KJ法のリアリティー

  • 2010.07.31 Saturday
  • 23:53
 宮崎アニメ『となりのトトロ』は、すでに12回ばかりテレビ放映されたそうですが、毎回のように視聴率は20%を超えているとか。
 1988年の作品ですが、今もって子どもから大人までこの作品にリアリティーを強く感じることができるというのは、なにか胸のあたたかくなるイメージです。
 自然、環境、絆、などといった大ぶりで口当たりのよいテーマ性がそのリアリティーを支えているのではなく、ささやかなシーンの演出のみごとさが、私たちの皮膚の上にもざわめく風や雨、夜の闇やトトロのおなかの弾力と温かさの感触をぞくぞくと励起して、たしかな解放感を与えてくれます。
 不気味なもの、異形の存在も宮崎アニメには欠かせませんが、彼らもまた非常にリアルで、ナウシカに「森へお帰り」と言われると、誰もが自身の内なる腐海の蟲たちのような異形性に居場所を与えてやれたような気がしたり、ラピュタのロボットがたたき潰されると、自分の中の説明のつかないしこりが悲痛なうめき声をあげるかのようです。
 繊細な演出を通して、光と闇の巨きな振幅が身体的に解放されるときの、いくつかの宮崎作品のリアリティーには、観念的でない説得力が充ちています。

 さて、KJ法が川喜田二郎によって生み出されて、こちらはかれこれ60年。(父も『トトロ』が好きでした。)
 人がこの方法にリアリティーを感じるための大切な条件とはなんでしょうか。
 国語力・・・無いよりあったほうがマシという程度。知識量、教養・・・といったものはむしろ邪魔なことさえあります。
 それよりも大切なのは、解決しなければならない現実というものを、〈渾沌〉として感じる能力だと私にはおもわれます。
 現実を明晰に合理的に認識・把握できていると思う人には、KJ法はまだるっこしいものに見えるでしょう。
 あるテーマについて、データの数が多すぎてお手上げであったり、たいした数ではないけれどもそれらの内容がてんでバラバラでどうとらえてよいものやらわからなかったり。そもそもどんなデータを集めてくればよいのかさえわからなかったり。あるいは他人はひどく明晰にその問題を説明するけれども、自分はどうしてももやもやとして腑に落ちないひっかかりを感じたり。なんとなくいろいろなことが気にかかるけれどもその根拠を説明することはできなかったり。
 まずは現実とは得体の知れない〈渾沌〉だと感じるこのような能力こそが、非合理的な〈無意識〉をもフルに駆使するKJ法のリアリティーを支えます。

 現実が明晰であるということは必ずしもリアリティーを保証せず、むしろ渾沌として曖昧であるということへの素直な感受こそが私たちを本当の意味での現実にきちんと着地させてくれるという逆説を、KJ法は鋭く体現しているのだということができます。

 すぐれた方法も、すぐれた芸術作品も、そのリアリティーが永続的であるとき、このような逆説的ともみえるまなざしを、どこかで内包していることが多いのではないでしょうか。






JUGEMテーマ:日記・一般
 

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< July 2010 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM