「千」と「千尋」のあわい

  • 2009.06.10 Wednesday
  • 18:44

 宮崎駿監督のアニメーション『千と千尋の神隠し』の中で、私にとって最も印象的なのは、主人公の千尋が「カオナシ」に対して次のように言う場面です。
「わたしが欲しいものはあなたには絶対出せない」

 自分が自分自身であるというそれだけのために、他者の強制や干渉や誘惑から己れを守りたいとおもい、他者との関係を苦しんだことのある人には、胸のすく言葉です。

 幽霊っぽい黒いからだに能面のような茫洋とした仮面をつけた「カオナシ」の存在感は、一見、強烈で手ごわい〈悪〉の象徴とは見えません。
 たとえば同監督の『未来少年コナン』のレプカや『天空の城ラピュタ』のムスカのように、彼らを倒すことが地球の命運を左右するわけでもありません。
 にもかかわらず、千尋の地味な〈自立〉によって「カオナシ」が無害化されるプロセスには、さわやかで強い手ごたえをもつカタルシスがあります。

「カオナシ」は、己れの「声」を持ちません。「金(きん)」でおびき寄せた他者を次々と食らい、食らった者たちの声でしかしゃべることができません。他者を食らいながら肥大化した「カオナシ」が、千尋にこだわり、彼女の存在を己れと同化することによって、いわば「うつろさの存在証明」をしようとする執念こそ、実はもっとも困りものの巨大な〈悪〉であると感じさせて、この「カオナシ」の造形には強固なリアリティーがあります。

 自らの論理や人間認識のもとに千尋を制圧しようとしながら、実はそんな自分自身にいい加減うんざりしている、追いつめられた悲鳴のような「カオナシ」の執着の姿は、孤独とおびえを秘めてあわれでもあります。誰もが抱える孤独やおびえの感触を励起して、その暴走の姿に観る者は不安をそそられます。
 物語のラストでは、「カオナシ」はすっかり可愛く無害になって、「糸車」を回したり「編み物」をしたり、「憑き物」が落ちたような穏やかな生活に還されているのですが、そのあたたかな印象や千尋の地味な自立のカタルシスが、〈大文字〉のコンセプトに回収されようのないところに、この作品の魅力があるようにおもわれてなりません。

「千尋」という名の少女が神隠し的に異界に迷い込んだ話なのですから、『千尋の神隠し』でもよさそうなこの物語が、『千と千尋の神隠し』というタイトルであるのは象徴的です。
 千尋とカオナシとの闘いをはじめ登場人物たちの葛藤が、実は千尋と千(異界で本来の名前「千尋」を奪われた「カオナシ」状態)との闘いでもあったこと。「神隠し」的な体験を通じて両者の落差の感触を握りしめて〈生還〉すること。そのような孤独で内面的な闘いの重要性を端的に印象づけるタイトルです。

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