霧芯館KJ法ワークショップ 2016 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.12.11 Sunday
  • 17:58

霧芯館KJ法ワークショップ2016其ノ二

  • 2016.12.10 Saturday
  • 18:48

 さる12月3日、「霧芯館KJ法ワークショップ2016 其ノ二」を開催致しました。(於・京都テルサ)

 年二回開催するワークショップは、夏と冬とで完結する物語です。

 でも、霧芯館での研修を受講済みの方であれば、冬のみのご参加も可能としておりますので、今回もたくさんの方が京都にお集まりくださいまして、KJ法による熱いご交流の機会を楽しまれました。

 

 今年のテーマは、「〈初対面〉のラビリンス」だったのですが、このテーマ設定は、我ながら「神ってる」としか言いようがなく、実に身近で誰でも必ず体験していることでありながら、この〈初対面〉に関する気がかりや事例をラベルとして扱うことで、コミュニケーションや関係性のみならず、世界観にまで関わる奥ゆきのある議論が可能となり、参加者のみなさんの楽しげだったことは今までのワークショップでも随一だったかもしれません。

 初対面から始まる関係性に対して、「逃げられない・避けられない」ことの重みをどのような表現で定着させようか、といった議論、あるいは逆に、関係を続けなくてもよいことの意味をどのように位置づけようか、といった議論。また、良い関係性を構築するために互いの領域を侵さない配慮、逆にいきすぎた配慮や、関係を統御しようとする不自然さへの葛藤にまつわる議論。こういう議論は、日ごろ参加者が、自分に降りかかってくる関係の意味をどのようにとらえ、そのことでより良く生きようとしているか、という人生観・世界観の軸をあからさまにするものであり、たかが〈初対面〉、されど〈初対面〉という感慨を起こさせるものでした。

 

 また今回、ちょっと主催者として一工夫いたしました。夏のワークショップで提示されたラベル達から、私があらかじめピックアップしておいた70枚一覧を、参加者には事前に送信しておいたわけですが、その際、メールには、「ワークショップ当日までこの70枚を繰り返しよく味わっておいてください。今日から1日1回は必ず!」と一言添えておきました。

 開催の一週間ほど前でしたが、たぶん、ほとんどの参加者は律儀に1日1回は目を通してくださったのだとおもいます。

 そのことで、当日の会場への交通機関の中で10回目を通すよりも、はるかにラベルたちの〈志〉が、参加者の内部でふくらみのある発酵の仕方をしていたのではないかと思われます。

〈志〉が明晰にならないラベルたちがたくさん、宙ぶらりんな状態で長い時間を過ごすことは、私たちの無意識にある種の負荷をかけるのですが、そのことで私たちの内部の〈渾沌〉は、なんとかして構造化して本質を明らかにしてほしがってうずうずしていた、そんな状態で誰もがワークショップ当日を迎えてくださったのではないかと推察いたします。

 

 いずれにせよ、今年もすぐれた図解がたくさん生まれましたので、またこれらの図解に解説を加えた「作品・解説集」も、参加者のお手元にお届けする予定でおります。

 

 来年も、良いテーマが降りてきますように。

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

JUGEMテーマ:批評

 

紅葉占い

  • 2016.11.27 Sunday
  • 17:33

 KJ法の真髄は、ものごとを象徴的に感受することにありますが、今年の紅葉によって世界をシンボリックに感受するなら、この世界はその表層のいかがわしさにもかかわらず、やはり意味に満ちて澄んでいる。そう感じられる風景を、今回は写真で綴ってみたいとおもいます。

 

 写真は素人なのですが、みなさんから褒められることが多く、そういうときの歓びは、文章に感銘を受けていただいたときにひけをとりません。写真も一つの表現ですので、身体表現として素直に私の写真を気に入ってくださる方々の存在は、文句なくありがたいものにおもわれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

世界観を着替える

  • 2016.10.30 Sunday
  • 19:07

 最近、少しずつ不用品の断捨離を試みているのですが、さっぱりした本棚、さっぱりした部屋に近づくにつれ、「捨てる」という行為は実は、抽象度の高いビジョンへの決断なのかもしれない、と感じるようになりました。捨てているようで、本当はある一つのビジョンを択びとろうとしている自分がいて、そのことが快感なのだと気づきました。

 

