世界観を着替える

  • 2016.10.30 Sunday
  • 19:07

 最近、少しずつ不用品の断捨離を試みているのですが、さっぱりした本棚、さっぱりした部屋に近づくにつれ、「捨てる」という行為は実は、抽象度の高いビジョンへの決断なのかもしれない、と感じるようになりました。捨てているようで、本当はある一つのビジョンを択びとろうとしている自分がいて、そのことが快感なのだと気づきました。

 

〈渾沌〉の明晰な構造化を導くKJ法もまた、完成した図解によって抽象度の高い風景をもたらしてくれます。

 既成のカテゴリーに仕分けする〈分類〉という行為でもなく、全体を細分化して再構成しようとする〈分析〉という行為でもなく、「渾沌をして語らしめる」という創造的な営みとしてKJ法が機能するためには、私たちは「この世界をどのように感受するのか」という世界観からハラを据えて着替えねばなりません。

 霧芯館の研修では、いわばこの〈世界観の着替え〉によって、得体の知れないラベル達が受講者にとってかけがえのない意味を持つ風景として転生するに至る、濃密な時間を過ごしていただくことになります。

 完成した図解が実現している抽象度というものは、分類や分析による機能的だけれどもよそよそしいシステムを形づくるのではなく、個々のデータの〈土の香り〉を残した、非観念的な象徴性を有するものであり、創案者である川喜田二郎によって人間の野性的な本性として見きわめられた〈個〉と〈全体〉の有機的な感受の能力に基づいて、創造的に発想される〈本質〉というものを、私たちに開示してくれます。

 そこでは、抽象的であるということは、具象的な〈土の香り〉と矛盾するものではないのです。むしろ、抽象度が上がることによってこそ、〈土の香り〉が匂い立つような営みです。

 何十枚、何百枚というラベル群も、10束以内になるまで統合され、その数束は図解上で〈島〉として配置され、各島には〈シンボルマーク〉と呼ばれる概念が与えられます。島同士が関係線で結ばれ、構造が明らかになることで本質を把握できる感動は、根底から〈世界観の着替え〉を行った者でなければ味わえないものです。

 統合が繰り返されて抽象度が高まる時、下位のラベルは決してそのニュアンスを捨てられることなく新たな概念として表現されるべきであり、この方法には、「捨てる」「断念する」といった場面がありません。全体感を背景にしつつシンボリックに個々のラベルを感受して本質を発想することで統合する、そこにこの方法の核心と醍醐味がありますが、〈全体〉の感受も、その本質の感受も、個々人と渾沌とのやりとりの中で多彩な可能性に開かれていながら、ある一つの〈決断〉へと収束します。この方法の〈決断〉という姿勢、〈主体性〉という概念の豊饒さが実現されるべき場面です。

 何一つ切り捨ててはいないし、こちらの〈我〉を働かせてはいないのに、渾沌がクリアな相貌として訪れることの潔さ、とでもいいましょうか。

 

 部屋の、特に本棚の断捨離を進めながらふと、私はこのことで〈欲〉を捨てようとか何かを手放そうなどと思っているのではなく、自分にとってみずみずしい風景、呼吸が楽になる懐かしくも新鮮な風景を獲得したいという〈欲〉に、むしろ激しく衝き動かされているように感じられました。そのような〈欲〉が湧いてくることが我ながら面白く、生活の中にささやかな〈決断〉という節目を意識するのは、それがどれほどささやかなことでも、世界観の確認と深く結びついていることを噛みしめつつ、秋晴れのような潔くて陰影のある風景を日々目指しているところです。

 

 

 

 

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〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2016〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.08.17 Wednesday
  • 10:50

霧芯館KJ法ワークショップ2016

  • 2016.08.16 Tuesday
  • 13:25

 今年も、「霧芯館KJ法ワークショップ2016」を、8月6日京都テルサにおいて開催いたしました。

 毎年、夏と冬に開催されるこのワークショップ、夏は「パルス討論」と呼ばれる技法で「探検ネット」という図解を作成し、参加者はチーム毎にテーマをめぐって想いや事例を提示します。それらのラベルをもとにして、冬のワークショップでは「狭義のKJ法」のグループ作業を行い、渾沌としたラベル群が緻密に構造化されるプロセスを体験していただきます。

 

 

 今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」。

 霧芯館の研修受講者のみなさまにワークショップのご案内を差し上げるのですが、今年のテーマはご案内の時点で好感度が高かったようにおもわれます。誰もが必ず数えきれないくらい体験したことのある〈初対面〉ですが、その〈初対面〉に対する姿勢や身構えの質を構造化することで、関係や世界に対して私たちが抱くべきまなざしを問い直したいというのが、テーマ設定の趣旨です。

