霧芯館KJ法ワークショップ 2017 其ノ二〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 21:51

霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二

  • 2017.12.19 Tuesday
  • 18:41

 さる12月16日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017 其ノ二」を開催いたしました(於:京都テルサ)。

 

 8月に行われた夏のワークショップにおいて、今年は「〈違い〉がわかる瞬間」というテーマで参加者によるディスカッションがあり、数百枚のラベルが提示されていたわけですが、冬の参加者には、そこから私がピックアップしておいた70枚を事前によく味わってきていただき、「其ノ二」当日はチーム毎に20枚のラベルを精選し、「狭義のKJ法」で構造化していただきました。

 

 今回のテーマにおける〈違い〉は、本物であるかどうか、自分が求めていたものであるかどうか、質か良いかどうか、といった意味に限定したのですが、そのことで、〈価値〉をめぐる私たちの判断の質をあぶり出したいというのがねらいでした。

 このテーマでKJ法にまっとうに取り組みますと、それぞれの〈価値観〉をぶつけ合うことにもなります。日頃、互いの価値観には触れないでおこう、相手を尊重しよう、自分と違う価値観にはそっと目をつぶろう、といった柔和で微温的な距離感で生きていたとしても、この日ばかりはそうも言っていられない、といった状況になりかねないことを少しばかりどきどきしながら期待していたのですが、この「そうも言っていられない」は素敵な形で実現致しました。

 時間内に図解を完成させるべく、各チームでメンバーが一丸となる必要に迫られたとき、異質極まりないラベル達が、メンバー全員の合意のもとに統合され、構造化され、本質を浮上させるプロセスにおいて参加者の発していた熱気は、半端なものではありませんでした。

 穏やかで口下手な人だけど大丈夫だろうか、自己主張の強い参加者に牛耳られてしまわないだろうか、世代や背景が違い過ぎてすり合わせられないのではないだろうか。そういう不安は吹き飛んでしまいました。

 誰一人無口な人はおらず、初対面同士をも含むメンバーで、おそらくは同じ職場や生活圏内での関係においては突っ込んだこともないような実存的な問いや本質的な課題をラベル群の奥に感じ取って、まっすぐやりとりしている風景というのは、一種異様な「ハレ」の空気感、お祭りのような非日常性が躍動していました。

 

 本物探しは実は自分探しの旅なのだという把握、本物を追求する・しないの〈揺らぎ〉からスタートして本物へと成長するドラマ、本物と偽物が共存する世界で揺さぶられる私たちの振れ幅の大きさ、リアルにもファンタジックにも人を変える力をもつ泰然とした本物、持続性と独創性を秘めてこその本物、カオスから本物を浮上させるドラマ、といった、異質な構造化が出そろったのですが、いずれの図解にも、〈本物〉が課してくる厳しさへの憧憬とかすかな不安が滲んでいたようにおもいます。

 

 私が事前に作成してきた、70枚全てを使った図解も披露いたしましたが、図解タイトルは「厳しさが優しさであるように」というものでした。

 存在として〈本物〉であろうとすることも、〈本物〉を見きわめることも、実に厳しい試練にさらされますし、他者にわかってもらえない孤独な追求です。本物にこだわらなくてもいいじゃないか、という気持ちに安らぎたい自分もいます。その両者は相反するように見えますが、一度〈本物〉に出会ってしまうと、世界風景は一変するのであり、〈厳しさ〉は〈優しさ〉でもあるといった境地に突き抜けてしまうようです。恋に落ちて世界風景が一変するように、厳しいのか優しいのか、そんな区別すらどうでもよくなってしまう。後戻りのきかない風景の激変を、〈本物〉は誘います。

 

 各チームの図解にも、そういう風景激変の瞬間が必ず封じ込められていて、誰もがこの日の作業を通して、その本質にしっかり触れておられたのを感じることができました。

〈本物〉のKJ法の作業は、ことのほか人をそういう境地に追い込むものです。

 妥協の無いラベルの統合をしたくて悶々としながら、その厳しい時間をこの上なく楽しんでいる自分がいる。KJ法的至福の時間に全身浴しているみなさんの顔を見ながら、私も幸せな時間を過ごすことができました。

 

 

 

 

 

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紅葉の気持ち

  • 2017.11.30 Thursday
  • 13:16

 毎年、夏と冬に「霧芯館KJ法ワークショップ」を開催しておりますが、ここで提示された参加者のみなさんのラベルは、私の中で繰り返しシンボリックに顕ち上がってきます。

 

