくイメージで処理しようとする依存心も湧き上がる、人の心のもろさ、不安定さ。
ポジ・ネガさまざまなイメージの持つパワー・表情が浮かび上がりましたが、ポジであれネガであれ、そのパワーがひとたび発揮されると、逆に一筋縄ではいかない危険さを持ち合わせていること。だからこそ、それをポジとして用いる英知が必要とされていること。
つまり、人が生き抜くために、人に与えられたこの力は、アナログにダイレクトに私たちの無意識に働きかけ、現実を塗り替える力を持つのですが、それは非常に膨張・暴走しやすい力でもあります。そしてひとたび暴走すると、その暴走したパワーを存分に発揮して人を拘束するのであり、そこに怖さがあります。
不可能を可能にするし、根拠が乏しかろうとゼロであろうと、一気に現実を超越するパワーで私たちを未知へ、なにかしらの実現へ、不条理の克服へと誘いますが、その膨張力・暴走力には恐るべきものがあるわけです。
この両刃の剣としての「イメージ」の恐るべきパワーの手触りを、師走の一日、全国から京都へお集まりいただいたみなさまに、KJ法を通して全身的に体感していただき、お持ち帰りいただいた「其ノ二」でした。
私たちの「無意識」というものが、私たちの心身を通してどれほど広く深い場所に根を下ろしているのか。そのことを想うとき、この「イメージ」こそが、私たちをひび割れた冷笑的な世界観から掬い上げ、個を不条理な索漠とした孤立のイメージから救い出して、豊かな意味へと誘う武器、と想われます。その暴走力をよく見きわめる聡明さの必要性を肝に銘じつつ。
さまざまな混迷の現場を生きるみなさまに、KJ法で掴み取ったイメージの本質を活かしていただけることを祈念して。
★インスタグラム始めました。風景写真と言葉のコラボをお楽しみください。
https://www.instagram.com/akiko_mist/?hl=ja
★『J-POPの現在 ? 〈生き難さ〉を超えて』好評発売中→amazon
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先日お知らせいたしました『J-POPの現在 ?〈生き難さ〉を超えて』の予約注文の受付が開始になりました。
目次
第一部 超越
まえがき
#追いつめられている場所
■ゴールデンボンバー「やさしくしてね」
■上坂すみれ「POP TEAM EPIC」(アニメ『ポプテピピック』オープニングテーマ曲)
#無神論者の渇き
■HYDE「FAKE DIVINE」
#生命と虚無の振幅
■YOSHIKI feat. HYDE「Red Swan」
■YOSHIKI feat.サラ・ブライトマン「Miracle」
#社会への抵抗のデザイン
■欅坂46「不協和音」「アンビバレント」
■AKB48「NO WAY MAN」
■SEKAI NO OWARI(セカイノオワリ)「Death Disco」
#理性と本能
■B’z「Still Alive」
■EXILE「Heads or Tails」
■三浦大知「Be Myself」
#ニーチェ的解放のかたち
■椎名林檎「おとなの掟」「人生は夢だらけ」「獣ゆく細道」
#すべて(=奇跡)を信じて
■GACKT「OASIS」
#たたかう力をくれ
■Superfly「黒い雫」「Beautiful」「Force」
★ご注文はこちらからどうぞ → amazon
★内容に関する情報はブログ「星辰」にて → http://sei-shin.jugem.jp/
★2019年12月26日追記:プレスリリースはこちら→https://www.excite.co.jp/news/article/Prtimes_2019-12-20-46294-19/
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★霧芯館ーKJ法教育・研修ーのホームページはこちら→ http://mushin-kan.jp
川喜田八潮と川喜田晶子の対談形式によるJ-POP論が発売となります。
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現在という時代の〈生き難さ〉にとって
あのアーティストの意味とは?
あの楽曲の意味とは?