〈渾沌〉の明晰な構造化を導くKJ法もまた、完成した図解によって抽象度の高い風景をもたらしてくれます。

 既成のカテゴリーに仕分けする〈分類〉という行為でもなく、全体を細分化して再構成しようとする〈分析〉という行為でもなく、「渾沌をして語らしめる」という創造的な営みとしてKJ法が機能するためには、私たちは「この世界をどのように感受するのか」という世界観からハラを据えて着替えねばなりません。

 霧芯館の研修では、いわばこの〈世界観の着替え〉によって、得体の知れないラベル達が受講者にとってかけがえのない意味を持つ風景として転生するに至る、濃密な時間を過ごしていただくことになります。

 完成した図解が実現している抽象度というものは、分類や分析による機能的だけれどもよそよそしいシステムを形づくるのではなく、個々のデータの〈土の香り〉を残した、非観念的な象徴性を有するものであり、創案者である川喜田二郎によって人間の野性的な本性として見きわめられた〈個〉と〈全体〉の有機的な感受の能力に基づいて、創造的に発想される〈本質〉というものを、私たちに開示してくれます。

 そこでは、抽象的であるということは、具象的な〈土の香り〉と矛盾するものではないのです。むしろ、抽象度が上がることによってこそ、〈土の香り〉が匂い立つような営みです。

 何十枚、何百枚というラベル群も、10束以内になるまで統合され、その数束は図解上で〈島〉として配置され、各島には〈シンボルマーク〉と呼ばれる概念が与えられます。島同士が関係線で結ばれ、構造が明らかになることで本質を把握できる感動は、根底から〈世界観の着替え〉を行った者でなければ味わえないものです。

 統合が繰り返されて抽象度が高まる時、下位のラベルは決してそのニュアンスを捨てられることなく新たな概念として表現されるべきであり、この方法には、「捨てる」「断念する」といった場面がありません。全体感を背景にしつつシンボリックに個々のラベルを感受して本質を発想することで統合する、そこにこの方法の核心と醍醐味がありますが、〈全体〉の感受も、その本質の感受も、個々人と渾沌とのやりとりの中で多彩な可能性に開かれていながら、ある一つの〈決断〉へと収束します。この方法の〈決断〉という姿勢、〈主体性〉という概念の豊饒さが実現されるべき場面です。

 何一つ切り捨ててはいないし、こちらの〈我〉を働かせてはいないのに、渾沌がクリアな相貌として訪れることの潔さ、とでもいいましょうか。

 

 部屋の、特に本棚の断捨離を進めながらふと、私はこのことで〈欲〉を捨てようとか何かを手放そうなどと思っているのではなく、自分にとってみずみずしい風景、呼吸が楽になる懐かしくも新鮮な風景を獲得したいという〈欲〉に、むしろ激しく衝き動かされているように感じられました。そのような〈欲〉が湧いてくることが我ながら面白く、生活の中にささやかな〈決断〉という節目を意識するのは、それがどれほどささやかなことでも、世界観の確認と深く結びついていることを噛みしめつつ、秋晴れのような潔くて陰影のある風景を日々目指しているところです。

 

 

 

 

JUGEMテーマ:批評

JUGEMテーマ:日記・一般

 

〈神歌唱〉と出会う

  • 2016.09.29 Thursday
  • 21:44

 

 私にとっては、言葉はいつもなんらかの映像を喚起するものなのですが、そうでない方も多いようです。

 ずっと、誰もが言葉と映像はセットなのだ、と思い込んで生きてきたのに、そうではないということがわかった時はかなりショックでした。

 言葉でさえあれば、「桃」であれ「里山」であれ「近代」であれ、いつでもなんらかの映像が浮かびます。「100−20」というだけでも、私の頭の中では、100センチのリボンから20センチをチョキっと切り取ったりしていますし、「三分の一」という時にも、円いホットケーキが均等な扇形に三分割されていたりするわけですが、どうやら誰もそんな映像は浮かばないらしい。。。

 小説を読めば、映画を観ているように映像と音声が流れるので、お得なのかというとそうでもなくて、残酷シーンなどに出くわすと、悪夢にうなされて体調を崩すこともしばしば。そのような体験を私にさせたその作者をいつまでも赦せなかったりします。

 逆に、そこで喚起された映像に深く感動したり癒されたりする場合は、全身的な歓喜というものに身を浸すような時間を得られますが、最近はそのような表現に出会うのがなかなか難しくなっているようにおもわれます。