 これまで、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」「変容の本質―現場が変わる瞬間―」「“寄り添い”の哲学」「〈リアル〉の手触り」「〈闇〉の居場所」「〈初対面〉のラビリンス」そして今年は「〈違い〉がわかる瞬間」といったテーマで取り組んでまいりました。

 夏に「パルス討論」というディスカッションによって提示されたラベル達から、私が70枚をまずピックアップしておき、冬のワークショップでは、そこからさらにチームごとにラベルを精選して「狭義のKJ法」に臨む。このスタイルを続けることで、それぞれのテーマごとに珠玉のラベル達が生み出され、珠玉のKJ法図解が完成してきているのですが、図解が完成し、ラベルの〈志〉がその図解の中で明晰に位置づけられたとしても、不思議なことにそもそものラベル個々に対するシンボリックな感受が狭くなるわけではありません。

 印象深いラベル達は、その後も私の中で密かな場所を占め、折あるごとに意識に浮上して、実体験と私の無意識とを鮮烈に架橋してくれたりします。

 

 辛い時や困った時に浮上するラベルは、どちらかというと私の内部には無かったもので、私の欠落を補ってくれるように登場することが多いようにおもいます。

 たとえば、「変容して行くものを、していかないような気持ちでいると、相手も自分も行き詰まる。」などは、自戒の言葉としてしばしば鋭く機能してきましたし、人間関係が難しく頭に血が上りそうな時などは、「自分と相手の関係の『あいだ』で起きていることを見つめることが必要だと思う。」といったラベルでクールダウンできたりします。

相手に泣いてもらった。」は「“寄り添い”の哲学」の時のラベルですが、他者の抱えている〈闇〉にうろたえない覚悟を今一度想い起こさせてくれます。

 

本物とにせ物のわずかな差を感じわけることができる時がある。」などは、逆に、いつもそういう「差」に嗅覚を研ぎ澄ますようにしているので共感できるラベル。

 

明るい夜のコンビニの店先は本当はまっ暗な闇である。」は、コンビニの前を通りかかるたびに思い出します。これはリアルな「明暗」のこと以上に、そしてコンビニという場所を超えて、〈光〉だらけの〈現在〉の風景が隠し持っているものを想像させるラベルで秀逸。実際の風景がリアルに顕ち上がりつつ、実にシンボリックに作用するラベルです。

 

一度すみついたら出ていってくれない。」これも「〈闇〉の居場所」で出されたラベルですが、人の心のしみじみと怖くて切ない空間を想起させ、現在の社会に蔓延する病理や孤独の形がゆらめくようです。

 

TAXIの運転手と話がはずむことが多い。」これは「〈初対面〉のラビリンス」でのラベルですが、最近、タクシーを利用する機会が立て続けにあったことで、納得のゆくラベル。「その場限り」という関係の気安さで、運転手さんから随分と楽しいお話をたくさん聴くことができて、タクシーの中、という特殊な空間でほぐれるもののことを考えさせられました。

 このラベルは、「金沢@石川では、地元出身でない者は、“旅の人”と称される。」「ネット上の架空の関係は、一度も対面すらせずに進展してゆく。」というラベルとセットになって、私の図解では〈ゆきずり・旅の人・架空といった関わり方が、関係の永続性・直接性へのこだわりを揺さぶる。〉という表札となり、さらに他のラベル群との統合を経て、《〈初対面〉は、関係の自由・不自由という両極を意識させることで、世界観を揺さぶる。》という表札となったのでした。〈初対面〉というものが、自由でありたいという気持ちと、関係の「逃げられなさ」「拒めなさ」という両極を意識させ、この世界を縛られないものとして感受するのか、拒めないものとして感受するのか、それぞれのとらわれを強く揺さぶるのだということを、ラベル達は訴えかけていたわけです。

 

 

 

初めて会う犬に必ずほえられる。」これも、犬に出会うたびに思い出すのですが、やはり犬という事例を超えて、誰もが持ち合わせている自他の異質さへの嗅覚や不安といったものをシンボリックに意識させます。

ねこカフェで〈ねこ〉という共通項のもと穏やかに過ごせる。」これは、ねこカフェならずとも、昨今のネット上のコミュニティーについても言えること、共通項があることで安心して盛り上がれる関係性を想起させます。この共通項の背後に、実は異質さへの不安も透けて視えそうです。

「『ひとめぼれ』という現象がある。」人や風景との「ひとめぼれ」がなぜ起こるのか、相対的な吟味を超えた出会いのたびに、このラベルも浮上いたします。

 