 

 酷暑の京都に全国からお集まりくださった参加者のみなさまの熱気で、〈初対面〉の戸惑いや身構えなどあっという間にほぐれ、どのチームからも楽しげで真剣な空気が発散されていました。

 

「探検ネット」においては、テーマに関係のありそうなラベルがさまざまな角度からバランスよく、効率的に提示されることが目指されておりますので、それらのラベル達が構造化され、渾沌の本質にたどり着けるのは冬のワークショップにおいて、なのですが、それでもパルス討論終了後の各チームの軽いプレゼンには、討論の時間の熱さと拡がりがダイナミックに表現されており、チームそれぞれ異質な表情をしているのがまた楽しく感じられました。

 

 世間では、この「パルス討論」をだらしなくしたようなゆるいブレーンストーミングの結果をもって「KJ法」と称していることも多いようですが、それでは「渾沌をして語らしめた」ことにはなりません。

 テーマをめぐって出し切られたラベル達の訴えかけを、きちんと「狭義のKJ法」によって精密に構造化し、その本質を把握するのでなければ、真にKJ法を活用したとは言えません。

 夏の参加者には、冬までの期間、ラベルの印象をもやもやともちこたえていただき、冬のグループKJ法によって渾沌が構造化される醍醐味を満喫していただきます。

 

  以下に、この日のラベル達の中からいくつかご紹介したいとおもいます。

 

「まばたきの回数で相手の緊張感を計算している自分がいる」

「電話で会話をした後に、訪問してイメージ通りの人だったら、心の中でガッツポーズしてしまう」

「語尾で、しっかりした人かそうでない人か判断している」

「相手の香り・臭いで好き嫌いを判断する」

「自分にとって危険な人だと直感で感じる時がある」

「第一印象で酒が強いと思われるが実は一滴も呑めない」

「笑顔を5秒キープして好印象を与えている」

「めんどくさい」

「ご破算にできる関係性より、逃げられない関係性の方が重い」

「金沢@石川では、地元出身でない者は“旅の人”と称される」

「初めて会ったのに懐かしい、という感触は信頼できる気がする」

「今後関係を続けるか、仕分けをしてしまう」

「対面の時、相手を値踏みしてるように、自分も値踏みされている」

「相手と同じ速度で緊張をやわらげたいと思う」

「一期一会がある」

「初対面で飼いたくなる・欲しくなる物がある」

「場当たり的なあいさつで相手の機嫌をさぐる」

「自分の事情や背景を知らない人と関わりたい時もある」

「自分の役割を決めて関係性のバランスをとる」

「肩書きがとれると犹劼匹”が出てくる」

「知らない人から声をかけられやすい人と声をかけられにくい人がいる」

「ねこカフェで、〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる」

「垣根がないと隣人とは仲良くやっていけない」

「初対面での印象を何十年もたった後に言われるのは嫌な気持ちがする」

「シャイな人は初対面でよくしゃべる」

「弱いほどつっこまれる」

「医師は患者との初対面を拒否できない」

「焼き鳥屋のメニューに爐△気犬瓩匹”というのがあった」

「初めて会う犬に必ずほえられる」

「ヒールがはさまって脱げてしまった時、無意識に素敵な男性が気づいてくれると期待してしまう」

「大人になるうちにいい人を演ずるのがうまくなるのでだまされることがある」

「子どもは意地悪そうかどうか、見分けている」

「馴れ馴れしい人とは距離をおく」

「公園デビューの前にママ友を作ってから公園に行く風潮がある」

「初対面の前に既にネット上でのコミュニケーションが当たり前になった」

「ガラケーでは就職も結婚もできない」

「昔の人は一回ちらっと見ただけの人と結婚した」

「人柄は顔にあらわれると信じている」

「ひとめぼれという現象がある」

 

 どのチームも、すぐれたリーダーシップで参加者の率直なラベルがたくさん提示されました。夏のラベル達から、冬はどのような本質が導き出されるのか、このように少し列挙しただけでも期待感がふくらみます。

 

 また、パルス討論の後は、霧芯館の研修受講者の作品の発表により、いわゆる質的研究、問題解決、そして世界観に関わる図解、と三種類のことのほか異質な図解たちが顔をそろえ、今年は非常にスリリングでした。

 参加者には、他者の発表を通じてですが、「渾沌が構造化され、本質が把握できる」ことの威力をあらためて感じとってもらえた時間ではなかったかとおもわれます。

 

