舞台的空間・KJラベル的空間

  • 2010.04.22 Thursday
  • 22:35


 霧芯館より徒歩数分のところに、写真のような能舞台があります。
 白雲稲荷神社という、ふだんはほとんどおまいりする人も見かけない小さな神社なのですが、十月の新宮神社(この地域の中心の神社)大祭の折には、両神社の能舞台で地域の小学四年生女子による八乙女の舞が奉納されます。
 年に一度の八乙女の舞の舞台となる以外には、〈奉納〉という営みに供されることもない白雲稲荷神社のこの能舞台ですが、実はその昔、京都御所より下賜された由緒あるものだとか。
 この日はなぜか、木洩れ日が古びた床に射し入る風景に魅きつけられて、しばらく見とれておりました。

 舞台のことを役者さんは〈板〉と呼んだりするようですが、この〈板〉によって限定された空間で演じることを、彼らは狭いと感じるのでしょうか、広いと感じるのでしょうか。
 その表現意識のあり方というものが、私はとても気になります。
 KJ法という方法が、KJラベルという小さな四角い空間の上で言葉を紡ぎ出す方法だからかもしれません。
 このKJラベルの空間を狭いと感じて、それが嫌だという人もいれば、だからこそ面白いという人もいます。逆に広いと感じて、不安に思う人もいれば開放的だと感じる人もいます。いずれであれ、狭義のKJ法における〈ラベルづくり〉も〈表札づくり〉も、ともかくこの小さな空間に言葉を収めなくてはなりません。
 セットになった元ラベルが二枚であろうと五枚であろうと、グループ編成の段階がどれだけ繰り返されようと、統合イメージを表現する〈表札〉は、あくまでこの小さなKJラベルに収めるべきもので、長くしたいからと大きめのラベルを使うとかラベルをつなぎ合わせるのはタブーです。
 この制約によって発想が促され、すぐれた抽象・仮説発想・本質追求などがなされるわけですが、そこでシンボリックに、ときにアーティスティックに費やされる創造的なエネルギーの質は、〈板〉の上の俳優やミュージシャン、リンクの上のフィギュアスケーター、キャンヴァスに向き合う画家、十七文字や三十一文字の定型に向き合う俳人や歌人の駆使するそれと、似かようものがあると感じます。
 十五秒や三十秒といったCM、一時間や二時間といったドラマや映画、CDやDVD作品等々・・・。
 あらゆる表現に制約はつきものです。
 本来大きな風景なり物語なり世界観なりを閉じこめるには、あまりにも小さな空間を表現者たちは強いられるわけですが、そのことでそれぞれの表現意識と世界観が試されているという気が致します。
〈板〉的空間を、〈全体〉からトリミングされた断片として提示するのか。
 あくまで〈全体感〉を損なわずに圧縮するのか。別のイメージに変換するのか。
 あるいは〈板〉を輪郭の厳しい制約ととらえるのか、限りなく広く豊かな可能性としてとらえるのか。
 表現者はそのとき世界のどこに位置を占めるのか。
 いずれにせよ、それぞれの資質にかなったやり方で、存分に世界と自身との振幅を解き放ってこその〈表現〉。
 すぐれた表現に出会ったときも、逆にあまりにみすぼらしい表現に出会ったときも、そうおもわれてなりません。

 この日の能舞台の主役は木洩れ日でしたが、実にとらわれがなく、深々と自在な陰翳が美しく、やはり〈板〉とはどこまでも広いと感じさせられた卯月のいち日でした。




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KJ法研修の日程調整について

  • 2010.04.12 Monday
  • 17:56

 霧芯館―KJ法教育・研修―では、2010年2月より、〈個人KJ法1日体験コース〉〈取材と応用コース〉をはじめ、各コースとも、お問い合わせごとに個別に研修日程の調整に応じております。
 ご希望の日程をいくつかお知らせいただきますと、ご連絡を差し上げておりますので、お気軽にお問い合わせください。
 研修の実施時間帯は、各コースとも基本的に13:00時〜19:00時です。

 各コースの詳細およびお問い合わせ先TEL/FAX、e−メールアドレス、お申し込みフォーム等につきましては、霧芯館のホームページをご覧ください。
 
 



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世界を悩む

  • 2010.04.04 Sunday
  • 23:31
「犬だって世界を悩んでいるかもしれない。」とは、『創造と伝統』(1993年 祥伝社刊)の中にある川喜田二郎の言葉です。
 つまり、犬だって悩むのなら、人間はもちろん、本性として世界を悩むように出来ているという主張です。
 内容も実に川喜田二郎らしいですが、「世界を悩む」という表現が、その〈世界内的認識〉の深く身体化されていることを感じさせます。
 彼の批判したデカルト流の〈世界外的認識〉によるならば、「世界について悩む」とか「世界の〇〇問題について悩む」と表現する方が自然でしょう。
 川喜田二郎の〈世界内的認識〉では、デカルト的に「自我」と「外なる世界」とを対立的にとらえるのではなく、まず世界の渾沌の中に身を置こうとします。そこで矛盾を超えてゆく創造的な「悩む」という営みは、あくまで世界とのみずみずしい交感に満ちていたようです。
 KJ法ももちろん、彼にとってこの〈世界内的認識〉によるみずみずしさを体現する方法であり、その作業が味気なかったことなどは、おそらくただの一度もなかったことでしょう。

 正岡子規の明治26年の作に、

 淋しさを猶も紫苑ののびるなり

という俳句があります。
 前近代の型にはまった抒情から短歌という文芸を解き放ち、俳句という詩形を自立させるために、〈写生〉という概念を打ち出した正岡子規の、これは繊細かつダイナミックな抒情あふれる一句です。
「淋しさをのびる」とは、なんと豊かな表現でしょうか。
「淋しさ」というものをのびるのは、紫苑か、作者か。そんな問いを撥ね退けるような、まっすぐな抒情味が、読むたびに新鮮に、紫苑のほっそりとした容姿とともにたち上ります。「猶も」のびる生命力によって支えられた抒情は、繊細ですが弱々しいものではなく、私はこの紫苑に羨ましささえおぼえます。
 この句もまた、「淋しさをのびる」という、川喜田二郎的にいうなら〈世界内的認識〉がベースとなった表現によって、その生命力を解放しているのが印象的です。
 初発の近代に〈写生〉という概念の保持し得ていた振幅の豊かさを、わずか17音の作品が示しているのは感銘深いことです。

 私たちの言語意識は、「野を行く」と表現してさえ不安になってしまい、「野の中の道を行く」などと厳密に規定しなければ落ち着かないほど、こわばってしまっているようにおもわれます。そういうこわばった言語意識に馴れてしまっているということは、実は身体感覚がこわばってしまっているということであり、そこにはある種の不能性へと人を囲い込んでゆくあやうい惰性がひそんでいるようにおもわれてなりません。
〈世界外的〉に、対象と自分との距離や、対象の長さ、狭さといった可視性を把握しないことには自分の行為をイメージ出来ないし、したがって行為に踏み出すことも出来ない。そんな不能性を、厳密で機能的な言語意識というものは、明晰な伝達という効用の裏面で育んでしまっているようにもおもわれます。
 身体感覚が言語意識や表現を支えることももちろんですが、言語表現のささやかな差異をおろそかにしないこともまた、私たちの身体を本来的なリアリティーと結びつけ、瞬間瞬間に欺瞞的な観念から解き放つ大切な営みであることを、忘れたくないものです。

霧芯館―KJ法教育・研修―のホームページはこちら



写真は宝ヶ池にて。
ゴイサギでしょうか。
世界を悩んでいるように見えました。

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