上橋菜穂子『鹿の王』を読む

  • 2015.05.30 Saturday
  • 16:47
 
〈守り人〉シリーズで人気のファンタジー作家、上橋菜穂子の最新作『鹿の王』を読みました。
 文化人類学者としての貌も持つ作者は、多彩な民族の風習や世界観を生き生きと描き分けつつ、民族が「生き抜く」ことと人が「生き抜く」ことを複雑に絡み合わせたファンタジーを次々と発表。今や大人も子どももその作品世界に魅了されています。
 代表作の〈守り人〉シリーズでは、主人公のチャグム皇子が精霊の卵を身に宿してしまい、サグという「こちら側」の世界とナユグという「あちら側」の世界とを生き抜き、その成長を通して世界を救わねばならないというのがメインテーマでした。頼もしい女用心棒バルサにもっぱら助けられながら、からだを張って切り抜け、生き抜き、やがて一国を担う覚悟を定めてゆくのですが、皇子と生まれたことも、精霊の卵なんぞを身に宿したことも、彼にとっては「なぜ僕なの?」という問いに直面させられる巨大な不条理でした。
 
 今回の『鹿の王』においても、病というものが人の命を奪うとき、「なぜ自分なのか、なぜ自分の家族なのか」という不条理感を抱かせ、人を虚無に陥れてしまうことに、作者は強くこだわっています。
 多民族の政治的な葛藤を背景に、近代的な医学と宗教的世界観に基づく医学との対立、病と身体と世界観をめぐるいくつもの切迫した思惑に絡め取られながら、ひとたび家族を亡くした男が新たな絆を得て虚無を超え始めます。蘇るぬくもりに促された生への渇望と、己れを類的に融解させ滅却したいという欲望との境目を、ハードボイルドに択びとってゆく主人公の姿が印象的な物語でした。
 
「なぜ自分なのか」
 この作者によってとらえられた現在の不条理感の本質には、こういう問いかけがいつも潜んでいるのであり、それを超えるための闘いが、物語として実に複雑に描き出されます。いくつもの波乱が絡み合い、せり上がってゆく危機。その中でそれぞれの立場が描かれ、この問いが重く吟味され、ときには相対化され、ときには踏みにじられます。
 しかし、錯綜する物語世界の底で、作者の〈無意識〉が最も望んでいるのがどのような場所なのか、それは〈文体〉の鮮烈な息づかいが伝えてくれます。
 たとえばこの物語の主人公のヴァンは、〈飛鹿(ピュイカ)〉と呼ばれる獣を駆って闘う一族の頭でしたが、彼が〈鹿呼び〉をすることで何年ものブランクをも超えて駆け寄ってくる〈飛鹿〉の〈暁(オラハ)〉との一体感を描く筆づかいは、作者の無意識の鮮やかな渇望を、ごまかしようもなく読者の胸に身体性豊かに伝えてきます。
 
「手に足に馴染んだ感覚が蘇り、ヴァンはぐいっと脚で〈暁〉の胴をしめ、走るようにうながした。
 弾けるように〈暁〉が駆けだした。木々を見事に避け、ぐんぐん駆けていく。
 鹿は雪に弱い。
 飛鹿の蹄は大きく開くので、他の鹿よりは遥かに雪に強いが、それでも雪の深い場所では足が沈んで走りにくくなる。だから、雪の上を駆けさせるにはコツがいるのだ。
 考える間もなくその勘が戻ってきて、ヴァンは良い足場を瞬時に見分けながら駆ける〈暁〉の動きに合わせて微妙に体重を移動させながら、〈暁〉を駆けさせた。
 これだ、と、思った
 この速さ、この音、この振動。このすべてを愛してきたのだ、と。
 枝に絡まぬよう角を背負った飛鹿の、その両の角の間に顎をつけると、自分の視界が飛鹿の視界と重なる。
 おなじ風景を見、おなじ匂いを嗅ぎ、ともに風を受けながら、ひとつの身体になって駆けて行く。」(上橋菜穂子『鹿の王』2014年 角川書店)
 
 頑健で俊敏でたぐいまれな跳躍力を持つ〈飛鹿〉の、超常的な身体能力に込められた強靭で迷いのない〈生〉のイメージの発露を、読者は存分に味わうことができます。
 
 他の誰とでもない、主人公とこの〈暁〉とだけの間の絶対的な絆の描写には、この現世ではめったなことでは得られないのだけれど、もし人がそのような絆さえ得られるならば、どのような深い不条理感も虚無も超えてゆけるはずだ、という想いの強さがにじみ出ています。そしてこの絆以外のあらゆるものは贅肉、と思わせる描写によって、作者がほんとうはいかほど、この煩瑣で不純物が多くて人の魂を不自由に締めつける〈社会〉という衣を脱ぎ捨てたがっているか、を伝えてきます。その渇望へのためらいと羞恥が、この作者をしてあえて複雑な物語世界を構築させているのだ、とおもわれるほどに。
 
 社会の巨大なシステムも、知や情報の集積も、それだけでは私たちの〈生〉の意味を支えてくれるものではなく、ともすれば個々人の絶対感などというものへの渇望を踏みにじります。
 相対的により有利で効率のよい生き方へと人を駆り立てる諸々の価値観・世界観に抗して絶対感なるものを手に入れる確率の低さ、それによって幸福になる保証などお話にならないようにおもわせられてしまいます。
 しかし、いささかなりとも「生き抜く」ことの悲哀や歓喜に触れたことがある人なら、逆説的な言葉の方に真実味をおぼえるはずです。
 絶対感も持たずに生き抜けるほどこの人生というものは甘くはないのだ、と。
 
 意味を奪う〈偶然〉と、因果律によって存在を矮小に囲い込む〈必然〉と、そのいずれにも「生き抜く」ことの拠りどころを委ねないのは、たいへんな力わざです。
 しかし、ほんの少しのまなざしの転換によって瞬時に蘇ったり会得したりできるわざでもある。
 
 多彩な「読み」に開かれた『鹿の王』という作品ですが、この作品に出会う多くの読者が、作品の核にあやまたずに触れて、「生き抜く」ことのよすがを、そして己れの真の望みのありかを、みずみずしく想い描いてほしいと願わずにはいられません。




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