舞台と絵画
- 2010.10.08 Friday
- 19:46
先日(10月5日)は大阪で過ごしました。
上本町で舞台を観て、その後淀屋橋の小さな画廊で洋画の個展を観て京都へ戻ったのですが、画廊を出るともう暗くて、夜景がきれいでした。
京都市内を流れる川とはひと味ちがう、大阪的な情念の映り込んだ〈水〉といいましょうか。
この日、二つの非日常的な空間を味わいましたが、いずれも建造物の外観はビル。一方は商業施設がいっぱいの近代建築内の劇場空間であり、もう一方は飲食店や古美術商が猥雑に立ち並ぶ一画の雑居ビル内にある小さなホワイトキューブ。
両者ともその中には濃密な非日常的空間が拡がっていて、舞台と絵画というちがいはありましたが、いずれのアーティストも、この世界に存在しているというそれだけのことがとても大変な力わざであるという不幸な資質を幾重にもその身体と表現にたたみ込んだ若者で、そのピュアな生き難さの感触をしたたかに味わった一日でした。
近代的なビルのとある階の扉をひとつくぐれば、そこには異質な閉じられた空間が拡がっていて、私たちはその空間を仮構された〈全体〉として感受しながら、表現者の伝えようとするリアリティーを模索せねばなりません。
KJ法を支える世界認識のベースとして、川喜田二郎はよく「人間には自分を取り巻く世界をシームレスな全体としてとらえる能力がある」と発言していましたが、こういう川喜田二郎らしい〈全体〉への信頼感とは異質の、この世界への激しい異和感を前提として仮構された〈空間〉では、現実や他者へのアプローチが非常に屈折したものとならざるを得ません。
過剰な屈折を抱えた表現者ではなくとも、この世界への、そして渾沌とした現実や他者への、ゆったりとした信頼感は、世代が下るにつれて急速に喪われていっているようにおもわれます。
世界への豊かな信頼ととらわれのないまなざしが生み出したKJ法を、次の世代に受け渡すことの切迫した困難とスリリングな意義をいつも感じながら、己れのまなざしをもまた内省にかける毎日です。
大好きな萩の花の咲きこぼれる季節となりました。
JUGEMテーマ:日記・一般
上本町で舞台を観て、その後淀屋橋の小さな画廊で洋画の個展を観て京都へ戻ったのですが、画廊を出るともう暗くて、夜景がきれいでした。
京都市内を流れる川とはひと味ちがう、大阪的な情念の映り込んだ〈水〉といいましょうか。
この日、二つの非日常的な空間を味わいましたが、いずれも建造物の外観はビル。一方は商業施設がいっぱいの近代建築内の劇場空間であり、もう一方は飲食店や古美術商が猥雑に立ち並ぶ一画の雑居ビル内にある小さなホワイトキューブ。
両者ともその中には濃密な非日常的空間が拡がっていて、舞台と絵画というちがいはありましたが、いずれのアーティストも、この世界に存在しているというそれだけのことがとても大変な力わざであるという不幸な資質を幾重にもその身体と表現にたたみ込んだ若者で、そのピュアな生き難さの感触をしたたかに味わった一日でした。
近代的なビルのとある階の扉をひとつくぐれば、そこには異質な閉じられた空間が拡がっていて、私たちはその空間を仮構された〈全体〉として感受しながら、表現者の伝えようとするリアリティーを模索せねばなりません。
KJ法を支える世界認識のベースとして、川喜田二郎はよく「人間には自分を取り巻く世界をシームレスな全体としてとらえる能力がある」と発言していましたが、こういう川喜田二郎らしい〈全体〉への信頼感とは異質の、この世界への激しい異和感を前提として仮構された〈空間〉では、現実や他者へのアプローチが非常に屈折したものとならざるを得ません。
過剰な屈折を抱えた表現者ではなくとも、この世界への、そして渾沌とした現実や他者への、ゆったりとした信頼感は、世代が下るにつれて急速に喪われていっているようにおもわれます。
世界への豊かな信頼ととらわれのないまなざしが生み出したKJ法を、次の世代に受け渡すことの切迫した困難とスリリングな意義をいつも感じながら、己れのまなざしをもまた内省にかける毎日です。
大好きな萩の花の咲きこぼれる季節となりました。
JUGEMテーマ:日記・一般
- 日常
- -
- -
- -