はなびらと水のあはひの光かな

  • 2018.03.30 Friday
  • 18:57

 はなびらと水のあはひの光かな  眞鍋呉夫

 

 この季節になると、想い出す一句です。

 満開の桜の枝が川面や湖面に伸びて、水に触れるか触れないかで揺れている。風次第で水に触れたり触れなかったり。そんな風景を見るたびにこの句が浮かびます。

 

 

 しかしこの句を、具象的な風景としてだけ味わうのはもったいなくおもいます。

 読み手次第でさまざまな象徴性を喚起されるでしょうし、映像が浮かぶにしても具象画のようであったり抽象画のようであったりするでしょうし、実に多彩な喚起力を秘めた一句とおもわれます。

 一句の感動の焦点は「光」。この「光」が、何と何の「あはひ」にあると想い描くのか、それは「はなびら」と「水」を何の象徴と感じるか次第でしょう。

 きわめて具象的に、水面に伸びた枝先の花びらと水の、その「あはひの光」を想い描くもよし、桜の花びらという薄紅で半透明のものと、水という透明なものとの「あはひの光」として想うもよし、はかなく散る花びらと、永遠性をイメージさせる水の流れとの「あはひの光」でもよし、個的な輪郭を持つ花の命と輪郭の融けた類的な貌を持つ水との「あはひ」でもよし。明晰さと混沌、創造と破壊、生と死、現世の肉体と他界の魂。

 さまざまな二元的対立が重なって見えます。

 多彩な鑑賞が可能な句ですが、ただこの句には、作者が「はなびら」だけを生きているのでもなく、「水」だけを生きているのでもなく、その両方を生きている、という匂いがします。「あはひ」は、どちらでもない場所のことではなく、どちらでもあるような「あはひ」であり「光」ではなかろうかとおもわれます。

 

 たとえるならば、この「あはひの光」を、「はなびら」でもなく「水」でもないと把握するのは、西欧近代的な「分析的」解釈であり、「はなびら」でもあり「水」でもあると感受するのはKJ法的な世界観であろう、とおもわれます。

 

 私たちが何らかの幸福感に浸されるときというのは、想えばこのような「はなびら」と「水」の両方を生きているときかもしれません。

 

二人なのにひとつであるとき。

個なのに類であるとき。

孤独の中に深い充足感をおぼえるとき。

日常なのに非日常を感じるとき。

細部にこだわっているのに全体がきちんと機能しているとき。

離れているのに側にいるとき。

自分一人の想いなのに他者に伝わるとき。

自分の肉体の呼吸が宇宙(コスモス)の呼吸とつながっていると感じるとき。

初めて会ったのに懐かしいとおもうとき。

我を忘れるとき。

他者の視線が気にならないとき。

自分の存在の「意味」に形が与えられたとき。

為すべきことが身体の深奥から迷い無くこみ上げてくるとき。

世界が自分に微笑んでいると感じるとき。

自分の行為や表現に不可視のはからいがやさしく力強く働いていると感じるとき。

めぐり逢うとき。

蘇るとき。

 

 干からびた世界風景を強いられて「水」からはぐれてしまいますと、このような幸福感への飢渇も、ときに病理として暴走しかねないものです。

 そのようなあやうさと背中合わせの〈現在〉ですが、あくまで「はなびら」を生きることで、その「はなびら」の〈生〉を支えてくれている「水」の気配に気づく契機があるならば、そこに命の華やぎとしての「光」が生まれるようにおもわれます。

 

 赤ん坊の目が開き、初めてこの世界の風景に触れるときというのも、その風景はきっとまだこの「水」の気配を半ば可視的なくらい存分にまとった「はなびら」のようなものではなかったかと、眼前の桜を見ながら、記憶の底をまさぐるような気持ちにもなります。

 

 

 

 

 

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眉間に皺など寄せるな

  • 2018.02.26 Monday
  • 21:59

 KJ法は美しい方法です。

 美しくて温かみがあり、自分がこの方法を駆使したとき、自分を超えた〈天〉によって駆使させられたような、澄んだ解放感をおぼえます。

 

「眉間に皺など寄せるな」というのは、創案者である川喜田二郎の言葉で、「狭義のKJ法」における「グループ編成」で、ラベルたちに「表札」をつけるときの心構えとして発せられたものですが、この方法全体が私たちに語りかけてくる思想にも、いつもこの言葉が潜んでいるように感じます。

 

「表札」をつけるということは、複数のラベルを統合する文章を考えることであり、元になるラベルたちと同じ大きさのラベルに「表札」を記しますので、そこでただの「足し算」をしたり「ストーリー」を作ったりしていては、同じ大きさのラベルに収まりません。