 こうやって振り返ってみますと、参加者のみなさんのKJ法修練のために、と、毎年〈現在〉の課題に鋭くクロスするテーマを設定してまいりましたが、私自身も日々の〈関係〉を通して、それぞれのテーマの意義や個々のラベルの象徴性を問いなおす作業を楽しみ続けており、いつまでもいつまでもラベル達が私に寄り添ってくれている、といった印象があります。参加者の生活のひとコマから掬い上げられた珠玉のラベル達に、日常を、関係の困難さを、染め直してもらえていることに感謝の念が湧いてきます。

 

 今年も鮮やかな紅葉を見ていますと、人間だけではなく樹木も、もしかしたら光や風や雨、人も含めた周囲の気配というものを、シンボリックに感受しながらその身を彩っているのかもしれない、という気がしてきました。

 さらっと時雨れた後に産まれた虹によって七色に身を染められた山肌も、己れを取り巻く世界の象徴としてこの虹を官能的に感受し、魂を震わせ、色づき方を択んでいるようにもおもわれます。

 

 

 

 

 

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京の秋5選

  • 2017.10.29 Sunday
  • 23:01

 今月は、写真のみ更新します。

 お楽しみいただければさいわいです。

 

 

少し濃密な色が珍しい萩の花。

 

 

ズームで撮影した比叡山の山肌。

こういう山肌を這う霧の感触を想像するのが大好きです。

 

 

おぼろな満月。妖しさ全開。

 

 

実りの秋。

 

 

なんの変哲もないアスファルトの歩道上のエノコログサですが、秋めいた光と闇の交錯が美しく感じられました。

 

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泥まみれの神様

  • 2017.09.30 Saturday
  • 19:10

 

 沖縄県宮古島に「パーントゥ」という奇祭があるそうです。

 泥まみれの三体の神様=パーントゥが集落を練り歩き、誰彼かまわず泥を塗りたくってゆくのだとか。お年寄りだろうが子どもだろうが、新築の家だろうがパトカーだろうが、観光客だろうが女性だろうが、お構いなし。

 このパーントゥは、森の奥深くにある御嶽(ウタキ)という聖域(普段は神に仕える「ノロ」と呼ばれる者たちしか踏み入ることができない)で泉の泥を身にかぶってから集落に繰り出すようです。全身に蔓草をまとい、手に持った仮面で顔を隠して。

 写真を見ると、ちょうど宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」に似ています。

 人々は、パーントゥを怖がって必死で逃げ回りながらも、つかまって泥を塗りたくられると皆一様にうれしそうになる。新築の家では、パーントゥに「入ってもらわなかったら、困る」のだと。泥が魔除けになるそうです。

 

 小林紀晴『ニッポンの奇祭』(講談社現代新書)には、この「パーントゥ」の他にも、著者の生地である長野県諏訪の「御柱祭(おんばしらさい)」や、大分、宮崎、高知、埼玉、岩手、福島の奇祭が写真とともに紹介されています。

「御柱祭」はじめ、大分県国東市の火祭り「ケベス祭」、あるいは福島県相馬市の「相馬野馬追(そうまのまおい)」など、一つ間違えれば命にかかわる、怪我をする、といった緊迫感のある祭りも多く、著者がしばしば「度を超えている」と記すように、そこには私たち戦後の市民社会的、高度消費資本主義社会的な常識の枠をはみ出た人々の〈貌〉が活写されています。

 

「次第にあたりは暗くなってきた。パーントゥは途中で何度か差し添え人のような人が持ったバケツに入った泥を補充するように全身にかぶり、その度に息を吹き返すように元気になった。そして、再びアスファルトに泥をしたたらせながら、誰かを追いかけ、泥を塗りたくる。

 南の海から流れ着いたといわれている仮面をつけた怪物。神か、あるいは魔物か。どちらでもあるのかもしれない。その強烈な異物である存在が、現実に鋭く突き刺さっていく。これもまた古層に違いない。人々を追いかける姿に、さらに追われる人々の姿にそれを垣間見た。不思議なことに、追われ、泥を塗りたくられた人の表情には恍惚があった。世には怖いものが存在するということを知らしめる存在。おそらくパーントゥはそんな意味を持っている。それを私は畏れという名のつつしみだと感じた。

 すべてが終わるとパーントゥの身体、つまり泥だらけの蔓を編んだものは海に流されるという。パーントゥは森から生まれながら、かつて仮面が流れついた海に帰るのだ。」

 