 ドラマも、小説も、音楽番組も、私の全身を浸すようなゴージャスな潤いに満ちた時間をそうそう提供してくれるわけではありません。

 いきおい、最近のもの、ではなくて、昔の映像や古典に目が向かいます。

 

 何が失われたのだろう、と思わずにはいられません。

 

「最近のもの」に共通するのは、何かを創造しようとする際に、意識で把握できる可視的なピースをかき集めることでしか己れの存在意義を証明できない、といった強迫的な感覚による切羽詰まった息苦しさであるように感じられます。切羽詰まっていることが迫力を生むのではなく、作品・表現をより薄っぺらくしてしまっている、という感触です。

 人物を描く・演じる、といった営為においても、人間をそのような「可視的なピース」によって作り上げられるジグソーパズルのようにしか認識していないと、当然平板な人物造形とならざるを得ません。

 そのことを、私だけではなく誰もが息苦しいとも感じているのか、お手軽な「神」概念が氾濫しています。

「神ってる」「神対応」「神回(連続ドラマの中の感動的な回?)」などと、感動や優秀さに際立った奇跡的な質を味付けしようとするわけですが、平板な可視性への強迫観念と、何にでも「神」概念をトッピングしたくなる衝迫とは、表裏一体なのでしょう。

 

 などとぼやきながらも、私にも最近至福の時間を与えてくれる表現との出会いがあり、おもわず「神歌唱!」などと言いながら全身的な感動を得ています(誰のどんな楽曲の歌唱なのかは内緒ですが、まだそこそこ若手の歌い手さんです)。

 その歌い手さんには、楽曲に対する本質的な〈敬意〉があると感じるのです。

 その楽曲を作ってくれた作詞家・作曲家への敬意ではなく(もちろんそれも大切なものではありますが)、楽曲が自分に「歌わせる」ように歌う、そのことで自分の思いもよらなかった領域が拓かれて今、楽曲と自分との混然一体となった一つの世界がここに顕ちあらわれている。そんな風に自分に「歌わせて」くれる作品と、拓かれるべき領域が存在した己れの身体への、深い畏敬の念を感じさせる歌唱、とでも言いましょうか。

 有名な作詞家・作曲家の作品を歌わせてもらう、からでもなく、たくさんの聴衆・観客の前で歌わせてもらえる、からでもなく、作品が自分を通して一つの世界を顕ち上げるその時、自分がまさかこんな歌い方をするとは思わなかった、こんな抒情の表現が可能とは思わなかった、しかもそこで顕ち上がった世界が、聴衆にきちんと伝わっていることの歓びもある。その時の幸福そうなたたずまいというものに、表現に必要な本質的な畏れの念を感じて瞠目致します。そういう感覚に〈現在〉でも出会えることに、実に新鮮な充足感をおぼえ、ゆかしさ・なつかしさに包まれます。

 ちょうど、KJ法が「渾沌をして語らしめる」方法であり、こちらの〈我〉で渾沌を分析したり分類したり解釈したりせず、「渾沌」への深い敬意によって成り立つ方法であるように、この歌い手さんには、KJ法の王道が実現された時にも似た、晴れ晴れとした説得力が実現できるのです。

 可視的なセールスポイントとしての〈個性〉という名の〈我〉によって、楽曲を“自分の歌にする”歌手が多い中で、稀有な存在と感じます。

 

 可視的なピースとは次元の異なるピースが加わらないと、表現も人の〈生〉もまっとうに成就しないのだ、ということを、〈現在〉の息苦しさに追い詰められながら誰もが喘ぐように感じているのだとおもう時、巷の「神」概念の氾濫に対しても微笑ましい気分がしてきます。

 ただ、「神」概念が申し訳程度にトッピングされる、といったわびしい割合ではなく、可視的な領域よりもはるかに広大な〈不可知〉の領域への畏敬の念が、私たちの日常に沁みとおるような時代となれば、可視性への強迫観念に息苦しさをおぼえることもなくなるでしょうし、追い詰められて「膿」のように吹き出すもろもろの病理も解消されるはず。

 そんなビジョンを脳裡に描いておくのは、私の心身にとっても、もしかしたら時代にとっても、ちょっと良きことのようにおもわれます。

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

JUGEMテーマ:批評

 

霧芯館KJ法ワークショップ2016〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2016.08.17 Wednesday
  • 10:50