 なんらかの仮説発想なり抽象度のアップなり本質追求なりといった適切な「飛躍」あるいは「止揚」がなければよい「表札」とは言えません。

 たとえば目の前に今から表札をつけようとする2枚のラベルがある時、いつまでも目の前に「2枚のラベルがある」と認識していると、ついつい言葉の表層だけで「足し算」的なつなぎ方をしてしまいます。

 そこで、2枚ではない、実は一つのことを言いたがっているのだ、その一つのことって何だろう、と「点メモ」を繰り広げながら、「2枚ではなく、一つの〈全体〉」をそこに展開してみます。〈全体〉がわかってきたら、粗くてもよいので「短歌」一首ひねり出すような気持ちでその〈全体〉を圧縮して表現し、さらに推敲して「表札」としての文章を整えます。

 この「2枚ではなく、実は一つの〈全体〉なのだ」、という風に発想できるかどうかが、「表札」の成否を決めるといってもよいのですが、ラベル個々の細かなニュアンスにこだわりすぎて「飛躍」ができずに「足し算」をしてしまう人もいれば、細部の異質さを切り捨てて粗雑に一つの箱に放り込むような「分類」的目線に陥る人もいれば、片方のラベルで他方のラベルを「解釈」して強引なストーリー作りをしてしまう人もいます。いずれも正しく「止揚」できていないわけですが、どれもやってはいけないと言われると、眉間に皺が寄ってしまう。

「眉間に皺など寄せるな。」

 こんな楽しい行為はないではないか、という川喜田二郎の声が聴こえてきます。

 近いけれども異質な複数のものを同時に視野に収めると、人は生き生きと発想しないではいられない生き物なのだ、というこの方法の発想力を支える認識が、使い手を豊かな創造性の沃野へと誘ってゆきます。

〈全体〉と〈個〉を往還するうちに、人は自然と〈個〉に〈志〉を感受するようになる。つまり、個々のラベルが、全体にとってなにかしらシンボリックな訴えかけを持っているように感じ始める。この感受の仕方にこそ、「渾沌をして語らしめる」というKJ法の本質が潜んでいます。

〈個〉と〈全体〉との関係が刷新されることで、私たちの世界観も刷新されます。

 まずい「表札」のように、どちらも「同じだ」といった平準化や、ゆるい仲間意識へのもたれかかりや、相手の都合のよいところだけを切り取って己れの我のために利用するような、濁った関係意識や世界観を超える方法でもあります。

 そのための、「眉間に皺など寄せるな」。

 

 方法の温かさ・優しさは厳しさでもあり、人の我欲を超えてゆく技術でもあり、最終的に東洋的な美観を呈する、澄んだ世界観に裏打ちされています。

 

 

 

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忘却と復活

  • 2018.01.31 Wednesday
  • 20:31

 

「見られている」ことに気づくのでしょうか、野鳥にカメラを向けますと、ずいぶんと離れているのに、ぱささっと飛び立たれてしまうことがよくあります。

 

 

 写真の腕が未熟な私にとって、「萌え。」と思える瞬間の姿を撮影することができるのは、その「ぱささっ」よりも早くシャッターを押せる場合、あるいは、「撮るぞ」というこちらの気合いを野鳥に気取られないで落ち着いて構図を定めてシャッターを押せる場合、あとは、まぐれ。いずれかといったところです。しょせん、デジカメのオート機能に頼った素人の技ですけれども。それでも少しずつ、風景を撮るこつのようなものが身についてきた気もいたします。野鳥も含め、風景が「撮らせてくれる」瞬間をつかむ、といった感触でしょうか。

 

 私たち人間も、背中に目があるわけではありませんが、今、背後から、あるいはかなり遠くから、誰かに「見られている」と気づくことがあります。こういう人類の能力は、おそらく退化の一途をたどっているのでしょうが、3歳までの子どもは、後ろから振り下ろされる棒を自然に避けられる、と聞いたこともあります。大人になるにつれて失う能力でもあるようです。

 

 霧芯館の受講者である作業療法士さんのお一人とメールでやりとりしていたとき、「“相手のことを考えていたらメールが来た”現象」というものについて盛り上がったことがあります。お互いそれはよく経験する、という話から、この現象は、そもそも人に備わっていたはずの「見られていることに気づく」能力が、近代化とともに使いどころを失くし、ついに昨今のIT社会において「相手が今、自分に向かってメールをうっていることに気づく」能力として奇妙な特化を遂げて噴き出している姿なのではないか、といった文明論に。ことに、女性はこの能力が高いのだとか。

 