 

「ひとめぼれという現象がある」というラベルは、事前にスタッフ間でのパルス討論を行い、当日の見本ラベルとして提示されたものですが、この日、各チームでさまざまに話題がふくらみ反響が大きかったようです。

 人間関係をなんとか良い方向へ導こうと私たちは苦慮するのですが、ときどき、「ひとめぼれ」のようなものが降ってきて、私たちのちっぽけな努力を超えたパワーで人生をひっつかんでしまったりもします。

 そのような不思議な次元で、ほんとうは私たちは出会っているのですが、解釈のレベルでそうではないように振る舞わされているだけではないのか、といった想いも湧いてきます。

 関係を統御したい、したくない、といった悩ましい力学を感じながら、参加者には冬までの間しばらく〈初対面〉のラビリンスをさまよっていただこうとおもっています。

 

 

 

“ラビリンス”としての縁

  • 2016.07.30 Saturday
  • 18:01

 

 今年2月に開設致しましたブログ「星辰 Sei-shinも、月に一度、数本の論稿を掲載し続けるというペースを保ちながら、半年近くがたちました。

 川喜田八潮の評論として、戦後史、宮沢賢治の童話、『新世紀エヴァンゲリオン』、藤沢周平作品、哲学書(ドゥルーズの『スピノザ』)等がとりあげられ、書評ではいよいよスピノザの『エチカ』論も連載がスタートしました。

 川喜田晶子は「〈藤村操世代〉の憂鬱」をこつこつと連載しております。

 

 川喜田八潮の旧稿・新稿を読むことで、批評の対象を押さえ切るその“握力”の強さに改めて瞠目しながら、毎月の編集作業を楽しみつつ更新しております。

 哲学書も、アニメーションやテレビドラマも、時代小説も、どのような対象を論じる時も、観念的な高みから啓蒙的に語るのではなく、オタク的な好みを披瀝するのでもなく、己れの生き難さの本質をつきつめ、あくまで“生活”を通して世界風景を塗りかえる営みとして、批評という表現が真に成立しているのは、この「星辰」という場だけであることに、書き手は二人とも満ち足りた誇りを感じております。

 ・・・などと手前みそなことを書かずとも、ご縁のある方はついうっかりブログに足を踏み入れて、途中でやめられなくなっているのかもしれません。

 

 さて、霧芯館の方も、もうすぐ恒例の夏のワークショップですが、今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」と致しました。〈初対面〉というささやかな切り口から、人や場所や風景との関わりにおいて、つまりはこの世界の混沌に対して、私たちが抱くべきまなざしの質を問うことができるかと考えております。

 こちらも、“ついうっかり”霧芯館に足を運んでしまって、いつのまにかKJ法の修行に明け暮れておられる方々がたくさんいらっしゃいます。

 問題解決や質的研究への活用といった動機、ネットや口コミといったきっかけはあるはずですし、それぞれにとても真剣な想いを抱いて霧芯館へお越しくださっているのですが、私の側からは、どなたも“ついうっかり”来られた、ようにいつも感じています。つまり、ご本人の動機やきっかけを超えたところに、“縁”の糸が(赤いのかどうかわかりませんが)働いていて、その糸に引っ張られてあるいはその糸をたぐって辿り着いてしまった、みたいな感触です。そんな得体の知れない糸に引っ張られて辿りついてしまうのも、まんざら悪くないな、と思っていただけるなら、この仕事をしていてよかったなとおもわれます。

 

 “ついうっかり”という副詞を用いてみることで、なにかしら、人と人の“縁”というものの“ラビリンス”のような得体の知れなさに、ほほえましいあたたかみを感受できる気がするこの頃です。

 

 

 

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「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」

  • 2016.06.28 Tuesday
  • 16:55

 昨年開催の、「霧芯館KJ法ワークショップ2015」におけるKJ法作品をまとめ、解説を加えた「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」が完成いたしました。

 今回も、参加者のみなさまに、ワークショップの成果を無事にフィードバックできてほっとしております。

 夏・冬、二回のワークショップを「〈闇〉の居場所」というテーマで開催し、〈現在〉における私たちの〈闇〉とのスタンスを問い直してきたのですが、非常にハードルの高いテーマ設定であったにもかかわらず、臨場感あふれる味わい深いラベルたちがたくさん提示され、本質的なディスカッションと合意形成がなされたのは、とても意義深いことでした。

 

 

