本質と原因

  • 2010.06.24 Thursday
  • 23:19
 KJ法においては、問題解決のために、ものごとの〈原因〉ではなく〈本質〉を浮上させることを重視します。
 たとえば、このところ息子の態度が反抗的でトゲトゲしいのは、先日息子の髪型を批判したからにちがいない、と考えた父親がいたとして、髪型を批判するのはやめたけれども服装のだらしなさを責め続けているような場合、この父親は〈原因〉を特定することで問題の〈本質〉にはフタをしてしまおうとしていることになります。そのどうどうめぐりの不毛さは言うまでもありません。
 本気で息子との関係を悩み、改善してゆくために、その〈本質〉を見きわめようとするなら、父親は息子の、そして自分と息子との関係の渾沌とした〈全体〉というものを虚心に受けとめるところから始めるべきでしょう。〈全体〉がとらえられて初めてその〈本質〉が浮上し、有効な解決策への道が開かれる・・・。
 このような例をあげてKJ法のイメージをお話していたところ、研修を受講されていたさる数学者の方が、「ユングに似ているのかもしれませんね。」と言われました。ご自身の数理論理学を使ったお仕事とKJ法との接点を長年あたためておられた方の、面白いご指摘でした。
 東洋的な思想にも深く関心を寄せ、意識の中心としての〈自我〉ではなく、意識・無意識双方を含めた存在全体の中心としての〈自己〉の概念を打ち出したユング。〈原因〉を特定したのでは閉ざされてしまう無意識領域の広さと深みに光を当てた点で、たしかにKJ法とは通じる部分があるとおもわれます。

 フロイトとかユングとかいった先達の理論を用いるかどうかにかかわらず、臨床心理の現場には、KJ法にシンパシーをお持ちの方が多いようです。
 心理療法においては、〈当事者にも隠されたものとしての真実〉を明らかにしたり、象徴的に処理したりすることでクライアントの治癒が進められねばならないからで、この大前提がまさにKJ法的だからだと言えるでしょうか。
 かりにフロイトやユングやその他もろもろの理論を大枠において用いるとしても、クライアントの心の闇(当事者ももてあましている渾沌とした内面的現場)を受けとめるに当たって、まずはクライアントの語るさまざまな言葉や夢の事例が何を言いたがっているのか、あくまで当事者にはいまだ明晰でないものとして謙虚に受容し、分析の俎上にのせてゆくのが臨床の現場の難しさであり意義深さであるでしょう。

 真実が当事者にさえ明晰でないということは、当事者にとって決して恥ずべきことではありません。自分でもその意味や重要性の根拠がわからないけれども、どうしようもなく何かが気にかかるという体験は誰しもあることで、むしろそのような〈気にかかり方〉の中にこそ、豊かな創造性の源泉を見出しているのがKJ法です。
 臨床心理にたずさわる方々には自明の、このようなKJ法的まなざしは、本来あらゆる〈現場〉において前提とされるべきものなのであり、〈渾沌〉というものの豊かさにもっと謙虚に身体を開いてゆくべきであると、KJ法は常に私たちに訴えかけています。
 あくまで不毛でない問題解決のためにも。



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意識と無意識

  • 2010.06.15 Tuesday
  • 12:31
 霧芯館から徒歩20分ほどのところに〈宝ヶ池〉があります。
 このブログにも何回か写真を載せましたが、四季折々の風景や野鳥の姿が楽しめて、水面の表情も天候や風の具合で日々刻々と変化しますし、池を一周いたしますといつも何かしら面白いものに出会うので退屈しません。

 サギやカモがたくさん棲んでいますが、ときには非日常的なブルーの翼をきらめかせてカワセミが滑空していったり、片時も離れない2羽のアヒル(?)がおそろしく散文的な鳴き声で犬と喧嘩していたり、亀が遊歩道に這い出してきたり、毎日エサを与える人がいるおかげで野性味の半端な猫たちがたむろしていたり、周囲の山々から突如無数のカラスが湧き出してきて空を真っ黒に埋め尽くしたり。
 池の周囲を巡る人々もまたそれぞれで、散歩、ジョギング、部活の走りこみ、民族楽器の練習、ギターの弾き語り、猫やカモや鯉にエサを与えることを日課にする人等々、よく見るとそれぞれに一生懸命で、ときに一生懸命すぎて怪しい感じがすることも。

 かく言う私も、巨大なアオサギがあまりにもすぐそばに泰然とたたずんでいるのに感動して、どこまで接近できるだろうかとその日最大のスリルをおぼえながらデジカメのシャッターを押し続けていましたから、かなり怪しかったことでしょう。



 以前は、散歩やジョギングの人々の表情が気になっていました。
 というのも、これほど自然豊かで比叡山をも見晴るかす場所なのに、〈歩く〉ことに集中していて、全く周りを見ていない人が多いようにおもわれたので。〈健康増進〉の四文字に全神経を集中させているかのような、規則正しい足運びと腕の振り、前方だけを見つめて歩く硬直した表情を見るたび、せっかくの鶯の声なのに、桜なのに、新緑の薫りなのに、紅葉なのに、雪景色なのに、とひとごとながらもったいなくおもわれてなりませんでした。
 でも、人の身体とはあなどれないものであり、彼らの表情がいかほど硬直していても、意識の上ではあくまで〈健康増進〉のための日課であっても、身体は知らず知らずこの風景を呼吸しているのかもしれない。ともかくもその日課のためにこの風景を選んでいるわけだし。無意識に選んだ風景を呼吸しつつ、意識的な目的である〈健康増進〉にもその呼吸が役立っているのかもしれない。そう最近ではおもうようにもなりました。

 意識と無意識というものは乖離しがち、矛盾しがちなものですが、だからこそ人間とはあなどれない、不可思議な振幅をその身体に抱えているのだということを、KJ法と関わることでより強く認識するようになってきたのだと言えるでしょうか。
 意識と無意識双方の乖離や矛盾に対して、神経症的に差異を詮索したり意識にのみ主導権を与えることなく、全体としての人間の創造的な営みをこれほどシステマティックに技法として定着し得ているのは、まぎれもなくKJ法だけであり、その完成度の高さとともに、技法を通して体現された思想のあたたかくて厳しい立ち姿というものに繰り返し感銘を受けます。

 KJ法の研修を通して、受講者には、技法をマスターしていただきたいと同時に、KJ法的なまなざしの深みと堅固さにも触れて、一生ものの技術として大切に付き合っていただければと願っています。




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