ささやかさの精度

  • 2012.03.30 Friday
  • 20:24

 KJ法の研修を通して、医療や福祉にたずさわる方々の現場の声を聴く機会が多いのですが、矛盾に満ち、それぞれの気持ちのやり場のない状況を、少しでも良くしようと奮闘する人々のおもいは、〈全体を取り戻したい〉という方向性をもっているように感じられます。さまざまな現場において、〈人の尊厳が喪われている〉という感受も、共通しているようにおもわれます。
 施設であれ自宅であれ、人と人、人と地域が目に見えて分断されがちであるのはもちろん、自分が自分のからだやこころというものを、かけがえのない意味をもつ〈全体〉としてとらえることからもまた、私たちは遠ざけられているようです。
 検査の数値や病名にまなざしを囲い込まれ、生きていることの実感を種々の観念に回収されながら、世界と自分とをみすぼらしく感受させられている、蒼ざめた現場の事例の数々に胸が痛みます。
 それと同時にその現場を、実にささやかな、地に足のついた支援で動かしてゆこうとする方々の粘り強い視点に触れると、「ああ世界はまんざらでもない」といった感慨がじわっと湧き上がってまいります。
 ものごとというものは、いつもそのようなささやかな場所から変わってゆくのだという認識。そのささやかな努力がやがて大きな次元での変容と辻褄が合ってゆくことの不思議さ。「がんばれば結果がついてくる」といった因果律の物語以上に、この不思議さへの畏怖や信頼に触れることがうれしくおもわれます。
 ただの楽観でも観念的な大ぼらでもなく、この畏怖や信頼が意義深く機能するためにも、〈ささやかさ〉は丁寧に紡がれねばならない、大切な物語であるとおもいます。

 霧芯館でKJ法の研修を受けられた方が、その後自分なりに挑戦して作り上げたKJ法図解を拝見して、徹底的に修正させていただくことがあります。
 図解を作られたご本人も、出来ばえに不全感をおぼえ、意見を求められてのことなのですが、KJ法としてこれといって不適切な作業をされているわけでもないのに、どことなく「それなり」ですっきりしない、いまひとつ明快な説得力に結びつかない、といった結果の場合、その不全を乗り越えて腕を磨いていただくには、根こそぎ図解作品を修正される体験を得て、ラベルのグループ編成時の適正さというものが、どのように実現されるのかを骨身に刻みつけてもらうことも大切です。
 複数のラベルを統合して新たな概念を言葉に定着させてゆく作業は、ラベル群の〈志〉の感受と表現の抽象度の水準が大事です。もし、図解の中の一ヶ所を修正するなら、ほかのあらゆる統合も同じ精度でなされるべきだというくらい、KJ法の作業は、部分と全体とが切り離せないものです。
 作業精度をそろえ、水準を整えることで、図解はまるごと生まれ変わります。漫然と分類的に状況を報告しているだけといった「それなり」の図解が、構造としてのメリハリをもち、〈本質〉への把握をそそる図解に転生する過程、あるいはその結果というものを味わってもらうことは、この方法の修練を重ねる中で、時に必要なプロセスです。
 KJ法でどれだけ本質的な仕事ができるのかについて、明確で豊潤なイメージを与えられた方々は、自らの図解の不全に落ち込むよりもはるかに強く、この方法の奥深さに魅せられて、モチベーションを上げてゆかれるのです。

 さまざまな現場もまた然りではないかとおもいます。
 ささやかな支援、ささやかなまなざしの変容、その丁寧な実現の積み重ねが、人や家族や地域といった〈全体〉をやがてめざましく変容させるのであり、そのことへの畏怖と信頼が動力源だと感じます。
 その〈全体〉のイメージはしかし、みすぼらしく想い描かれるべきではありません。
 常に個々人が己れのまなざしや技量を研ぎ澄まし、豊かに想い描く能力を培うことなしに、〈ささやかさ〉の精度が上がることもないのだとおもいます。

 世相の暗さ、蔓延する病理、息苦しい価値観に取り囲まれたとき、「想い描く」能力は息もたえだえになりがちですが、決してあきらめてはいけない能力でありましょう。
 たとえば『武蔵野』を著して有名な国木田独歩は、こんなことを言っています。
「人は世間から生れ出て世間の中に葬られて了(しま)うのではない、天地から生れて天地に葬られるのである。」と。
 明治36年に発表された小説の中のことばです。これはおめでたい世界観を豪語しているのではなく、日清・日露戦争間に生じていた巨大な価値観の変容・亀裂に全身的に煩悶していた当時の青年層の、血を吐くような反骨の述懐です。人として奪われてはならないものをいつのまにか隠微に奪われていった、明治の世界風景の転変の質を痛々しく感じさせることばです。
 この頃から実は、私たちを取り巻く閉塞感の本質はなにひとつ変わっていないし、それを超えるまなざしが目指すべき場所もまた、すでに示されていたのだと感じられます。
 個々人の生の実感を、なにものにも回収させずに己れの手の内に取り戻すことだけが、〈天地〉という世界観を取り戻す唯一の方法であり、〈天地〉というスケールを想い描く能力こそが、個々人の〈ささやかさ〉を実りあるものにさせ得るのだとおもわれます。

 霧芯館が、この壮大なスケールとささやかさとの生々しい往還の道場であり得るように、いつも願っています。




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