霧芯館KJ法ワークショップ2016

  • 2016.08.16 Tuesday
  • 13:25

 今年も、「霧芯館KJ法ワークショップ2016」を、8月6日京都テルサにおいて開催いたしました。

 毎年、夏と冬に開催されるこのワークショップ、夏は「パルス討論」と呼ばれる技法で「探検ネット」という図解を作成し、参加者はチーム毎にテーマをめぐって想いや事例を提示します。それらのラベルをもとにして、冬のワークショップでは「狭義のKJ法」のグループ作業を行い、渾沌としたラベル群が緻密に構造化されるプロセスを体験していただきます。

 

 

 今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」。

 霧芯館の研修受講者のみなさまにワークショップのご案内を差し上げるのですが、今年のテーマはご案内の時点で好感度が高かったようにおもわれます。誰もが必ず数えきれないくらい体験したことのある〈初対面〉ですが、その〈初対面〉に対する姿勢や身構えの質を構造化することで、関係や世界に対して私たちが抱くべきまなざしを問い直したいというのが、テーマ設定の趣旨です。

 

 酷暑の京都に全国からお集まりくださった参加者のみなさまの熱気で、〈初対面〉の戸惑いや身構えなどあっという間にほぐれ、どのチームからも楽しげで真剣な空気が発散されていました。

 

「探検ネット」においては、テーマに関係のありそうなラベルがさまざまな角度からバランスよく、効率的に提示されることが目指されておりますので、それらのラベル達が構造化され、渾沌の本質にたどり着けるのは冬のワークショップにおいて、なのですが、それでもパルス討論終了後の各チームの軽いプレゼンには、討論の時間の熱さと拡がりがダイナミックに表現されており、チームそれぞれ異質な表情をしているのがまた楽しく感じられました。

 

 世間では、この「パルス討論」をだらしなくしたようなゆるいブレーンストーミングの結果をもって「KJ法」と称していることも多いようですが、それでは「渾沌をして語らしめた」ことにはなりません。

 テーマをめぐって出し切られたラベル達の訴えかけを、きちんと「狭義のKJ法」によって精密に構造化し、その本質を把握するのでなければ、真にKJ法を活用したとは言えません。

 夏の参加者には、冬までの期間、ラベルの印象をもやもやともちこたえていただき、冬のグループKJ法によって渾沌が構造化される醍醐味を満喫していただきます。

 

  以下に、この日のラベル達の中からいくつかご紹介したいとおもいます。

 

「まばたきの回数で相手の緊張感を計算している自分がいる」

「電話で会話をした後に、訪問してイメージ通りの人だったら、心の中でガッツポーズしてしまう」

「語尾で、しっかりした人かそうでない人か判断している」

「相手の香り・臭いで好き嫌いを判断する」

「自分にとって危険な人だと直感で感じる時がある」

「第一印象で酒が強いと思われるが実は一滴も呑めない」

「笑顔を5秒キープして好印象を与えている」

「めんどくさい」

「ご破算にできる関係性より、逃げられない関係性の方が重い」

「金沢@石川では、地元出身でない者は“旅の人”と称される」

「初めて会ったのに懐かしい、という感触は信頼できる気がする」

「今後関係を続けるか、仕分けをしてしまう」

「対面の時、相手を値踏みしてるように、自分も値踏みされている」

「相手と同じ速度で緊張をやわらげたいと思う」

「一期一会がある」

「初対面で飼いたくなる・欲しくなる物がある」

「場当たり的なあいさつで相手の機嫌をさぐる」

「自分の事情や背景を知らない人と関わりたい時もある」

「自分の役割を決めて関係性のバランスをとる」

「肩書きがとれると犹劼匹”が出てくる」

「知らない人から声をかけられやすい人と声をかけられにくい人がいる」

「ねこカフェで、〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる」

「垣根がないと隣人とは仲良くやっていけない」

「初対面での印象を何十年もたった後に言われるのは嫌な気持ちがする」

「シャイな人は初対面でよくしゃべる」

「弱いほどつっこまれる」

「医師は患者との初対面を拒否できない」

「焼き鳥屋のメニューに爐△気犬瓩匹”というのがあった」

「初めて会う犬に必ずほえられる」

「ヒールがはさまって脱げてしまった時、無意識に素敵な男性が気づいてくれると期待してしまう」

「大人になるうちにいい人を演ずるのがうまくなるのでだまされることがある」

「子どもは意地悪そうかどうか、見分けている」

「馴れ馴れしい人とは距離をおく」

「公園デビューの前にママ友を作ってから公園に行く風潮がある」

「初対面の前に既にネット上でのコミュニケーションが当たり前になった」

「ガラケーでは就職も結婚もできない」

「昔の人は一回ちらっと見ただけの人と結婚した」

「人柄は顔にあらわれると信じている」

「ひとめぼれという現象がある」

 