 KJ法をもし難しいと感じるならば、その困難さは、同じような「能力の忘却」に根ざしているかもしれません。

 個人が個人として何もかも完結していて、他者や世界と非合理的なつながり方などしていない、と考える限り、実はKJ法はなかなか上達しません。

「何だか気にかかる」ラベルをピックアップして、と言いましても、「気にかかる理由・根拠」を明晰にする癖がついていますと、「根拠がはっきりしない」ラベルへのアンテナが働きにくくなります。「ラベル達が言いたがっていることを聴き届ける」といったKJ法らしさの実現も、ラベルへの分析・解釈・分類に慣れてしまった思考パターンでは一苦労であったりします。

 このKJ法の作業への不全感は、〈全体〉を見失い、個々に分断されたものとしてしかラベルを見ることができず、主体と客体もまた分断されたものとして、ラベルをただの操作対象としてしまう世界観から発しています。

 全体感を背景として、個々のラベルの訴えかけを象徴的に感受する能力。それを「忘却」しているにすぎないのですけれども。決して、そのような「能力が無い」からKJ法など無理、というわけではなく、思い出そうとおもえば、誰でも思い出せる能力のはず。

 この能力を思い出すことは、〈世界観〉を根こそぎ変容させることになります。

 KJ法が「誰でも使える方法である」ということの真の意味は、この、忘却した世界観、忘却した能力を思い出せるならば「誰でも」、ということなのです。決して「簡単だから」、ではありません。

 そして、一度思い出せたなら、もはや簡単か難しいか、といったことは気にならなくなってしまう方法でもあります。方法に強いられ、ラベル達に強いられ、おのずと発想せざるを得ない、素直で我執のないプロセスを自然に歩んでいる自分の集中力に気づくとき、こんこんと湧き上がる「〈世界観〉の変容」という泉に身を浸していることに衝撃を受けます。

 

 私の「野鳥の撮り損ね」も、技術以前の問題として、野鳥と野鳥を取り巻く風景に対して「我」が発動してしまい、やすやすと気合いを悟られてしまっている、ということも言えそうです。

 

 2018年も、世界観に磨きをかけ、風景とのみずみずしい交感の瞬間を写真でお届けできればとおもいますし、霧芯館の研修を受講される方々にも、世界観変容の衝撃を、忘却した能力の復活を、さわやかに体験していただけるよう、精進してまいりたいとおもいます。

 

 

 少しおぼろですが、今日は満月。もうすぐ皆既月食の始まりです。

 

 

 

 

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2017年を振り返って

  • 2017.12.28 Thursday
  • 18:26

 

 今年も霧芯館にたくさんの方々をお迎えし、KJ法とその世界観に、じっくり触れていただきました。

 受講された方々を対象に開催しております夏・冬のワークショップでは、「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマでグループKJ法に取り組んでいただき、〈現在〉の抱えている課題を浮上させてまいりました。

 その中で、今年もさまざまな領域の方々と触れ合い、さまざまな現場の匂いを臨場感をもって味わう体験をさせていただくことができました。

 

 いずこの現場でも、「今の学生は」とか「今の新人は」といった嘆息が、人を育てる側から聞かれます。その嘆息の内訳のとんでもなさは目を白黒させるくらいで、こういう学生が現場に出たらどうなるんだろう、と、特に医療現場に出てゆく看護師育成の現場のお話には不安をおぼえたりします。そこには、昨今話題の「毒親」の影がつきまとっていたりもするようで、一朝一夕で若者を一人前には出来ない、根深い病理に誰もが疲弊しているのを感じます。

 それでも、育てる側の方々の、困惑しながらもしびれを切らすのではなく、学生の強みをどうすれば現場で生かせるのかと、アプローチの仕方を模索し、日々奮闘しておられる様子には頭が下がります。

 若手にKJ法でグループ作業をさせてみたところ、思いがけない集中力と粘りを発揮し、深い手応えを得られた、といったご報告を、しみじみ嬉しく感じたこともあります。

 あきらめない方々が、困惑と嘆息を乗り越えて、若者の内に秘められていたものに触れておられる気配を、間接的ですが私も深く吸い込ませていただきました。

 

 KJ法の修行の機会を、と毎年ワークショップを開催しておりますが、この修行にハマってくださる方も年々増えて、今年も夏・冬ともに盛況でした。KJ法の修行は厳しいけれども楽しいものだということに気づいていただくのが、主催者としての最大の狙いです。

 KJ法に出会う前と後では、世界風景が違ってみえる。

 そう思っていただける人を、今年もじわっと増やせたのなら、私にとって良き一年であったと振り返ることができます。

 

