無意識の春支度

  • 2019.03.22 Friday
  • 20:47

 

〈穢れ〉とは、実は〈ハレ〉の対立概念であるところの〈ケ〉が枯れた状態なのだ、という説があるそうです。

〈ハレ〉は非日常、〈ケ〉は日常。そうしますと、〈穢れ〉とは「〈ケ〉枯れ」、すなわち、日常生活を営むエネルギーが枯渇した状態である、ということでしょうか。

 

 前近代の土俗的な共同体では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスを保つためのシステムが機能しておりましたから、祭りによって日常の秩序をひとたび混沌へ叩き込むならば、共同体の成員一人ひとりの生活と無意識の隅々にまで、類的・宇宙的な一体感が注ぎ込まれ、今一度〈ケ〉の時間に戻ったとしても、そのまどろむような日々のサイクルと秩序の内には〈ハレ〉の雫がゆきわたっていて、聖なるものに意味づけられたエネルギーがしっかりと賦活されたことでしょう。

 

 土俗共同体の解体によって近代的な個人が単体として析出されてしまっている現在では、この〈ハレ〉と〈ケ〉のバランスやサイクルを生み出すのは、個々人の甲斐性に委ねられてしまうこととなります。

 家族とでもなく、職場の人間関係とでもない、一過性の祝祭的な交感を求めて、ハロウィンの渋谷でカオスに浸ろうとする若者たちは、どれほど深刻に〈ケ〉が枯渇した状態にあるのでしょうか。

 他者も自分の人生も一瞬にして破壊してしまうような粗暴な犯罪の突発性や、一人ひとりの〈生〉の重みへの想像力や職業倫理の欠落した組織・個人のふるまいに、冷え冷えと投げやりなニヒリズムが見え隠れするのを感じるたび、血の凍る思いがいたしますが、そこには、表層的で息苦しい秩序と無機的な世界風景にただただ疲弊させられた〈ケ〉の姿が垣間見えます。

 全体を喪失した断片としての生存感覚へと追い込む強迫的な情報や商品の氾濫によって、身体や関係の生きた手触りを抹殺された日常、まさに「〈ケ〉枯れ」の病症が蔓延しているようにおもわれ、その蔓延の感触には、古来、〈穢れ〉の感染力が恐れられたことを想起させるものがあります。

〈ハレ〉と〈ケ〉によって成り立つ、本来的な振幅をもって〈ケ〉が賦活されていないことで、〈日常〉は、極限まで矮小化された概念となって、人々の無意識をただただ拘束し、消耗させ、姿のはっきりしないストレスだけが充満する時空間となってしまっているようです。突出した〈ハレ〉の時間も、〈ケ〉の意味づけへと循環することのない一過性の暴発として希求されるならば、私たちの身体も、関係も、いつまでも空虚なまま刺激のギアをひたすら上げてゆこうとするでしょう。

 

 この事態は両義的で、これからも〈ケ〉の枯渇によって蓄積されたストレスの暴発が、個人を、社会を、傷つけ続けるかもしれませんが、一方で、〈ケ〉の枯渇に耐え切れないからこそ、これまでの血縁にも地縁にも職場の人間関係にも縛られない、新たな関係へと自らを開いて人生を意味づけてゆこうとする人々も増えてゆくでしょう。一過性で求めたつもりの〈ハレ〉のエネルギーが溢れて〈ケ〉へと注ぎ込まれ、〈意味〉の手触りに目覚めることもあるでしょう。そのことが、病んだ〈ケ〉を一掃するパワーとなって〈生〉を本質的に更新することも可能でしょう。自身と類的・宇宙的なエネルギーとの間に太いパイプを見出さねば幸福にはなれないのだ、ということへの気づきが、良き感染力を発揮してゆくことにもなるでしょう。

 

 日常を侵食する表層的な秩序や既成観念から脱し、ていよくあてがわれた非日常的な装置や情報・消費への依存から脱し、個々人の甲斐性で〈ハレ〉と〈ケ〉のダイナミズムを回復するのはたいへんなことですが、これほど〈ケ〉が追い詰められていることで、私たちは、観念ではなく、身体の方から変容する契機に恵まれているのだとも考えられます。

 

 冬から春へ。

 花や鳥たちの、風や光や水や大地の、そして私たち自身の身体の春支度のように、世界の無意識の春支度も、混迷の中から兆しているようにおもわれます。

 

 

 

 

 

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