 伝統だから守り伝えなければ、とか、学問として歴史や民俗の探究をしようとか、そういう身構えとは全く異質なものに駆り立てられて、祭りの写真を撮っている著者の息づかいが伝わってきます。ちょうど、祭りの中の人々を、「個人の意志を超えた何かに突き動かされている」と著者が感じているのと同じように。

 

「私は長いあいだ写真に過去は写せないと思い込んでいた。目の前のものを、今しか撮れないのが写真の大前提に変わりないが、それでも祭りを撮ることで、『遠い過去』も写せることを知った。/このとき、祭りを通して、『古層』を撮るという背骨みたいなものが見えた。」(「諏訪発、奇祭への旅」講談社:読書人の雑誌「本」2017年9月号より)

 

 洪水のように出版される新刊書には日頃あまり注意を払わないのですが、私どものところへお送りいただいた出版案内に、ふっとこの一節を見出して、心惹かれたのでした。

 

 写真を撮るという〈表現〉を通して、著者は、自身と、自身の生きるこの〈現在〉という時代の振幅を押し拡げたがっている。あるいは、存在の振幅の押し拡げられた〈貌〉を、〈現在〉や〈個人〉という輪郭のほどけた表情を、自我や社会の枠など蹴散らしてせり上がってくる時空のあり方を、自身を通して表現として定着させたがっている。「古層」とは、単に大和政権以前の縄文的なもの、という以上に、人を人たらしめている壮大な渾沌のダイナミズムに対して、人が今とは異質な大いなるつつしみを抱いて〈個〉と〈類〉のせめぎ合いを生きていた時代の世界観、とも言えましょうか。

 それを写したいという衝迫に、非常にシンパシーをおぼえました。

 著者は1968年生まれですが、諏訪の「御柱祭」を成長過程に刻み付けながら、農耕的なそして多分に狩猟民的な色合いの濃い民俗・信仰に包まれながら、同世代とはかけ離れた身体の〈記憶〉を抱え持ったことで、おそらく〈現在〉との激しいきしみに日々消耗感や異和感をおぼえつつ〈表現〉への契機を持ってしまった人物とおもわれます。

 

 観念的な伝統保護のスローガンや学的探究とは無縁の、生活者の切迫した〈表現〉として、祭りでしか見ることのできない「古層」の姿、〈個〉の〈類〉的な表情、自分以外の記憶の生々しさが追い求められていることに、懐かしさとともに現在的な鮮度をおぼえます。

 

 奇祭ではありませんが、霧芯館のある京都市のここ松ヶ崎にも新宮神社という氏神様を祀った小さな神社があり、秋は収穫祭が行われます。普段はひっそりしていますが、大祭は地元の人たちでにぎわう由緒ある神社です。地元の小学校四年生の女の子が巫女となって八乙女の舞を奉納するのですが、十数年前に一度だけ、当時三十歳前後だったでしょうか、ご神職の息子さんが前夜祭と大祭で、「陵王の舞」と呼ばれる舞を披露してくださったことがありました。

 見上げると、神木の梢に縁どられた空に、煌々と輝く満月。前夜祭ゆえ、巫女の少女たちとその家族くらいしか観る人がいない小さな境内で、この舞によって現出した時空間のことが、今も忘れられません。

 仮面とは妖しいもので、その場の空気を一変させてしまいます。

 勇壮だけど不気味でもある面と、手に持った金のバチ。そのバチの先ですっと顔を指されると、異次元の存在に強く自分が結び付けられてしまうのを感じます。

 何もかもが象徴的な意味合いを濃く帯びて、風景も観客の貌さえも彫りが深くなり、さっきまでの顔見知りとは違う人たちがそこに居ます。

 泥は塗りたくられませんでしたが、魂には、相貌を一変させた世界の陰翳が塗りたくられた気がしてなりませんでした。

 

 今年も十月末には秋の大祭。一期一会のあの「舞」の記憶が蘇ります。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 15:57

 

 去る8月5日、「霧芯館KJ法ワークショップ2017」を開催いたしました。(於:京都テルサ)

 毎年、一つのテーマをめぐって、夏と冬の年2回のワークショップで、KJ法による問題解決の型を体験していただくのですが、今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」でした。

 このテーマ設定の趣旨は、以下の通りです。

 

今年のテーマは「〈違い〉がわかる瞬間」。本物かどうか。質が良いかどうか。求めているものかどうか。私たちは情報の海で溺れそうになりながら、あるいは情報が全く得られない時にも、対象の価値について判断を迫られることがしばしばあります。「本物・良質さ・適合性」といったものに辿り着くため、私たちはどのような方法・プロセス・基準・能力を採用し、「偽物・悪質さ・不適合性」と峻別するのでしょうか。上手く見極められた思い出、間違った痛い思い出。譲れないもの、こだわるもの、許せない違い。そういった〈違い〉を意識させられる瞬間について語り合っていただくことで、〈現在〉における価値をめぐる判断の質を問い直してみたいとおもいます。