 日々、KJ法で風景を更新し続けておられる方々も、今年初めてKJ法で風景が変わった方々も、どうぞ良いお年をお迎えください。

 


 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ 2017 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 21:51

霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 18:41

 さる12月16日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 

 8月に行われた夏のワークショップにおいて、今年は「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマで参加者によるディスカッションがあり、数百枚のラベルが提示されていたわけですが、冬の参加者には、そこから私がピックアップしておいた70枚を事前によく味わってきていただき、「其ノ二」当日はチーム毎に20枚のラベルを精選し、「狭義のKJ法」で構造化していただきました。

 

 今回のテーマにおける〈違い〉は、本物であるかどうか、自分が求めていたものであるかどうか、質か良いかどうか、といった意味に限定したのですが、そのことで、〈価値〉をめぐる私たちの判断の質をあぶり出したいというのがねらいでした。

 このテーマでKJ法にまっとうに取り組みますと、それぞれの〈価値観〉をぶつけ合うことにもなります。日頃、互いの価値観には触れないでおこう、相手を尊重しよう、自分と違う価値観にはそっと目をつぶろう、といった柔和で微温的な距離感で生きていたとしても、この日ばかりはそうも言っていられない、といった状況になりかねないことを少しばかりどきどきしながら期待していたのですが、この「そうも言っていられない」は素敵な形で実現致しました。

 時間内に図解を完成させるべく、各チームでメンバーが一丸となる必要に迫られたとき、異質極まりないラベル達が、メンバー全員の合意のもとに統合され、構造化され、本質を浮上させるプロセスにおいて参加者の発していた熱気は、半端なものではありませんでした。

 穏やかで口下手な人だけど大丈夫だろうか、自己主張の強い参加者に牛耳られてしまわないだろうか、世代や背景が違い過ぎてすり合わせられないのではないだろうか。そういう不安は吹き飛んでしまいました。

 誰一人無口な人はおらず、初対面同士をも含むメンバーで、おそらくは同じ職場や生活圏内での関係においては突っ込んだこともないような実存的な問いや本質的な課題をラベル群の奥に感じ取って、まっすぐやりとりしている風景というのは、一種異様な「ハレ」の空気感、お祭りのような非日常性が躍動していました。

 

 本物探しは実は自分探しの旅なのだという把握、本物を追求する・しないの〈揺らぎ〉からスタートして本物へと成長するドラマ、本物と偽物が共存する世界で揺さぶられる私たちの振れ幅の大きさ、リアルにもファンタジックにも人を変える力をもつ泰然とした本物、持続性と独創性を秘めてこその本物、カオスから本物を浮上させるドラマ、といった、異質な構造化が出そろったのですが、いずれの図解にも、〈本物〉が課してくる厳しさへの憧憬とかすかな不安が滲んでいたようにおもいます。

 

 私が事前に作成してきた、70枚全てを使った図解も披露いたしましたが、図解タイトルは「厳しさが優しさであるように」というものでした。

 存在として〈本物〉であろうとすることも、〈本物〉を見きわめることも、実に厳しい試練にさらされますし、他者にわかってもらえない孤独な追求です。本物にこだわらなくてもいいじゃないか、という気持ちに安らぎたい自分もいます。その両者は相反するように見えますが、一度〈本物〉に出会ってしまうと、世界風景は一変するのであり、〈厳しさ〉は〈優しさ〉でもあるといった境地に突き抜けてしまうようです。恋に落ちて世界風景が一変するように、厳しいのか優しいのか、そんな区別すらどうでもよくなってしまう。後戻りのきかない風景の激変を、〈本物〉は誘います。

 

 各チームの図解にも、そういう風景激変の瞬間が必ず封じ込められていて、誰もがこの日の作業を通して、その本質にしっかり触れておられたのを感じることができました。

〈本物〉のKJ法の作業は、ことのほか人をそういう境地に追い込むものです。

 妥協の無いラベルの統合をしたくて悶々としながら、その厳しい時間をこの上なく楽しんでいる自分がいる。KJ法的至福の時間に全身浴しているみなさんの顔を見ながら、私も幸せな時間を過ごすことができました。

 

 

 

 

 

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紅葉の気持ち

  • 2017.11.30 Thursday
  • 13:16

 毎年、夏と冬に「霧芯館KJ法ワークショップ」を開催しておりますが、ここで提示された参加者のみなさんのラベルは、私の中で繰り返しシンボリックに顕ち上がってきます。

 

 これまで、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」「変容の本質―現場が変わる瞬間―」「“寄り添い”の哲学」「〈リアル〉の手触り」「〈闇〉の居場所」「〈初対面〉のラビリンス」そして今年は「〈違い〉がわかる瞬間」といったテーマで取り組んでまいりました。

