俳句とKJ法

  • 2009.05.31 Sunday
  • 12:43
  久保田万太郎(1889年〜1963年)の作に、
 うすものを著て前生をおもひけり
という俳句があります。
 私の最も好きな句のひとつです。
 作者が誰であるか知らされなければ、女性の作かとおもってしまいそうな、繊細に匂い立つ艶。
「うすものを著(き)る」という行為と、「前生(さきしょう)」つまり前世のことを思うという行為とが、因果関係というほど強固ではない絶妙のゆるやかさで結ばれて、明晰でなく挿入された意味の断絶がそこはかとない不安と連想をそそります。
「うすもの」を着た刹那、作者は自身の前世をどのようなものとして想い描いたのでしょうか。
 しみじみと業の深いものとして、それとも逆に業からはるかに遠い透きとおるような一生として、人以外の生き物として、あるいはおんなとして・・・。
 俳句において、読者をこのように刺激的な連想に導くものが〈取り合わせ〉という二種類のモチーフの斡旋であり、両者のあいだの断絶を〈切れ〉と呼びます。
 この〈取り合わせ〉は「つかずはなれず」の妙味が良しとされ、良き取り合わせは、豊かな連想と同時に、一句の統一感に説得力を与えます。

 この俳句の妙味、KJ法のラベル間の関係が生み出す発想のダイナミズムと実によく似ています。
 川喜田二郎がBDA(Basic Data for Abduction)と呼んだ「基本的発想データ群」。
 このBDAをダイナミックに生かすことがKJ法の発想力のベースでもあります。
 つまりは、あまり多すぎないいくつかのデータを一度に視野に収めると、人は生き生きと連想的にものごとを思いつくものなのであり、KJ法は誰もが自然に駆使するそのような能力を、明晰なステップによって格段に創造的な水準へと導く方法であるということが出来ます。
 俳句という世界最小の詩形にも、読者を生き生きとした連想へと解き放ちながら、しかも一つの完結した小宇宙を感受させる、効率のよいデザイン性が秘められていると感じます。

 先の万太郎の一句、「うすもの」が肌に触れた瞬間、くらくらっと変容する風景の質感が魅力的です。ささやかな皮膚の感触に触発されて、「おんな」であった前世を想い描いてしまった自分に、うろたえながらも激しい解放感を得た句として読むのが、私は好きです。
「うすもの」を着ることで、重苦しい男性原理の強いてくる意味を逆に脱ぎさる一瞬。
 不思議なエロティシズムの漂う一句です。

日本人とKJ法

  • 2009.05.24 Sunday
  • 20:44

 KJ法は日本人に向いている、とよくいわれます。

 狭義のKJ法において(狭義のKJ法・広義のKJ法については霧芯館ホームページをご覧ください)、データを記入するための「KJラベル」は、基本の大きさが縦2.3センチメートル・横6.2センチメートル。
 この小さなラベルに収められたデータを、小さいながらも一つの〈宇宙〉のように感じ取る営みは、俳句のシンボリズムを愛する日本人にフィットするのかもしれません。
 さらに、複数のラベルの訴えかけを聞き届けながら、それらに〈表札〉と呼ばれる新たな概念を与える行為もまた、短歌をつくるという表現の本質と非常によく似ています。
 短歌はそもそも、五音・七音の連続によって織り成された「長歌」に対する要約として発生していますから、「表札づくり」とは、複数のラベルによって織り成された世界にコンパクトな短歌的表現を与えることだと考えれば、KJ法の核心とは、まさに日本人の伝統的な言語意識に実によくなじんだ営みだということが出来るでしょう。
 発想を促すためにグループで行う「パルス討論」とよばれる技法も、ちょうど「連歌」のような楽しさがあります。

 短いということ。
 それは象徴性をもたざるを得ないということでもあります。
 短歌作品や俳句作品がどれほど具象的な描写に徹していても、その短さによって読者はそこから、作者と作者の感じ取った世界の〈全体感〉というものを象徴的に感受しようとします。
 日本人は、短い詩形を愛することで、実は断片的でない〈全体感〉というものを常に愛してきたのではないか。あるいはどれほどそのような〈全体感〉から遠ざかってしまっても、〈全体感〉を取り戻したいという強いおもいだけは常に抱き続けてきたのではないか。

 KJ法が広く永く愛されていることの本質にも、実はそのような日本人の感覚的な志向性がひそんでいるようにおもわれます。

KJ法である意味

  • 2009.05.17 Sunday
  • 17:17
 〈KJ法である意味〉の感じられるKJ法図解に出会うのは、とてもうれしいことです。
 
 周知のように、〈KJ法〉とは、文化人類学者である川喜田二郎の創案した問題解決・発想のための方法です。(概説については霧芯館ホームページをごらんください)

 1967年に『発想法』(中公新書)が世に出て以来、たくさんの方々に活用され、愛されてきた方法ですが、自己流あるいは通りいっぺんの習得によって、まちがったKJ法を身につけてしまっている人が多いのも事実です。
 ただのデータの〈分類〉技術としてしか意味のないKJ法図解と称する作品を目にすることもしばしばです。

 KJ法を使う以上、KJ法でなければ出来ないことのために使ってほしい・・・。

 人が、それぞれの生活をくぐりぬけながら、「自分でなければ出来ないこととはなんだろう」と必ず一度は(人によっては一瞬一瞬)自身に問わずには いられないのと同じように、KJ法という唯一無二の方法がそれ自身である意味というものを求めている感触。
 KJ法を使うたびに、そして他者にこの方法を伝えるたびに、いつもそんな感触に包まれます。

 自他を問わず、経験の多寡を問わず、この〈KJ法である意味〉を作品として定着できたとき、あるいはそんな作品に出会えたときのよろこびには、測り知れない深々とした充実感がともないます。

 このブログを通じて、ご縁のある方々に、KJ法の奥深い魅力を少しでもお届けできればと願っています。

 

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