自分というフィールド
- 2011.03.01 Tuesday
- 23:41
問題解決において、KJ法を累積的に活用すると有効な場合があります。
川喜田二郎は、「6ラウンド累積KJ法」という形で、その姿勢転換のステップを提示しました。
問題提起、状況把握、本質追求、構想計画、具体策、手順化。
どんな問題でも必ずこの6ラウンドを累積させなければならないというわけではなく、問題が複雑であったり、グループでの合意形成を段階的に明晰に確認しながらプロジェクトを進めなければならないときなどには、この6ラウンドのことさらな姿勢転換によって、問題解決への推進力が格段に増す、という主張なのです。
どのラウンドも重要なのですが、最初のラウンドとして「問題提起ラウンド」が設定されていることに、私はいつもKJ法ならではの深みを感じます。
このラウンドでは、自分の内面への探検を行います。
自分はいったい何を探求したいのか、何が気にかかっているのか、自分自身のなぜだかわからない気がかりというものを掘り起こして明晰にするラウンドです。
このラウンドを踏まえてこそ、次の「状況把握」や「本質追求」が適確になされ、「構想計画」以降の解決へのステップも実り多くブレのないものとなるわけです。
「自分の気がかりくらい自分でわかっている」と思われるかもしれませんが、はたして自分とはそんなに自分にとって明晰なものでしょうか。
KJ法の多彩な技法の内には、理知で把握し得る明晰さというものへの根底的な問い直しが随所にはらまれています。
「問題提起ラウンド」を問題解決の最初のステップとして設定するのも、そんなKJ法的まなざしに由ると言えるでしょう。
児童文学作家である浜たかやの作品に、『月の巫女』(1991年 偕成社刊)という長編ファンタジーがあります。
文化人類学や神話学の該博な知識が融かし込まれ、ダイナミックな文明論的視野をはらむ、壮大な傑作ファンタジーなのですが、その中で、混沌とした女性原理、非合理的な〈闇〉や〈水〉を象徴する登場人物が、男性原理のみで一つの王国を支え続けたことの〈ツケ〉を背負わされて暴走する〈王〉と、次のようなやりとりをする場面があります。
「〈デイーの舌〉、わしがなんのためにここへきたか知っていような。」〈デイーの舌〉はこたえなかった。ふかい目でザトガルをみつめたままぎゃくにききかえした。「そなたは知っているのですか、ユルンの王?」
〈闇〉や〈水〉の横溢する世界にはからずも激しく吸引され、自らの治める王国を崩壊へと導く道をユルンの王ザトガルはひた走っているのですが、己れの累積した〈渇き〉や〈疲労〉の本質に対して無自覚なザトガルと、彼を通して顕われる世界の再生への奔流を見つめる巫女〈デイーの舌〉のふかいまなざしとの対比が鮮やかに象徴的な場面です。
浜たかやの作品には、自分で自分のことがわからないというもどかしさや不安や畏怖の念を世界認識の根底に据えるべきだという、深い憤りが通底しており、人間や世界の振幅のみすぼらしさに知らず知らず馴れきってしまった私たちのまなざしを根底から揺るがすパワーにみちています。
川喜田二郎の提唱した「野外科学」の精神において、「野外」という概念は場所の概念ではありません。自身の内面もまた、〈探検〉すべき一つの渾沌としたフィールドであるとみなすことのできる開放的な〈態度〉の概念なのであり、そこでは、「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」といった「悪ざとり」をまず徹底して排する必要があります。
KJ法は、自分自身をも含めたあらゆる渾沌への畏怖をとり戻す方法である、とも言えるかもしれません。
JUGEMテーマ:日記・一般
川喜田二郎は、「6ラウンド累積KJ法」という形で、その姿勢転換のステップを提示しました。
問題提起、状況把握、本質追求、構想計画、具体策、手順化。
どんな問題でも必ずこの6ラウンドを累積させなければならないというわけではなく、問題が複雑であったり、グループでの合意形成を段階的に明晰に確認しながらプロジェクトを進めなければならないときなどには、この6ラウンドのことさらな姿勢転換によって、問題解決への推進力が格段に増す、という主張なのです。
どのラウンドも重要なのですが、最初のラウンドとして「問題提起ラウンド」が設定されていることに、私はいつもKJ法ならではの深みを感じます。
このラウンドでは、自分の内面への探検を行います。
自分はいったい何を探求したいのか、何が気にかかっているのか、自分自身のなぜだかわからない気がかりというものを掘り起こして明晰にするラウンドです。
このラウンドを踏まえてこそ、次の「状況把握」や「本質追求」が適確になされ、「構想計画」以降の解決へのステップも実り多くブレのないものとなるわけです。
「自分の気がかりくらい自分でわかっている」と思われるかもしれませんが、はたして自分とはそんなに自分にとって明晰なものでしょうか。
KJ法の多彩な技法の内には、理知で把握し得る明晰さというものへの根底的な問い直しが随所にはらまれています。
「問題提起ラウンド」を問題解決の最初のステップとして設定するのも、そんなKJ法的まなざしに由ると言えるでしょう。
児童文学作家である浜たかやの作品に、『月の巫女』(1991年 偕成社刊)という長編ファンタジーがあります。
文化人類学や神話学の該博な知識が融かし込まれ、ダイナミックな文明論的視野をはらむ、壮大な傑作ファンタジーなのですが、その中で、混沌とした女性原理、非合理的な〈闇〉や〈水〉を象徴する登場人物が、男性原理のみで一つの王国を支え続けたことの〈ツケ〉を背負わされて暴走する〈王〉と、次のようなやりとりをする場面があります。
「〈デイーの舌〉、わしがなんのためにここへきたか知っていような。」〈デイーの舌〉はこたえなかった。ふかい目でザトガルをみつめたままぎゃくにききかえした。「そなたは知っているのですか、ユルンの王?」
〈闇〉や〈水〉の横溢する世界にはからずも激しく吸引され、自らの治める王国を崩壊へと導く道をユルンの王ザトガルはひた走っているのですが、己れの累積した〈渇き〉や〈疲労〉の本質に対して無自覚なザトガルと、彼を通して顕われる世界の再生への奔流を見つめる巫女〈デイーの舌〉のふかいまなざしとの対比が鮮やかに象徴的な場面です。
浜たかやの作品には、自分で自分のことがわからないというもどかしさや不安や畏怖の念を世界認識の根底に据えるべきだという、深い憤りが通底しており、人間や世界の振幅のみすぼらしさに知らず知らず馴れきってしまった私たちのまなざしを根底から揺るがすパワーにみちています。
川喜田二郎の提唱した「野外科学」の精神において、「野外」という概念は場所の概念ではありません。自身の内面もまた、〈探検〉すべき一つの渾沌としたフィールドであるとみなすことのできる開放的な〈態度〉の概念なのであり、そこでは、「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」といった「悪ざとり」をまず徹底して排する必要があります。
KJ法は、自分自身をも含めたあらゆる渾沌への畏怖をとり戻す方法である、とも言えるかもしれません。
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