 夏に「パルス討論」というディスカッションによって提示されたラベル達から、私が70枚をまずピックアップしておき、冬のワークショップでは、そこからさらにチームごとにラベルを精選して「狭義のKJ法」に臨む。このスタイルを続けることで、それぞれのテーマごとに珠玉のラベル達が生み出され、珠玉のKJ法図解が完成してきているのですが、図解が完成し、ラベルの〈志〉がその図解の中で明晰に位置づけられたとしても、不思議なことにそもそものラベル個々に対するシンボリックな感受が狭くなるわけではありません。

 印象深いラベル達は、その後も私の中で密かな場所を占め、折あるごとに意識に浮上して、実体験と私の無意識とを鮮烈に架橋してくれたりします。

 

 辛い時や困った時に浮上するラベルは、どちらかというと私の内部には無かったもので、私の欠落を補ってくれるように登場することが多いようにおもいます。

 たとえば、「変容して行くものを、していかないような気持ちでいると、相手も自分も行き詰まる。」などは、自戒の言葉としてしばしば鋭く機能してきましたし、人間関係が難しく頭に血が上りそうな時などは、「自分と相手の関係の『あいだ』で起きていることを見つめることが必要だと思う。」といったラベルでクールダウンできたりします。

相手に泣いてもらった。」は「“寄り添い”の哲学」の時のラベルですが、他者の抱えている〈闇〉にうろたえない覚悟を今一度想い起こさせてくれます。

 

本物とにせ物のわずかな差を感じわけることができる時がある。」などは、逆に、いつもそういう「差」に嗅覚を研ぎ澄ますようにしているので共感できるラベル。

 

明るい夜のコンビニの店先は本当はまっ暗な闇である。」は、コンビニの前を通りかかるたびに思い出します。これはリアルな「明暗」のこと以上に、そしてコンビニという場所を超えて、〈光〉だらけの〈現在〉の風景が隠し持っているものを想像させるラベルで秀逸。実際の風景がリアルに顕ち上がりつつ、実にシンボリックに作用するラベルです。

 

一度すみついたら出ていってくれない。」これも「〈闇〉の居場所」で出されたラベルですが、人の心のしみじみと怖くて切ない空間を想起させ、現在の社会に蔓延する病理や孤独の形がゆらめくようです。

 

TAXIの運転手と話がはずむことが多い。」これは「〈初対面〉のラビリンス」でのラベルですが、最近、タクシーを利用する機会が立て続けにあったことで、納得のゆくラベル。「その場限り」という関係の気安さで、運転手さんから随分と楽しいお話をたくさん聴くことができて、タクシーの中、という特殊な空間でほぐれるもののことを考えさせられました。

 このラベルは、「金沢@石川では、地元出身でない者は、“旅の人”と称される。」「ネット上の架空の関係は、一度も対面すらせずに進展してゆく。」というラベルとセットになって、私の図解では〈ゆきずり・旅の人・架空といった関わり方が、関係の永続性・直接性へのこだわりを揺さぶる。〉という表札となり、さらに他のラベル群との統合を経て、《〈初対面〉は、関係の自由・不自由という両極を意識させることで、世界観を揺さぶる。》という表札となったのでした。〈初対面〉というものが、自由でありたいという気持ちと、関係の「逃げられなさ」「拒めなさ」という両極を意識させ、この世界を縛られないものとして感受するのか、拒めないものとして感受するのか、それぞれのとらわれを強く揺さぶるのだということを、ラベル達は訴えかけていたわけです。

 

 

 

初めて会う犬に必ずほえられる。」これも、犬に出会うたびに思い出すのですが、やはり犬という事例を超えて、誰もが持ち合わせている自他の異質さへの嗅覚や不安といったものをシンボリックに意識させます。

ねこカフェで〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる。」これは、ねこカフェならずとも、昨今のネット上のコミュニティーについても言えること、共通項があることで安心して盛り上がれる関係性を想起させます。この共通項の背後に、実は異質さへの不安も透けて視えそうです。

「『ひとめぼれ』という現象がある。」人や風景との「ひとめぼれ」がなぜ起こるのか、相対的な吟味を超えた出会いのたびに、このラベルも浮上いたします。

 

