世界認識の枠組み

  • 2011.05.28 Saturday
  • 22:49
 谷崎潤一郎の第一短編集『刺青』(明治44年[1911年]刊)の中に、「信西」という戯曲作品が収録されています。
「刺青」「麒麟」「秘密」といった、谷崎の耽美派的な面目躍如たる作品にまぎれて、あまり注目されることのない短い戯曲ですが、日露戦争後にあからさまになるまでは不明瞭に底流していた明治期の病理の本質が、的確に描き出されていて戦慄をおぼえます。
 そこでは、平治の乱において、後白河上皇の寵臣として敵方の源義朝から追われて自刃に追い込まれた信西(俗名・藤原通憲)の末期(まつご)の様が描かれています。

「わしは昨日迄自分の学問や才智を誇つて居つたが、今となつて見れば、却つて愚な人が羨ましいわ。」
「最後にわしは、此の宇宙の間にある凡べての事柄を、悉く知らうとした。天文でも、医術でも、陰陽五行の道でも、わしの学ばない處はなかつた。」
「わしの眼には、遠い未来の事までも明かに見える。世の中や人の身の上に大事件が起る前には、必ず其の兆が現れるものぢやが、わしの眼には其れがはつきりと見えるやうになつたのぢや。しまひには自分の悲しい運命迄が、自分に能く見えるやうになつて来た。其れがわしの不仕合はせであつたのぢや。」(角川書店『日本近代文学大系30 谷崎潤一郎集』所収、「信西」より。旧漢字は一部読みやすく改めて引用。以下の引用も同じ。)

 信西は博学をもって世にきこえた人でした。
 谷崎は、この男があらゆる学問をし尽して何もかも知りすぎたあげく、己れの悲しい運命までも見えすぎることの不幸にがんじがらめに縛られて自滅してゆくさまをアイロニカルに描きます。
 宇宙間のすべてのことを知り尽くした信西には、己れの死期さえも明白なのであり、それを司るのが「大伯星(金星)」であるからと、この星にことのほか脅えます。
「頭の上にあの星が睨んで居る間は、何處へ行つても同じ事ぢや。わしにはあの星を空から射落す力はない。あの星を、頭の上から引きずり下ろす力がないのぢや。どうかして、あの星の見えない處へ行きたいものぢや。」
 源氏の追手をかわしたとしても、この星に見られているかぎりはきっと自分の命は尽きてしまう、と考えた信西は、大伯星の光が消えるまで、杉の木陰に穴を掘って土の中に身を埋め、地上に出した竹の節を通して息をして生き延びようとしますが、源氏の郎党たちに見つかってしまいます。信西は、穴の中で自刃するも死にきれず、うわごとのように「星はまだ光つて居るか。・・・・・」とつぶやき続ける場面で戯曲は幕を降ろします。

 一篇を支配する神経症的な恐怖の描写には、この天地を明晰なものとして認識し尽くす営為によって追い詰められた、明治末年当時の個々人の内面の異様な閉塞感が鮮やかに映し出されているようにおもわれます。信西にとって、「大伯星」は、もはやコスミックな世界観を統べる雄大な道しるべではなく、酷薄な死の宣告を下すだけの無機的な〈知〉の象徴となり果てています。
 谷崎が展開した耽美的な文学世界は、実はこの信西のように、〈知〉や科学的因果律という明晰だけれども無機的な〈光〉によって矮小化され、息も絶え絶えになっていた当時の青年層の蒼ざめた世界観・人間観の裏返しだったことが、ちょうど百年後の今なおリアリティーを帯びて新鮮に感受されます。
 運命の不条理にうち克とうとする信西は、そのための力を、当の運命を司る〈光〉によって奪われてしまっている、という存在の底浅さ。酷薄なニヒリズムと背中合わせの神経症、そしてゆがんだ〈闇〉への飢渇。
 第一短編集に、この一見地味な短編戯曲が収められていることで、私たちは谷崎の文学理念の根底にあった鬱屈のかたちに直面せざるを得ません。

「刺青」において有名なように、谷崎の文学は人間の倫理を倒錯的な美意識にひざまずかせたところに面目があり、第一短編集にもその美意識の堂々たる自己主張がみなぎっていますが、彼が反発した自然主義文学もまた、いわば人間の倫理を科学的(唯物論的・因果律的・機械論的)な世界観の下にひざまずかせた文学理念だと言うことができましょう。
 自然主義文学とそれに反発した谷崎の文学。
 文学史においては対極的な扱いを受けるのですが、両者の理念の根底には、倫理の剥落と、その倫理を本来的に支えるコスミックな世界観の剥落があったことを、「信西」という戯曲は象徴的に示しているようにおもわれます。

 自然主義がこの後すたれたというのは、実は表面的なトレンドにすぎないでしょう。
 自然主義と反自然主義という対立の構図を下支えしていた世界認識の枠組みは、むしろ一層強固なものとなってゆきました。
 近代とは、信西の脅えた〈光〉と、そこから身をかわすためにいびつに自己主張を展開する倒錯的な〈闇〉との織りなす歴史のことだといってもよいほどに。
 巨大な不条理に見舞われるたびに、私たちはいつもいつもほんとうは、この世界認識の枠組みとの闘いを強いられているのだともいえるほどに。





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