〈分類〉を超える

  • 2009.11.25 Wednesday
  • 19:57
JUGEMテーマ:教育

 KJ法は、ただの〈分類〉や〈整理〉の技術ではありません。
 KJ法の本質は〈渾沌をして語らしめる〉ことにあるのですが、その本質が十分に実現された場合と、ただの〈分類〉で終わる場合とのあいだに、どれほどの落差があるかについて、あまりひろく理解されているとはおもわれません。

 たとえば、福祉の現場で、実際に職業として介護に携わっている人にインタビューをとった場合のことを考えてみましょう。
 質問項目として、「どんなときにこの仕事によろこびを感じますか。」「要介護者と接していてつらいのはどんな時ですか。」「どんなことに気をつけて要介護者に接していますか。」「この仕事をしていて自分が成長したなとおもうのはどんな時ですか。」等々があらかじめ準備されていて、インタビューの結果をもとにKJ法に取り組んだとします。
 KJ法がきちんと体得されていない人の場合、これらの「質問項目」の「箱」に、データを仕分けしたかたちの図解が出来上がってしまうことがよくあります。
「よろこびを感じたことのいろいろ」「つらい場合のいろいろ」「気をつけていることのいろいろ」「成長したとおもう点いろいろ」といった具合です。
 ここまで極端に質問項目を反映していなくても、「肯定的な場面のいろいろ」「否定的な場面のいろいろ」「負担感の強い場面のいろいろ」といった、既成の「箱」にデータを分類してしまうことが多いのです。
 KJ法の作業では、ラベルとして記されたデータの一つひとつが何を言いたがっているのか、虚心に耳を傾けて聴き取り、〈ラベル集め〉〈表札づくり〉によって、ラベル群と作業をする人とのあいだにのみ成立する個性的な〈統合〉としてのオリジナルな〈箱〉が生み出されていくわけで、そこでは一見肯定的な感触のラベルと否定的な感触のラベルとがセットになって、介護の本質を垣間見せる〈表札〉が浮上することもしばしばです。
〈分類〉がわびしいのは、近いけれども異質な〈志〉をもったラベルたちを目の前にして、それらを創造的に統合しようとすることから生じる発想や本質追求というものを放棄してしまうからです。
「〇〇のいろいろ」と整理したのでは、結局なにも言っていないのと同じです。出来上がった図解もまた、「介護の現場のいろいろ」と名づけるしかないしろものになってしまうわけです。
 本来的なかたちでKJ法を用いるならば、そこには介護に携わる人の言葉を通して、介護の重要な本質がくっきりと浮上するはずです。

 KJ法が〈役に立つ〉方法であるためには、あくまで〈分類〉を超えた発想力が活かされねばなりません。〈渾沌〉がほんとうは何を言いたがっているのかがわかってはじめて、〈どうすればよいか〉がわかるからです。
 KJ法の各ステップには、その本質をわきまえて取り組むなら、否応無くこのような〈発想〉へと導かれるしかない、シビアで豊かな意義というものが組み込まれています。
 本来的な研修を受講し、その意義を汲み取ってKJ法を役立てていただきたいと願っています。

霧芯館―KJ法教育・研修―のホームページはこちら
 

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