 成果としての図解たちが指し示しているのは、「わかっている」という意識の傲慢さ・不遜さが〈現在〉の病理として把握できる点であり、私たちの存在も、他者も、世界も、「わからない」領域を含めて全体であることへの畏怖や覚悟を取り戻さねばならないという、世界観の振幅の奪回という課題でした。

 

 しばしばKJ法は、同じラベルを使っても、人によって異なる結果が出るから非科学的だ、などという浅薄な批判を受けますけれども、それらのKJ法作品がまっとうなものであるなら、複数の異質な図解に対して本質を追求する能力さえあれば、川喜田二郎が言うように、同じ富士山を異なる角度から見ているようなものであって、本質は同じ富士山なのだ、ということが了解できるはずです。

適切な〈富士山〉の全体感の把握と、適切な発想・抽象の手続きによって得られる異質な結果は、決して非科学的で散漫な産物を生み出しはしません。互いに発想を刺激し合い、より高次の本質概念へと人の創造性を向かわせるための生産的な異質さが、端正な〈富士山〉の真実を指し示してくれるはずです。

 

 科学性を実現しようとするさまざまな現場において、近年、非常に狭小な科学概念が創造性を抹殺しようとしているように感じます。異質なものから本質を創造的に発想する能力がないことを露呈しているだけの科学観・学問観によって、歪んだ〈全体〉をベースに矮小な「真実」がまかり通っているようで、なかなかに非生産的な状況だという印象を受けます。

 しかし、このような矮小さが昂進すればするほど、〈全体〉をまっとうに生きたいと望む人の本性もまた黙ってはいないものなのであり、まっとうな世界観によって、成す意味のある仕事を成したいと望む人々が静かに増えてゆくものだとおもわれます。

 

 心ある方々との縁により、KJ法がきちんと息づく機会を生み出せることに感謝して。

 

 

 

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一本の線

  • 2016.05.31 Tuesday
  • 19:27
 
「日本人は元来、調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」
 
 NHKの「日曜美術館」で、日本画家である安田靫彦(やすだ ゆきひこ)(1884〜1978)の言葉として紹介されていたものです(2016年5月1日放送「安田靫彦 澄みきった古(いにしえ)を今へ刻む」)。明治17年生まれのこの画家が歴史上の人物を描くときの、どこか飄々とした画風に潜む、緊迫した「線」へのこだわりが興味深くおもわれました。
 
 この言葉に惹きつけられたのは、「決定的な一本の線」を実現しようとする意志が、KJ法においては、「表札づくり」という作業に必要な想いであると感じられたからなのですが、明治生まれの日本画家たちの身を削るような「線」をめぐる葛藤も推し測られて印象的でした。
 
 KJ法における「表札」とは、ラベル群のグループ編成によってセットになった複数のラベルに対して与えられる統合概念のことであり、複数のラベルたちの〈志〉がもれなく掬い上げられ、簡潔な文章で表現されねばなりません。
 その作業において、複数のラベルの〈志〉がたった一つの「表札」として統合されるためには、「複数ではない、実は一つの〈全体〉なのだ」と把握し直し、その〈全体〉のど真ん中を「短歌一首ひねり出すような気持ちで」まずは表現し、最終的にはそれを推敲して精度の高い文章として完成させるといったプロセスが必要です。
 この「複数の質」が「たった一つの質」へと変換されるところにKJ法の発想の醍醐味があるのですが、川喜田二郎がその核心、つまり最終的な推敲前の概念の形成を「短歌づくり」とたとえたのは味わい深いことです。
「短歌一首ひねり出すような」は「軽い気持ちで」という意味ではなく、複数のラベルたちによって形成された〈全体〉をもれなく圧縮してもう一つの〈全体〉を創造するという意味であり、そこを「短歌づくり」と呼んだのは、「短歌」という文芸が「長歌」の要約として出発したことを想起させる適確なネーミングです。
 主に万葉集にみられる「長歌」は、五音・七音のセットが何セットか連ねられたあげく、最後を七音で締める形式ですが、その「長歌」のリズミカルな連なりが現出するコスミックな自然や讃えるべき御代(みよ)への寿ぎの時空間を、もれなく象徴的に圧縮するところから「短歌」の五・七・五・七・七という形式は出発しています。
「長歌」は間もなく衰退したのに対して、「短歌」という形式がそれよりもはるかに永く生き続けたのは、安田靫彦の言う、「調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」という日本人の遺伝子のせいかもしれません。
 川喜田二郎の創案したKJ法にも、その日本人らしさが横溢していると言えましょう。
 複数の質が一つの質へと変換されるとき、たとえるなら「決定的な一本の線」によって他の線が棄てられたり殺されたりするのではなく、すべての線の意味を、一本の線が象徴的に担うことができるのだ、という発想の妙味の実現によって素晴らしいカタルシスが得られます。それを味わう者も、その「一本の線」の決断力に、豊饒な創造性のドラマを看取することができます。
 