 どのチームも、すぐれたリーダーシップで参加者の率直なラベルがたくさん提示されました。夏のラベル達から、冬はどのような本質が導き出されるのか、このように少し列挙しただけでも期待感がふくらみます。

 

 また、パルス討論の後は、霧芯館の研修受講者の作品の発表により、いわゆる質的研究、問題解決、そして世界観に関わる図解、と三種類のことのほか異質な図解たちが顔をそろえ、今年は非常にスリリングでした。

 参加者には、他者の発表を通じてですが、「渾沌が構造化され、本質が把握できる」ことの威力をあらためて感じとってもらえた時間ではなかったかとおもわれます。

 

 

「ひとめぼれという現象がある」というラベルは、事前にスタッフ間でのパルス討論を行い、当日の見本ラベルとして提示されたものですが、この日、各チームでさまざまに話題がふくらみ反響が大きかったようです。

 人間関係をなんとか良い方向へ導こうと私たちは苦慮するのですが、ときどき、「ひとめぼれ」のようなものが降ってきて、私たちのちっぽけな努力を超えたパワーで人生をひっつかんでしまったりもします。

 そのような不思議な次元で、ほんとうは私たちは出会っているのですが、解釈のレベルでそうではないように振る舞わされているだけではないのか、といった想いも湧いてきます。

 関係を統御したい、したくない、といった悩ましい力学を感じながら、参加者には冬までの間しばらく〈初対面〉のラビリンスをさまよっていただこうとおもっています。

 

 

 

“ラビリンス”としての縁

  • 2016.07.30 Saturday
  • 18:01

 

 今年2月に開設致しましたブログ「星辰 Sei-shinも、月に一度、数本の論稿を掲載し続けるというペースを保ちながら、半年近くがたちました。

 川喜田八潮の評論として、戦後史、宮沢賢治の童話、『新世紀エヴァンゲリオン』、藤沢周平作品、哲学書(ドゥルーズの『スピノザ』)等がとりあげられ、書評ではいよいよスピノザの『エチカ』論も連載がスタートしました。

 川喜田晶子は「〈藤村操世代〉の憂鬱」をこつこつと連載しております。

 

 川喜田八潮の旧稿・新稿を読むことで、批評の対象を押さえ切るその“握力”の強さに改めて瞠目しながら、毎月の編集作業を楽しみつつ更新しております。

 哲学書も、アニメーションやテレビドラマも、時代小説も、どのような対象を論じる時も、観念的な高みから啓蒙的に語るのではなく、オタク的な好みを披瀝するのでもなく、己れの生き難さの本質をつきつめ、あくまで“生活”を通して世界風景を塗りかえる営みとして、批評という表現が真に成立しているのは、この「星辰」という場だけであることに、書き手は二人とも満ち足りた誇りを感じております。

 ・・・などと手前みそなことを書かずとも、ご縁のある方はついうっかりブログに足を踏み入れて、途中でやめられなくなっているのかもしれません。

 

 さて、霧芯館の方も、もうすぐ恒例の夏のワークショップですが、今年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」と致しました。〈初対面〉というささやかな切り口から、人や場所や風景との関わりにおいて、つまりはこの世界の混沌に対して、私たちが抱くべきまなざしの質を問うことができるかと考えております。

 こちらも、“ついうっかり”霧芯館に足を運んでしまって、いつのまにかKJ法の修行に明け暮れておられる方々がたくさんいらっしゃいます。

 問題解決や質的研究への活用といった動機、ネットや口コミといったきっかけはあるはずですし、それぞれにとても真剣な想いを抱いて霧芯館へお越しくださっているのですが、私の側からは、どなたも“ついうっかり”来られた、ようにいつも感じています。つまり、ご本人の動機やきっかけを超えたところに、“縁”の糸が(赤いのかどうかわかりませんが)働いていて、その糸に引っ張られてあるいはその糸をたぐって辿り着いてしまった、みたいな感触です。そんな得体の知れない糸に引っ張られて辿りついてしまうのも、まんざら悪くないな、と思っていただけるなら、この仕事をしていてよかったなとおもわれます。