 こうやって振り返ってみますと、参加者のみなさんのKJ法修練のために、と、毎年〈現在〉の課題に鋭くクロスするテーマを設定してまいりましたが、私自身も日々の〈関係〉を通して、それぞれのテーマの意義や個々のラベルの象徴性を問いなおす作業を楽しみ続けており、いつまでもいつまでもラベル達が私に寄り添ってくれている、といった印象があります。参加者の生活のひとコマから掬い上げられた珠玉のラベル達に、日常を、関係の困難さを、染め直してもらえていることに感謝の念が湧いてきます。

 

 今年も鮮やかな紅葉を見ていますと、人間だけではなく樹木も、もしかしたら光や風や雨、人も含めた周囲の気配というものを、シンボリックに感受しながらその身を彩っているのかもしれない、という気がしてきました。

 さらっと時雨れた後に産まれた虹によって七色に身を染められた山肌も、己れを取り巻く世界の象徴としてこの虹を官能的に感受し、魂を震わせ、色づき方を択んでいるようにもおもわれます。

 

 

 

 

 

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京の秋5選

  • 2017.10.29 Sunday
  • 23:01

 今月は、写真のみ更新します。

 お楽しみいただければさいわいです。

 

 

少し濃密な色が珍しい萩の花。

 

 

ズームで撮影した比叡山の山肌。

こういう山肌を這う霧の感触を想像するのが大好きです。

 

 

おぼろな満月。妖しさ全開。

 

 

実りの秋。

 

 

なんの変哲もないアスファルトの歩道上のエノコログサですが、秋めいた光と闇の交錯が美しく感じられました。

 

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泥まみれの神様

  • 2017.09.30 Saturday
  • 19:10

 

 沖縄県宮古島に「パーントゥ」という奇祭があるそうです。

 泥まみれの三体の神様=パーントゥが集落を練り歩き、誰彼かまわず泥を塗りたくってゆくのだとか。お年寄りだろうが子どもだろうが、新築の家だろうがパトカーだろうが、観光客だろうが女性だろうが、お構いなし。

 このパーントゥは、森の奥深くにある御嶽(ウタキ)という聖域(普段は神に仕える「ノロ」と呼ばれる者たちしか踏み入ることができない)で泉の泥を身にかぶってから集落に繰り出すようです。全身に蔓草をまとい、手に持った仮面で顔を隠して。

 写真を見ると、ちょうど宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」に似ています。

 人々は、パーントゥを怖がって必死で逃げ回りながらも、つかまって泥を塗りたくられると皆一様にうれしそうになる。新築の家では、パーントゥに「入ってもらわなかったら、困る」のだと。泥が魔除けになるそうです。

 

 小林紀晴『ニッポンの奇祭』(講談社現代新書)には、この「パーントゥ」の他にも、著者の生地である長野県諏訪の「御柱祭(おんばしらさい)」や、大分、宮崎、高知、埼玉、岩手、福島の奇祭が写真とともに紹介されています。

「御柱祭」はじめ、大分県国東市の火祭り「ケベス祭」、あるいは福島県相馬市の「相馬野馬追(そうまのまおい)」など、一つ間違えれば命にかかわる、怪我をする、といった緊迫感のある祭りも多く、著者がしばしば「度を超えている」と記すように、そこには私たち戦後の市民社会的、高度消費資本主義社会的な常識の枠をはみ出た人々の〈貌〉が活写されています。

 

「次第にあたりは暗くなってきた。パーントゥは途中で何度か差し添え人のような人が持ったバケツに入った泥を補充するように全身にかぶり、その度に息を吹き返すように元気になった。そして、再びアスファルトに泥をしたたらせながら、誰かを追いかけ、泥を塗りたくる。

 南の海から流れ着いたといわれている仮面をつけた怪物。神か、あるいは魔物か。どちらでもあるのかもしれない。その強烈な異物である存在が、現実に鋭く突き刺さっていく。これもまた古層に違いない。人々を追いかける姿に、さらに追われる人々の姿にそれを垣間見た。不思議なことに、追われ、泥を塗りたくられた人の表情には恍惚があった。世には怖いものが存在するということを知らしめる存在。おそらくパーントゥはそんな意味を持っている。それを私は畏れという名のつつしみだと感じた。

 すべてが終わるとパーントゥの身体、つまり泥だらけの蔓を編んだものは海に流されるという。パーントゥは森から生まれながら、かつて仮面が流れついた海に帰るのだ。」

 

 伝統だから守り伝えなければ、とか、学問として歴史や民俗の探究をしようとか、そういう身構えとは全く異質なものに駆り立てられて、祭りの写真を撮っている著者の息づかいが伝わってきます。ちょうど、祭りの中の人々を、「個人の意志を超えた何かに突き動かされている」と著者が感じているのと同じように。

 