 日本画における伝統的な「線」にも、西洋近代が実現してきたリアリズム的な表現様式とは全く異質な奥ゆきがあったであろうとおもわれます。
 近代を受容してゆく中で、当然、この「線」は新たな目線で問い直されることになります。
 明治30年代には、日本画の世界では、菱田春草らが「朦朧体」とよばれる技法を試みて話題になります。
 日本画の伝統である「線」をあえて消し去り、朦朧とした輪郭の無い世界が広がる画面に賛否が渦巻きました。この試みもまた、世界へのまなざしをどのように紡ぎ出すかについて、「線」へのこだわりがあればこそ生み出されたものであったかもしれません。
「線」によって限られた輪郭というものによって、私たちは他と区別されるわけですが、そのことの意味をどのように表現することがこの世界をより豊かにとらえることになるのか、狂おしいほどの葛藤が当時の表現者たちにはあっただろうとおもわれます。
「線」は、象徴的に全体を担うのか、それとも存在を全体から切り離して近代的な「個」として屹立させるのか、あるいは、「個」であることが存在を矮小にしてしまうのか。
「線」を近代的な形で研ぎ澄ます方向へ向かう者、伝統的な「線」にこだわり続けることで逆説的に近代であろうとする者、「線」を否定することで伝統的な「型」を超えた日本画の表現を模索する者、いずれにおいてもこの世界への「まなざし」が問われていたのであり、そのような問いによって表現が成就していた時代に懐かしさをおぼえます。
「線」を問うことは「線」を「線」たらしめているものへのまなざしを問うことだったのであり、〈存在〉を〈存在〉たらしめているものが根底から揺さぶられた近代化の過程で生み出された表現には、揺さぶられたことの葛藤や傷痕も含めて味わい深いものが多々あります。
 
 KJ法には、言葉の「象徴性」という機能を有意義に使う姿勢が欠かせません。そのことが世界へのまなざしを豊饒なものにするように、この方法には、存在への奥ゆきのある認識が丁寧に埋め込まれています。一つのラベルを一つの〈志〉を持つラベルたらしめているものへの信頼。その信頼に根差した言霊(ことだま)としての「表札」が、真の〈個〉として屹立する過程こそ、KJ法の核心部であるとも言えましょう。
 この方法の意義が実現されたとき、どこか懐かしくてしかも身がひきしまるのは、この核心に触れたせいだと気づいていただけるなら、とても幸せな想いがいたします。




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聖の弁証法

  • 2016.04.28 Thursday
  • 18:51
「攻撃性と憎悪・敵意を聖の弁証法を通して救いへと導いた古代人の智慧を、極度に非聖化された救いなき力とイデオロギーの対立抗争でしかない現代にどのように再評価し、価値を再発見し得るかに将来へのひとつの鍵がひそんでいるように思うのである。」(堀一郎 『聖と俗の葛藤』平凡社ライブラリー 1993年刊)
 堀一郎(1910年〜1974年)は、民俗学者の柳田國男に師事し、その娘婿となった人物ですが、宗教民俗学というジャンルを切り拓き、ミルチャ・エリアーデを日本に紹介したことでも知られています。
『聖と俗の葛藤』という書物には、「聖なるもの」を喪失した現代への暗い憤りが溢れています。よくもここまで「非聖化」され尽くしたものだ、という現代への認識はしかし、安易に「古代へ帰れ」といったアナクロニズムに陥ることなく、大衆的な規模で「聖」と「俗」が繰り返し葛藤を生起させることの意味を解き明かしながら、現代において生産的な「葛藤」と「聖なる価値」の蘇生が可能か否か、スリリングな問題提起がなされています。
 たとえば、成人式の儀礼について、次のような叙述があります。
「成人式儀礼にはさまざまなシンボリズムが使われるが、狩猟文化においては「解体儀礼」(体をバラバラに解体し、そしてその骨をもう一度集めて組み立て直すモチーフ。シベリアのシャーマンの巫病の神秘体験にはこのモチーフがしばしばあらわれる。)のイメージをもった儀礼が強く残っている。
 また農耕文化をもった民族では地母神とか地下の女怪物の胎内へ復帰するドラマチックな儀礼が見られるし、南の太平洋諸島では、ワニとか海の大きな怪物つまり水の精霊の腹の中に入ってもう一度生まれかわるという儀礼が見られる。」
 解体されたり胎内へ回帰したりといった混沌(カオス)をくぐり抜けることで、以前の自己ではない、聖なる自己として新生するというイニシエーションの構造に着目しています。
 日本でも、修験道のイニシエーションには、本尊(不動明王)と一体化する秘儀があり、いくつかの苦行を通して「死と再生」を象徴する行為が含まれているのだとも。
 つまり、「聖の弁証法」においては、一度カオスに戻るという体験が重要な意味を持つのだという認識です。
 