 

 “ついうっかり”という副詞を用いてみることで、なにかしら、人と人の“縁”というものの“ラビリンス”のような得体の知れなさに、ほほえましいあたたかみを感受できる気がするこの頃です。

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

JUGEMテーマ:批評

 

「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」

  • 2016.06.28 Tuesday
  • 16:55

 昨年開催の、「霧芯館KJ法ワークショップ2015」におけるKJ法作品をまとめ、解説を加えた「霧芯館KJ法ワークショップ2015 作品・解説集」が完成いたしました。

 今回も、参加者のみなさまに、ワークショップの成果を無事にフィードバックできてほっとしております。

 夏・冬、二回のワークショップを「〈闇〉の居場所」というテーマで開催し、〈現在〉における私たちの〈闇〉とのスタンスを問い直してきたのですが、非常にハードルの高いテーマ設定であったにもかかわらず、臨場感あふれる味わい深いラベルたちがたくさん提示され、本質的なディスカッションと合意形成がなされたのは、とても意義深いことでした。

 

 

 成果としての図解たちが指し示しているのは、「わかっている」という意識の傲慢さ・不遜さが〈現在〉の病理として把握できる点であり、私たちの存在も、他者も、世界も、「わからない」領域を含めて全体であることへの畏怖や覚悟を取り戻さねばならないという、世界観の振幅の奪回という課題でした。

 

 しばしばKJ法は、同じラベルを使っても、人によって異なる結果が出るから非科学的だ、などという浅薄な批判を受けますけれども、それらのKJ法作品がまっとうなものであるなら、複数の異質な図解に対して本質を追求する能力さえあれば、川喜田二郎が言うように、同じ富士山を異なる角度から見ているようなものであって、本質は同じ富士山なのだ、ということが了解できるはずです。

適切な〈富士山〉の全体感の把握と、適切な発想・抽象の手続きによって得られる異質な結果は、決して非科学的で散漫な産物を生み出しはしません。互いに発想を刺激し合い、より高次の本質概念へと人の創造性を向かわせるための生産的な異質さが、端正な〈富士山〉の真実を指し示してくれるはずです。

 

 科学性を実現しようとするさまざまな現場において、近年、非常に狭小な科学概念が創造性を抹殺しようとしているように感じます。異質なものから本質を創造的に発想する能力がないことを露呈しているだけの科学観・学問観によって、歪んだ〈全体〉をベースに矮小な「真実」がまかり通っているようで、なかなかに非生産的な状況だという印象を受けます。

 しかし、このような矮小さが昂進すればするほど、〈全体〉をまっとうに生きたいと望む人の本性もまた黙ってはいないものなのであり、まっとうな世界観によって、成す意味のある仕事を成したいと望む人々が静かに増えてゆくものだとおもわれます。

 

 心ある方々との縁により、KJ法がきちんと息づく機会を生み出せることに感謝して。

 

 

 

JUGEMテーマ:日記・一般

一本の線

  • 2016.05.31 Tuesday
  • 19:27
 
「日本人は元来、調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」
 
 NHKの「日曜美術館」で、日本画家である安田靫彦(やすだ ゆきひこ)(1884〜1978)の言葉として紹介されていたものです(2016年5月1日放送「安田靫彦 澄みきった古(いにしえ)を今へ刻む」)。明治17年生まれのこの画家が歴史上の人物を描くときの、どこか飄々とした画風に潜む、緊迫した「線」へのこだわりが興味深くおもわれました。
 
 この言葉に惹きつけられたのは、「決定的な一本の線」を実現しようとする意志が、KJ法においては、「表札づくり」という作業に必要な想いであると感じられたからなのですが、明治生まれの日本画家たちの身を削るような「線」をめぐる葛藤も推し測られて印象的でした。
 