「私は長いあいだ写真に過去は写せないと思い込んでいた。目の前のものを、今しか撮れないのが写真の大前提に変わりないが、それでも祭りを撮ることで、『遠い過去』も写せることを知った。/このとき、祭りを通して、『古層』を撮るという背骨みたいなものが見えた。」(「諏訪発、奇祭への旅」講談社:読書人の雑誌「本」2017年9月号より)

 

 洪水のように出版される新刊書には日頃あまり注意を払わないのですが、私どものところへお送りいただいた出版案内に、ふっとこの一節を見出して、心惹かれたのでした。

 

 写真を撮るという〈表現〉を通して、著者は、自身と、自身の生きるこの〈現在〉という時代の振幅を押し拡げたがっている。あるいは、存在の振幅の押し拡げられた〈貌〉を、〈現在〉や〈個人〉という輪郭のほどけた表情を、自我や社会の枠など蹴散らしてせり上がってくる時空のあり方を、自身を通して表現として定着させたがっている。「古層」とは、単に大和政権以前の縄文的なもの、という以上に、人を人たらしめている壮大な渾沌のダイナミズムに対して、人が今とは異質な大いなるつつしみを抱いて〈個〉と〈類〉のせめぎ合いを生きていた時代の世界観、とも言えましょうか。

 それを写したいという衝迫に、非常にシンパシーをおぼえました。

 著者は1968年生まれですが、諏訪の「御柱祭」を成長過程に刻み付けながら、農耕的なそして多分に狩猟民的な色合いの濃い民俗・信仰に包まれながら、同世代とはかけ離れた身体の〈記憶〉を抱え持ったことで、おそらく〈現在〉との激しいきしみに日々消耗感や異和感をおぼえつつ〈表現〉への契機を持ってしまった人物とおもわれます。

 

 観念的な伝統保護のスローガンや学的探究とは無縁の、生活者の切迫した〈表現〉として、祭りでしか見ることのできない「古層」の姿、〈個〉の〈類〉的な表情、自分以外の記憶の生々しさが追い求められていることに、懐かしさとともに現在的な鮮度をおぼえます。

 

 奇祭ではありませんが、霧芯館のある京都市のここ松ヶ崎にも新宮神社という氏神様を祀った小さな神社があり、秋は収穫祭が行われます。普段はひっそりしていますが、大祭は地元の人たちでにぎわう由緒ある神社です。地元の小学校四年生の女の子が巫女となって八乙女の舞を奉納するのですが、十数年前に一度だけ、当時三十歳前後だったでしょうか、ご神職の息子さんが前夜祭と大祭で、「陵王の舞」と呼ばれる舞を披露してくださったことがありました。

 見上げると、神木の梢に縁どられた空に、煌々と輝く満月。前夜祭ゆえ、巫女の少女たちとその家族くらいしか観る人がいない小さな境内で、この舞によって現出した時空間のことが、今も忘れられません。

 仮面とは妖しいもので、その場の空気を一変させてしまいます。

 勇壮だけど不気味でもある面と、手に持った金のバチ。そのバチの先ですっと顔を指されると、異次元の存在に強く自分が結び付けられてしまうのを感じます。

 何もかもが象徴的な意味合いを濃く帯びて、風景も観客の貌さえも彫りが深くなり、さっきまでの顔見知りとは違う人たちがそこに居ます。

 泥は塗りたくられませんでしたが、魂には、相貌を一変させた世界の陰翳が塗りたくられた気がしてなりませんでした。

 

 今年も十月末には秋の大祭。一期一会のあの「舞」の記憶が蘇ります。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 15:57

 

 去る8月5日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017」を開催いたしました。(於:京都テルサ)

 毎年、一つのテーマをめぐって、夏と冬の年2回のワークショップで、KJ法による問題解決の型を体験していただくのですが、今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」でした。

 このテーマ設定の趣旨は、以下の通りです。

 

今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」。本物かどうか。質が良いかどうか。求めているものかどうか。私たちは情報の海で溺れそうになりながら、あるいは情報が全く得られない時にも、対象の価値について判断を迫られることがしばしばあります。「本物・良質さ・適合性」といったものに辿り着くため、私たちはどのような方法・プロセス・基準・能力を採用し、「偽物・悪質さ・不適合性」と峻別するのでしょうか。上手く見極められた思い出、間違った痛い思い出。譲れないもの、こだわるもの、許せない違い。そういった〈違い〉を意識させられる瞬間について語り合っていただくことで、〈現在〉における価値をめぐる判断の質を問い直してみたいとおもいます。

 

 霧芯館の研修を受講された方とそのお知り合いを対象にしたワークショップ、今年も全国からお越しの多くの参加者によって、「〈違い〉がわかる瞬間」をめぐるディスカッションがチームごとに繰り広げられました。