 

 霧芯館の研修を受講された方とそのお知り合いを対象にしたワークショップ、今年も全国からお越しの多くの参加者によって、「〈違い〉がわかる瞬間」をめぐるディスカッションがチームごとに繰り広げられました。

 

 

「パルス討論」というKJ法の技法を用いて「探検ネット」という図解を作成することで、このテーマをめぐって360度の視角から参加者の想いが提示されるようにします。

 これらが「狭義のKJ法」によって緻密に構造化されるのは冬のワークショップにおいてなのですが、夏はまず、質のバラエティーが豊かに提示されることを目指します。

 今回も、魅力的なラベルをいくつかご紹介しましょう。

 

モノが壊れた瞬間、「これは安物だった」と思う。

危機にあった時も、いつもと変わらない態度をとりつづけられる人に信頼感を持つ。

非言語的コミュニケーションが違いをあぶり出すことがある。

「へ〜〜〜」と思わず声が出る時に本物と感じる。

楽しいと感じるときに、感性が鋭くなる。

ときにはにせものを楽しむこともありだと思う。

文章を読めば、コピペかオリジナルかの違いがわかる。

治療の姿勢で、医師の患者に向き合う姿勢がわかる。

通過儀礼で人が変わることがある。

シンプルな言葉が本物だと思う。

氏より育ち、とよく言われる。

化学調味料が本物を隠す。

添加物なしの自然なものを食べていると、味覚が敏感になる感じがする。

多数のファンが居なくとも、一人でもファンがいれば、本物になれる可能性が有る。

私も、誰か一人でも支持してくれれば、その人にとり本物になれるかもしれない。

飼い猫の態度で、我が家のヒエラルキーがわかる。

違いに気づく前後で世界が違って見える。

こだわりの違いに気づいてくれた時ほど嬉しいことはない。

ゾウキンのしぼり方で、その学生がどのように育ってきたかがわかる。

良いレポートは、読んでいて朱で線を引きたくなる。

電話相談員は、声だけでイタズラかどうかわかることがある。

「本物とわかる」と「ニセモノとわかる」は別々のメカニズムなように思う。

スキな人が言うことは、ニセモノを本物にしてしまう力がある。

ニセモノであることを言明しつづけ、努力している芸人は、本物をこえる。

経験を積むことで、アンテナが鋭くなる場合と、かえって鈍くなる場合がある。

ゴッホの作品を実際に見ると、筆圧や絵の具の厚みが見えて胸にせまってくる。

しゃべりすぎる人は「ホンモノ?」と疑ってしまう。

模写したら〈違い〉がわかる。

あえて知りたくない〈違い〉もある。

一流の人には色気がある。

白か黒か違いを決めつけないで、グレー状態に耐える力が必要だ。

フェイクファーでも着こなしで十分に本物に見える。

利き酒は、最初は分かるが、後半はどうでもよくなる。

愛よりお金、お金より愛、どちらも真実だなと思う。

「最後の1コ」をとるかどうかで人を判断する。

コピー文化が広がるからこそ、本物はわかりやすい。

専門家にしかわからない〈違い〉は尊重すべき。

逃がしてから気づく本物に、自分への失望感を抱く。

自分はあまり違いが分からない、と思うようにしている。

おみこしをかついだ時、リズムが合うと、慣れた人だけなんだーと思える。

本物は人にこびない。

ライブで、後ろのすみっこの席でも、感動をくれるアーティストにひかれる。

デマを拡散しないようにするのは、とてもエネルギーがいる。

人も物もニセモノは飾る。

本物は、普通になじんだ生活をしている。

関心がないと違いにも気づかない。

キラキラし過ぎる石は、逆に、ニセモノかと疑ってしまう。

メッキははがれる。

 

 今年は、単に「こんなことがあった」「こんな想いをもっている」という表現ではなく、ラベルを書くことでまさにその書き手の「価値観」がにじみ出るような、味わいのあるラベルが多かったようにおもいます。

 日ごろ、何を大切にして「択ぶ」「判断する」「決定する」といった事態に直面しているのか、1枚1枚にコクのある重みの手応えが感じられ、どのラベルも表情がしっかりしていました。

