2012年を振り返って

  • 2012.12.29 Saturday
  • 20:02
 今年、霧芯館の研修を受講してくださった方々のお顔を思い出すと、その領域の多彩さを強く感じます。
 質的研究のために活用なさる方が多いですが、看護・福祉だけではなく、医師の側からのKJ法への積極的な関心も、多々示していただくようになりました。研究への活用のためであるとともに、地域医療という現場での方法論としても、強い関心を向けていただいたようです。そこでは、病院という場から離れて一人の人として患者さんを診るという、あたりまえのことに向き合わねばならず、人を〈全体〉としてとらえるとはどういうことか、が試されています。
 地域、ことに僻地や離島やネガティヴな困難を抱えた場所からの研究にも多々、触れる一年でした。被災地のいまだ悲痛な声にも触れることになりました。
 臨床心理や精神科看護に携わる方々も多く、深刻な病理の極北を見るおもいでした。そして極北の場所からのまなざしの転換が、ラジカルな希望を与えてくれました。
 看護領域では、助産師の方々がなぜかたくさん受講され、すぐれた作品をつくってくださいました。人が産まれる現場には、観念性を吹き飛ばすパワーがあるのでしょうか、KJ法作品にも誠実な粘り強さと本質追求力が生じます。
 教育・言語・経営・デザイン・ヨガやスポーツにおける身体の問題まで、今年の多彩さは、楽しさと同時に、時代はここまで深刻になっているのか、という感慨を惹き起こします。
 KJ法という多大なエネルギーを必要とする方法に賭けてまで現場を変えたいという熱意が、さまざまな領域に遍在する感触を、それこそ胎動のように感じ続けた一年でした。
 間接的な関わりであっても、現場の息吹はまざまざと伝わってきました。

 以前、精神科看護でのご研究にスーパーヴァイズ的に私が関わった方から、不思議そうに、ちょっと悔しそうにメールをいただいたことがあります。
「アルコール依存症の方や看護師さんへのインタビューをとったのは私なのに、私よりもそれらの〈志〉をよく把握しておられるのはなぜだろう。」と。
 間接的ではあっても、KJ法的なまなざしで全体感を背景としてラベルたちの〈志〉を感受することが身体化されるなら、ときに「直接性」を凌いでデータ群の本質に迫ることも可能です。
 ならば、直接現場を呼吸する方々が、ほんとうの意味でKJ法を身体化するとき、どれほどの成果が上がることになるか、受講者のみなさんには、真剣にそのことをイメージしてほしいといつもおもいます。
 霧芯館は道場です、とよく申し上げるのですが、自立してKJ法を使いこなせるようになりたい方々のために、腕を磨く機会の提供をこころがけて、今年も夏・冬にワークショップを開催いたしました。KJ法を通した交流で味わう仲間の気合とフレッシュな視点に、モチベーションを上げてゆかれる方が多く、道場効果、とひそかに呼んでいます。

 来年も、やはり霧芯館は道場です。
 自立してKJ法を使いたい、という熱意さえあれば、道場主はとても優しいです(笑)。
 心からみなさまのお越しをお待ちしております。

 では、よいお年をお迎えください。



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「霧芯館KJ法ワークショップ2012 其ノ二」

  • 2012.12.19 Wednesday
  • 20:16
 夏(8月11日)の「霧芯館KJ法ワークショップ2012」での成果を受けまして、今年も「其ノ二」を先日(12月15日)開催いたしました。(於:京都テルサ)
 今年の夏の「パルス討論」のテーマは「変容の本質〜現場が変わる瞬間(とき)〜」でした。そこで作成された「探検ネット」から、参加者のみなさんのラベルを前もって私が70枚ピックアップしておき、今回の「其ノ二」では、チームごとにさらに約30枚のラベルを厳選して「狭義のKJ法グループ作業」を行いました。

