“ラビリンス”としての縁
- 2016.07.30 Saturday
- 18:01
今年2月に開設致しましたブログ「星辰 Sei-shin」も、月に一度、数本の論稿を掲載し続けるというペースを保ちながら、半年近くがたちました。
川喜田八潮の評論として、戦後史、宮沢賢治の童話、『新世紀エヴァンゲリオン』、藤沢周平作品、哲学書(ドゥルーズの『スピノザ』)等がとりあげられ、書評ではいよいよスピノザの『エチカ』論も連載がスタートしました。
川喜田晶子は「〈藤村操世代〉の憂鬱」をこつこつと連載しております。
川喜田八潮の旧稿・新稿を読むことで、批評の対象を押さえ切るその“握力”の強さに改めて瞠目しながら、毎月の編集作業を楽しみつつ更新しております。
哲学書も、アニメーションやテレビドラマも、時代小説も、どのような対象を論じる時も、観念的な高みから啓蒙的に語るのではなく、オタク的な好みを披瀝するのでもなく、己れの生き難さの本質をつきつめ、あくまで“生活”を通して世界風景を塗りかえる営みとして、批評という表現が真に成立しているのは、この「星辰」という場だけであることに、書き手は二人とも満ち足りた誇りを感じております。
・・・などと手前みそなことを書かずとも、ご縁のある方はついうっかりブログに足を踏み入れて、途中でやめられなくなっているのかもしれません。
さて、霧芯館の方も、もうすぐ恒例の夏のワークショップですが、今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」と致しました。〈初対面〉というささやかな切り口から、人や場所や風景との関わりにおいて、つまりはこの世界の混沌に対して、私たちが抱くべきまなざしの質を問うことができるかと考えております。
こちらも、“ついうっかり”霧芯館に足を運んでしまって、いつのまにかKJ法の修行に明け暮れておられる方々がたくさんいらっしゃいます。
問題解決や質的研究への活用といった動機、ネットや口コミといったきっかけはあるはずですし、それぞれにとても真剣な想いを抱いて霧芯館へお越しくださっているのですが、私の側からは、どなたも“ついうっかり”来られた、ようにいつも感じています。つまり、ご本人の動機やきっかけを超えたところに、“縁”の糸が(赤いのかどうかわかりませんが)働いていて、その糸に引っ張られてあるいはその糸をたぐって辿り着いてしまった、みたいな感触です。そんな得体の知れない糸に引っ張られて辿りついてしまうのも、まんざら悪くないな、と思っていただけるなら、この仕事をしていてよかったなとおもわれます。
“ついうっかり”という副詞を用いてみることで、なにかしら、人と人の“縁”というものの“ラビリンス”のような得体の知れなさに、ほほえましいあたたかみを感受できる気がするこの頃です。
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