視えにくい敵

  • 2012.09.29 Saturday
  • 20:20
 先日、美大の学生さんに、自身の作ったKJ法図解をプレゼンしてもらったら、「この世界、生きてたら、なにが正しくてなにが正しくないのか、よくわからないことがいっぱいあって・・・。」と述懐されたことが印象的でした。重々しい青みのある言葉づかいが、それまでの20年ほどの人生の踏みしめ方を感じさせます。

 里山をフィールドワークして、そのコスモロジーに迫るためのKJ法図解作成なのですが、近年の若者が〈里山〉という異文化に触れる体験は、生理的なレベルでの衝撃が実存的な衝撃に直結して、自身の世界観の問い直しを迫るようです。

 彼女の図解にも、里山の自然との対峙によって繰り広げられた深みのある内省が顕著でした。種々の振幅をはらんだ自然を五感で受け止めることによって、もしかしたら人間と対峙するときよりもはるかに強く、〈自立〉とか〈解放〉とか〈許容〉といった概念を厳しく問い詰めた痕が感じられ、興味深くおもわれました。
 また、〈生〉と対立する概念としての〈死〉に対してではなく、〈生と死〉というダイナミックなサイクルからも断たれた風景における〈澱み〉への異和の感触もうまく表現されていて、若者の希求する世界観の一端を垣間見た気がいたしました。

 こちらの写真は、8月に開催した「霧芯館KJ法ワークショップ2012」において展示したものですが、現在の青年たちが「生きづらさ」というものをどのように認識しているかについて私自身が作成したKJ法図解です。

  そこで浮上した「生きづらさ」の本質は、この社会を生きていくにあたって、立ち位置や目標や他者との関係性における押し出しのよい自我(ユング的に言うなら“ペルソナ”)をさっさと「定めなさい」というプレッシャーに晒されて息ができないという苦しさにありました。自分が「定まらない」ということをいかに貶められてうしろめたくおもわせられているか、そのことを日々どれほど苦痛に感じているか。おそらく多くの青年たちは無自覚な領域をそのプレッシャーに浸されて得たいのしれないストレスを表現できずにもがいています。

 同じ生きづらさを、実は幕末以降、この国の青年たちは体験してきています。今に始まったことではありません。
 明治期の煩悶、大正期の享楽、昭和期の暴走の影には、いつも同型の巨大なストレスがひそんでいたようにおもわれます。
 社会の中で個人として解放されていくほどに、その内実はうつろなものとなり、不明瞭な病理に浸食されていったのが〈近代〉であるなら、〈現在〉はそのわびしい“成熟”が極限に達した時代でありましょうか。

 青年たちだけでなく、なんとかして幸せに生きたいと誠実に望む人々はみな、“闘う相手”の視えにくさとも闘っています。
〈正しくないもの〉は、ときとして、自分自身や自分の大切な人、身近な人の内にも、目に視えない価値の縛りとして強固な根を張っていて、最もつらい悪戦を強いてきます。
 ただ、そのようなつらさを安っぽくごまかして済む時代ではなくなったこと。これは時代の正しい成熟とおもわれます。

 霧芯館でKJ法を学ぼうとなさる方々は、ある意味とても不器用な方が多いのですけれども、その生きることに不器用な感触を、私はとても頼もしくおもいます。
 世代を問わず、こざかしくさらさらと生きられないものを抱えて、自分と向き合ったり、弱者と向き合ったり、若者たちと向き合ったりしておられます。ご自身の人生の内にも、思いもかけない転変を体験したり、決意したり、また思いもかけない機縁で京都までお越しになって霧芯館でKJ法に出会ったりなさっておられます。
 KJ法は渾沌を相手取る方法ですから、視えにくい敵とよりよく闘いたい人のための方法であるともいえるのです。そこであいまいさと明晰さとの振幅を往還する方法論を身につけることは、良い意味で不器用な人にとって、最良の武器となるはずです。

 あいまいな「生きづらさ」と闘う、味のある不器用さと触れていることで、なにかしら足元が確かでいられる、そんな幸せな感触を大切にしたいとおもう、秋の夜長でした。




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