 このようなイニシエーションの構造と、集団的なオージー現象(マス・エクスタシーやマス・ヒステリア、たとえば日本で言えば念仏踊りやええじゃないか踊りのように、宗教的枠組みでの民衆のエネルギーの爆発を指す)の構造とがパラレルであるという視点にも刺激的なものがあります。
 イニシエーション、オージー現象、祭儀といった一時的カオスのもたらす非日常性は、そこでエネルギーが発散されることで結果として民衆のストレス解消となり、時に体制維持の好餌となる、といった冷徹な把握を交えながらも、すべてが「非聖化」され、葛藤も生産的なカオスへの回帰の機会も保証されない現代の平板な文明の様相に、堀一郎は危機感を抱いています。
 
「聖」と「俗」とが葛藤しながらカオスをくぐり抜け、新生する、このような「聖の弁証法」によって苦難を乗り越えたり、イニシエーションが成立したり、共同体の結束が強固なものになったり、文明の相貌が新たになったりするためには、ひとつの条件が必要であるようにおもわれます。
 それは、「混沌」に意味を感じられるということです。無駄に不条理なおもいをしている、理不尽に試練を強いられている、「混沌」の先には虚無しかない、そう考えるならば、仮に蘇生はしても虚無の風景は塗り変えられないのではないかとおもうのです。蘇生は「偶然」の産物でしかなく、ひとつの価値をめぐる「物語」を生きたことにはならないからです。
 どのように変わるのかについてのビジョンは与えられなくとも、良き方に変わる、そのことへの〈信〉があるとき、蘇生は根源的なものであり得るとおもわれます。
 それは、二元的に対立しているように見えるものの双方を包摂するようなスケールへのまなざしを、世界観として持ち得るかどうかということであり、堀一郎の言う「非聖化」も、単に「聖なるもの」だけの喪失ではなく、実は「聖と俗」という対立を超える世界を想い描き、信じる能力の喪失という不全に突き当たるのだと言えましょう。
 
 霧芯館の研修やワークショップを「修行の場」ととらえ、「また京都へ修行に行きます!」と言ってくださる受講者がおられますが、KJ法もまた、カオスに意味を感じつつ、その先に創造的な自己変革とダイナミックな問題解決がもたらされることへの〈信〉で成り立つ方法だと言えましょう。混沌をくぐり抜ける時間はまさに修行ですが、繰り返しKJ法を実践するうちに、どのような混沌でも必ず構造化され本質にたどり着くことができる、という〈信〉が鍛えられる方法でもあります。
 技法の細部にも「弁証法」的な精神が息づき、複数のラベルの〈志〉をすべて汲み上げて概念を創造的に統合することをあきらめない方法です。
 
 徹底的に「非聖化」されたように見える現代において、おそらくは個々人の内面でのこのような微細な「弁証法」的葛藤は、仮にKJ法を使わずとも日々繰り返されているのであり、堀一郎が語るほどにはのっぺりとした現代ではないと、私は考えております。
 人々の日常の細部には、宗教的な「聖」とは無縁でも、世界風景を一瞬、非日常的にきらめかせるような歓喜やカタルシスや他者・世界との交感や覚醒がはらまれており、そこで感受された「価値」をめぐって、個々人のデリケートな葛藤・修行がより良き蘇生・変革へと結びつくための強靭な世界観が、古代のようには大衆的な規模で保証されてはいませんけれども、そのことの並外れた困難と逆戻りのきかない立ち位置で混迷をきわめつつもなお、「聖の弁証法」は息づいているとおもわれるのです。
 
 あまたの「素手」の闘いが日々続けられている、と感じられます。KJ法という武器の威力を信じて霧芯館にお越し下さる方々の熱意に頭の下がる想いであり、個々人の精緻な葛藤や困難の現場に触れることで、根源的な〈信〉の手触りを得られることに感謝する日々です。


 
 