 この日、異分野の方々が同じテーマでKJ法を行うことで、ラベルたちは否応なく象徴的な重みをもって感受され、現在においてどのように〈変容〉というものを把握すべきなのかについて、本質的な示唆をもつ図解が完成いたしました。
 どのチームの図解もそれぞれに個性的なのですが、川喜田二郎が言うように、同じ富士山を違う角度から眺めるような、異質だけれども普遍的・本質的な場所で固く握手しているような、そんな味わいを、いくつもの完成図解から確かに感じることができました。

 現在において〈変容〉を阻む固執のかたちとそれを超えようとするまなざし。
 ことに、自他への欺瞞や強制や決めつけ、これを超えるために関係性や世界観そのものを根底的に問い直そうとする、凛としてしかもしなやかな質を浮上させた図解たちが出来上がりました。

 現場から汲み上げられたささやかな事例や想いを、この日、参加者のみなさんは、ただの一枚もおろそかにしようとはせず、それらのグループ編成において誰ひとりとして妥協しようともせず、最後の最後まで粘り抜いて納得のゆく図解作成に取り組まれた姿には、主催者の私の方が、頭の下がるおもいでした。

 昨年の参加者は腕を上げて今年に臨み、初めての参加者も生き生きと発言され、各チームのリーダーの采配のもと、濃く充実した時間が終始会場を満たしていました。

 こんな風に他者と時間を共有することができる。
 そのことの新鮮さは、体験してみないとわかりません。

 たった一枚のラベルにこれほどの奥ゆきがひそんでいたとは。そんな感動に満たされる時間。
 これも多大なエネルギーをかけて図解をつくってみないと得られません。

 誰もがこの日、KJ法のど真ん中を体験した、ちょっと「ランナーズハイ」のような興奮と心地よい疲労感を抱えて、またKJ法とともに走り出す決意を新たにしてくださったようでした。



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「霧芯館KJ法ワークショップ2012 其ノ二」当日風景〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2012.12.18 Tuesday
  • 23:38

聖と俗

  • 2012.12.11 Tuesday
  • 16:04
「朽木谷学術調査報告書」というものが、たまたま私の手元にあります。1969年に滋賀県が発行したもので、地形・地質・植物・動物、そして人文地理・歴史・文化財・民俗といった多彩な角度からの調査報告がまとめられています。
「朽木(くつき)谷」は滋賀県のチベットとか北海道とか呼ばれることがあるように、非常に隔絶性の強い場所、いわば〈隠れ里〉的な空気をもつ地域です。
 現在は滋賀県高島市の一部。平成17年1月1日まで「朽木村」でした。



 比良山系の西部に位置し、琵琶湖にそそぐ安曇川流域にありますが、この安曇川筋と、そこにさらに注ぎ込む三つの川筋に集落が点在し、山がちで峡谷美を有する個性的な地域です。



 古来、京都・奈良と若狭とを結ぶ交通路の通過点でもあり、また、室町時代に足利義晴がかくまわれた場所でもあったり、独自の空間が脈々と維持されてきたようです。

 この「報告書」、1969年の調査ですから、そこには過疎化の波が押し寄せた様が如実にうかがわれます。石油・電気を燃料とする暖房機器の普及は、朽木谷全体の林業を、炭焼き中心から用材生産中心へとシフトさせ、産業構造を変化させました。かつて木地師の里であった山間部でも、すでに木地屋の家は絶えています。
 さまざまな変化が押し寄せながらも、民俗はなお強固にムラの姿を伝え、成年式や神主制度などに、まだまだ厳格な伝統のなごりが見られたようです。
 山で伐り出した用材は、古来、筏流しで安曇川を下り、河口まで運ばれていましたので、筏乗りを守護する「思子淵(シコブチ)」神への信仰が厚く、当時も厳重に「めぐり神主」の制度で祀ったりしていたようです。

