〈望む〉力

  • 2015.07.30 Thursday
  • 18:01
 ある20代の女性の言葉が印象的でした。
「私は勘がいい方なんですが、いつも、その勘よりも、こうした方が得だとか、有利だとか、そういう気持ちで、勘の方にフタをしてきた気がするんです。そうやってフタをしたときにいつも道を間違えてしまって。」
 これは今の若い世代に共通する苦い苦い認識のようにおもわれました。
 大学で講義などしますと、今の学生は、ちゃんと聴いているのかいないのか、釈然としない表情だったりするのですが、ふと、今、こちらの言葉が皆のはらわたに沁みわたっている、と感じる瞬間があるもので、昨年度も学生の「詩作品」の解説の折に、このような苦い認識が切ないくらいはねかえってきたことがありました。

 **************
 
 ゴーストタウンに堕ちた鳥
 
「主」を探して飛ぶ小鳥
理想郷目指して飛び続け
休むことなく飛び続け
「主」を見つけて飛び急ぎ
「主」を映した鏡に衝突
目眩と絶望に包まれて
小鳥は孤独に堕ちてった
 
ある日小鳥を見つけた少年が
小鳥を拾って労わるが
堕ちた哀れな小鳥には
溜め息一つ伝わらなかった

 **************
 
 タイトルにおいてすでに、この一篇の詩の結末と枠組みが読者に伝えられているわけですが、その枠組みの提示とほぼ七五調のレトロな韻律が演劇的な効果を醸して、読者と小鳥の悲劇性との距離感を保証しています。読者は、演劇的な空間での出来事として、やや「他人事」として、この詩を鑑賞し、隠喩を読み解こうとする余裕を持つことができます。
「主」とは、自分に固有の人生の意味をもたらすものであり、この一篇には、その「主」に出会うことができなかった世界風景の苦々しさが溢れています。人であれ、職業であれ、表現の手段であれ、風景であれ、私たちは自分が自分であることを支えてくれる固有の出会いによって〈生〉を意味づけようとしますが、それは「理想郷」と表現されるほどに、手に入れ難いものだと位置づけられています。
「少年」は、小鳥にとっての「主」であったのでしょうが、その虚像を映した「鏡」に衝突して死んでしまうという齟齬、少年が小鳥を見つけた時にはもはや小鳥には何も伝わらないという齟齬、そこに両者の出会いを困難にしているものの姿が凝縮して顕われています。
 本物ではなく虚像に惑わされる悲劇、自分を超えた力が自分を幸福にはしないように強力に働いてしまうという無力感。
 私たちは、合理的な判断によって、相対的により有利な進路を、職業を、伴侶を択ぶことが幸せになることだ、という風に思わせられている。虚像によって〈生〉を満たせと強いられる。仮にその強制力を脱して本物の〈生〉の充溢を望んだとしても、本物と虚像とを見わける力が小鳥の中にはない。そういう不毛さの悲劇がこの詩の中に描かれている。そう解説したときの、学生たちの全身から発した緊張感のある悲哀を忘れることができません。
 彼らはこの世界の強固な枠組みをあなどってはいません。決してその枠組みから逸脱しないように、極度の緊張と努力によって日常生活を送っているように見えます。しかし、悲哀でもあり、救いでもあるのは、彼らは、そのような身構えによってこそ幸せになれると信じているわけではない、ということです。やむを得ず、仕方なく、神経症的に枠組み内の関係を維持し、枠組み内のルールで身を処すようにしてはいますが、その「仕方ない」という身構えの殻を脱ぎ捨てたい、とも思っている。ただ、その「脱ぎ捨てたさ」さえも、自分のいったいどこに潜んでいるのやら、そんなものが存在しているのかどうかさえもあやふやで、「脱ぎ捨てたさ」が暴発して自他を壊すことへの不吉な想いを捨てきれずに、せわしない呼吸を強いられている。
 切ないのは、あまりにも幼い頃から強いられてきた身構えによって、もはや、自分の望みが自分で望んだものなのか、他者に望むように強いられたものなのかの区別さえつかなくなってしまっているということ。さらには、「自分で望む」ということもまた、「主体的に生きるべきだ」という強迫観念として作用し、矮小な「主体性」を駆使してその望み方を誤ってしまいやすいということ。
 ちょうどKJ法ではラベルたちを「分類」してはいけないと言われても、初心者には自分が「分類」をしているのか「創造的な発想」によってラベルを統合しているのか、区別がつかない場合があるように。「発想」したつもりでも、それが「我」によってまとめたものなのか、データをして語らしめたものなのかの区別がつかないように。
 
 このような「区別」のつかなさの内に、〈現在〉の悲劇が凝縮されているようにおもわれます。
 
 合理的な判断か、直観に頼るべきか、という議論にもいかがわしいものがあります。
 先ほどの20代の女性は、今ではよき仕事に巡り合えて充実した生活を送っているのですが、その仕事を択んだ「勘」なるものには、いかほどの体験知や世界観の醸成や身体感覚の練磨が含まれていることか、と想われます。理性も感情も経験も集約された彼女の存在の忘我の渇望の泉へと縁が引き寄せられて、天職がぽとりと降ってきたような一瞬の出会いのことを「勘」と呼ぶのではないでしょうか。
 私たちは「合理」なるものをあまりにも狭く限定して、身を利したりものごとの根拠を客観的に明晰にして他者を説得するために意識しがちですが、そのことで「勘」とか「直感」と呼ばれるものを、ひどく神秘的で根拠を持たぬ領域へとこれまた狭く押しこめすぎているようです。
「勘」なるものを支える領域にも理性は潜み、「合理性」なるものを支える領域にも人の無意識の広大で野性味のある能力は関わっているはずです。
 
 貧しく分極した概念のあわいで、私たちは大切な「区別」から遠ざかってしまっています。若い世代は少なくともその「区別」ができない己れの悲劇をどこかで自覚していますが、なんの苦々しさも無く、その「区別」を隠ぺいしてきた時代というものがあまりにも長かったような気がいたします。
 
「望む」ことの困難さを、神経症的にではなく、超えられる時代へ。すでに舵は切られているとおもわれてなりません。





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