 熊本地震で被災された方々が、混沌とした状況の中でも〈信〉を失われずに一日も早く安心できる生活を取り戻されますように、心よりお祈り申し上げます。
 

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〈個〉と〈類〉

  • 2016.03.31 Thursday
  • 18:50

「現在では、龍は死にたえたと考えている人もいる。だが、実際にはまだ生きている。人が生きているかぎり、龍が死にたえることはないのである。
 では、どこにいけばみつかるのだろうか?
 答えは簡単である。
 龍は暗闇に住んでいる。だから、暗闇におりていけば、龍はみつかる。
 ところで、龍の数だが、古い文書にはこうある。
 “龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”
 残念ながら、わたしには、この意味をあきらかにすることはできない。」
(『龍使いのキアス』浜たかや 偕成社 1997年)
 
 浜たかやの壮大なファンタジー作品『龍使いのキアス』は、〈龍〉を呼び出すことで一つの民族のコスモロジーを蘇生させる物語ですが、その試みは、見習い巫女キアスのイニシエーションの“失敗”に端を発し、人と民族の重層的な〈闇〉をくぐり抜けることで、ついには世界を修復し、己れ自身のイニシエーションの意味に辿り着くまでの、キアスが担わされた試練の旅路のドラマです。
 その年に十五歳になる見習い巫女は、〈呼び出し〉という儀式によって一人前になります。太鼓の音に招かれた風の中で草原を舞う見習い巫女たちは、次々と〈呼び出し〉を受けてその本来の姿に変身してゆきます。鹿や鳥や花など、それぞれの本来の姿に呼び出されて〈変身〉できた者は一人前と認められ、変身できなかった者と、元の巫女の姿に戻れなかった者は、神殿から追放されてしまいます。
 周りの凡庸な巫女たちになじめないキアスの偏りを帯びたプライドは、己れが何かしら特異な能力をもつ偉大なもの、もしかしたら〈龍〉に呼び出されるのではないかと期待していたのですが、案に相違してキアスはキアスのままでした。
 神殿を追われたキアスの旅は、己れの本来の姿を捜し求める旅であり、同時に、この世界からある偉大な力が失われた謎を解き明かす旅でもあります。
 
 冒頭の引用は、舞台となっているモール地方の大巫女ナイヤによって書かれた文書という体裁をとることで、作者が〈龍〉の象徴性を簡潔に表現してみせた箇所です。
 短いけれども架空の神話としての体裁が象徴性を高めているせいで、私たちの〈生〉の困難の本質がどこにあるのかを無駄なく言い得ており、一篇のエピグラムのような趣きがあります。

 実際にはまだ生きている〈龍〉を、私たちは「死にたえた」と考えている。あるいは、〈龍〉が生きているとわかっていても、「暗闇」におりていくことができないでいる。だから、〈龍〉を見つけることができない。そして、“龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”という言葉の意味を、「大巫女」と呼ばれたナイヤもすでに、あきらかにすることはできなくなっていた。
 世界のこの〈いびつさ〉の構造は、〈近代〉によって私たちの魂が迷走するようになって久しいありさまを、端的にシンボライズしていると言えましょう。
“龍は一頭しか存在しない。だが、同時に人間の数だけいる。”
つまりここには、私たちの〈個〉と〈類〉のあり方をめぐるアポリアをふわっと超えてしまうまなざしが描かれているのですが、ただこのまなざしを持つという、それだけのことが出来なくて、私たちは自他や世界との関係を苦しみ続けているのだと言うこともできるでしょう。
 
『龍使いのキアス』には、〈龍〉を呼び出す呪法“ラマラ”と、他人の夢の中に入る呪法“リシ”がある、と述べられています。昔はリシもラマラも使える巫女がおおぜいいたけれど、今はいなくなってしまったのだ、とも。いずれも、使い方をまちがえれば不幸になるかもしれない、きわどい力なのだと。
 個々人の存在の根としての〈龍〉からはぐれたときに、人の夢は、その欠落を補うためのイメージを噴出させると考えるならば、リシという呪法は、他者の夢に入り込んで存在の根との関係を修復する技であり、そのような欠落が〈類〉として生じ、修復が必要になった文明への療法がラマラであろうとイメージすることが出来そうです。
 