 この朽木のムラに登場する「めぐり神主」または「一年神主」と呼ばれる制度には、不思議なリアリティーをおぼえました。
 成年式を終えた村人は、一年ずつ当番制で神主の仕事を担うのです。「コウドノ」とか「コウゾン」と呼ばれます。
 神主平常の心得は、「毎朝かならず水浴して身体を清浄に保つ。常に行儀作法を正しくして言語行動をつつしみ、喧嘩口論をしない。獣肉・鶏肉・ネギは食用しない。家族または近親に死者が出ればオカギ(神社のカギ)を他の神主にあずける。もし死者が父母・妻の場合には、神主の座にとどまることはできない。外泊は極力さける。忌中のものまたは身元の明らかでないものは神主の家に宿泊させてはならない。肥料その他不潔のものには手をふれることができない。赤ん坊を抱いたり背負ったりすることも許されない。」などとあります。「コウゾンは氏神の祭事の主催者となるが、普通のムラの寄合でも最上席を占めて発言も重くみられてきた。タブーも多く、任期中は妻と寝室を共にすることができず、もしこどもができると、氏子の家を一軒一軒あやまって歩かねばならない。寒の30日間は毎日コリカキをしなければならない」等々・・・・・・。

 ムラの〈聖なるもの〉を一年間、コウゾンは精進潔斎して一身に担わねばならないわけです。
 面白いのは、それを当番制で担うということ。つまり、ムラの成員は、誰もが時に、ムラの〈聖なるもの〉の担い手とならなければならないということです。
 誰か一人だけが〈聖なるもの〉を担い、他の成員はその一人にゲタを預けて自分たちは俗なるままに生きる、というのではなく、ゲタを預けられる立場を誰もが体験しなければならないというシステムに、ムラとしてのある切実な〈必要〉を感じます。
 そのような聖と俗との往還をはらむコスモロジーの維持が、コミュニティーの維持に必要だったということが重く伝わります。

 これはもはや過去のシステムですが、そこに私がリアリティーを感じるのは、どこかこのコウゾンの場所と近いところに、私たちは誰もが吹き寄せられていると感じるからです。
 その厳格なタブーにリアリティーを感じるというより、私たちは、誰かにゲタを預けて生きることができない場所にいる。一人ひとりがもし〈全体〉としての存在を生きたいのならば、自身で〈聖なるもの〉を担う必要性に迫られている。そういう私たちのあり方の象徴として切迫したリアリティーを感じるのです。
〈聖なるもの〉は、必ずしも大仰な宗教的な信仰を意味しません。
 日々、なにかに大切な判断のゲタを預けて生きることを、私たちはなしくずし的に行っています。自分自身の判断であるとおもっていることも、実は知らず知らずのうちに身体に沁み込んだ既成のイメージ価値によって流され、強いられた結果であることも多いわけです。
 そこから誠実に身をもぎ離すようにして、意味と価値を己れの手の内に取り戻す闘いが、そういう闘いだけが、私たちの日常と非日常、意識と無意識のすべてを更新し得るようにおもわれます。
 ムラという単位を〈全体〉として行われていた生きる意味の更新を、私たちは、個々人を〈全体〉として回復すべく引き受けねばならなくなっています。
 そのつらさ・厳しさが社会の随所に滲んでいるのを、日々感じます。
 個々人がそれを担えないことの病理同士がせめぎ合い、あるいは担う者と担わない者との価値観の差異が葛藤し、連携や連帯や絆ということばがうつろに吹き過ぎてゆきます。

 高齢化社会の疲弊感、ぼろぼろの地域力、荒廃した家族、内面を病み尽くす若者たち・・・。どんな現場であれ、現場で闘うということは、自他のそのつらさ・厳しさを一人ひとりの場所から丁寧に解きほぐし、まだほんとうの意味ではきちんと希求されたことのない、まっさらな関係性の手ごたえを得られるように、ハラの底から望むこと、と私にはおもわれます。そのように望む方々との出会いに支えられて、そうおもいます。

 新たな意味とリアリティーの獲得のために現場で奮闘する方々の背中を、KJ法が少しでも押すことができれば、と願います。



朽木で出会った子ザル・・・。



当然ながら上手な木登りを披露してくれました。

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