 これらのラベルが、参加者の中で渾沌のまま数か月持ちこたえられ、冬のワークショップにおいて構造化されることが実に楽しみです。

 

 みなさん、毎年とても楽しみにご参加くださいますので、私自身、一度でいいから、このワークショップを参加者として楽しんでみたいという気持ちがふつふつと湧いてきました。

 とはいえ、みなさんの楽しさを、会場の空気とラベルから感じ取ることで、私もかなり楽しんでいますので、とにもかくにも贅沢な1日を過ごすことができました。

 本物のKJ法とご参加のみなさまの本物の熱意に深謝。

 

 

 

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霧芯館KJ法ワークショップ2017〜参加者のみ閲覧可〜

  • 2017.08.07 Monday
  • 15:08

刃の奥の光るまで

  • 2017.07.31 Monday
  • 15:09

 連日の猛暑。

 ブログも暑苦しくなく書くことができて、涼しく読んでいただけるのがよいかとおもい、今回はいくつかの夏の俳句、そして季節をちょっと先取りした秋の俳句を楽しんでみたいとおもいます。

 

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり   三橋鷹女

 

「夏痩せ」したことと、「嫌いなものは嫌いだ」という自己主張との「取り合わせ」が張りのある句です。

 俳句における「取り合わせ」は、「つかず離れず」が良いと言われます。つまり、あまりにも露骨な因果関係で密接すぎるのも良くないし、飛躍が大きすぎて、読者に連想を働かせることが出来ないのも良くない。ほどよい異質さが互いを引き立て合うのが良い。(ちょっとKJ法に似ています。近いけれども異質な、いくつかのものを同時に視野におさめると、人は発想しないではいられない、そういう楽しさを、俳句もKJ法も身にまとっています。)

 ですからこの句も、夏痩せしてでも嫌いなものは食べないといった好き嫌いではなく、人生観としての「嫌い」の一徹さを感じ取るのが面白いでしょう。

 夏痩せしているのに、作者の病的な面持ちは想像できず、むしろ背筋のしゃんと伸びた姿が想い浮かびます。

 

 水晶を夜切る谷や時鳥   泉鏡花

 

 水晶で細工物が作られるのでしょうか。「谷」という異空間に隠れ里のような幻想性の響き、しかもわざわざ「夜」切るという営みに、芸術的な孤独さが匂います。明治の文豪が、小説によって〈日常〉の奥にとびっきりの〈非日常〉を紡ぎ出す時空間を生きていた、その息づかいが「時鳥(ほととぎす)」の声と響き合ってしんしんと神秘的です。

 

 刃(は)の奥の光るまで研ぐ夕ひぐらし   上野さち子

 

〈日常〉の料理の道具としての庖丁を、夕暮れに研ぐことで、また次の日の〈日常〉の準備をする。その営みが、「ひぐらし」と取り合わせられることで、〈非日常〉の声を聴く営みに変容します。「刃の奥の光るまで」はつまり、庖丁なら庖丁の真の命、魂、そういうものが光るまで、研ぐ。日常的な営みとは別の場所に非日常があるのではなく、日常に徹することで日常が底光りし始める。それこそが、一如となった真の日常・非日常であり、〈生〉の底光る姿なのだと。鏡花の句と対比すると、対照的でもあり実は連続しているとも感じられて刺激的です。

 

 一条の激しき水や青薄   松本たかし

 

 潔さが魅力的な松本たかしの句です。

 まだ穂の出ない青々とした薄(すすき)は夏の季語。それをひとすじほとばしる激しい水に喩える鮮やかさ。写生が象徴に転じるときの醍醐味をずばりと感じさせてくれます。

 

 真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道   中村草田男

 

「降る雪や明治は遠くなりにけり」で有名な草田男の句ですが、大好きな句の一つです。

 今日では、「白痴」というだけで差別用語だ、などと騒がれそうですが、人々が共同体というものをベースにして生きていた頃の、常人ならざる魂の持ち主への、むしろおおらかな畏怖が感じられ、コスモロジーの広やかさを見せつける句だとおもうのです。

 あるいは、この作者(明治34年生まれ)においても既に、伝統的な共同体のコスモロジーからの乖離があり、その自意識がこういう句を作らせたのかもしれませんが。

 どの道を往こうか。

「秋の道」はもちろん、人生における岐路の象徴でありましょうが、「真直(ます)ぐ往け」と、白痴が指し示す。それを啓示として、おおらかに従う感受性は、私たちのこわばった世界観を解きほぐしてくれます。