〈現在〉の諸々の病理や、己れ自身の生き難さについて想うとき、いつもこの二つの呪法に相当するようなアプローチによって超えなければならないアポリアに直面させられていると感じられます。
 人がどのように他者と向き合うのか、どのように老いて死を迎えるのか、いかにして己れが己れであることに満ち足りるのか、どうすればこの世界を意味のあるものとして感受し、深く息づくことができるのか。
 どんな現場においても、どんな関係性の中で生きていようとも、日々のささやかな、あるいは深刻な生き難さには、己れの〈生〉の根拠の得体のしれない不明瞭さと底浅さの感触がつきまとっているようにおもわれます。いわば〈龍〉が死に絶えたと考える世界観の中で、非常に底浅いものを根拠に、私たちは虚無と我欲に翻弄されながら関係を病んでしまいます。
 “ラマラ”も“リシ”も使わずに幸せになれるのなら、それにこしたことはないのですが、〈現在〉は、孤独な偏りをもつ表現者でなくとも、つまりファンタジーにおける「巫女」のような立ち位置でなくとも、この〈龍〉の気配を触知して己れの〈生〉を意味づけるのでなければほんとうの自分に出会えない時代なのではないかという気がいたします。
 私たちは皆、十五歳の巫女と同じイニシエーションを課せられている、そんな感触が〈現在〉という時代の生き難さのど真ん中にあるようにおもわれるのです。
 自分は何者であり得るのだろう。
 何に〈呼び出し〉を受けるのだろう。
〈呼び出し〉を受け損なったら、この世界から放逐されてしまうのではないか。
 しかもその〈呼び出し〉が、ヴァーチャルなまがいものからの〈呼び出し〉であったとしたら。間違った姿を自分の本来の姿だと思い込むことで、狭い碁盤の目の上から落ちないでいるにしても、いつしか碁盤ごと、とんでもない場所に迷い込んでしまうとしたら。
 そんな切迫した混迷の様相が、若者のみならず、あらゆる世代を覆っているようにおもわれます。
 
 さまざまな現場の息苦しさ、生き難さに触れるたび、“実際にはまだ生きている”〈龍〉の息づかいを、「暗闇」に探り当てる叡智そして縁をと、祈るようなおもいです。



 





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ブログ「星辰 Sei-shin」開設のお知らせ

  • 2016.02.24 Wednesday
  • 18:24

 この「川喜田晶子KJ法blog」とは別に、私が編集責任者としてブログ「星辰 Sei-shin」を新たに開設いたしました。
 そのいきさつにつきましては、「星辰 Sei-shin」のプロフィールのページ及び、川喜田八潮の記しました「ブログ「星辰」開設のごあいさつ」をご覧いただければとおもいます。
 川喜田二郎と川喜田八潮の思想的な共通点とも言えることですが、ブログタイトルの説明文として、「〈脱・観念的〉な生活思想の追求による、新しい世界視線創造の試み」と掲げました。
 KJ法という方法に関わりながらも常に、川喜田二郎と川喜田八潮、両者の思想の間に橋を架けることができればと念じておりましたが、このたび、より先鋭的なかたちでその〈場〉を設けることができたのではないかと考えております。
 ご縁のある方は、両方のブログをご高覧いただき、それぞれの生活空間における内省の一助ともしていただければ幸甚です。
 
 旧「星辰」を発行しておりましたとき、第五号の扉にエピグラムとしてこんな短歌を掲載いたしました。2000年・冬のことです。
 
   消費からもっとも遠い一冊のただ一冊の書に火傷(やけど)せよ
 
「星辰」という場所でものを書くことの気概(気負い)が作らせた一首ですが、あらためてブログという形で「星辰」を開設してみますと、その場所の孤高と屹立の感触が今も、否、以前よりも一層まっすぐに立ち昇っているようにおもわれます。時流の中であぶくのように消えてしまうことのない思想・表現の力を、常に追求してまいりましたが、これからもその想いにブレはありません。
 しかし、今はことさらな「気負い」はなく、多くの縁ある読者に間違いなく「火傷」していただけるという、澄み切った確信のようなものを抱いております。
 この間に、個人が傷や喪失や歓びの体験を経て年輪を重ねるように、時代もまた、大きな傷や癒しや模索の痕を刻みながら、大衆的な規模で魂の深層において、観念的な贅肉を洗い晒してきたのだと、これからも洗い晒してゆくのだと、そんな感慨を抱きます。
 そのような深層の潮流において、「星辰」も、KJ法も、真の生活者と着実に出会い続けてゆくだろうとおもっております。
 私がこのような感慨をもつことができますのも、KJ法を通して縁ある方々と不思議な内実のある出会いを得られた日々のおかげであり、このブログを楽しみにしてくださる読者が、「星辰」とも新鮮に出会っていただけるなら、これ以上のよろこびはありません。
 




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