「辻占」雑感

  • 2014.05.30 Friday
  • 11:41
 古来、「辻」は人だけではなく、神も通る場所でした。
 夕暮れ時に、「辻」に立って、たまたまそこを通りかかった人の言葉など、耳に入ってきた事象、目にした景物などから、神の託宣を感じ取ることが、「辻占(つじうら)」と呼ばれていたようです。
「辻」という場所そのものに込められていたシンボリズムも意味深いですが、そこで感受したものによってこの世界を象徴的に読み、そして生きていた時代があったことに、なつかしさをおぼえます。

 KJ法が「ただの分類」に堕さずに済むか否かは、実はこの古代的といってもよい能力を引き出せるか否かにかかっているのだということは、あまりきちんと認識されていません。
 もちろんそれは、むやみに神秘的な存在との交感能力を持て、ということではなく、いたって「科学的(KJ法的・野外科学的な意味における)」な作法にのっとってのことなのですが。
「狭義のKJ法」は、渾沌としたラベル群のもつ〈全体感〉を背景として、個々のラベルの〈志〉を象徴的に感受する営みです。
 象徴的、というからには、「なにかについて」大事なことを訴えかけたがっている、という風にラベルを感受するわけですが、その「なにか」は、漠然とした全体感のみではなく、きちんと「これだけが、今向き合っている〈全体〉だ」ということを意識することでクリアな輪郭を持ちます。その〈全体〉を成り立たせている個々のラベルもまた、明晰に単位化されています。
 その明晰な〈全体〉という場の中で、近いけれども異質な単位を同時に視野におさめることで、人は発想を刺激され、渾沌とのやりとりは活性化され、さらなる発想・本質・仮説・抽象といった次元を求めずにはいられなくなります。
 このように、KJ法においては、「ラベル」という形で明晰に単位化することは、取材した内容を分析的にとらえるためではなく、あくまで発想し、統合し、本質を追求してゆくためのバネのようなものです。
 渾沌という〈全体〉を、決して切り刻んで分析したり解釈したりするのではなく、明晰さをバネとして不明瞭な感受を誘発し、さらなる明晰さへとダイナミックに導いてゆくことがこの方法の豊かさであり、あくまで〈創造的〉な技法であり思想であるゆえんです。
 分類は発想をフラットな水準におしとどめてしまいます。
 解釈は〈渾沌〉の全体感をそこない、いびつな原因探しでものごとの本質追求を妨げることがあります。
 分析もまた、〈全体〉を切り刻み、その構造・本質へのアクセスを阻害しがちです。
 このように「分類・解釈・分析をしませんよ」と言うと、今では誰もが途方にくれてしまい、「じゃあ、他にどうすれば?」とうろたえるのですが、古代にはむしろ、誰もが駆使していた能力、ものごとを象徴的に感受して世界を意味あるものとして生きるという能力を、KJ法では取り戻すことになります。

 誰もが、この世界を意味あるものとして生きたいと願っているはずなのですが、人はときどき、大きな忘れ物をします。自分自身の中に眠らせたまま、忘れている能力がたくさんあります。
 それに気づくのは、エネルギーも要りますが、楽しいことでもあります。
 ささやかな風景の意味が、一人ひとりの生活において蘇ることのよろこび。意味に支えられる頼もしさ。
 科学的であることが、実は非常にアーティスティックでもある。
 霧芯館の研修によって、そんな創造性の現場を呼吸していただけたらと願っています。




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