 私たちは、岐路に立たされたとき、どんな涼しげな選択が出来るでしょう。

 

 旧暦ではもうすぐ秋。

 涼しげな魂で季節を楽しみたいものです。

 

 

 

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「ギャップ萌え」症候群

  • 2017.06.30 Friday
  • 17:28

「ギャップ萌え」という言葉があるようです。

 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。

 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマンティシズム等々がキャラとして設定・演出されたり、人間関係の中で垣間見られることで、「かわいい〜」「萌え」「きゅん死」をそそるというわけです。

 確かに上手く表現されればこれらのギャップの意外性は、「キャラが立つ」し、ドラマも盛り上がるし、現実の人間関係においても花も実ももたらすかもしれません。

 

 そういえば、とわが身を振り返ってみると、私自身も幼い頃から立派な「ギャップ萌え」症候群であったと、ふと気がつきました。

 

 以前も紹介しましたが、「少年少女世界の名作文学」というシリーズに読みふけっていた頃のお気に入りは、『赤毛のアン』や『スペードの女王』、『秘密の花園』、冒険活劇では『怪傑ゾロ』「アルセーヌ・ルパン」シリーズ、『巌窟王』等々。

 大貴族の腰抜けのどら息子、と周囲にも婚約者にも見せかけておいて、仮面をつけた「怪傑ゾロ」が胸のすくような勧善懲悪をやってのけるとか。

 アルセーヌ・ルパンがガニマール警部を手玉にとって秘宝を盗み出しながら、人殺しはせず女には優しい、とか。

『巌窟王(つまり、モンテ・クリスト伯)』の主人公が、無実の罪に陥れられて15年間も牢獄で暮らしながら、同じ牢に居た老司祭から知識と教養と宝のありかを授かり、脱獄後は別人となってかつての仇に復讐を果たしてゆくとか。

『赤毛のアン』のように、ファンタジー体質の主人公が、融通のきかないリアリストたちとの葛藤の中で、リアリストの内に秘められていた意外な衝迫や情愛を引きずり出すとか。

『秘密の花園』で、甘やかされて神経質でわがままで心身ともにこの上なく不健康だった孤児の少女が、ひきとられたお屋敷の「花園」を復活させる秘密を味わうことで、自分と周囲を蘇生させてゆくとか。

『スペードの女王』のように、現実を野心的にのし上がろうとしていた青年が、賭け事の魔力に翻弄されて身を滅ぼすとか。

 

 どうやら幼い頃から、「ギャップ」によって際立つ存在の意外性、人の想定外の振幅が浮上する面白さ・怖さというものに惹きつけられていたようです。つまり、実に立派な「ギャップ萌え」症候群であったと言えそうです。

 今もその症状は相変わらず。

「ギャップ」によって顕わになる人や世界の表情に触れることで、生きる活力が湧いてくると言ってもいいくらいです。

 なにしろKJ法も、異質な(つまりギャップのある)データを統合し、それらの本質に迫ってゆく方法ですし。完成したKJ法図解を見れば、自分や他者の想いもかけない発想や感受性や存在感に出会える、貴重な方法です。ありがたいことに、仕事もまた「ギャップ萌え」症候群の私にとってうってつけだったりするので、「萌え」の種にはこと欠かない生活であるかもしれません。

 

 昨今、このような「ギャップ萌え」に人々が意識的・自覚的になっているというのは、ある意味、人物像や関係における平板さへの抵抗、とも言えましょうが、少々不自然なものも感じないではいられません。

 ドラマのキャラ設定においても、ことさらなギャップの作り込みは、かえって説得力を失くし、ただ「狙っているだけ」という印象を与えるばかりでわびしいもの。

 現実の恋愛においてもわざとギャップを見せるといった計算は、なにやら小賢しい不自然なテクニックと思われます。

 メディアで露出された芸能人の日常に人々が過剰に群がるのも、無性にギャップに渇くせいでしょうか。

 

 平板な世界や平板な人物像が嫌、何かを取り戻したい、そういう気持ちがせり上がるのは無理からぬものがありますが、こまごまとその渇きを癒やすためにむやみに散らかっている「ギャップ」とそれに対する「萌え」には、奇妙に「安心したがっている」においがします。

 つまり、本来の世界の振幅の巨大さを恐れるあまり、日々、微細な「ギャップ萌え」で渇望をこまめに処理しておかないと危ないのではないか、と怖れているようにも見えます。

 そして、日常に豊かに潜んでいる「ギャップ」からは、かえって目をそらしているのではないか、ともおもわれます。

 日々、見慣れた風景や関係の中にも、壮大な「ギャップ」は潜んでいて、私たちに世界の振幅の大きさをきちんと伝えてくれているはずだとおもうのですが、そういう日常から目をそらし、現状を脅かす得体の知れない非日常からも目をそらし、浮足立った「萌え」だけが蔓延しているようにもおもわれます。

