『闇の絵巻』を読む

  • 2015.04.29 Wednesday
  • 11:13

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「最近東京を騒がした有名な強盗が捕(つか)まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることが出来るという。その棒を身体の前へ突出し突出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることが出来なかった。
 闇! そのなかではわれわれは何を見ることも出来ない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえ出来ない。何があるかわからないところへ、どうして踏込んでゆくことが出来よう。勿論(もちろん)われわれは摺足(すりあし)でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊(あざみ)を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。」(梶井基次郎『闇の絵巻』より/『檸檬・冬の日』所収:岩波文庫 以下の引用も同じ)
 
『檸檬(れもん)』で有名な梶井基次郎(1901〜1932)の『闇の絵巻』という小品の冒頭です。
この作品は1930年(昭和5年)に書かれているのですが、奇天烈な強盗のエピソードも、それに爽快な戦慄をおぼえる梶井基次郎も、いずれおとらぬ鮮やかさで昭和初期の空気感を象徴しているようにおもわれます。
〈闇〉というものに恐怖を抱きながらも激しく惹きつけられている基次郎は、次のように続けています。
「闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮べるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出して見ればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気(のんき)でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電灯の下では味わうことの出来ない爽やかな安息に変化してしまう。
 深い闇のなかで味わうこの安息は一体なにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった―今は巨大な闇と一如になってしまった―それがこの感情なのだろうか。」
 
 近代精神史に通底する巨大で視えにくい空虚感・不条理感は、昭和初期に至って、このように鋭敏な表現者の掌の上でまじまじと見据えられ、感覚的な精度を獲得し始めます。
 明治・大正期を通じて、観念的に糊塗されていたストレスが、もはやごまかしようもなく、ありありと表現の俎上に載せられ始めたという印象を強く受けるのです。
〈闇〉を恐れるのは、社会に満ち溢れる平板な偽りの〈光〉が、〈闇〉を忌避させるように人々の意識・無意識を絡めとっていたからであり、〈闇〉にひきつけられるのは、社会から〈闇〉が喪われれば喪われるほど、本来的な存在の根源としてのコスミックな〈闇〉の振幅に飢え渇くからだと言えましょう。
 このような飢渇感が暴発しようとするとき、「裸足で薊を踏んづける」ような過剰さが、「絶望への情熱」が、社会に、表現に、充満します。
 明治30年代に生まれた基次郎ら(横光利一が明治31年生まれ、川端康成が明治32年生まれ)は、すでに〈闇〉の本来のスケールを知らずに育っているようにおもわれます。近代化の矛盾が地域共同体を、個々人の魂を、すっかり食い荒らしてしまった頃に大人になっていった彼らの身体は、なぜ〈闇〉が怖いのか、なぜ〈闇〉に惹きつけられるのか、その根拠を煮詰めて内省するには脆弱で神経症的な骨ばり方をしていたように感じられます。
 いきおい、〈闇〉を求めて葛藤する魂は、どこか母親にからむ幼子のような苛立ちと過剰な陶酔とを孕んでいるのですが、その身体性の貧しさゆえの表現の跳躍力と悪戦のかたちも含めた痛々しい現在性が、私たちの魂の深みの傷に触れてきます。
 己れの生存感覚がこの世界から切り離されて虚無の淵に引きずり込まれようとするのに抗い、どうにかして己れの生の根拠に大いなるものを繰り込みたいと願い、肯定的な世界の手触りを得たいと望む。その「手つき」はたとえば、次のような一節に顕著です。
 
 肺を病み、放蕩で傷んだ心身を潜ませる山間の療養地で、基次郎は「闇を愛する」ことを覚えます。
「私は好んで闇のなかへ出かけた。渓(たに)ぎわの大きな椎(しい)の木の下に立って遠い街道の孤独な電灯を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは渓の闇へ向って一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚(ゆず)の木があったのである。石が葉を分けて戞々(かつかつ)と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立騰(のぼ)って来た。」
 
 作者の投げた石に果皮を傷つけられることで芳烈に立ちのぼる柚子の香り。闇の底から立ちのぼる香りの鮮やかさが読み手の鼻腔を、肺を満たし、私たちの飢渇感のかたちをエロティックに顕ち上げてしまう一文です。作者の身体をほのかに染める「遠い小さな光」も魅力的です。〈闇〉の中の孤独に沁み入る、まっとうな〈光〉です。
 
 ここには、狂暴に個を呑み込んでしまう〈闇〉の吸引力と紙一重のところで、己れに固有の〈闇〉の手触りを確かめている基次郎の、きわどく研ぎ澄まされた五感がゆらめいています。
 感覚としての内省力というものは、このように、個と、個を凌駕するものとのあわいを繊細に往還しつつ、固有の世界風景を普遍的な価値へと架橋するものとおもわれます。
 
 さまざまな現場で、〈闇〉との距離感が問われていると感じられます。
 浅はかでない答を出すために、私たちは己れの呼吸の深さをあなどってはならないとおもうのです。
*近代精神史についての拙論「〈藤村操世代〉の憂鬱」も、ブログ「星辰」にて連載中ですので、ご参照いただければさいわいです。ブログ星辰→http://sei-shin.jugem.jp





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