 KJ法における「表札」とは、ラベル群のグループ編成によってセットになった複数のラベルに対して与えられる統合概念のことであり、複数のラベルたちの〈志〉がもれなく掬い上げられ、簡潔な文章で表現されねばなりません。
 その作業において、複数のラベルの〈志〉がたった一つの「表札」として統合されるためには、「複数ではない、実は一つの〈全体〉なのだ」と把握し直し、その〈全体〉のど真ん中を「短歌一首ひねり出すような気持ちで」まずは表現し、最終的にはそれを推敲して精度の高い文章として完成させるといったプロセスが必要です。
 この「複数の質」が「たった一つの質」へと変換されるところにKJ法の発想の醍醐味があるのですが、川喜田二郎がその核心、つまり最終的な推敲前の概念の形成を「短歌づくり」とたとえたのは味わい深いことです。
「短歌一首ひねり出すような」は「軽い気持ちで」という意味ではなく、複数のラベルたちによって形成された〈全体〉をもれなく圧縮してもう一つの〈全体〉を創造するという意味であり、そこを「短歌づくり」と呼んだのは、「短歌」という文芸が「長歌」の要約として出発したことを想起させる適確なネーミングです。
 主に万葉集にみられる「長歌」は、五音・七音のセットが何セットか連ねられたあげく、最後を七音で締める形式ですが、その「長歌」のリズミカルな連なりが現出するコスミックな自然や讃えるべき御代(みよ)への寿ぎの時空間を、もれなく象徴的に圧縮するところから「短歌」の五・七・五・七・七という形式は出発しています。
「長歌」は間もなく衰退したのに対して、「短歌」という形式がそれよりもはるかに永く生き続けたのは、安田靫彦の言う、「調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現わしたものよりも、その中の決定的な一本の線で現わしたものを尚(とうと)びます。」という日本人の遺伝子のせいかもしれません。
 川喜田二郎の創案したKJ法にも、その日本人らしさが横溢していると言えましょう。
 複数の質が一つの質へと変換されるとき、たとえるなら「決定的な一本の線」によって他の線が棄てられたり殺されたりするのではなく、すべての線の意味を、一本の線が象徴的に担うことができるのだ、という発想の妙味の実現によって素晴らしいカタルシスが得られます。それを味わう者も、その「一本の線」の決断力に、豊饒な創造性のドラマを看取することができます。
 
 日本画における伝統的な「線」にも、西洋近代が実現してきたリアリズム的な表現様式とは全く異質な奥ゆきがあったであろうとおもわれます。
 近代を受容してゆく中で、当然、この「線」は新たな目線で問い直されることになります。
 明治30年代には、日本画の世界では、菱田春草らが「朦朧体」とよばれる技法を試みて話題になります。
 日本画の伝統である「線」をあえて消し去り、朦朧とした輪郭の無い世界が広がる画面に賛否が渦巻きました。この試みもまた、世界へのまなざしをどのように紡ぎ出すかについて、「線」へのこだわりがあればこそ生み出されたものであったかもしれません。
「線」によって限られた輪郭というものによって、私たちは他と区別されるわけですが、そのことの意味をどのように表現することがこの世界をより豊かにとらえることになるのか、狂おしいほどの葛藤が当時の表現者たちにはあっただろうとおもわれます。
「線」は、象徴的に全体を担うのか、それとも存在を全体から切り離して近代的な「個」として屹立させるのか、あるいは、「個」であることが存在を矮小にしてしまうのか。
「線」を近代的な形で研ぎ澄ます方向へ向かう者、伝統的な「線」にこだわり続けることで逆説的に近代であろうとする者、「線」を否定することで伝統的な「型」を超えた日本画の表現を模索する者、いずれにおいてもこの世界への「まなざし」が問われていたのであり、そのような問いによって表現が成就していた時代に懐かしさをおぼえます。
「線」を問うことは「線」を「線」たらしめているものへのまなざしを問うことだったのであり、〈存在〉を〈存在〉たらしめているものが根底から揺さぶられた近代化の過程で生み出された表現には、揺さぶられたことの葛藤や傷痕も含めて味わい深いものが多々あります。
 
 KJ法には、言葉の「象徴性」という機能を有意義に使う姿勢が欠かせません。そのことが世界へのまなざしを豊饒なものにするように、この方法には、存在への奥ゆきのある認識が丁寧に埋め込まれています。一つのラベルを一つの〈志〉を持つラベルたらしめているものへの信頼。その信頼に根差した言霊(ことだま)としての「表札」が、真の〈個〉として屹立する過程こそ、KJ法の核心部であるとも言えましょう。
 この方法の意義が実現されたとき、どこか懐かしくてしかも身がひきしまるのは、この核心に触れたせいだと気づいていただけるなら、とても幸せな想いがいたします。




JUGEMテーマ:批評
JUGEMテーマ:日記・一般

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM