一本の線

  • 2016.05.31 Tuesday
  • 19:27
 
「日本人は元来、調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」
 
 NHKの「日曜美術館」で、日本画家である安田靫彦(やすだ ゆきひこ)(1884〜1978)の言葉として紹介されていたものです(2016年5月1日放送「安田靫彦 澄みきった古(いにしえ)を今へ刻む」)。明治17年生まれのこの画家が歴史上の人物を描くときの、どこか飄々とした画風に潜む、緊迫した「線」へのこだわりが興味深くおもわれました。
 
 この言葉に惹きつけられたのは、「決定的な一本の線」を実現しようとする意志が、KJ法においては、「表札づくり」という作業に必要な想いであると感じられたからなのですが、明治生まれの日本画家たちの身を削るような「線」をめぐる葛藤も推し測られて印象的でした。
 
 KJ法における「表札」とは、ラベル群のグループ編成によってセットになった複数のラベルに対して与えられる統合概念のことであり、複数のラベルたちの〈志〉がもれなく掬い上げられ、簡潔な文章で表現されねばなりません。
 その作業において、複数のラベルの〈志〉がたった一つの「表札」として統合されるためには、「複数ではない、実は一つの〈全体〉なのだ」と把握し直し、その〈全体〉のど真ん中を「短歌一首ひねり出すような気持ちで」まずは表現し、最終的にはそれを推敲して精度の高い文章として完成させるといったプロセスが必要です。
 この「複数の質」が「たった一つの質」へと変換されるところにKJ法の発想の醍醐味があるのですが、川喜田二郎がその核心、つまり最終的な推敲前の概念の形成を「短歌づくり」とたとえたのは味わい深いことです。
「短歌一首ひねり出すような」は「軽い気持ちで」という意味ではなく、複数のラベルたちによって形成された〈全体〉をもれなく圧縮してもう一つの〈全体〉を創造するという意味であり、そこを「短歌づくり」と呼んだのは、「短歌」という文芸が「長歌」の要約として出発したことを想起させる適確なネーミングです。
 主に万葉集にみられる「長歌」は、五音・七音のセットが何セットか連ねられたあげく、最後を七音で締める形式ですが、その「長歌」のリズミカルな連なりが現出するコスミックな自然や讃えるべき御代(みよ)への寿ぎの時空間を、もれなく象徴的に圧縮するところから「短歌」の五・七・五・七・七という形式は出発しています。
「長歌」は間もなく衰退したのに対して、「短歌」という形式がそれよりもはるかに永く生き続けたのは、安田靫彦の言う、「調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」という日本人の遺伝子のせいかもしれません。
 川喜田二郎の創案したKJ法にも、その日本人らしさが横溢していると言えましょう。
 複数の質が一つの質へと変換されるとき、たとえるなら「決定的な一本の線」によって他の線が棄てられたり殺されたりするのではなく、すべての線の意味を、一本の線が象徴的に担うことができるのだ、という発想の妙味の実現によって素晴らしいカタルシスが得られます。それを味わう者も、その「一本の線」の決断力に、豊饒な創造性のドラマを看取することができます。
 
 日本画における伝統的な「線」にも、西洋近代が実現してきたリアリズム的な表現様式とは全く異質な奥ゆきがあったであろうとおもわれます。
 近代を受容してゆく中で、当然、この「線」は新たな目線で問い直されることになります。
 明治30年代には、日本画の世界では、菱田春草らが「朦朧体」とよばれる技法を試みて話題になります。
 日本画の伝統である「線」をあえて消し去り、朦朧とした輪郭の無い世界が広がる画面に賛否が渦巻きました。この試みもまた、世界へのまなざしをどのように紡ぎ出すかについて、「線」へのこだわりがあればこそ生み出されたものであったかもしれません。
「線」によって限られた輪郭というものによって、私たちは他と区別されるわけですが、そのことの意味をどのように表現することがこの世界をより豊かにとらえることになるのか、狂おしいほどの葛藤が当時の表現者たちにはあっただろうとおもわれます。
「線」は、象徴的に全体を担うのか、それとも存在を全体から切り離して近代的な「個」として屹立させるのか、あるいは、「個」であることが存在を矮小にしてしまうのか。
「線」を近代的な形で研ぎ澄ます方向へ向かう者、伝統的な「線」にこだわり続けることで逆説的に近代であろうとする者、「線」を否定することで伝統的な「型」を超えた日本画の表現を模索する者、いずれにおいてもこの世界への「まなざし」が問われていたのであり、そのような問いによって表現が成就していた時代に懐かしさをおぼえます。
「線」を問うことは「線」を「線」たらしめているものへのまなざしを問うことだったのであり、〈存在〉を〈存在〉たらしめているものが根底から揺さぶられた近代化の過程で生み出された表現には、揺さぶられたことの葛藤や傷痕も含めて味わい深いものが多々あります。
 
 KJ法には、言葉の「象徴性」という機能を有意義に使う姿勢が欠かせません。そのことが世界へのまなざしを豊饒なものにするように、この方法には、存在への奥ゆきのある認識が丁寧に埋め込まれています。一つのラベルを一つの〈志〉を持つラベルたらしめているものへの信頼。その信頼に根差した言霊(ことだま)としての「表札」が、真の〈個〉として屹立する過程こそ、KJ法の核心部であるとも言えましょう。
 この方法の意義が実現されたとき、どこか懐かしくてしかも身がひきしまるのは、この核心に触れたせいだと気づいていただけるなら、とても幸せな想いがいたします。




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