初春のかぜ

  • 2014.01.29 Wednesday
  • 19:34




 美しくおのれのままに生ひ出でし野馬の声する初春のかぜ    与謝野晶子

 
 
 詠まれているのは「初春のかぜ」なのですが、そのモチーフの内実が「野馬」の美しい生命性で彩られています。読む者の身体までこわばりがほぐれて深々とした呼吸の思い出される一首です。

 馬、という生き物は、人にとってどこか、聖なるものとのなかだちをしてくれる存在としてのイメージをまとっているようです。
 人が馬に乗って疾駆するイメージも美しいですが、この歌のように、人を乗せたことのない、その背に鞍など置かれたことのない野生の馬のイメージもまた、私たちの深い憧れをそそります。
 人もまた、この「野馬」のように生きられるはずではなかったのか?
 そういう問いかけがふつふつと心奥から湧き上がってきて、日々、私たちの身体を窮屈に拘束している諸々の有形無形の軛(くびき)の存在に、今さらのように気づかされたりします。
 ことに「おのれのままに生ひ出でし」という修飾に、いまだかつて拘束というものを知らない「野馬」の身体曲線が想い描かれ、私たちの息苦しい成長過程の久しさが対比されずにはすまされません。

 一方で、馬と人は仲良くできる間柄でもあります。
 人が馬を見事に乗りこなしている姿にも、感動を受けます。
 時代劇などで、俳優さんがまるで馬と一体化しているかのようにしなやかに疾駆する風景を見ることができるのは嬉しいものです。佇んでいる場面でも、「馬上ゆたかに」などと形容されるように、無駄な力がぬけて丹田においてのみ、馬と己れの身体との全体感を統御しつつ、余裕のあるたたずまいを見せることのできる俳優さんは、最近では珍しくおもわれます。
 きっと、美しい騎乗姿というものは、人が馬を御している状態ではなく、人馬が一体となったもう一つの身体の全体感を、人も馬も感受しつつ呼応し合って、その全体感の中心に「丹田」という芯が自在さの核として存在している状態ではないか、と想像されます。
 ちょうどKJ法において、ラベルたちの志が融合して新たな志をもつ「表札」と呼ばれる概念が形成されるように。

 青馬の眠りのやうな天地に瀧懸かり我がおもひが懸かり   桐島絢子

「青馬」は古語においてはblueではなく漆黒の馬のこと。
 天地(あめつち)というスケールが、青馬の眠りにたとえられることで逆説的な壮大さを獲得します。
 そこに懸かる瀧は、唐突に天と地のあわいの闇に、豊かな水量と清冽なひびきを放ちます。しかもその瀧は「我がおもひ」でもある、と。
 己れのコスモロジーを渾身の力で豊かなものたらしめようとする、祈りの瀧でもありましょうか。

 2014年、馬のイメージによって架橋される世界観をみずみずしく、壮大なものとして肚におさめつつ、佇んだり疾駆したりしたいものです。




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