 

 

「パルス討論」というKJ法の技法を用いて「探検ネット」という図解を作成することで、このテーマをめぐって360度の視角から参加者の想いが提示されるようにします。

 これらが「狭義のKJ法」によって緻密に構造化されるのは冬のワークショップにおいてなのですが、夏はまず、質のバラエティーが豊かに提示されることを目指します。

 今回も、魅力的なラベルをいくつかご紹介しましょう。

 

モノが壊れた瞬間、「これは安物だった」と思う。

危機にあった時も、いつもと変わらない態度をとりつづけられる人に信頼感を持つ。

非言語的コミュニケーションが違いをあぶり出すことがある。

「へ〜〜〜」と思わず声が出る時に本物と感じる。

楽しいと感じるときに、感性が鋭くなる。

ときにはにせものを楽しむこともありだと思う。

文章を読めば、コピペかオリジナルかの違いがわかる。

治療の姿勢で、医師の患者に向き合う姿勢がわかる。

通過儀礼で人が変わることがある。

シンプルな言葉が本物だと思う。

氏より育ち、とよく言われる。

化学調味料が本物を隠す。

添加物なしの自然なものを食べていると、味覚が敏感になる感じがする。

多数のファンが居なくとも、一人でもファンがいれば、本物になれる可能性が有る。

私も、誰か一人でも支持してくれれば、その人にとり本物になれるかもしれない。

飼い猫の態度で、我が家のヒエラルキーがわかる。

違いに気づく前後で世界が違って見える。

こだわりの違いに気づいてくれた時ほど嬉しいことはない。

ゾウキンのしぼり方で、その学生がどのように育ってきたかがわかる。

良いレポートは、読んでいて朱で線を引きたくなる。

電話相談員は、声だけでイタズラかどうかわかることがある。

「本物とわかる」と「ニセモノとわかる」は別々のメカニズムなように思う。

スキな人が言うことは、ニセモノを本物にしてしまう力がある。

ニセモノであることを言明しつづけ、努力している芸人は、本物をこえる。

経験を積むことで、アンテナが鋭くなる場合と、かえって鈍くなる場合がある。

ゴッホの作品を実際に見ると、筆圧や絵の具の厚みが見えて胸にせまってくる。

しゃべりすぎる人は「ホンモノ?」と疑ってしまう。

模写したら〈違い〉がわかる。

あえて知りたくない〈違い〉もある。

一流の人には色気がある。

白か黒か違いを決めつけないで、グレー状態に耐える力が必要だ。

フェイクファーでも着こなしで十分に本物に見える。

利き酒は、最初は分かるが、後半はどうでもよくなる。

愛よりお金、お金より愛、どちらも真実だなと思う。

「最後の1コ」をとるかどうかで人を判断する。

コピー文化が広がるからこそ、本物はわかりやすい。

専門家にしかわからない〈違い〉は尊重すべき。

逃がしてから気づく本物に、自分への失望感を抱く。

自分はあまり違いが分からない、と思うようにしている。

おみこしをかついだ時、リズムが合うと、慣れた人だけなんだーと思える。

本物は人にこびない。

ライブで、後ろのすみっこの席でも、感動をくれるアーティストにひかれる。

デマを拡散しないようにするのは、とてもエネルギーがいる。

人も物もニセモノは飾る。

本物は、普通になじんだ生活をしている。

関心がないと違いにも気づかない。

キラキラし過ぎる石は、逆に、ニセモノかと疑ってしまう。

メッキははがれる。

 

 今年は、単に「こんなことがあった」「こんな想いをもっている」という表現ではなく、ラベルを書くことでまさにその書き手の「価値観」がにじみ出るような、味わいのあるラベルが多かったようにおもいます。

 日ごろ、何を大切にして「択ぶ」「判断する」「決定する」といった事態に直面しているのか、1枚1枚にコクのある重みの手応えが感じられ、どのラベルも表情がしっかりしていました。

 これらのラベルが、参加者の中で渾沌のまま数か月持ちこたえられ、冬のワークショップにおいて構造化されることが実に楽しみです。

 

 みなさん、毎年とても楽しみにご参加くださいますので、私自身、一度でいいから、このワークショップを参加者として楽しんでみたいという気持ちがふつふつと湧いてきました。

 とはいえ、みなさんの楽しさを、会場の空気とラベルから感じ取ることで、私もかなり楽しんでいますので、とにもかくにも贅沢な1日を過ごすことができました。

 本物のKJ法とご参加のみなさまの本物の熱意に深謝。

 

 

 

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