 

 表現においても生活においても、なにかしら本来の「幅」を失くしてうろたえているような。

 ここに足を踏んばればいい跳躍ができる、といった拠り所を失くしているような。

 この幅の中でだけ「ギャップ萌え」してね、と何かから強制されてでもいるような。

 なによりも、自分の内から失われた「ギャップ」を、ことさら外部に求めて痙攣的な刺激を消費・享受しようとしているような。

「ギャップ」を成り立たしめている不可知の渾沌にはフタをすることで、「ギャップ」によって世界をかえって狭く規定し直しているような。

 

 ただ分極しているだけ、ただ散らかっているだけ、といった「ギャップ」の深まらなさを超えて、蘇生した世界を見ることができれば、その世界の変容ぶりにはさぞ「萌え」ることだろうとおもわれます。

 

 

 

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「霧芯館 KJ法ワークショップ2016 作品・解説集」完成

  • 2017.05.28 Sunday
  • 12:40

 昨年開催致しました「霧芯館 KJ法ワークショップ 2016」の「作品・解説集」が完成の運びとなり、参加者のみなさまに成果をお届けすることができました。

 毎年、一つのテーマをめぐって「パルス討論」による「探検ネット」の作成、「多段ピックアップ」を経て「狭義のKJ法」という一連のグループ作業を行ない、夏と冬の二回で完結する物語を体験していただいています。

 2016年のテーマは「〈初対面〉のラビリンス」でした。

 ワークショップで完成された図解、スタッフや私自身の個人作品も含めて、このテーマをめぐって提示されたラベルたちがKJ法図解となった成果を、丁寧に解説した冊子です。

 

 

 このテーマはとても評判が良かったという印象があります。

 誰もが毎日のように体験する〈初対面〉。それにまつわるきわめて具体的でささやかな事例や想いが提示しやすく、それらがKJ法図解として構造化されたときに、「抽象度が上がる」「本質が追求される」とはどういうことなのか、極めてわかりやすい。

 KJ法が具体性からどれほど魅力的に発想できる方法なのか、実に鮮やかに確認できるテーマであったとおもわれます。

 

 毎年のことですが、同じラベルを共有していながら、チームごとに異質な図解が出来上がるのも刺激的です。

 今回は、どのチームの図解にも、私たちの〈関係〉や〈世界観〉に対して〈圧〉をかけてくる「規定力」が浮上しており、「社会」「因縁」「宿命」「自意識」「我執」といったバラエティーでその「規定力」の質が把握され、どのようにそれを超えてゆくのか、各チームの個性が図解ににじみ出ておりました。

〈初対面〉において意識的・無意識的に駆使されている技や配慮や身構えの中に、実はこの世界をどのようなものと認識し、それに対していかに闘って超えるべきだと考えているのかという叡智が潜んでおり、KJ法によるダイナミックな構造化の成果が一望できました。

 誰もが何らかの「規定力」の〈圧〉を感じ、それを「怖い」と感じつつ、「自然でありたい」「自由でありたい」「良き物語を紡ぎたい」と祈りながら日々の生活において磨かれてゆくものがある。そんな手応えを、霧芯館のワークショップ参加者によって象徴的に担われた〈現在〉の手応えとして感受できたことが、とても幸せなこととおもわれました。

 

 また、毎年このワークショップ開催を待ち望んでくださっている参加者のみなさまのお気持ちにも勇気づけられます。

 案内状の送信を今か今かとお待ちいただいていたり、日程確定を待ちきれずに飛行機や宿泊先の手配をするという博奕(しかも負けない!)をなさる方もおられて、こちらもうれしいやらはらはらするやら。

 このような幸せな場の提供は、私一人では出来ないことで、支えてくれるスタッフや、新たな参加者をも和やかにリードできるベテラン受講者の存在や、現場を闘っておられる方々の熱い想いがあればこそであり、そこに創案者・川喜田二郎のこの方法に込めた思想が、ご縁のある人々の集う場に寄り添って、方法の〈花〉を咲かせていることを感じます。

 

 今回も、入魂の批評・解説に多大なエネルギーを駆使致しましたが、今一度〈花〉の美しさを参加された方々と共に味わい直すことができて、充実した安堵感に浸っております。

 

 

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