〈主体性〉のありか

  • 2015.01.30 Friday
  • 20:59
 KJ法は、当事者にも隠された真実を明らかにする方法です。
「自分のことは自分が一番よくわかっている」という傲慢な思い込みを一掃してしまうこの方法の本質は、いわゆる実験科学の精神よりもはるかに芸術表現に近しいものだと言うことができるでしょう。
〈野外科学〉という言葉で川喜田二郎によって提唱された科学、そしてKJ法の本質は、それくらい大胆に従来の実験科学の枠組みを踏み越えています。
 
 このKJ法の本質がきちんと実現されるためには、ラベル群を〈分類〉や〈分析〉という態度で矮小に処理してしまってはいけないのであり、個々のラベルを〈志〉を持つものとして感受できなければなりません。
 すなわち、個々のラベルがラベル群全体にとって何かしら大切なことをシンボリックに訴えかけたがっている、という風に感受することによってKJ法が成り立つのであって、ラベル内の単語にピンポイントにとらわれて処理したり、既成のカテゴリーにラベル達を仕分けしてしまったとたん、作業はKJ法からはるかに遠い代物に成り下がってしまいます。
 
〈志〉の感受・統合によって構造化され、本質把握へと導かれることで、〈ラベル群〉という渾沌が明晰な相貌を獲得するに至るわけですが、その明晰さは、客観的でニュートラルなものではなく、「渾沌をして語らしめたのが私だからこういう図解になったけれども、別の人が同じ渾沌をして語らしめるなら、別の図解が出来る」はずのものであり、常に新たな発想・仮説にダイナミックに開かれたものです。そのダイナミックな〈開き〉をも含めて〈科学〉だととらえるのがKJ法的ということであり、すぐれた芸術表現が、それに触れる人に人それぞれのインパクトを与え、決して客観的でニュートラルな一元的解釈へと回収されない力を持つのと似ています。
 しかし、そこで与えられる作品のインパクトが強い力を持つのは、人それぞれ好き勝手でよい、何でもござれ、といった放恣な散漫さに陥らず、生々しく普遍性に架橋しているからだとも言えるでしょう。
 
 私たちは、「主体性を発揮する」とは、どのような条件や環境にも左右されずに自我を発露させることだと考えがちであり、逆に、「客観的で公正なこと」とは、一切の主体的・恣意的な条件を排除したものでなければならない、という強迫観念にとりつかれやすいようです。
 KJ法における、そして真の芸術表現における、あるいはまた真に幸せになりたいと願う者の〈主体性〉の概念は、そういった“強迫”のニュアンスから自由です。
 徹底的に受け身であることによって〈渾沌〉の全体感が分類や分析によらずに把握され、その把握に支えられて個々のラベルが質の近さを吟味され、自ずと〈志〉を浮上させてゆく中で、私たちは〈主体性〉のイメージが塗り替えられてゆく感触にめざめます。自分らしさというものにも新鮮ななつかしさを伴って充足をおぼえます。完成されたKJ法図解は、素直な全体感を反映させつつも、紛れもないオリジナルな〈個〉の相貌を持つものです。
 この〈個〉と〈全体〉、〈意識〉と〈無意識〉の往還の中で得られる充足に培われて、KJ法は人の創造性を啓き、自己肯定力を強めることが可能な方法たり得ます。
 KJ法における〈志〉とは、決して観念的な大言壮語のことではなく、あくまでこのような技法に丁寧に織り込められた世界観によって、ささやかに粘り強く紡がれてゆく感受の質のことなのです。
 
 人は己れに充ち足りているとき本当に美しい、という想いを、近ごろ頻繁に抱きます。
 この一年、そのような意味において、少しでも美しくありたい、そのことで幸せでありたいという望みを、忘れずに生きたいものです。
 




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