気鋭の文芸批評家と歌人の対談による
軽快かつ繊細なJ-POP論。
アーティストたちの表現と時代の無意識が
クロスする場所を読み解き、
〈現在〉の直面する課題とその超克への道筋を
スリリングに語り尽くす。
1500円+税
Parade Books
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目次
第一部 超越
まえがき
#追いつめられている場所
■ゴールデンボンバー「やさしくしてね」
■上坂すみれ「POP TEAM EPIC」(アニメ『ポプテピピック』オープニングテーマ曲)
#無神論者の渇き
■HYDE「FAKE DIVINE」
#生命と虚無の振幅
■YOSHIKI feat. HYDE「Red Swan」
■YOSHIKI feat.サラ・ブライトマン「Miracle」
#社会への抵抗のデザイン
■欅坂46「不協和音」「アンビバレント」
■AKB48「NO WAY MAN」
■SEKAI NO OWARI(セカイノオワリ)「Death Disco」
#理性と本能
■B’z「Still Alive」
■EXILE「Heads or Tails」
■三浦大知「Be Myself」
#ニーチェ的解放のかたち
■椎名林檎「おとなの掟」「人生は夢だらけ」「獣ゆく細道」
#すべて(=奇跡)を信じて
■GACKT「OASIS」
#たたかう力をくれ
■Superfly「黒い雫」「Beautiful」「Force」
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アマゾンなどで予約注文できるようになりましたら、またお知らせさせていただきます。
内容に関する情報はブログ「星辰」にて→http://sei-shin.jugem.jp/
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今月は写真のみ更新です。
くぬぎのどんぐりでしょうか、この丸さを見ていると、なぜか「どんぐり一如」ということばが頭に浮かびました。自分とどんぐり、どんぐりと世界、自分と世界。この丸みのなかに、〈一如〉という感覚が詰まっているような。
紅葉が待ち遠しい季節ですが、青もみじもまだまだ美しい。
今年は私としては蝶の写真が豊作でした。
修学院にある音羽川から望む西山の風景。
野生の美。
芒と、空の映り込んだ水面と。
光と闇と。
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文句なしに好きな作業というものがあります。
ブログで何枚かの写真をどの順番で掲載しようか、と悩むとき。
パソコンに取り込んである音楽から、お気に入りの楽曲だけを一枚の音楽用CDにどういう順番で書き込もうか、と悩むとき。
KJ法の作業で言えば、10個以内のグループに統合されたラベル群を、一枚の模造紙にどう配置しようか、と悩むとき。
いずれも悩み・迷いのつきまとう作業なのですが、その悩み・迷いがとても楽しい。
自分の中の、意識化できない部分を、意識化するかしないかというぎりぎりの場所へ持ち出しながら、でも最終的に意識化しない部分が大満足するように、ああでもないこうでもないと、煩悶する。その、意識と無意識のぎりぎりのところに今、自分の意識のセンサーと無意識のセンサーの両方を駆使している、その感触がなんとも心地よいのです。
3つ目は、いつもKJ法の仕事で味わえることなので幸せですが、研修受講者のみなさんにとってはかなり産みの苦しみにもなる場面のようです。
2つ目の、音楽CDの編集作業も大好きなのですが、昨今の忙しさの中では、そんな作業に時間を費やしていては楽しすぎて罪悪感すらおぼえてしまうので、このところ味わえていません。
1つ目の写真については、こうしてブログで時たまご披露するための作業で、ほどよいエネルギーをかけ、ほどよい解放感を得られて、これも幸せです。
プロの画家さんが、いくつかの作品を画廊に展示するときや、ミュージシャンが楽曲を集めて一枚のアルバムにするときも、きっと、この意識と無意識の往還を、プロの高精度のセンサーを駆使して、絶対感をおぼえるかたちへと整える、そういう作業をしているはず。そこでは、ひとつの作品だけと対峙している時とは異なる、全体の中での作品の意味が浮上してきます。
KJ法の大事なツボとして、「全体感を背景として、個々のラベルの〈志〉を感受して」と申し上げるのですが、その「全体感を背景として」感受する〈志〉というのは、実は、アルバムの中での個々の楽曲の意味のようなものだと言うことが出来ます。一曲だけを聴くなら、色々な解釈が出来るけれども、アルバム全体の中でのこの曲の意味は、となると、あるイメージとして定まってくる。一枚だけのラベルを恣意的に解釈するのではなく、KJ法はいつも、全体感の中で〈志〉を聴き取ろうとするわけです。
どのような表現においても、すぐれた「作品」というものは、その完成形へと精度を上げるための、産みの苦しみ・悩み・迷いがあります。そこに楽しさもつきまとっていますが、意識と無意識の葛藤がスリリングに、その人らしく、実にその人らしく繰り広げられているものです。
それらの作品を味読する側もまた、楽しみながらその意識と無意識の奥ゆきへと十分に感受性・想像力を働かせたいものだとおもいます。
まだまだ残暑は続くものの、なにしろ秋ですから。
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